第四回 疑心暗鬼
仕様の関係でフリガナに不自然なところがあります。
さてはて困ったことになったと、ヘルモントは頭を抱えた。
双頭の黒犬の存在から「ホーエンハイム拉致事件」と「ホライの森の怪物騒動」の二つは間違いなく関係があり、『パパ』だかエトンだか知らないが、一連の首謀者の目的はエクリプス・タブレットの内容またはその複製のエクリプス・カードを手に入れることであろう。ホライの森での騒動そのものは、エクリプス・タブレットとは関係ないが、恐らくは子供や鶏小屋を襲った双頭の黒犬が暴走したものであり、チカプの話からするとそれを理由にエトンが黒犬を始末したのだろう。どこから情報が漏れたのかは分からないが、ホーエンハイムが、かつての教授からエクリプス・カードを見せてもらったというのを理由にエトンに攫われたのであれば、今度は自分が攫われる番かも知れない。とまあ、こう考えたわけだ。無論、確証はないが楽観してもいられない。
錬金術は魔法の一分野であり、錬金術師はウィザードであるから、錬金術師の誰もがマナを使える。だからといって、普通の犬や猫とは違う、猛獣を改造したような化け物を無事に退治できると思うほど自惚れてはいない。ヘルモントは仕事を終えても帰宅しようとはしなかった。街中でエトンや化け物と遭遇する確率は低いだろう。だが、夜襲を掛けられる可能性が無いわけではないし、深夜に自宅を襲撃してくるかも知れない。考えれば考えるほど、家に帰るのが怖くなって来る。一方で大学には警備員がいるし、魔法や錬金術の学部は、一部を除けば皆がウィザードである。つまり、大学にいるのが一番安全だとヘルモントは考えた。そのためその日は、教授室のソファーをベッド代わりにして夜を過ごした。
翌日、近くの安宿に泊まっていたチカプが再び訪れた。ヘルモントは彼を教授室に招き入れて話を聞くと、どうやらエクリプス・カードの持ち主だった当時の教授と会うべきだと、チカプは考えていたらしい。
「二十年ほど前に他界したと聞いているから、本人に会うことは出来んぞ」
そう答えると、チカプは遺族に会えないだろうかと返してくる。
「遺族……そうだな。すでに退職しているが、私の前任教授だった|Giuseppe Flamelというのがいる。彼は私たちにカードを見せてくれた|Johann Flamelの息子さんだ。だが、しつこいようだが、フラメル教授の……ヨハン氏が持っていたカードは、子供のオモチャとしての価値もない、単なる紙切れだぞ」
それでも行ってみるとチカプが言うので「無駄足だぞ」と言いつつ、ヘルモントは仕方なしにジュゼッペ宅と職場の住所をチカプに教えたとき、ふと思った。
「いや、やはり私も行こう。ホーエンハイムが攫われている以上、次の標的は私かも知れない。それなら事件解決のために私も一肌脱がねばならんしな」とチカプに言った。
ヘルモントには仕事があるので、明日にでも休みを取って一緒にジュゼッペが勤務している研究所に行くことにして、チカプには引き取ってもらった。
昼休憩になると教授室にいたヘルモントの元にネクラーソフが訪れる。
「なんだね?」と尋ねると、「怪物騒動に興味がありまして……」と案の定そう言って来た。こいつのオカルト趣味はヘルモントも知っている。
「特に進展はないぞ」
「そうなんですか?」
「ああ、昨日の今日だからな。ところで、エクリプス・タブレットのことを、誰かに言ったか?」
「え? ええ。ミゲール・ゴルジとヴィクター・シェリーに言いましたが、いけなかったでしょうか?」
目を逸らして「いや、そんな事はない」と力なくヘルモントは息をつく。
「ところで、さっきチカプくんを見たんですが」
「ああ、ちょっとな。明日、キミア錬金術研究所に出掛ける用が出来た」と思わず教えてしまった。
