第七回 とばっちり
仕様の関係でフリガナに不自然なところがあります。
キミア・ポリスの南西には『アイオロス渓谷』という地域があり、北から東にかけて幾つもの急峻な岩の山脈が緩やかに曲がった地形を形成している。渓谷の北にある『オケアノス湖』を水源とした無数の渓流が、岩山の間を縫うように流れているのだが、全ての流れは渓谷の中心で合流しては東部に入るとまた無数に枝分かれする。渓流が入り込む谷間はそれなりの人里が点在しているのだが、渓流の入らない谷間に至っては誰もおらず、敷き詰められたようにある石のせいで草木もろくに生えてはいない。合流と分岐を幾度となく繰り返す渓谷という特殊な地形のためなのか、常にそよ風が吹いており「風の渓谷」と呼ばれていた。それにこの地域は、本来であれば都市部にしかないような大規模の研究所や博物館に美術館などが多く存在し、魔法と錬金術の分野に関してはキミア・ポリスに劣るものの、それ以外の学問と芸術においてはほかの地域よりも秀でていた。
ある日キミア大学のヘルモント教授から、風の渓谷の東部にあるアイオロス考古学研究所の所長のもとに速達が届く。なんでも、エクリプス・タブレットについて出来る限り教えて欲しいらしく、そのために友人の息子を送ると書いてあった。
「友人の息子って、結構離れた知り合いを送ってくるんだな」と、手紙を読んだ所長が呟いた。
「それにしても、エクリプス・タブレットですか。大都市の教授って随分とマニアックなものを知りたがるんですね」
そう笑ったのは研究員の|Oskar Cousinだ。
「そう笑えるような事態じゃないらしい」
「どういう事ですか?」
「ホライの森の怪物騒動と関係があるそうだ」
「まさか、噂のホムンクルスですか? 馬鹿らしい。大昔の書き付けなんかにホムンクルスを作る技術だのが書いてあるなら、錬金術の研究者はみんな失業ですよ。それに、なんでキミア大学の教授がタブレットのことを知りたがるんですか」
「その怪物の親玉が、エクリプス・カードを見たというヘルモント教授を狙っているそうだ。現に自宅に化け物が二匹も出たらしい」
「ヘルモント教授って、あの教授ですか! 新聞に載ってましたよ! ――って、その人カードを見たんですか!」とオスカーは驚くと、「もちろん、誰かがふざけて作った偽物だそうだ。手紙にも、昔の笑い話のせいで心底迷惑していると書いてある」と所長は淡々と言った。
「まあ、そうでしょうね。……もしかして、ド田舎で化け物に攫われたって人――」
「ヘルモント教授の友人で、訪ねてくるとかいう奴の親父だそうだ」
なんとまあと、オスカーは天を仰いで溜め息をついた。
何日かして、ヘルモント教授の使いという青年が研究所を訪れた。手紙にあった通り、ヘルモントの友人の息子であるチカプ・ホーエンハイムという人物だった。手紙によるとホライの森やヘルモント宅の化け物退治をしたという彼は、すぐに所長室に案内されて、所長からエクリプス・タブレットについての話を聞くのだが、恐らくは価値のある話を聞くことはないだろう。なにせエクリプス・タブレットの存在は古代から示唆されてはいるが、その存在を証明するものは勿論、タブレットに書かれた内容すら不明である。当時の噂話や伝説の中に描かれた言い伝えに、恐らくは架空の地域と思われる場所にあるエクリプス・タブレットなる物には秘法が書かれているらしいとある具合で、例えるなら「龍宮城にある『日蝕』なる巻物に、年齢を操る秘薬の作り方が書いてあって、それを元に玉手箱の煙を作ったのだろうと、浦島太郎が話していたと、彼の子孫に語り継がれているらしい」というものなのだ。そのため、詳しいことは存在含めて一切不明であり、エクリプス・タブレットの存在を確信している者などおらず、まず有り得ないが仮に存在したとしても、そのタブレットに現代科学を凌駕することが書かれているだなんて誰一人として思ってはいない。
