第二回 森の怪物
仕様の関係でフリガナに不自然なところがあります。
キミア・ポリスの北にある『Horaiの森』は、古代より五大聖地の一つに数えられていたこともあって、都市郊外にあるにも拘わらず手付かずの自然が残されていた。聖地とされる森の中心を囲うように幾つかの集落が点在し、それぞれに「泉の里」や「瀧の村」などといった単調な名前が付けられている。その集落ごとに林業や畜産・狩猟など特化した産業があり、「泉の里」と呼ばれた集落では特に狩猟が盛んであった。そのため、この集落の男の多くが猟師だった。泉の里とその近くの集落には、昔からホライの森には化け物が棲んでいるという言い伝えがあった。集落によって名前や姿が異なるこの化け物は、子供を躾けたり注意したりするためのものであり、職業柄……森深くに入る大人たちは、化け物を見かけたなどと子供に言っては、時にはからかい時には叱ったりしていた。
四ヶ月ほど前になる。|Galina Kalvosという女性の夫が、仕事中に他界する事故が起こったのだが、七つになる息子のDmitriiは、父は噂の化け物に殺されたと考えていた。ドミトリーがそう信じる根拠は、森に化け物が潜んでいるという言い伝えと、父親が死んだ場面を誰も目撃していないという非常に弱いものではあるが、父親の亡骸の様子から事故死だと周囲の大人たちから言われても、そうですかと納得したり諦めがついたりするような穏やかで冷静な心は持っていなかった。父は森と共に生きた男である。それが間抜けにも犯した些細なヘマで死ぬとは思えない。なら、なぜ死んだのかと考えを巡らせれば、やはり七つの子供である。父を殺したのが人ではないのなら、人間以外のなにか、しかも猟師である父よりも強いであろう存在。つまりは化け物だろうという結論になる。
「母ちゃん、早く父ちゃんを殺した奴をやっつけないと」とドミトリーは、時たま母親のガリーナに言う。
「何度も言うけど、お父さんは事故で死んだの。だから悪い人は誰もいないの」と母は諭すのだが、「言い伝えの化け物だって言ってるじゃないか」と息子は返す。
「あのね。それはただの言い伝えで、鬼とか悪魔とかは本当には存在してないの。あたしやお父さんも、そんな化け物を見たことなんてないわ」
「だけど、絶対に居ないって言い切れないじゃないか!」
ガリーナは正直、しつこく言い迫ってくる息子に苛立ちを覚えてはいたが、所詮は七つの子の戯言である。とつぜん父親を亡くしたショックから、どうしても父親を殺した犯人が欲しいのだろう。七歳にもなれば、お伽話の鬼や悪魔なんてものは現実に存在しないというのは、馬鹿でないかぎりは察しが付いているはずだ。ドミトリーの場合、理屈ではそれを理解していても、感情がそこまで追い付いていないのだろう。だから、どうしても噂の化け物が父親を殺したと考えてしまう。ガリーナはそんな息子を哀れに思うのだが、だからといって何もしてやれる事はなく、ある時はドミトリーの意見を適当に聞き流し、またある時は可哀想にと慰めるくらいしか出来なかった。
「母ちゃん! 早く父ちゃんを殺した化け物をやっつけないと! 化け物や動物は、一回人を殺したら何度も襲うようになるんだぞ! 父ちゃんやオジさん達が言ってたもん! だから早く見つけてやっつけないと!」
この『やっつける』は『殺す』という意味なのはドミトリーも理解している。
「お父さんが動物に襲われた跡がなかったから、やっぱり事故で死んだの。誰も悪いことしてないんだから、誰も傷つける必要はないのよ」
「だから化け物だって絶対!」
「お父さんは、たまたま運が悪かったの。それに、本当に化け物がいたとしても、そいつをやっつけたところで、お父さんは生き返らないんだから」