翌日、未明にジュゼッペ・フラメル宅で火事が起こったという報道を、ヘルモントが知ったのは早朝だった。ジュゼッペの妻は焼死体で発見されたそうだが、ジュゼッペの遺体は未だに発見されていないらしい。当然ながらヘルモントは驚愕し、自分たちの行動予定と連動して火災が起こったものと考えた。きょう自分たちがフラメルの元に出向くと知っているのはチカプだけだ。と、当初は思ったのだが、思わずネクラーソフに言ってしまったのを思い出す。
エクリプス・カードは、かつてのキミア大学の大学教授が持っており、その人物の関係者が現在はキミア錬金術研究所の関係者であることが分かれば、自分にカードを見せたのがフラメル親子の父ヨハンであり、息子のジュゼッペに会いに行くのは推測できるはず。ならば、ネクラーソフが今回の事件に関与しているのではないかと思えてきた。奴はオカルト・マニアである。その中でも心霊現象や怪奇現象が好きなだけだと思っていたが、そこから継ぎ接ぎのゾンビのような異形な生物を作り出したいという、狂った願望でも持ってしまったがために暴走したのだろうか。
ヘルモントはネクラーソフに対して、特記するほどの好感もなければ嫌悪感もない。オカルト趣向を除けばよくいる研究者の一人という認識なのだが、ネクラーソフとは仕事以外の交流がないために彼の本性を掴み兼ねた。ただ分かるのは、首謀者といえる人物は手段を選ばなくなって来ているということだ。エクリプス・カードの所有者の息子が分かった途端、これである。もともと狂っているのは分かるが、さらに狂気が増している。
ヘルモントは窓から外を眺めて、溜め息をついた。
「しばらくはここから出れんな」
なにも知らないであろうチカプがこちらに向かって歩いているのが、たまたま見えた。チカプには悪いが、事情を伝えてすぐに帰ってもらおうと考えた。彼を教授室に迎え入れて例の事件のことを知らせると、チカプは驚きを隠さなかった。
「これは火災事故ではなく放火事件だと、私は考えている」とヘルモントは言う。
チカプも同じ意見だった。
もちろん犯人は分からない。エトンなる人物なのか、ネクラーソフなのか、それ以外の誰かなのか。推測だけしても分かるはずがない。
「実は昨日、うっかりネクラーソフくん……おととい君と会った男に、きょう錬金術研究所に行くのを伝えてしまった」
こう言ってしまえばネクラーソフが容疑者だと言っているようなものだとヘルモントは内心苦笑し、チカプもそう受け取った。
ヨハン・フラメルには、ほかに遺族はいないのか。
そのようなことをチカプは言った。
「まだ諦めないのか。恐らくエトンは、エクリプス・カードの関係者を相手構わず手当たり次第に拉致して、邪魔者を容赦なく殺しているんだぞ。また、今回のようなことが起こるかも知れん」と返したものの、チカプの意思は変わらない。
「そうか。確かに、我々が犯人を捜す手掛かりはエクリプス・カードしかない」
本当は自分を囮にして誘き寄せるといった手段もあるが、さすがに御免だ。
「それに、フラメルの情報がエトンに伝わっているのなら、もうほかの遺族の情報を得ているかも知れない。それなら、注意喚起という意味でも、先手を打ったほうが遺族は安全だろう」とヘルモントは続けた。
ヘルモントはソファーから一旦立ち上がり、扉がしっかり閉まっているのを確認した。それと同様に窓も閉まっているのを確認する。再びソファーに座り、チカプの耳元に口を寄せて、それでも聞こえるかどうかという小さな声で言う。
「ヨハン・フラメル元教授の孫に、|Margherita Sachsというのがいる。ジュゼッペ氏の姪にあたる人物で、私が知っているヨハン氏の親戚は、ジュゼッペ氏とこのザックス氏の二家族だけだ。ザックス氏の住所は――」
知っている限りのザックスに関する情報をチカプに与えた。最後に「誰にも言うなよ」と釘を刺す。この言葉はヘルモント自身の肝に銘じるためでもあった。
そして続ける。