チカプと所長が話をしている間、オスカーは同僚たちと「わざわざキミアから来たのに、間違いなく無駄足だろうな。可哀想に」などと雑談しながら仕事をしていた。
しばらくしてオスカーが所長に呼ばれる。何事かと思ったのだが、チカプがせっかく学問の聖地に来たのだから図書館と博物館を見学したいと言ったそうだ。
「なので、案内してやってくれないか」と所長に言われる。
「別に構いませんが」と応じてすぐにチカプを案内する。
何事もなく図書館に到着する。隣にある建物が博物館だと説明したあと、彼と軽い挨拶を交わして別れた。
休み時間に同僚から面白い話を聞く。昨日、博物館の近くに化け物が現れたというのだ。なんでも博物館の下を流れる渓流に、馬と魚が合体したような化け物が水面から顔を出して泳いでいたという。馬が渓流に落ちて溺れただけにも思えるが、潜るときに馬には後ろ脚がない代わりに尾鰭があったというのだから驚きだ。話を聞いただけならデタラメか見間違いとしか思えないのだが、その化け物を目撃した人が結構たくさんいるらしい。化け物繋がりということで、別の同僚からも奇妙な怪物の話を聞く。これも昨日のことだが、空の上から女の声がしたかと思って見上げたら、顔に羽毛と嘴のない鳥が飛んでいたので珍しいなと見ていると、なんと人の顔をした鳥だったという話を聞いたそうなのだ。しかもその声をよく聞いてみると「ホーエンハイム! ホーエンハイム!」と叫んでいたらしく、鳥はそのまま渓谷の北部に向かって飛んで行ったそうなのだが、途中から別の言葉を連呼していたらしい。ただ、その頃にはすでに遠くを飛んでいたため、なにを叫んでいたのかは分からなかったそうだ。
ちょっと待て。ホーエンハイムってさっき会ったぞ。
オスカーは考える。化け物なんて存在しないと思ってはいるが、ホムンクルスと噂される化け物が、現にド田舎の村とホライの森、果てはヘルモント宅にも出没している。きのう現れたという化け物は、以前に化け物と関わったチカプ・ホーエンハイムを捜しているのだろうか。チカプには味方がいたとはいえ、化け物を二体も倒しているらしいから、化け物どもは彼を恨み骨髄に徹する不倶戴天の仇敵と見ているのかも知れないと、少々不安になって来た。しかし、今後チカプと関わることは無いだろうから、オスカーが化け物と直接出会うことは無いだろう。だが、もしも博物館や図書館でチカプと化け物が遭遇したらどうなるのか。チカプを心配する気持ちはあるのだが、あそこには学術的にも文化的にも重要で貴重な品々があるから、そこで暴れられたら迷惑極まりない。それでも所詮は噂だと高を括っていると、きのう現れたという化け物のことが新聞に載っているのを知る。被害がなかったためか、小さな見出しに数行あるだけなのだが、同僚たちから聞いた話とほぼ同じことが書かれていた。その目撃情報は東部に集中しているらしく、北部には現れていないらしかった。
昼間、図書館付近で化け物が現れたという話が研究所に飛び込んだ。なんでもさっきまで話していた人面の怪鳥と馬の化け物の二体らしく、怪鳥は噂の通り「ホーエンハイム」と叫んでいるらしい。それが所長の耳にも届いたのか、オスカーのいる研究室に来るなり「博物館の様子を見て来い」と彼に命じた。
「なんで私が!」とオスカーは返す。