「けど!」
「お父さんを忘れろとは言ってないの。死んだお父さんのことで変なことを考えるなって、お母さんは言ってるのよ。居もしない化け物退治は諦めなさい」
ドミトリーは母親だけではなく、親戚や父親の仕事仲間など、思いつく限りの大人の男たちに化け物を退治しないといけないと告げるのだが、当然ながら大人たちは彼を宥め賺すだけで、誰もドミトリーの言葉を真剣に受け止めはしなかった。
誰も化け物退治をしないのなら、自分がやっつけるしかない。
幼稚にもそう考えたドミトリーは、その覚悟を双子の妹であるIrinaに告げる。
「イリーナ、オレ……父ちゃんを殺した化け物退治に行こうと思う」
自宅の居間で突然そう言われたイリーナは困惑する。
「化け物退治って、お父さんは事故で死んだんだよ」と大人たちの意見を兄に返す。
「けど、イリーナ。父ちゃんが森でヘマして死ぬと思うか?」
「思わないけど……」
「だから、父ちゃんは誰かに殺されたんだって。みんな動物じゃないって言うから、やっぱり父ちゃんを殺したのは言い伝えの化け物だ」
「化け物なんていないよ」
「絶対にいないって言い切れるか?」
兄にそう言われると言い返せなかった。
それでもイリーナは、大人の意見を受け入れるよう兄を諭すのだが、兄の覚悟が揺るがないと悟ると、本当に父は猛獣や化け物に殺されたのではないかと不安になってくる。そして、それを退治すると言い張る兄までも居なくなると思えば更に怖くなってきた。イリーナはドミトリーに比べれば、ほんの少し精神的に大人ではあったが、それでもまだ子供である。一人で退治するよりは、二人で退治したほうがいいとか、もしもの時はどちらかが助けを呼べるとか考えてしまい、結局は兄と共に存在しないであろう化け物への敵討ちをすると約束しまう。
それ以来、二人は集落から少し離れた、父親の遺体が見つかった場所を訪れる。わずかに開けた窪地の周囲は木々が生い茂っていて、父親は東側の斜面に倒れていたと聞いた。斜面には大きめの石がいくつか地面から少し晒されるように埋まっているのだが、雑草や落ち葉のせいで隠れてしまっている。父が死んだ日は朝まで雨が降っていた。そのため、大人たちは濡れていた落ち葉かなにかで足を滑らせてしまい、その拍子に頭を石に打ち付けてしまったのだろうと判断した。現に父親のものと思われる血痕がついた石が発見されたが、ほとんどが土に埋まっているのと、現場には父親の足跡しか残されていなかったのもあって、何者かが石を凶器として使ったとは考えられなかったのだ。
集落の者たちからすれば死亡事故の現場なのだが、二人からすれば父親が化け物に殺された場所である。ならば、犯人である化け物の縄張りであり、そいつが再び現れるのではないかとドミトリーは考えた。最初は父親の死体が発見された昼前、次は昼過ぎ、そして夕方と時間帯を変えて何度も訪れたのだが、結局は成果が無かった。夜中にも父親が亡くなった現場に行こうとしたのだが、当然ながら母のガリーナがそれを認めなかった。一度ドミトリーは、ガリーナが寝静まったあとに家から抜け出そうとイリーナに提案したことがあったのだが、イリーナは母親から叱られるのを嫌って拒否し、散々提案されて仕方なく受け入れた夜に至っては、ドミトリーがガリーナより早く眠りについてしまって、結局一度も夜中に化け物退治に行くことはなかった。
