第十五回 黄金の記憶
仕様の関係でフリガナに不自然なところがあります。
腰から上は二つの上半身に分かれて腰からは巨大な翼が生え、さらには脚を持たず蛇の尾を備えた異形な化け物。バシリスクと自称したヴィクター・シェリーを食い止めようと彼のもとにやって来たチカプ、ケレブことケルベロス、メリッサことキマイラの三人だったが、彼いわく「最高傑作の転生型ホムンクルス」なるテュフォン‐エキドナとなった、かつてのヴィクター・シェリーとエリザベス・グローグには丸で歯が立たなかった。
天井が崩れて開けた鉱山の上層部からは、無数の星々を従えた大きな月が見えるのだが、そんなか弱い光をさらに蝕むように、ヴィクターとエリザベスの生まれ変わりであるテュフォン‐エキドナの体から【闇】のマナが溢れ出す。夜より暗い闇に化け物の体が呑み込まれ、黒い球体となったのだが、黒と紫色の妖しい光を放つその球体は、シャボン玉のように呆気なく消えた。かつてのヴィクター、今のテュフォンがチカプ達を見て不気味な半笑いを浮かべる。
さっきまでは大蛇だった奴の脚の部分が、まるで黒い四足獣の胴体になっていた。しかもテュフォン‐エキドナの胴体が分かれる裂け目から、つまり黒い獣の首にあたるところからはケルベロスの首のような、耳の尖った黒犬の頭部が一つ現れたのだ。
「奴め、自分自身までも変化個体にしたのか」と、化け物の姿であるケルベロスが言った。
つまり、テュフォン‐エキドナの体は任意で、予め用意されている異様な姿に変化できるのだ。
「それだけじゃないぞ」
テュフォンが笑いを含んだ不気味な声を言った。奴の体が黄色く輝き出す。これは【地】のマナを使うときの現象である。
「どういう仕組みか知らんが、ヴィクターめ。姿を変えるたびに使えるマナが変わるのか!」
「どうだろうな。私も初めてなんでよく分からない。もしかしたら、そういう理屈なのかも知れないが、私の感覚からすれば、【闇】を【地】に転じているといった感じだ」
とつぜん高笑いを始めたテュフォンの周囲から、無数の土の槍が湧き上がってチカプ達に襲い掛かった。彼らも【地】や【風】のマナで防戦し躱すのだが、急所を守るので精一杯であり、とても反撃なんて出来なかった。それに機嫌を良くしたテュフォンは、さらに姿を変える。一瞬だけ全身が【闇】に隠れたかと思えば、黒犬の体が消え失せて、その代わりに雌ライオンの上半身、山羊の首を背負った下半身に蛇の首が尾になった化け物に変わった。やはり、さっきの黒犬のときと同様に、奴の腰から下が、キマイラのような化け物の首と繋がっている。この状態でテュフォンが使ってくるマナは、やはり【焔】だったこともあり、チカプらが使える【地】のマナでの防御が利いた。だが、攻撃が激しすぎて反撃する余裕がない。テュフォンも、チカプ達を【焔】で攻め続けても利点がまるでないと分かっているため、すぐに姿を変えるために【闇】に籠もる。
次のモデルはヒュドラなのだろう。テュフォン・エキドナの姿が元に戻ったようにも見えたが、奴の腰から七本もの大蛇の首が現れた。奴から現れた、ヒュドラと同じような大蛇がヒュドラと同種の蛇なら、その毒牙には人ひとりを容易に殺せるだけの毒がある。テュフォンを撹乱するために別々に行動していたチカプ達が一ヶ所に寄り添う。ヒュドラ由来の【水】と【樹】のマナは、三人のマナを組み合わせれば何とかなるはずだ。やはり、それ以上に怖いのは、あの牙が備えた猛毒である。チカプたちに解毒手段がない以上、一度でも噛まれたらおしまいだ。
「チカプ、オレに乗れ!」
ケルベロスに言われるままに、チカプが彼に乗る。