「チカプくんを図書館まで案内したのは君じゃないか。ならば、チカプくんの顔は分かるだろ。化け物がチカプくんの名前を呼びながら飛び回っているということは、チカプくんを捜しているということで、つまりはチカプくんの身に危険が迫っているということは、チカプくんがいるかも知れない博物館と図書館が危ないということだ」
どうやらチカプを心配していないようだ。
「それに君はウィザードじゃないか。ならば化け物に襲われても、多分まあ大丈夫だ。きっと」と所長は続けた。
そんな訳あるか。
所長はこちらに反論する暇を与えることなく、来客があるからとその場を去った。
嫌われ者め。
オスカーがムカムカする気持ちを抑えて博物館に行くと、そこから少し下った川縁でチカプが例の化け物と戦っていた。チカプは【焔】のマナを転じた【地】で鎖を作り、まるで手繰り釣りでもするかのように、それを馬なのか魚なのか分からない化け物の首と胴に巻きつけて引ッ張ろうとするのだが、人ほどの大きさもある人面の怪鳥が【風】のマナを放ってチカプに攻撃する。それを防ぐためにチカプは【地】を【焔】に戻して身を守ると、そのまま怪鳥に反撃するのだが、相手は空を飛んでいるために容易くそれを躱して、その隙に馬の化け物が【水】のマナを使って高波を起こし、また一筋の水流を放つので、それを防ぐためにチカプは再び【地】のマナで壁や盾を作って防御するといった攻防が続いていた。
「おい、誰か一緒に戦ってやれよ」
「ここには、あの小僧しかウィザードがいないのか」
「このままじゃ、あいつが危ないぞ」
そんな小声が聞こえて来るのだが、誰もチカプに協力しようとはしない。オスカーもその内の一人であり、内心でチカプを応援し、化け物どもが根負けして逃げ去るように祈るのだが、間違ってもあんな奇妙極まりない化け物と戦う気などない。
オスカーはたまたま傍にいた中年の男に声をかける。
「すいません。あの化け物はなんですか?」
男は騒動を最初から見ていたらしく、鳥と馬の化け物どもは北の方角から現れたという。そして二体の化け物どもが暴れ出したものだから、チカプが攻撃を仕掛けて現在の攻防になったらしい。
チカプがいた博物館や図書館の近くで暴れ出したということは、やはりあの化け物どもはチカプを狙っているのだろうか。ならば益々関わりたくない。彼には気の毒ではあるが、こんなところで助太刀なんかすれば、こちらまで目を付けられて酷い目を見る。
チカプと化け物どもの戦いに目を戻す。二体の化け物は連携とは言えばお粗末ではあるが、チカプが一方に意識を向けるともう一方が攻撃するといった形で、どちらにトドメを刺すにしてもチカプにはそれをするだけの余裕はなかった。
馬の化け物がチカプに向かって高波を起こした。チカプは壁を作ってそれを防ごうとするが、人面の怪鳥が放った【風】がチカプの【地】のマナを吸収して掻き消した。反射的にチカプは【焔】を生成して身を守ろうとするのだが、それでは馬の【水】を防げないどころか、【焔】を掻き消されて【風】すら防げない。偶然だろうが、二体の化け物による初めての連携攻撃だった。と、チカプと高波の間に【地】の壁が生成された。靡く【焔】の隙間から、チカプからもそれが見えた。取り巻きから「なんだ」や「どうした」、「どいつだ」などと声が上がった。ウィザードは一度に一つの属性のマナしか生成できない。同時に二種類のマナが現れたということは、別のウィザードがチカプに助太刀したということだ。
【地】の壁が【焔】に戻ると、火柱のように空へと昇り人面の怪鳥へと向かった。チカプや取り巻き連中は、不意に現れた【焔】のウィザードに目をやる。チカプと同い年ほどと思われる女性であり、癖のある髪が肩ほどにまで伸びていた。