今日のドミトリーはいつもより早く目が覚めた。窓の外を見ると、太陽は東の空からあどけない光を差しているが、まだ隠れている。母の様子を見に居間に行くが、そこに母はいなかった。食卓にはバスケットに入ったパンがある。子供たちは知らなかったが、ガリーナは夫の墓参りに出掛けていた。子供たちが起きたあとでは、仕事や世話で時間がとれないのだ。墓地は集落近くの高台にある。とは言っても、丘と木々に隠れていて集落からは見えない。夫の墓に花を添えて祈りを捧げたらすぐに帰路について、大きく曲がった坂道を駆け足で下る。ドミトリーはともかく、イリーナは早く起きることがあるのだ。自宅に入ろうとしたとき、扉に鍵が開いていることに気付いた。始めは締め忘れたかと自分を疑ったのだが、家の中に子供たちの姿はなかった。室内が荒らされた様子はない。小さな集落だから、住民のほとんどの顔は知っているし、泥棒をするような者もいない。家の周囲を回ってみたが、やはり子供たちは何処にもいなかった。
あの子たち、いったい何処に行ったのよ。
小さく息をついたとき、ドミトリーが化け物退治がどうこう言っていたのを思い出す。放っておけば、そのうち帰って来そうなものだが、ガリーナはなんとなく夫が死んだ現場へと歩き出した。
事故現場までの道のりは左右を森に挟まれており、空気は冷たく澄んでいて空も枝葉に遮られているために日差しは弱々しく暗かった。
「イリーナー、ドミトリー」とガリーナは、子供たちの名前を交互に呼びながら歩くが、まるで反応がない。何度も呼びながら歩き続けていると、一瞬だけ何かが聞こえた。立ち止まって耳を澄ませてみると、消え入るように小さな声だが、確かに子供の叫ぶような声が聞こえた。思わず子供たちの名を叫びながら走った。
しばらくすると草木の陰から何者かが走って出てくるのが見えた。片腕ずつなにかを抱えている。
「あ! お母さんだ!」
「母ちゃーん!」
人影は立ち止まった。暗くてよく見えない。だが、何者かが両腕に抱えているのが自分の子だというのは声で分かる。
「母ちゃーん! うわーん」
「お母さーん」
ガリーナは持っていた短剣を抜いた。鞘には【樹】の星を仕込んである。その星が緑色の光を放ったのを見た何者かは、子供たちを放すと左手に嵌めていた指輪を赤く光らせた。
「覚悟しなさい! この人攫い!」とガリーナが叫んでマナを起こそうとしたとき、駆け寄ってきたイリーナが「待って!」と制止する。
「あのお兄ちゃんが助けてくれたの」と続けたので、きょとんとしながらもガリーナが星を光らせるのをやめると、不審者の指輪から光が消えた。
ドミトリーが母親に抱きついて泣き出すと、それに釣られてイリーナも泣き出す。二人をあやしながら、ガリーナは不審者のほうを見た。彼女に近寄ってくる、青年とも少年とも言える年ほどの男性は、森の中を彷徨っていたのか、服はヨレヨレになって少し薄汚れていた。
「えっと、事情はよく分からないけど、うちの子を助けてくれて、ありがとう」
男は安堵する様子も見せず、険しい顔をしたまま早くこの場を去るように告げた。なぜかと尋ねれば、犬の化け物が現れたそうなのだ。
「化け物?」と思わず聞き返す。
「そうなの。ほんとに化け物が出たの」とイリーナだ。
「黒い犬の化け物でね、すっごく大きくて、しかも顔が二つのあったんだよ」と続けた。
「そうだぞ。きっとあいつが父ちゃんを殺したんだ」と、今度はドミトリーだ。
事情はまだ呑み込めないが、その化け物が熊を見間違えたものだとしても危険には変わりない。ガリーナはすぐに集落に戻ることにして、子供たちを助けたという男にも事情を聞いたり、礼をしたいと言って自宅に連れて帰った。
ガリーナが予想した通り、子供たちは父親を殺した犯人である化け物退治をしに、事故現場に行ったそうなのだが、そこで大きな黒い犬と遭遇……というか襲われたらしい。
「ドミトリーって酷いんだよ。あたしを盾にしたんだもん」
「嘘つくなよ。たまたまお前がオレの前に居ただけだ」
「違うもん。あたしはドミトリーの隣にいたのに、ドミトリーに前に出されたんだもん」
