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6月と鳳仙花

作者: 走馬灯

6月も半ばになった。

ジメジメした空気を換えようと窓を開けて空を見上げると灰色に曇っているのが見えて、その薄暗い空気の中に雨が少しだけ傾いた白い線を作る事が多くなった。

昨日買い物に出かけた時も雨が降って、いつも通る近道の砂利は僕が歩く道に小さな川が形成されていた。

干したタオルが乾かなくて、髪の毛は跳ねて、すごく鬱陶しいのに、夏が始まればすぐに忘れてしまうこの短い季節が今年もまた知らぬ間に始まった。

今年は僕はこの季節が好きだった。

傘を刺せば互いに視線を気にしなくて済む。

この時、僕は色々な事で悩んでいた。



時計を見ると時刻は深夜2時を指していた。

寝静まった深夜の無音は井戸の底にゆっくり落ちていくような感覚になってしまうから僕はイヤホンをしていつも聞く曲を聴いていた。

窓を見るとそれは絵の具で塗ったような黒に染っている。

僕はこの時間の外が好きだった。

いつも人が沢山いる場所に誰もいない事、観葉植物が道路の端に小さく悲しく佇んでいる事。

昼、外へ出て綺麗な長方形をしたアパートや真っ直ぐに立つ電柱を見てしまうとこれらを作った人がこの世には疑いようもなく存在している事を思った。

その反面で僕には何も出来ない。

脳に焼き付けられた止まらない劣等感を感じていたこの季節に、夜の静寂は好都合だった。

大衆のために存在していた街に大衆が消え失せて、僕だけの物になった感覚。

それがこの徘徊を止められない物にさせていた。

玄関まで来た。

靴を履くと靴紐が解けていて、その先が泥で黒く濁っている。

結ぼうとは思わなかった。1度冷静に考えて靴紐を結んだらそこから先は今の僕じゃない気がしたからだ。

家族に知られないようにドアをゆっくり開けて外へ出て、閉める。

今から僕が外に出て色々な物を見る事をどこの誰も知らない。

他人からの認知で出来ていない僕が本当に嬉しかった。



見えないほど遠くで水の雫が落ちる音も聞こえそうな静寂の中で、誰の為にか街灯が虚しく光っている下で、靴の中の砂利が数えられないほど何回も僕の足を刺した頃に僕は前から歩いてくる若い女の人を見た。

暗い空間の中、水色のインナーカラーを入れた髪が肩まで伸びてる様が眩しく、手元には煙草がオレンジ色にぼんやりと佇んでいる。

寝巻きのような格好でそのまま出てきている様子だった。


髪を染めているからか大人びているが年齢がそう離れているとも思えず大学生くらいだと思った。

その人は回り道をしないで私有地であるマンションの公園を抜けて来て、ニヤニヤと変な笑みを浮かべて斜め上を見ながら歩いている。

その姿を僕は本当に嫌に思った。

この夜が自分の物では無いとそう実感したからだ。

当たり前ながらこの街には僕以外が存在していて、それらと比較される社会もそこに存在している。

興醒めの一言で僕の気持ちは代弁できた。

馬鹿馬鹿しい。人の少ないこんな夜にも僕は何者にもなれやしない。

今日はもう帰ろう、そう思ってその女性に背中を向けて数歩足を進めた。


『ちょっと待ってよ』

背後からガードレールに寄りかかって煙草をふかす女がそう言ってゆっくりと僕へ歩いてくる。

僕より少し背が高い彼女が目の前に壁のように立つと焦点が合ってない両の目で僕を見た。

僕も彼女の目を見た。

僕らは無音の中で互いを意識した。

彼女の大きな目は歳をとった動物のように白く濁っているように見えて、どこを見ているか分からない。

この人は何を見ていて、何を考えている?