「あの子か」
「けっこう美人だぞ」
「あんなに可愛らしいのに、怪我でもしたら勿体ない」
「そんなこと、今はどうでもいいだろ」などと、また取り巻きどもが騒ぎ出す。
チカプはそんな取り巻き連中に目もくれず、助太刀に入った女性に人面の怪鳥を任せて、【地】のマナで作った鎖を馬の化け物に向けて飛ばし、さっきと同じように首と胴に巻き付けた。馬が【水】のマナを【樹】に転じて、【地】の鎖を切断しようとしたところに、さっきの女性の【焔】が飛び掛かって馬の【樹】を吸い取った。それがチカプの【地】に吸収されて、その鎖はより強固になる。
チカプが一瞬だけ空を見る。すでに怪鳥は逃げ出したのか、どこにも居なかった。次に馬に目をやると、馬も諦めたのか逃げ出そうとチカプに背を向けた。さすがに馬の化け物だけあって力が強い。チカプは【地】で杭を作って、馬に巻き付けている鎖をその杭に掛けた。
「あの化け物が【樹】のマナを使おうとしたら任せて下さい。あたしの【焔】が取り込みます」
助太刀に入った女がチカプに言った。
チカプは【地】の鎖から茨の棘のような無数の刃を突き出て、その内の何本かは槍のように鋭く伸びて馬の全身を貫いた。馬と魚が合わさったような化け物は、嘶くこともせずに力尽きて、ホライの森に現れた双頭の黒犬のように朽ち果てると、残骸はそのまま水に乗って渓流を下って行った。
チカプと女がマナを消す。しばらく沈黙が続いたと思えば、取り巻きから歓声が巻き起こった。
「化け物を追い払ったぞ」
「すごいぞ、あいつら」などと、口々に言っている。
オスカーはこのまま帰ろうかとも思ったのだが、取り敢えずどうして化け物と戦ったのか事情だけでも詳しく聞こうと思い、チカプに近づいた。
「チカプくん、凄いじゃないか」
てっきりチカプが照れたり胸を張ったりするかと思っていたのだが、その態度は案外素ッ気なかった。
「ところで、君は? チカプくんの友達かなにか?」と助太刀に入った女性に聞いてみると、たまたま居合わせただけの赤の他人らしい。
|Melissa Fleuryと名乗ったその女性は、故郷であるホライの森に化け物が現れたことが気に懸かり、化け物やホムンクルスについて調べるためにアイオロス渓谷を訪れたのだと言う。オスカーがホライの森の化け物を駆除したのがチカプだと告げると、彼女は感激した様子でチカプの両手を握り締めると感謝の言葉を述べていた。それからオスカーを蚊帳の外に、二人が話し続ける。その結果、メリッサはしばらくの間チカプと一緒に行動して、倒し損ねた鳥の化け物を捜すために渓谷の北部に行ってみるそうだ。
オスカーはこれ以上チカプと関わる気は無かったので、「では、私は失礼します」とだけ言い残して研究所に戻った。研究所に着いたところで、どうしてチカプが化け物と戦っていたのかと尋ね損なったことを思い出した。
翌朝の新聞に、昨日の怪物騒動のことが書かれていた。目撃者の証言の寄せ集めだろうが、二人の若いウィザードによって馬と魚の化け物が駆除されたとあり、その馬の化け物の最期が、ホライの森の双頭の黒犬との死に様と類似している点に注目していた。その化け物騒動以外にも、この渓谷の東部では化け物の目撃例が複数あるのだが、やはり北部ではそれが無いらしい。どういうことだ。