「そんな訳ないだろ!」などと、いつも通りの兄弟喧嘩が始まった。
とにかく、そのときに二人は黒犬に押し倒されたのだが、チカプと名乗る少年が黒犬の頭に石を投げつけ、怯んだ隙を突いて【焔】のマナで牽制しつつ死角を作って子供たちを救って逃げて来たらしい。
それにしても不思議なのは、子供たちを襲った黒犬である。大きいのは、まあ居るかも知れないが、頭が二つもあるそうだ。しかもチカプの話によると、その黒犬は幼稚な感はあるが人語が使え、しかもマナまで使えるらしい。しかも挙げ句にはチカプの父を攫ったというのだから、聞いているうちに妄想でも聞かされているような変な気持ちになってくる。
チカプは養父が攫われたことと、この化け物が現れたことを警察に通報するためと、黒犬が言ったという『エクリプス・タブレット』なるものを調べるためにキミア・ポリスにあるキミア大学に向かっている途中で、道に迷って森を彷徨っているときに、たまたまなのだがドミトリー達が例の黒犬に襲われているのを見掛けたので助けに入ったのだとか。
「あたしもマナが使えるけど、マナを使う動物なんて聞いたこともない」とガリーナだ。
「何度も聞いて悪いんだけど、本当に頭が二つもあったの」と続けると、ドミトリーが「本当だって! だって目の前に居たんだもん」と返し、「あたしも見たもん」とイリーナが続いた。
どうにも解せないのだが、子供たちもチカプも嘘をついているようには思えなかった。実際に化け物の犬がいるにしても、熊かなにかの見間違いにしても、人を襲う大形の動物がいることには違いないし、現に自分の子供が襲われている。あとで猟師仲間に伝えることにして、キミア・ポリスに向かうチカプを送り出そうと家から出たとき、猟師仲間の男がガリーナの元に走ってきた。
「おい、ガリーナ。隣の集落で変な化け物が出たんだとよ」と、いきなり告げられる。
「変な化け物って、もしかして黒くて大きな犬?」
「そう! それだ。しかも頭が二つもある化け物。さすがにそれは見間違いだと思うんだけど、鶏小屋が荒らされて殆どが喰い殺されたらしいんだ。たまたま見つけた奴が猟銃を持ってて、発砲したらその犬は逃げ出したらしいんだけど、とにかくでかかったそうだ」
子供たちが言っていた犬である。
「その犬に、さっきうちの子が襲われたの!」
「なに? 大丈夫だったのか?!」
「チカプくん……この子が、たまたま居合わせて子供たちを守ってくれたんだけど……」
「そうか。お前、若いのに大したもんだな」と男は笑って、チカプの肩を掴むと大きく揺らした。
大きくて子供も襲うような危険な化け物を見過ごす訳にはいかないと、猟師仲間の男は「この集落の連中を総動員して、すぐにその化け物を始末しよう」と言い残して去ってしまった。
この集落の隅には大きな泉があり、「泉の里」という集落の名の由来でもある。この泉の周辺は広場になっていて、ガリーナはこの広場で集会やお祭りを行うのだとチカプに説明した。そこに集められた猟師たちによって、あの黒犬退治についての話し合いが行われる。
「さっき諸君に知らせた通り、ガリーナの子供であるドミトリーとイリーナが、頭が二つもある黒い犬に襲われた。それに隣村でも同じ個体と思われる黒犬に鶏小屋が襲われている」と、六十歳ほどの猟師がみなに告げた。
「ドミトリー達を助けてくれたチカプ君によると、その黒犬は人の言葉が使える上に、マナ……つまり魔法まで使えるそうだ」と続ける。
「でかい上にマナまで使うのかよ」
「ただの熊みたいな犬じゃないのか」
「そんな化け物、どうやって倒すんだよ」
「そもそも、なんで畜生の分際でマナが使えるんだ。オレだって使えないのに」などと弱音が湧いてきたので、「それくらいでビビるんじゃない!」とガリーナが一喝する。