「もしかしたら、君を付けているスパイのような奴がいるかも知れない。だから彼女の家に行くのなら十分に注意するんだぞ」とヘルモントは、自分でも変に用心深くなっているのが分かった。さらに「ザックスにも、いま起こっている事態を手紙で伝えておこう。それに彼女の安全のためにも警察に伝えておいたほうがいい。私は学内のネクラーソフ達を調べておく。そうだ。君、この街でどう生活しているんだ? 安宿と言っても毎日そこで過ごすとなると、宿泊料が馬鹿にならんだろう。よかったら、この大学で寝泊まりすればいい。私が手筈しておこう」と続けた。
どうやら旅費が思っていた以上に掛かって困っていたようで、チカプは素直に甘えた。さらにチカプに進学する意思があると知ると、校内の図書館を覗くことも勧める。本来であれば学外の者は立ち入り禁止であるが、特別に入館許可を出すとまでヘルモントは言ったのだ。この厚遇は、友人の息子に対する厚意というよりも、それ以上に万が一、エトンなる人物が化け物を連れて自分を襲撃したときに備えた戦力が欲しかったからである。化け物退治をしたチカプは、傍に置いておきたい存在だったのだ。
ヘルモントが研究室に入る。ネクラーソフら研究員は、みな当然ながら仕事をしているのだが、ヘルモントの視線はそこではなく、彼らのデスクに向いた。ゴルジとヴィクターのデスクは整頓されていて仕事関連のものしか置いていないが、ネクラーソフは何種類かの新聞が隅に置かれていた。時事に関心が薄いネクラーソフが、こんなに新聞を買っているのは、恐らくは怪物騒動に関する情報が欲しいからだろう。猜疑的な目で見ているから、首謀者が現在の捜査状況を知りたがって、新聞を読み漁っているように思える。
それから勤務時間を終えるまで研究員らと仕事をする。問題らしいことは何も起こらなかった。
皆が帰宅する。一人になったヘルモントは、教授室で考えに耽っているとチカプが現れた。
「ザックスに会いに行ったかね?」と尋ねると、どうやら会いに行っていないようだ。
ザックスとは会わなかったが、その代わりにヴィクター・シェリーと出会ったらしく、そのまま世間話や怪物騒動の話をさせられたそうだ。
「あいつか。まあ、君は何度も私のところに来てるんだから、あいつも一度くらいは君を見たんだろう」
現にネクラーソフからチカプのことをある程度は聞いているはずだ。
念のためにどんな話をしたのかと聞いたが、本当にどうでもいい話だった。ヴィクターは最近……何頭かの大型犬を飼い始めたらしく、チカプと出会ったのは犬たちの散歩をしているときだったとか、騒動になっている黒犬は本当に頭が二つあったのかや、攫われたホーエンハイムが心配だとか、それにしてもそんな怪物を倒したチカプは英雄だとか、そのあとは巷で話題になっている事柄など事件解決にはなんの参考にもならない話だった。
チカプがヴィクターについて尋ねる。
「彼は学者としては優秀なんだが、運の悪い男でな。見た目どおり体には健康上の問題があるし、なによりもまだ子供だったころに両親を亡くしたんだ。彼の母親は、かつての私の部下だったんだ」とヘルモントは教えた。
そういえばと「ネクラーソフ君も、彼女のことを知っているはずだ。彼女がここで働いていたときには、すでに彼も研究員だったからな」と思い出したことを言った。
だが、それがどうした。何気なく時計を見る。すでに夜の十時を過ぎていた。今からザックスのところへ行くには遅すぎる。
仕方がないので二人は休むことにした。明日は休校である。
ヘルモントが大学の図書館に入る。大した理由などない。休校なので普段は大学には居ないのだが、今日は帰宅したときに怪物騒動の首謀者に襲われるのを警戒して……つまりは退屈なのだ。
そこに偶なのだが、ネクラーソフとヴィクター、そしてゴルジという珍しい組み合わせの三人を見掛けたので、思わず声をかける。
「やあ、お前たち。休みの日に何をしてるんだ?」
「エクリプス・カードや化け物について調べているんです」とヴィクターが返したので、呆れた声で「カードは偽物の紙切れだぞ」とヘルモントは返す。