渓谷を流れる無数の渓流は、北部から入ると渓谷の中心地で合流して一本の川になる。それが東部に入るとまた無数の渓流に分かれるのだが、その川の中央付近で一本だけ南側に向かう支流がある。その支流を辿ると、アイオロス渓谷で最も高い岩山の断崖に突き当たって池になるのだが、その断崖に続く、ほかの幾つもある渓谷には渓流がなく荒廃していた。しかもその断崖周辺は渓谷の中で最も複雑に入り組んでいて、いくつもの風が入り混じるためか、常に吹き続けている風もほかより強かった。古代の人々は、この渓谷を【風】のマナが生まれる聖地と考え、この最も高い岩山の断崖から棚のように突き出た板状の岩を『断崖の高台』と呼び、そこに洞穴を掘って神殿を作っていた。すでに信仰が失われたことと、荒廃した土地というのが重なって、その場に訪れる者はなく集落もない、化け物が身を隠すには打って付けの場所であった。
なら、化け物ども……特に人面の怪鳥はこの神殿を塒にしているのか。
オスカーがそう思ったのと同じように、そう考えたチカプらが昼過ぎに考古学研究所を訪れた。そこに運悪く、たまたま外出先から研究所に戻ってきたオスカーが、メリッサに話し掛けられて事情を聞くハメになる。
「仮にそうだとしても、これは警察とか軍部に任せたほうがいい」とオスカーは言うのだが、「駆除するために捜しているんですから、多少の危険は覚悟の上です」などとメリッサが返す。
「ですが危険です。失礼ですが、昨日はたまたま上手く倒せただけかも知れません」
「チカプさんは何度も化け物退治をしていますし、仮に昨日の化け物がチカプさんを狙ってのものだったら、これ以上渓谷に迷惑を掛ける訳にもいきません」とメリッサが結んだ。
それだけの決意があるのなら好きにすればいいと、「では、ご自由に」とだけ返す。聖地に入るための道に『立ち入り禁止』と書かれた看板と、仕切りの鎖が張ってあったため、この二人は真面目にも進入許可を取りに来たらしい。そのため、二人に代わってオスカーが所長に事情を話すのだが、これが不味かった。
「うむ。話は分かった。あそこは殆ど調べ尽くしてあるから、多少暴れても問題ないだろう。だから特別に許可を出そう」
ここまではいい。
「では(オスカー・)クーザンくん、君が彼らを案内して差し上げなさい」などと所長はぬかしやがった。
「はい?」と思わず返す。
「いや、だから……断崖の高台へ行くんだろ? あそこは比較的安全な抜け道があるとは言っても、やはり危険な場所には違いない」
「まあ、そうですね」
「だから、道案内して差し上げなさい。君は何度かあの遺跡に行っているから、道には慣れているだろ? それに君はマナを使えるウィザードなんだから、なんとかなる」
最悪である。
とうぜん嫌なので思いつく限りの言い訳をするのだが、所長はそれ以上に「チカプたちが事故に遭って行方不明になったのを、化け物どもが逃げ出したと勘違いして、八つ当たりで町中で暴れ回ったらどうするんだ」だの「貴重な遺跡で暴れ回るのだから、すぐに被害状況を確認できるように態勢を整えていたほうがいい」だの「誰にも言ってなかったが、実は私は最近、腰が痛くてあそこには行けないから、若い君が行きたまえ」だの「私はウィザードとしても考古学者としても、君のことをとてもとても嫉妬するほどに尊敬しているし、なによりも君を誰よりも信頼している。だから任せた」だの言い立てて、結局はオスカーに押し付けた。
すぐにでも転職したい。
所長室から出て、チカプ達に「私も行くことになりました」と力なく言った。彼らは戸惑った様子を見せたが、訳を聞くと納得したようだった。
「じゃあ、すぐにでも行きましょうか」とメリッサはやる気に満ちているのだが、絶望していたオスカーは溜め息をついた。
高台に行くには時間が掛かるため、出発は明日の朝ということになった。
いっそ夜逃げでもするか。