一瞬、水を打ったように静まり返って、みなの視線がガリーナに向いた。
「マナが使えるからって不死身じゃないし、発砲しただけで追い払えたってことは、つまり化け物は銃を警戒してるってこと。なら、あたし達の敵じゃないわ。それとも、この里には高がでかいだけの犬に怯えるような根性無ししか居ないの!」
再び静まり返る。誰かが「そんな訳があるか!」と沈黙を破ると、「そうだ! そうだ! でかいだけの犬ごとき熊と一緒だ!」、「取ッ捕まえて見世物にしてやる!」などと次々に声が上がった。
「まあ待て。まだ話は終わっていない。この黒犬には、飼い主らしき者がいて、赤と黄色のバンダナをして、服は淡い黄色に水色の模様が入っているそうだ。しかも鶏冠が付いた蛇といった、見っともなくて極めて悪趣味な仮面を被っているらしい。この不審者にも注意してくれ」と最初に話した猟師が言い終えると、そこから細かな作戦会議に入った。それによって、何人かは万一に備えて里に待機、ほかは二人から三人の班に分かれて森に入り、黒犬の痕跡を探して追跡する。そのあとは状況にもよるが、可能であれば黒犬を捕獲または駆除し、場合によっては一旦退いて応援を呼ぶなり作戦を練り直すことが決められた。
ガリーナは、チカプと共に夫が死んだ事故現場を訪れる。
「チカプくんは、黒犬が現れないか警戒しておいて」と言って、黒犬の痕跡を探す。
軽い溜め息をついて彼女から目を逸らしたチカプに、「そういえば言ってなかったけど、あたしも一流の猟師なのよ。猟銃は趣味じゃないから持たないけど」と笑う。
視線が地面に向かう。チカプによって付けられたであろう土の焦げ目、子供たちが倒れたときのものらしき痕跡、通常の大型犬よりも大きな犬の足跡。時間が経っているせいで、素人ではどれも見逃してしまうほど頼りないが、一流の猟師と自称するガリーナだけあってそれらを見逃さない。
藪のほうを見て、あっちから来て……と呟くと、別の方向の藪を見ては、あっちに逃げたと、とその藪に向かう。草の細い茎がほんの少し折れ曲がっている。
「チカプくん、こっちに行ってみましょう」とガリーナが藪に入って行った。
藪を抜けると沢があった。周辺を見て「上流に向かったみたいね」とガリーナは言った。不思議そうにキョロキョロ見回すチカプに、「よく見ると足跡があるでしょ」と続けた。チカプが足跡を探すが、それらしきものは見つからない。だが、よく見ると沢の河原の小石が、わずかに払われている痕跡があった。少し身を屈めて凝視してみるが、やはり足跡と呼ぶには心許ないほど僅かな違いである。
チカプの様子を見たガリーナが「気付いた? きみ、才能あるね。その跡は、歩くときに地面を蹴った跡なのよ。でかい分だけ重いから残ったんでしょうね」と笑った。
すぐに黒犬の追跡を再開する。沢の途中から獣道に入ったが、今度は道のない草に覆われた険しい坂を上ったらしい。先にガリーナが上って、そのあとにチカプが続くのだが、思っている以上に上りづらい。途中でガリーナと手を握って引き上げてもらい、どうにか上り切って先に進むのだが、それからしばらく進むと痕跡が無くなってしまった。
「困ったわね。チカプくん、一旦うちの子が襲われた所に戻りましょう」とガリーナが提案する。手掛かりになりそうなものがなく、この先を真ッ直ぐ行くと隣村に行き着くだけなので進んでも無駄だとチカプに説明した。
「だから、犬が去った方向じゃなくて、犬が来た方向から捜しましょう。もしかしたら塒から来たのかも知れないし」と続けた。
すぐに事故現場に戻って、犬が来たであろう方向から追跡を仕直す。さっき同様に藪の中を掻き分けて、坂を上り下って沢を越えて進んでいく。どうやら森の中心に向かっているようだった。