「はい、分かってます。ですが、教授が見たカードが偽物だっただけで、もしかしたら本物といえるカードがあるかも知れません」とゴルジだ。
「馬鹿馬鹿しい」
「ですが、森に現れた化け物の存在を考えれば、あながち嘘とは思えません」と、今度はネクラーソフだ。
「例の黒犬がホムンクルスとでも言うのか。まあ、そんなものが存在するのなら是非見せて欲しいものだな」
「少なくとも、エトンとかいう奴はカードの存在を確信しているはずです。さもないと、フラメル元教授が襲撃されるはずがありません」とヴィクターだ。
やはり、ネクラーソフから情報が漏れている。
「まあ、めぼしいものは何もないだろうが、趣味の範囲で調べればいい」
ヘルモントはそう言い残して立ち去ろうとしたのだが、足が止まった。
「ところで君たち、今回の怪物騒動についてどう思う?」
「と言いますと?」とヴィクターだ。
「本当にホムンクルスだと思っているのか?」
まずはネクラーソフが答える。
「学者として答えるのであれば、錬金術による人工生物……いわゆるホムンクルスの可能性は否定できないが、現実的ではないといった印象です。なぜなら現代科学においてホムンクルスの存在は非現実的であり、現実的に考えると『怪物の正体はウィザードの人間ないしウィザードが操る人形であり、それを怪物に見せかけて事件を起こした』というのが妥当かと」
「倒されたあとに怪物が風化するように朽ちた現象も、死んだら肉体を朽ちらせるように、あらかじめ魔法をかけていたんだと思います」とゴルジ。
「ですが、化け物の正体が人間であるなら、森で子供たちや鶏小屋を襲撃した理由が分かりません。騒動を化け物の仕業に見せかけるための芝居という可能性もありますが、テロリズムによる犯行でもないのに、わざわざ自分から目立つ必要もありませんし、騒ぎを起こして楽しむ愉快犯にしては手が込んでいます。その点を考えれば、ホムンクルスと言えなくても、普通の動物に特殊な形質を備えさせたり、知能を高める手段を用いた可能性はあります。しかし、それならば現代の錬金術の科学的水準を凌いだ技術ということなり、その技術が不完全なエクリプス・カードに書かれたものに由来するのであれば、より完成した技術を得るために完全なエクリプス・カードを手に入れようと考えるのではないでしょうか」とヴィクターが続いた。
「なるほど。カードの一部を見たから、全てを見たくなると……」
やはり、みんな同じ考えに行き着くのだろう。
「ところで教授、家にお帰りになっていないんですか?」とヴィクターだ。
「なぜ?」
「別に深い理由はないんですが、教授室に洗濯物を干しているのが見えたので」
「うん。まあ、しばらくは帰ってないな」と口籠もる。
「まさか教授、帰るのが怖いんですか」とネクラーソフだ。
ヘルモントは言葉に詰まる。
「まあ、そうでしょう。フラメル元教授も、ホーエンハイムさんも襲われている訳ですから、怖くて家に帰れないのは分かります」とネクラーソフは続けた。
「ですが、さすがにずっと大学にいると困ることもあるでしょう」とヴィクター。
「うん。まあ、そうだな。着替えも欲しいしな」
「なら、一緒に教授のお宅へ行きましょうか。我々が護衛すれば、エトンもなにも出来ないでしょうし」とゴルジが提案する。
そうだなと三人が勝手に決める。ヘルモントとしても一人で帰るよりは安全だし、この中に犯人がいても周囲に人がいるのだから行動しづらいだろうと承諾する。そのとき、もう一人の護衛役の顔が頭を過った。
「そうだ。チカプ君をここで見なかったか?」
「チカプ? 例のホーエンハイムさんのお子さんですか?」とゴルジだ。
チカプは彼に会いに来たにも拘わらず、まだゴルジとは面識がなかった。
「彼ならさっき見ましたよ。僕、ちょっと捜してきます」とヴィクターがその場を去る。
「そう言えば、怪物騒動で現れた化け物を、彼が倒したらしいですね。心強いじゃないですか」とゴルジが笑う。