翌朝、オスカーが研究所に出勤したときには、すでにチカプとメリッサが研究所の前で待っていた。顔を下げて、誰にも悟られない程度に溜め息をついた。所長に、今から断崖の高台に行くことを告げたあと、そこにチカプ達を案内する。
研究所から高台まで片道五時間ほど掛かる。渓谷の中心までは普通の道を通るのだが、そこから南にある高台までの道のりが険しくなっていた。左右から迫り来るように切り立つ岩壁の間を流れる渓流の幅は狭いのだが、澄んだ水は深くて流れも速い。時たまある浅いところは徒歩で渡って対岸に移ったかと思えば、顔を出している岩から岩へと飛び移ってまた対岸に移動する。そして崖のような坂を獣のように両手を使って攀じ登り、壁に備え付けられている汚れた縄を掴んで、狭く道とは言えない隙間に足をかけて蟹のような横歩きで進む。そのあとは身を屈めて、ちょっとした洞穴というか架け渡された巨岩の下というようなところを潜り、その次は生えている木を掴んで坂を登って、ようやく最後に断崖の高台から垂れている鎖を攀じ登る。最初に登り切ったオスカーが、次に登ってくるチカプの手を掴んで引き上げて、最後に登ってきたメリッサを二人で引き上げた。座り込んだメリッサが「ああ、疲れた」と言いながら大きく息を吐く。それに比べて、チカプも疲れた様子ではあるが、高台から渓谷を一望していた。
汗が滲んだ肌には、強くも弱くもないそよ風は、ちょうど気持ちがいい。
「どうです? 絶景でしょ?」
オスカーが言った。地上からだと前後左右が威圧的な断崖に塞がれ、その周囲も渓流のない荒れ地の渓谷といった殺風景なところだが、この高台は周囲の断崖より高い位置にあるため、オルトロス渓谷が一望できた。灰色や茶色といったくすんだ色が遠く離れるにつれて緑を増して、その奥には空の青色が続いている。
「この辺りは、大昔には【風】のマナを生む聖地として繁栄したそうなんですが、やはり信仰を失ってしまえば、こんな狭くて住みづらいアイオロス渓谷には限界があります。この地が信仰の聖地ではなくなった代わりに、学問と芸術の聖地に生まれ変わったのも、この不毛な荒れ地で生きるためなんですよ。学問と芸術は、その気になればどこでも出来ますからね」
そう言い終えると、オスカーも疲れたと腰を下ろして大きく息をついた。神殿の入り口に目をやる。遺跡保存のために設置してある簡素な扉はしっかりと閉まっていて、鍵が壊された痕跡もない。念のためにとオスカーは扉を開けようとしたのだが、やはり鍵が掛かっていた。
「なにをしてるんですか」とメリッサだ。
「念のために中を確認するんです」と答えて扉を開ける。
神殿の入り口は北を向いているから、日の光はあまり入らない。そのため昼でも暗いのだが、明かりにとチカプが【焔】のマナで出して一緒に神殿に入ってみる。内部は狭い部屋の前方に、低い石垣で隔てられた大きな部屋があるだけだった。古代の遺物といえるものは、全て発掘や盗掘などで神殿には残されていない。化け物も居なければその痕跡もなかった。きのう出没した人面の怪鳥も、チカプが遭遇したという奇妙な雌ライオンも、エトンら仮面の不審者もいない。嬉しい無駄骨で、ありがたいことだ。
「化け物もいないようですし、帰りましょうか」
オスカーが高台から降りようと鎖を掴んだとき、突然メリッサが「ちょっと待って下さい」と言った。
「どうしました?」
オスカーがメリッサを見ると、彼女は遠くの空を睨んでいた。その視線を追うと、遠くに黒い影が浮かんでいるのが見えた。鳥だろうか。一目散にこちらに向かってくる。そして遠くて不明瞭だが、大きな鳴き声を上げている。近づくに連れて鳴き声が言葉のように聞こえてきた。
もしや、昨日の怪鳥か。