「森の中心とはいかないけど、その途中までに大昔の遺跡がたくさんある場所があるの。昔は神殿だったらしいけど、今は石垣と雨宿りが出来る程度の石室しか残ってないはずだけど、あの犬はそこを塒にしてたのかしら?」
開けた場所に出る。ガリーナの言った通り、石垣で四角形に区切られた場所があり、森の中心に向かって大きな門らしき跡がある。石垣の区域は広場のようになっていて、石畳が敷き詰められている。そして森の中心地に向かう方角には石垣で作られた石室が建っている。
「あの石室は大昔の祠なんだって」とガリーナは言った。
二人は広場の真ん中に立って周囲を見回した。ガリーナが石室に近づこうとしたとき、どこからか枝葉の擦れる音がした。すぐに音のほうに目をやるが、またすぐに別の方向から物音がする。自然と二人は背中を預け合う態勢に入ってガリーナは短剣を抜き、チカプは左手を握り締める。二人の星はそれぞれの光を帯びた。
二人は動き回る音を追い掛けるが追い付かない。
「例の犬? でかいくせに速いわね」
ふと、真上からなにかが降ってきた。サッと二人がそれを躱して距離をとる。頭が二つで垂れた耳。しかも犬とは思えないほど大きい。なるほど、聞いていた通りの黒犬である。
「おまえたち ぼくたちを いじめるつもりだな。えとんが いってたぞ」
本当に犬が喋ったとガリーナは唖然としたが、そもそも化け物だと呑み込んで黒犬を睨みつけた。
「おばさん、こわいかおして おこっても ゆるさないぞ」
犬の頭の一つが余所見をしたのを、二人は見逃さない。目だけを動かしてその方向を見ると、やはり枝葉の擦れる音がした。仲間がいる。恐らくは仮面の人物だろう。この犬が口にした【Ethon】というのが飼い主なのか。
ガリーナが「ねえ、あんた名前は?」と黒犬に話しかけてみる。
「え?」
「あんたのナ・マ・エ!」
「なまえ? なまえは……だめ! おしえるの だめなの」
「どうしてダメなの?」
「だって ぱぱも えとんも なまえをいっちゃ だめって いうんだもん」
これは使える。
「でも、君の名前が分からないと、君のこと呼べないじゃない」
「でもだめなの。おこられるの」
「君のパパとお友達って怖い人なの?」
「おともだちじゃないよ。おとーとだよ」
エトンは弟ね。
「それに ぱぱは やさしいよ。ぼくにまほーを おしえてくれたんだよ」
「すごーい。かっこいい【焔】の魔法かな? それとも力強い【地】の魔法なのかな?」などと、ガリーナは子供をあやすように頬笑んで語りかけた。
「ぼくのまほーね、 つちのおしろとか つくれるんだよ。ほかにも かべとか とがったぼうとかも つくれるんだよ。すごいでしょ!」
【地】のウィザードか。それにしても、チカプの話からこの犬は幼稚で知性に欠けるとは思ってはいたが、わざわざ教えてくれるとは、この獣は本当にお人好しのお子様のようだ。
次に聞きたいのは、この黒犬の仲間のことだ。こいつの『パパ』とは仮面を被った飼い主らしき人物のことか、それとも『エトン』がそれなのか。どう尋ねれば、うまく欲しい答えを出してくれるのか考えているとき、ガリーナたちの周囲を包み込む風が巻き起こる。黒犬がマナを使った様子はない。ならば例の飼い主のマナか。
「君のパパが、もうお喋りしちゃダメだって」
ガリーナの言葉に「ぱぱじゃ ないよ」と返ってくる。
「じゃあ、エトンとかいう弟さん?」
「うん!」と黒犬は答えた。
この犬と『パパ』と『エトン』の関係がよく分からない。仮に『エトン』が話にあった仮面の人物と同一人物として、かつ黒犬の言葉通りに解釈するのなら、この黒犬は仮面の人物と兄弟ということになり、つまりは犬と人が兄弟ということになる。義理の兄弟なのか。いや、今はそんなことを考えるより、エトンなる人物が臨戦態勢に入ったことに意識を向けるべきだ。