「一人ではなく、女と一緒に戦ったらしいぞ」とネクラーソフ。
「そうなんですか?」
「ああ。化け物に襲われた子供の母親だそうだ」
「母は強しってやつですね」
「二対一だからな。有利に戦えたんだろうよ」
こんなことを言っている内に、ヴィクターがチカプを連れて戻ってきた。事情はすでにヴィクターが伝えていたので、すぐに図書館から出る。
「おっと、ゴメン。星を研究室のデスクに置いて来ていたのを忘れてました」とヴィクターが突然言い出して「悪いんですが、校門で待っていて下さい」と研究室へと走って行った。
校門に移動したヘルモントが、ふと空を見上げて言う。
「なんか、鴉が多くないか?」
みんなも空を見回して「たかだか四五匹で怖がらないで下さい。鴉くらい人が住む場所ならどこにでもいます」とネクラーソフが言って、「大学に引き籠もっていたから、感覚がずれてるだけですよ」とゴルジは笑った。
そこにヴィクターが杖を持ってやって来る。手首から肘くらいの長さのある杖に、マナの結晶である星が仕込まれていた。
「やあ、お待たせして申し訳ない」
「おい、(ヴィクター・)シェリー。鴉が多いように思うか?」とネクラーソフだ。
「鴉? なにを急に?」
「いやあ、教授が鴉が多いって言うんだよ」と続けたので、ヴィクターもゴルジ同様に「気のせいですよ」と笑った。
五人は何事もなくヘルモント宅に到着する。普通の一軒家であったが、家に入ると何者かに荒らされていた。
「なんてことだ」とヘルモントが呟く。
「化け物たちが入った後だったか!」
「まだ居るかも知れません!」
ネクラーソフとゴルジがそう言って臨戦態勢に入る。ネクラーソフは手首に着けていた数珠のような飾り、ゴルジは首にしていたペンダントにそれぞれ星を仕込んでいる。チカプも指輪を握り締めていつでもマナを使えるようにした。
家の中の様子を調べるため、まずはリビングに入る。戸棚は開けられて中身は出されて散乱していた。ソファーに至っては破って中を確認した痕跡すらある。台所でも同様に棚から出されたであろう食器などが散乱していて、割れた食器の破片で足の踏み場もなかった。研究資料などがある書斎に入る。四方の壁には本棚がずらりと並んでいるのだが、いくつかの本棚は倒されていた。立っている本棚からも、やはり書籍は床に放り出されている。
「乱暴な空き巣といった具合だな」
ネクラーソフは落ちていた本をパラパラと捲りながら、そう言った。そして傍にあった本棚にその本を収めた。
「それにしても、帰宅しないで正解でしたね。エトンとかでなくても、こんな乱暴な空き巣と鉢合わせでもしたら」とのゴルジの言葉に、「全くだ」とヘルモントは相槌を打った。
二階の各部屋を確認する。どの部屋も一階と同じように荒らされた痕跡はあるのだが、誰もいない。
「これなら本当に単なる乱暴な空き巣かも知れないな」とネクラーソフは言ったのだが、戸棚の引き出しを覗いたヘルモントが「いや、化け物どもの仕業だ」と断言する。
引き出しには宝石などの貴金属が収められていた。
ヘルモントが「これを盗まない泥棒はいないだろう」と、赤い宝石をはめた金色のペンダントをネクラーソフ達に見せた。
「ヘルモント教授、そんなものを持っていたんですか?」とゴルジが思わず尋ねると、「別れたカミさんが置いていったものだよ」とヘルモントは苦笑する。ペンダントを戻したところには、結婚指輪であった銀色の指輪が寂しく置かれていた。
「まったく迷惑だ。たかだか紙切れ数枚のために、ここまで振り回されるとはな」
「紙切れ数枚? カードは一枚じゃないんですか?」とネクラーソフだ。
「え? ああ。私がフラメル教授から見せてもらったのは一枚だけだが、何枚もあると聞いている。といっても、下らん噂だがな。現に錬金術の専門家である君たちですら、今までエクリプス・カードの存在を知らなかったんだから、それだけでバカバカしいものだというのは分かるだろう」