「では、私は先に失礼します」とオスカーはすぐさま逃げようとしたのだが、影は思った以上に速い。
「ホーエンハイム! ホーエンハイム! フラメル! フラメル!」
女の声だ。ちゃんと聞き取れる頃には、その主が人ほどの大きさを持つ、人の顔をした猛禽類であることがハッキリ見え、怪鳥もこちらを睨みつけていた。
「昨日の奴! 昨日の奴! 塒に昨日の変な奴!」
「変な奴じゃない! メリッサ・フルーリーとチカプ・ホーエンハイムよ!」と、メリッサが余計なことを叫ぶ。
「ホーエンハイム! ホーエンハイム! なんか違う! ホーエンハイム! 捕まえる! ホーエンハイム、捕まえる!」
こちらに殺到する怪鳥の体が白く輝いた。【風】のマナを帯びたのだ。
「げッ! マジか!」
オスカーが思わず零す。怪鳥の敵意が剥き出しなのは明らかだったからだ。
神殿に隠れるか。いや、自分から逃げ場のないところに追い詰められる自殺行為だ。どうすればいい。高台から一気に下りようにも、ロッククライマーなどではないから危険だ。あたふたするオスカーを知ってか知らずか、チカプは【焔】を怪鳥に向かって放った。【焔】は【風】を掻き消せる点においては相性がいい。怪鳥はその【焔】を躱して、チカプから距離を取った。どうやら、喋りかただけで見れば、あの鳥のお頭は大した事はなさそうだが、それでもマナの相性に関する知識や、昨日の戦いの経験を参考にするだけの知能はあるようだ。
チカプの【焔】は蛇がうねりながら獲物に飛び掛かるように怪鳥を攻め続ける。すると怪鳥は【風】のマナと【水】に転じて【焔】を掻き消そうするのだが、メリッサの【地】のマナが、その思惑を打ち消した。その後の展開は一方的だった。チカプの【地】の鎖が怪鳥を捉えて、メリッサの【焔】が火達磨にする。チカプ達はこの怪鳥を生け捕りにするつもりだったのだが、メリッサの【焔】がチカプに【地】に吸収されてしまい、思った以上に怪鳥を縛り付けてしまった。火中から渓谷に悲鳴が響き渡ったことで、異変に気付いたメリッサがすぐに【焔】を消したのだが、すでに絶命していた怪鳥はそよ風に吹かれて朽ちていった。
「ごめんなさい」
彼女の言葉に、チカプは小さく息をついただけだった。
高台の隅で腰を抜かしながら茫然とその戦いを見ていたオスカーは、目を見開いたまま大きく息をついた。
恐ろしかったが、思っていたより呆気なくて、正直なんだか拍子抜けだった。
とにかく、化け物がいなくなったと安心していると、また上空から女の声がした。
「殺された! Aellō殺された!」
「アエロー死んだ! 死んだ! 変な奴! アエロー殺した!」
怪鳥はさっきの奴だけではなかった。さっきと同じ姿の怪鳥が、今度は二体も円を描くように滑空している。
「誰なの! あんた達は!」とメリッサだ。
「Harpuiai! 女怪鳥衆! |Harpyia Ōcypetē《ハルピュイア・オーキュペテ》!」
「|Harpyia Podargē《ハルピュイア・ポダルゲー》!」
ということは、さっきの化け物はハルピュイア・アエローか。化け物のくせに名前まで持っているとは。
いや、そんな事はどうでもいい。
「お前ら! アエロー殺した! 許さない! 許さない!」
「殺す! 殺す! 敵討ち!」