魔法の元であるマナによって生成された【風】は、普通の風とは違って輝く靄のように白いので、魔法の才能のない人物でも見ることが出来る。チカプは指輪の星から【焔】を出して、エトンの【風】を掻き消そうと渦を作るのだが、黒犬が【地】の槍を四方八方に伸ばして【焔】を吸い取り嵩を増やす。それを阻止するために、ガリーナの【樹】属性のマナによって作られた、無数の蔓がその槍に巻きついては根を伸ばして内部から破壊する。その蔓をエトンは【風】で切り払おうとするのだが、チカプの【焔】が【風】を掻き消して、その【焔】は黒犬の【地】に吸収されるといった、堂々巡りの攻防が続く。
突然、黒犬の片方の顔の目元から血が飛び散った。思わず【地】の槍を消し去ってしまう。好機とばかりにガリーナが蔓を伸ばして黒犬に巻きつけた。チカプはエトンの【風】に警戒するのだが、不思議なことに奴の【風】が蔓を切り裂くようなことはしなかった。それどころか、逃げ出そうと踠く黒犬の四肢に白い光が走ったかと思えば、そこから血が跳ねた。
「いたいよ! えとん! いたいよ!」
「はやく このくさのやつ きってよ!」
泣き叫びながらジタバタと体を揺らす黒犬の周囲を巡っていた【風】が止んだ。と、黒犬の額に水滴が当たって目元の血を洗い流す。ガリーナの頬にも水が触れた。空を見る。清々しいほど青かった。だが、わずかにだが雨が降っている。しかも黒犬の周辺ばかりがやけに濡れている。エトンがマナで起こした雨であることは明白だった。ガリーナが放った蔓がその雨を吸って少しずつ大きくなっては黒犬を縛り上げる。黒犬は慌てて【地】で刃物を作って蔓を切ろうとするのだが、それと同時に雨は止んで、代わって生じた【風】が【地】の刃を吸収した。挙げ句には犬の垂れた耳を一枚切り裂いて巻き上げる。
「あーー!」
その悲鳴を機に、無数の【風】の刃が蔓を避けるようにして黒犬に襲い掛かった。
全身から血を飛ばしながら「いたいよ! やめてよ! えとん、やめてよ!」と泣き叫んで踠き続けながらも、黒犬は必死に立ち上がろうとするのだが、脚を切られているせいで、起き上がる途中でドスンと倒れ込んだ。それでも【風】が止む気配はない。
「いたいよ。やめてよ。なんで いじめるの。ぱぱに いいつけてやる」
黒い毛皮が血で濡れた犬の頭の一つは、すでに息絶えたように動かない。もう一つの頭が力無げに「おねがい……。もうやめて……、おねがいだから」と涙に染まった声で懇願するのだが、【風】は止むことなくその首の頸動脈に白く鋭い一閃が横切る。見るも無残な姿になった黒犬は、周囲を赤く染め上げた。
仲間割れか。
恐らくエトンから「なにも話すな」と言われていたのだろうから、ある程度は答えてしまっていた黒犬に落ち度はある。なにが目的かは知らないが、それに関係する情報の秘匿は重要であり、漏洩したら罰するのもおかしな事ではない。だが、始末の仕方があまりに惨いとガリーナは目を背けた。
エトンの【風】が止む。黒犬の体は砂の像のように崩れ出して、さっきまで生き物だったのが分からない灰のような何かが残った。と、いきなり【風】の渦が起こって、その残骸を落ち葉と共に巻き上げた。チカプが【焔】を生成させて自分とガリーナを保護するのだが、その【風】がすぐに止んだ。あの黒犬の残骸は、すでに存在していた痕跡すら残さず消えて無くなっていた。
「犬の死体が無くなった」と、ガリーナが茫然としながら呟く。