今彼女は僕の目を見てる。

けどそれは少し違う。

僕の目を介して何かを見ている。

例えるならば僕の眼球が反射した景色のような物。

僕の目を見ているが僕の目を見ていない。

この世界の次元を超えた物を見ている。

僕にはその絶対的な確証があった。


しばらく僕の目を見つめるとひとしきり見終えたのか下を向いて深いため息をついた。

僕はこのため息が僕自身を値踏みしているようで凄く嫌だった。

しばらく彼女の旋毛を見ていると彼女は顔を上げて僕の目を再び見た。

『良い目してるね』

無表情でそう告げられた言葉は文字の羅列のように一切の感情を含んでいなかったように感じた。

1+1みたいな、概念的に決定されている物に対しての答えみたいに無条件に僕を褒めてくれた。

感情は読めなかったが、その事実に僕は少し嬉しく思った。


『少し話そうよ』

目の奥がずっと深くに存在しているみたいだ。

引き込まれそうなその目を見ていたら僕は嫌ですとは言えなかった。

不思議な魅力が彼女の目には存在していた。

『はい』

不失礼にならないように精一杯考えた結果、空回りの返事をした。

『それじゃあ』

彼女は吸っていた煙草を携帯灰皿に捨てて寄りかかっていたガードレールから腰を離した。

『行こうか』

僕らはある程度の距離を保ちながら彼女が通り抜けた私有地であるマンションの小さな公園まで歩いた。

そう時間はかからなかった。2分ほどだっただろう。

僕らは共通の目的地を持った。

なんだか僕はそれだけで嬉しかった。

公園と言っても花と桜の木とブランコとベンチが雑に置かれた大変簡素な物であって、ただの私有地の端にあるお飾りみたいな物だ。

僕らはそのベンチに腰掛けた。

『名前、なんて言うの?』

肘を膝に立てて頬杖を着いた彼女がそう僕に聞いた。

『零です』

公園のベンチは子供が座るように設計されていて僕ら2人にが座ると狭い。

指1本が入るか入らないかの距離にいる彼女を僕は意識していた。

『零君かあ、カッコイイ名前だね。現代の名前って感じ』

少し微笑んだ彼女に初めて若い女性の図像が重なった。

会ってから初めてこの人も血の通った人間なんだ、と思った。

『あ、あなたは』

この時に彼女を相手にした時の僕は言葉を選び過ぎると理解した。

やはりこの人はまだ向こう側にいる人で距離を感じた。

当たり前だけどこの人にはこの人の人生があって、僕はそれにはきっと干渉出来ない。

『私?』

彼女は目を見開いて、キョトンと驚いた顔をした。

『他に誰がいるんですか』

僕のため息でもつきそうなほどに呆れた気持ちが声に出た。

『結構いるよね、こんな時間でも』

いやこんな時間の割にかな。とそう付け加えて僕の言葉は手で払い除けるみたいに扱われた。

『何なんですか』

感情を出来るだけ向けたくなかったから出来るだけ苛立ちを殺した。

彼女は勘が素晴らしく良くて、僕の声から苛立ち感じ取ったらしい。

『そんなつもりじゃなかったんだよ。他人に興味を持つんだなって驚いたの。』

弁明するように言う彼女に年上とか年下じゃなく人と人としての関係で誠実に向き合って貰っている実感が湧いた。

『ごめんね。』

しっかりと僕の目を見て、そう言われると脳が支配されたように苛立ちが瞬間に消えた。

この言葉が僕の事を思って僕だけに放たれている。

脳の全部じゃなくても良い、脳細胞の1部でも僕の事を考えるために動いている。

僕の事を思う電気信号が彼女の身体に存在している。

凄く嬉しかった。

夜に局在する僕の人に飢えた心は彼女ですぐに満たされた。

『ちょっと待ってね』

言い終えるとすぐに彼女は口に煙草を加えて、それを隠すようにライターを持っていない手でそれを覆ってライターで火をつけた。

カチッと無機質な音が何も無い夜に響いた。

煙草を介して呼吸をする彼女はヒグラシが遠くで鳴いている綺麗な夕焼けでも眺めてるような顔をしていた。

『そんなに良い物なんですか、煙草』

僕にも1本くださいよ、その言葉を裏に込めて言った。

勘のいい彼女ならすぐ気づくはず。

『何かに寄りかかれるのは良いよ。吸ってみる?』

彼女は予想通りにそう言ったけど、後味の悪い罪悪感が存在していることに気づいた。

『苦くないですか?』

せめてもの贖罪の為にそう言って自分の気持ちを誤魔化した。

ここでもし彼女が断りたいと考えて

『苦いよ。吸わない方良いよ』

と言ったら僕はすんなりとこの話から降りるつもりだった。

残念ながら、彼女は僕を受け入れてくれた。

『求めてるの、味じゃないでしょ。きっと何味でも君は吸うよ。ほら、チョコレート味。』

その綺麗な、白くて細い人差し指と中指が挟んだ煙草が僕の口の近くまで運ばれてきて、僕はそれをくわえた。

再びカチッと無機質な音が響いた。

『最初は吹いて。吹き戻しって言うんだけどね。苦味が少なくなるらしいよ。』

彼女に言われるがままに吹くと、煙草の先端が僕の吐いた息で燃えてオレンジ色にギラギラと光った。

『その後は4秒かけて口がいっぱいになるぐらいの量を吸う。肺に入れるかは君次第。』

また彼女に言われるがまま機械みたいに言われた行動をとると本当に気持ちが良くなった。

この煙が体の中に入って全てを蝕んでいく。

脳まで煙でいっぱいになって何に悩んでいたかわからなくなる感覚。

人間は化学物質で動いている事を理解出来た。

次第にどこが足でどこが頭で僕は今どこに存在しているか分からなくなった。

宙にフワフワと舞うことができたらきっとこんな感覚なんだろうな。

そのような事を考えた。

『どう?』

彼女に声をかけられると意識が体に戻ってきた。

『好きです、考えなくて良くなる。』

初めて言葉を選ばずに彼女に向けてそう言えた。

彼女はそれに気づいたのか気づかないのか

『何かに寄りかかれるって素敵だよね』

そう言って笑った。

『次吸う時は25秒ぐらい待ってね。表面温度が高くなりすぎちゃうと苦くなるからね。苦いの苦手なんでしょ?』

また少しずつ優しく彼女から煙草の吸い方を教えてもらった。

『別に苦手じゃないですが、分かりました。』

僕も行儀よく彼女の言うことを守った。

僕らは口数少なく2人で並んで煙草を吸った。

でもそれが最適なコミュニケーションの様にも思った。

言葉を交わすよりも心が近づいていくのを僕は感じていた。


チョコレート味の煙草は吸うと手に熱さを感じるぐらい短くなった。

『そろそろ捨てようか』

彼女が携帯灰皿を僕に差し出した。

その中へ煙草を落とすと彼女は立ち上がった。

『それじゃあ、またね。』

短くそれだけを告げると公園の出口まで歩いていく。

僕はそれを見て心臓を握られたような痛みを覚えた。

『また、会えますか』

距離ができた彼女に聞こえるように大きな声で言った。

その大きさに自分自身すら驚いた。

彼女は僕の方へ振り返った。

『会えるよ。また夜になればね』

彼女は公園の出口から夜に消えた。


気が向けば短編じゃなく長編にします

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