全ての部屋の確認を終えて一階に下りてきたとき、とつぜん雄のライオンが玄関扉をブチ抜いて飛び出してきた。そのあとには雌のライオンまで続いで現れる。しかも、よく見ると雄ライオンの体毛は鱗のようになっていて、ハシビロコウを思わせる。雌ライオンに至っては「頭部から鳩尾までは獅子なのだが、腹にあたる部位からは山羊であり背中には山羊の首が生えていて、しかも尾は蛇の首になっている」という異様な姿である。
「なんだ、この化け物は!」と思わずヘルモントが声を上げた。
ネクラーソフ、ゴルジ、そしてチカプの三人がヘルモントの前に躍り出て、それぞれが星からマナを発生させる。ネクラーソフは【水】の青、ゴルジは【風】の白、チカプは【焔】の赤と、それぞれ光を帯びた。それに応じて化け物たちが牙を剥く。
「貴様ら、言葉が分かるんだってな。なんとか言ってみろよ」とネクラーソフが化け物たちに向かって言うのだが、化け物たちは唸ったり吠えたりするだけで、なにも言おうとはしない。
「なんだ? 噂の黒犬と違って出来損ないの不良品か? 道理で歪で不自然で醜いわけだ。しかもどうせ馬鹿で弱くて勇気もないから唸ることしか出来ないんだろ? そうなんだろ! 番い猫!」などと挑発するが、化け物たちは乗って来ない。
玄関の向こうに誰かいる。
ひらひらとした淡く黄色い生地で水色の模様の入った着流しに、赤と黄色のバンダナ。そして鶏冠の付いた悪趣味な蛇の仮面。
「お前がエトンか!」とゴルジが叫んだ。
「…………。ギュスターブ・ヘルモント、悪いが一緒に来てもらうが、宜しいか?」
仮面の人物が静かに言った。声から察するに、やはり男のようだ。
「無視するな! 図星なんだろ!」
「どう取るかは貴様らの自由だ。我々の標的であるヘルモント以外には、悪いが死んでもらう。いや、やはりせっかくだからチカプ・ホーエンハイムは生かして一緒に来てもらおうか。お前を捕らえてホーエンハイムの前に引きずり出せば、奴も有益な話をしてくれるかも知れないからな」
エトンなる仮面の男と二頭のライオンの体が光り出す。エトンは白、雄ライオンは黄色、雌ライオンは赤である。それぞれ【風】【地】【焔】に属しているのが分かる。
「Chimaira、やれ」
エトンの言葉を受けて、雌ライオンが咆哮を上げる仕草をとる。声自体は発しなかったが、周囲に【焔】が広がった。すぐさまチカプが【焔】を転じた【地】で、キマイラなる雌ライオンの【焔】を吸い上げ、ネクラーソフも床に【水】の波紋を打って消火にあたるのだが、エトンの【風】がチカプの【地】を吸い取り、雄ライオンの【地】がネクラーソフの【水】を掻き消した。【風】を吸収できる【水】のウィザードであるネクラーソフとヴィクターが、エトンの反撃に備えるのだが、エトンは攻撃して来なかった。
キマイラの放った【焔】は完全に消えて、玄関には焦げすら残らなかった。と、再びキマイラがこちらに向かって【焔】を放って来る。それをチカプが【地】で吸収しようとすると、ヘルモントの眼前で燃え盛る【焔】からキマイラが飛び出して来る。と、それにゴルジが素早く反応してヘルモントに飛びつき一緒に倒れる形でキマイラの攻撃を躱す。二人はすぐに立ち上がってキマイラを見た。同様に雄ライオンもチカプやネクラーソフに襲い掛かって来るので咄嗟に躱しつつ、雄ライオンが【地】のマナで土の槍を放ってくれば、ネクラーソフは【水】を【樹】のマナに転じてそれを吸収し、【地】を転じた【風】を使おうものなら、それはチカプが【焔】で掻き消して対処する。キマイラも【焔】を放ってくればそれを【水】で消し、【地】で攻めて来れば【風】で吸収する。猛獣らしく牙を剥いて襲い掛かって来るのも、キマイラ相手にはチカプが【地】の盾や壁を作ってそれを防ぎ、雄ライオンにはゴルジとヘルモントが【風】で爆風を起こして弾き飛ばすことでどうにか躱したのだが、連携は二頭の猛獣のほうが巧みで、チカプらは翻弄される一方であり反撃の余裕など無かった。そしてエトンは高みの見物を言いたげに、両腕を組んでその戦いを見ているだけだった。