だが、まだエトンがいる。すぐにガリーナとチカプは周囲を警戒するも、どうにも攻めて来る様子がない。鳥の囀りとそよ風の音だけが聞こえる。さっきまで化け物と戦っていたのが嘘のように穏やかである。ガリーナとチカプは顔を見合わせて、黒犬が一瞬だけ向いた藪を調べてみると、案の定……地面に人の足跡らしき痕跡を見つけた。大きさから察するに男であり、しかも去った痕跡まで残していた。
「追いかけましょう」と、ガリーナは言った。
無論チカプもそのつもりである。藪の中を進み、獣道を上って男を追ったのだが、崖に出たところで痕跡を見失った。
「仕方ない。いったん戻りましょうか」とガリーナは悔しさを抑えながらも、里に引き返すことにした。
里に戻った頃には西に太陽は消えていて、残光と夕闇で空が淡い紫色に染めていた。ガリーナとチカプは、広場に集まっていた猟師たちに森で遭遇した黒犬の化け物との一件を説明した。駆除する対象だった化け物が消えたことについては、皆は安堵したのだが、やはり化け物の奇妙な死に様や、飼い主と思しきエトンなる人物の行動には、ある者は首を傾げて、ある者は気味悪がった。中には「今からエトンとかいう奴を見つけて引ッ捕らえよう」などと言い出す者もいたのだが、すでに夜というのもあって、その日は解散して各々の家に帰ることにする。チカプはガリーナの家に泊まることになった。
この二日、野宿が続いていたチカプは久しぶりに体を休められると思っていたのだが、ドミトリーとイリーナがそうはさせてくれなかった。
「ねえ! あの黒犬、どうやってやっつけたの!」
「怖くなかった?」
「チカプって変な名前。どこの人なの?」
「はぐれ村って聞いたことない。この里より田舎の村があるの?」
「犬が欲しがってたエクレア・タブレットってなに? お菓子?」
「それが欲しくてチカプさんのお父さんを連れ去ったってことは、チカプさんのお父さんはお菓子屋さんなの?」
「明日はどうするの? 変なお面の飼い主を捜すんでしょ? オレも連れてって!」
「ドミトリーはダメだよ。犬に襲われたとき、あんなに怖がってたくせに」
「怖がってないよ!」
「嘘! だって泣きながらアタシを盾にしたもん」
「してないよ! お前こそ嘘つくなよ!」
「そっちが嘘つきなんでしょ!」
結局、夜が更けて幼い兄弟が寝静まるまで、のんびりする暇はなかった。
翌日の早朝に、泉の広場に猟師たちが集まった。例の黒犬の飼い主らしき人物を捜索するかの相談だが、やはりこの奇妙な事件を警察に知らせるべきだという意見が出た。
「それなら、チカプ君にお願いするのがいいだろう」と、昨日の集会を取り仕切っていた六十歳ほどの猟師が言った。さらに続けて言う。
「彼は本来、故郷で起こった黒犬の事件を警察に伝えるために、たまたまこの村に立ち寄っただけなのだから、無理にここに留めておく訳にもいかない。それに警察に行くのだから、こう言ってはなんだが、この森で起こった騒動についても伝えてもらうのがいいだろう」
この意見に反対するものはいなかった。
それから間もなく、猟師たちはエトンなる人物の捜索をすることにして集会は解散する。チカプは出立のためガリーナ宅に置いてきた荷物を取りに行って、外に出るとガリーナがこちらに向かって走ってくるのを見つけた。
「よかった。まだ居た」
そう言ってガリーナは、チカプに手紙を差し出した。
「きみ、お父さんが勤めていた大学に行くとか言ってたけど、隣村の出身の人に|Miguel Golgiって人がいて、そのキミア大学で錬金術の研究をしてる人なのよ。あたしは会ったことはないんだけど、猟師仲間にミゲールくんのお父さんの知り合いがいて、チカプ君のことを話したら、チカプくんが教授と会えるよう息子に取り計らわせるって」
チカプはその手紙を素直に受け取って、ガリーナに礼を述べるとキミア・ポリスに向けて歩き出した。