2-1
誰かが、わしの名を呼んだ。おかしな事に、死んだはずのわしは、確かに誰かに呼ばれたのだ。
感じるのは、心地の良い憎悪の感情。かつて、わしが生きるための糧として食らっていた物と比べても、遜色のない極上の憎悪である。
……仕方がない。起きるとしようか。
一体、誰が、何の目的でわしを起こしたのかは分からぬが、このような極上の憎悪を貰っておいて、タダで帰す訳にはいかんからな。
「──そちが、わしを呼んだのか?」
真っ白な世界で、すれ違った少女に、わしは尋ねた。しかし、彼女は返事をする事はなかった。そのままわしに背を向け、どこか遠くへと、歩いて行ってしまう。彼女は、すぐに見えなくなってしまった。
代わりに、彼女が歩いてきた方向に、穴が開いている事に気が付いた。ぽっかりと空いたその穴は、暗き闇に包まれている。
「ふむ」
他に、出口はない。白き世界は、どこまで続いていて、どこにも行きようがないのだ。しかし、この穴はどうだ。どこか他の場所へと、続いているようではないか。
面白そうである。この先に、何が待つのかは分からぬが、わしはそう感じた。
元々わしは、好奇心の強い部類である。確かめずにはいられず、わしはその穴に、飛び込んだ。
すると、わしは闇に包まれた。黒き手がわしを拘束してくる。聞こえるのは、怨嗟の声である。何かを恨む声と、痛みに泣き叫ぶ声。全てを恨んでやまない、悪感情の嵐が、わしに襲い掛かって来た。
普通の者であれば、発狂しているであろう、悪感情の嵐である。
かつてわしは、こんな悪感情に呑まれ、魔王として君臨した。今ではこんな感情を抱く事もなくなったが……いや、そもそもわしは、死んでいるのだったな。しかし、わし以外こんな感情を抱く者に、興味がわいたぞ。是非とも、会ってみたい。
と思ったのだが、この感情は、先ほどすれ違い、どこかへと行ってしまった、あの少女の物であると、推測できる。どこかへ行ってしまったので、会う事はできん。残念である。
会う事ができぬなら、わしを包み込もうとしてくる、この悪感情の嵐が、急に鬱陶しくなったな。
「──邪魔だ」
わしが声をあげると、嵐は一瞬にして、止んだ。暗き闇に包まれた世界が、崩壊していく。わしを拘束していた手も、崩れ去って行った。
すると、一筋の光が、天から注いだ。わしはその光に誘われるように、引き込まれていく。次は一体、なんだと言うのだ。分からぬが、そちらも面白そうなので、誘われるがままに、わしは引き込まれていく。
そして、目が覚めた。まず見えたのは、満天の星空である。どうやら、仰向けで眠っていたようで、夜空が目に入った。
いや、おかしいな。そもそも、屋外で眠っていた覚えはなく、目が覚める事自体がおかしい。何故なら、わしは既に、死んでいるのだからな。
「……ふむ」
全身に、痛みがある。骨が、何か所も骨折している。そのせいか、首を動かす事すら、ままならぬ。手を挙げる事など、もってのほかだ。
「ディアキュオール」
わしが魔法を唱えると、全身を緑色の光が包み込み、痛みが引いた。まだ、完全ではないが、全身の怪我が癒されて行き、手足が自由に動かせるようになる。それを確認してから、わしは上半身を起き上がらせた。
視線を落とすと、自分がスカートを履いている事に気づく。地味目の、赤いスカートである。上半身は、肩が露出したシャツを着ている。肩で押さえられぬ代わりに、胸元のリボンと、腕を通した袖の部分の紐で固定され、ずれ落ちる事はなさそうだ。ただ、スカートもシャツも、あちこち破けてボロボロだ。とくに、腹の部分には多量の血がついている。
それにしても、貧相な胸だ。わしはもう少し胸が大きかったはずだが、何故か縮んでしまっている。その胸を揉んでみるが、小さく、しかし柔らかい。コレはコレで、アリであるな。
だが、分からぬ。この体は、まるで自分の物ではない。このような服も、わしは着ない。
「あ」
その場に胡坐をかいて座り込み、考え込んでおると、木の間から顔を出す人間がいた。
それを見て、わしはまずいと思った。人間に対する憎悪が、わしの感情を暴走させると思ったからだ。
しかし、不思議と憎悪はわいてこなかった。
「いたぞぉ!い、生きてる!生きてます!」
わしを見て叫んだ人間は、周囲にいる別の者達に向けて、叫んだ。それに呼応するように、人間が集まって来て、次々と顔を見せるではないか。
だが、どれを見ても憎悪の感情は生まれてこない。
まだ、状況が分からぬ。どうして、別の身体を手に入れ、目を覚ましたのか。どうして、憎悪を抱かぬのか。
「ふーむ……分からぬな。おい、そこのお前。ここは、どこだ」
「ああ?ふざけてんのか?いや……もしかして、落ちた衝撃で記憶でも飛んだか?」
「そうかもしれない。あの高さで落ちて、無傷で済む訳がねぇよ」
「姉様!」
わしを見て、何やら戸惑う男たちが、鬱陶しい。どうでも良いので、質問に答えて欲しい所である。
そんな、質問に答えないむさくるしい男に若干のイラだちを覚えた所で、可愛らしい金髪の少女が姿を現わした。まだ小さく、身体はどこも発達していないような、年端もいかぬ少女である。
その少女が、わしの事を姉と呼んだ。こんな可愛らしい妹、わしにはいなかったはずだが。