「みんな! ここはいったん退きましょう!」とゴルジが叫ぶ。
「チカプくん! 【地】のマナで壁を作るんだ」とヘルモントが叫んで、ゴルジと共に白い光を放つのと同時に、チカプらと猛獣たちの間に土の壁を作った。ヘルモントらの【風】のマナがチカプの【地】のマナを吸い取り、キマイラ達に向かって大爆発を起こした。雄ライオンとエトンは思わず防御の構えを取って、キマイラも【風】を掻き消すための【焔】で自らの視界を奪ってしまう。【風】が消えて再び視線を上げたときにはヘルモント達の姿はなかった。
雄のライオンが困惑したのか喉を鳴らした。
「奥の部屋に逃げたんだろう」
外から鴉の鳴き声が聞こえた。
「外に回ったか。Nemea、お前は私と一緒に外に出で回り込むぞ。キマイラは、奴らを追って挟み撃ちにする。ここで火災を起こす訳にはいかないが、外なら注意さえすれば、その危険は少ない」と指示して、エトンはネメアなる雄ライオンと玄関から外に出る。
エトン達はなんの苦労もなしにヘルモントらを見つけたのと同時に、ガラスが割れている窓からキマイラが飛び出して来た。ネメアは【地】のマナを槍のようにして伸ばしたのだが、それがなぜか【風】によって掻き消された。ヘルモントとゴルジの【風】を掻き消すのはキマイラの役目である。最初は応援のタイミングがはずれたのかと、再びヘルモントらに向かって槍を伸ばすのだが、やはり【地】の槍が掻き消される。
ヘルモントらは臨戦態勢を取ってはいるが、ネメアの攻撃に対してマナで防御している様子はない。もう一度攻撃するが、それを妨害する【風】がエトンのほうから流れている。再び攻撃してサッと目をやると、やはりエトンの【風】がネメアの【地】を取り込んで邪魔をしていた。意味が分からない。
ネメアの戸惑いは、ヘルモント達からも容易に掬い取れた。
エトンを見て、ヘルモントらを見て、キマイラを見て、またエトンに視線が戻る。
「なにをしている。さっさと攻撃しろ」とエトンは命じた。
ネメアがヘルモントらに顔を向けたとき、その奥にいたキマイラが居なくなっているのに気付いた。嵌められたと咄嗟にエトンに襲い掛かる。が、それと同時に頭上から瀧のような水攻めを受けて倒れると、さらにはその水から蔓が湧き出してネメアを締め付けた。動揺を突いた不意打ちである。訳も分からないまま、偶然にだが屋根に目が向くと、黒いロングドレスを着た長髪で細身の人物がいた。エトン同様に、鶏冠の付いた蛇の仮面を被っている。ネメアはその人物の名を叫ぼうとしたのだが、蔓で口吻を縛られて声が出せない。蔓の先がネメアの鱗の隙間に入って、それを剥がしていき、その度に断末魔の悲鳴を上げるように喉を鳴らしながら踠き苦しんだ。必死に【風】のマナを生成して蔓を払おうとするのだが、そのマナはエトンが転じた【水】によって吸収され、その力の増した【水】は【樹】のマナによって生成された蔓が取り込んで、より強く太く成長させた。露になった柔肌を、刃のように鋭い葉っぱが切り裂いて、その傷口から蔓が体内に潜り込んでいく。
なにが起こったのか理解できないヘルモント達は動くことも出来ずに唖然としていた。
不意に、ネメアの体が燃え上がる。どこかに隠れたキマイラの放った【焔】だというのはすぐに分かったが、蔓を生成していた【樹】を肥やしにした【焔】の爆発によって、ヘルモントらは一瞬だけ目を逸らした隙に、エトン達は姿を消した。
ヘルモントらが再びネメアを見たときには、すでに朽ち果てて雪が解けるように消えていくところだった。
なぜ途中から同士討ちを始めたのか、まるで意味が分からない。
いや、同士討ちというよりは虐殺である。
ヘルモント達は消え去ったネメアの亡骸があったところを見つめながら、しばらく茫然としていた。