二体の怪鳥ハルピュイアが暴風を巻き起こすと、チカプとメリッサの【焔】が怪鳥らの【風】を掻き消すのだが、今度はハルピュイア・オーキュペテが【風】を、ハルピュイア・ポダルゲーが【風】から転じた【水】を組み合わせて暴風雨を発生させた。本来であれば【水】は【風】を吸収してしまうのだが、それが起こらないのは、ポダルゲーが仲間の邪魔にならないようにマナを操っているのだ。怪鳥らの高度な連携による暴風雨を掻き消そうにも、チカプとメリッサの【焔】はポダルゲーの【水】に掻き消され、【地】はオーキュペテの【風】によって取り込まれて為す術がない。怪鳥らに応戦するためにチカプらが連携しようにも、昨日あったばかりの二人では、やはり怪鳥らの連携のほうが長けていて防戦が精一杯であり、奴らの注意を引いて反撃の余裕すら作れそうにない。オスカーは二人を囮にして、最悪は自分だけでも逃げようと考えていたのだが、雨と風が強すぎて鎖を下りられそうにない。
あの嫌われ者のクソじじい。
人を死地に追いやった恨みは忘れないぞ。
とにかく、この暴風雨をなんとかしないと、なんにもならない。
この暴風雨は【風】と【水】のマナなのだから、どちらかを掻き消せれば勝機が見出せるはずだ。オスカーは怪鳥たちと同じ【風】のウィザードである。【風】を【水】に転じれば、オーキュペテの【風】を取り込むことで封じられるはずだ。
そう考えて「チカプさん! メリッサさん! 【焔】のマナを起こして下さい」と叫んだ。
チカプたちが【焔】のマナを生成すると同時に、オスカーも【風】から転じた【水】のマナを生成して高台に吹き放った。一瞬だけ、暴風雨から【風】が消える。その直後にメリッサが【地】のマナを放って【水】のマナを掻き消した。その【地】のマナが【焔】に戻ってハルピュイア達の視界を奪うと、【焔】から湧き出たチカプによる【地】の鎖がポダルゲーの胸を貫いた。鎖の先に返しのついた穂先がある。悲鳴を上げたポダルゲーの声と姿に、狼狽するオーキュペテを狙ってメリッサの【焔】が襲い掛かる。反射的に【水】を生成して【焔】を防ごうとするオーキュペテだったが、ポダルゲーを貫いていた穂先から【地】の鎖が生えてメリッサが放っていた【焔】を辿る。彼女の【焔】しか見ていなかったオーキュペテが【地】の鎖に気づいたときには、すでに逃げる余裕はない。オーキュペテはポダルゲー同様に体を貫かれて、穂先には返しが出来る。それでもハルピュイア達は、羽撃いたり【風】や【水】のマナで逃げ出そうとするのだが、鎖から逃れることも出来ず、チカプたちの【焔】と【地】に消されて為す術がない。二体の怪鳥は、手繰り寄せられて高台に叩きつけられた。
逃げないように、すぐさま【地】の鎖を高台と接合する。
「痛い! 痛い!」
「やめて! やめて!」
「なら答えなさい! あなた達はどこから来たの!」
メリッサの問いに、答えようとしないハルピュイア達の体が白い光を帯びる。【風】のマナで【地】の鎖を掻き消される訳にもいかないので、メリッサが【焔】のマナで【風】を掻き消すのだが、ハルピュイア達は【地】の鎖を断ち切るので頭が一杯なのか、ギャーギャー喚きながらも【風】のマナの生成をやめようとはしない。火の中にある二つの影は、そのまましばらくは足掻き続けていたのだが、その動きが止まったかと思うと影が砕けて落ちた。
メリッサが【焔】を消す。そこには二体のハルピュイアはおらず、砂や灰のような残骸だけがあったのだが、それもそよ風に吹かれて消えてしまった。
「死んだのか?」と、オスカーが零すように言った。
「ええ」とメリッサだ。
「けどまあ、なんとか助かったんだから、それでいいじゃないですか」と、オスカーは笑った。
神殿の入り口を見る。遺跡保護の扉は問題なく付いている。これなら、恐らく内部も問題ないだろう。
「では、帰りますか」
「そうですね。何時間も掛けて……」とメリッサが苦笑して、オスカーが続けた「帰る頃には夕方でしょうね」の言葉に、チカプは小さな溜め息で返す。
太陽はすでに西に傾いていた。