青い光を帯びたテュフォン‐エキドナが備えた七本の首が、チカプらに襲い掛かる。ケルベロスとキマイラは奴の周囲を巡るにように駆け、大蛇の口を躱しながら奴の【水】は【地】で防いでは、奴が緑色の光を纏えば【焔】と【風】で対応する。大蛇が接近してくるのもあって、何度も大蛇に攻撃したのだが、どれだけ傷つけても奴の傷は立ち所に治ってしまう。ただ火傷の治りは切り傷よりは遅いようなのだが、【焔】は【水】を纏うことで容易に防げるので、有効な攻撃とは言えなかった。
さらに奴の姿が変わる。再び帯びた闇から姿を現したとき、蛇だった脚の部分が鷲の下半身になり、よく見れば腰から生えている翼がさらに大きくなっている。と、突然ヤツが上空に飛び上がった。エトンがモデルであるはずだから、マナの属性は【風】である。【風】は【地】のマナを掻き消す効果があるため、【地】のマナで壁を作っても簡単に破壊される。テュフォンの攻撃にチカプ達は備えるのだが、中空で羽撃く奴はチカプらを見下ろすだけで一向に攻めて来ない。と、テュフォン‐エキドナが稲妻のごとく急降下する。思わず身構えるチカプ達だったが、奴は彼らに殺到せずにただ床に着陸するのだが、それと同時に尋常ではないほどの【風】のマナによる突風が周囲に吹き荒れた。反射的にケルベロスが【地】のマナで壁を作るのだが、なんの役にも立たずに掻き消される。チカプとキマイラが操る【焔】のマナは、【風】に力負けして蝋燭の火のように消されたのと同時に、踏ん張りきれなかったケルベロスとキマイラは吹き飛ばされて、ケルベロスの背中に乗っていたチカプも飛ばされた。ほんの数秒で、三人の全身は【風】に乗っていた鎌鼬によって真ッ赤に染まる。壁や床で強く叩き付けられたことと、無数の切り傷のせいで少し動くだけでも全身に激痛が走った。
「やはり私は天才だ。この中継の肉体ですら、すでに神の如き……いや、神をも超えた力を持っている。そう考えるとヘルモントとホーエンハイムはなんて幸せ者なんだ。大昔に奴らが行い、そして諦めた研究が、私の手によって完成したんだからな」
元の姿に戻っていたテュフォンは、そう言って口元が呆れるほどに緩ませて悪趣味な声を漏らしていた。
ふと、倒れているチカプが目に入る。似ていないが、こいつはホーエンハイムの息子である。ならば、こいつは覚えていないだけで、エクリプス・タブレットについてなにか見聞きしたことがあるのではないか。テュフォンは巨大な尾をチカプに向けて伸ばす。
「チカプ! 逃げて!」
キマイラが声を張るが、血まみれ傷まみれのチカプはすぐに動けず、蛇の尾を手で払おうとはするのだが、意味をなさずに巻き付かれて引き寄せられた。
「チカプ・ホーエンハイムだったな。恐らくはなにも知らないだろうが、一応は念のためだ。貴様にエクリプス・タブレットについての記憶があるかどうか調べさせてもらうぞ。光栄に思うがいい」
そう言ってチカプの体を縛り上げる。テュフォンが圧倒的に優勢とはいえ、この状態で体内に取り込んでいるムネモシュネを出すのは危険なのは分かっている。それに、テュフォン‐エキドナと合体している状態にあるムネモシュネの能力は、もしかしたら自分の意思で行えるのではないかとテュフォンは考えていた。現に、テュフォン・エキドナの素材に使った子供たちの力は自由に使える。ならば、後天的に取り込んだとはいえ、生物として結合しているムネモシュネの力を無理やり剥ぐような感じで、彼女の力を引き出せないか。取り敢えずはやってみる。頭のどこかで彼女の悲鳴が聞こえたが、そんなものは気にする価値など無い。
ムネモシュネから奪った力で、チカプの記憶を辿ってみる。
キミア大学で出会った細身の男が、異形な化け物として現れたときの衝撃。
一緒に行動していたメリッサの、もう一つの姿を見たときの感情。
行方不明だった養父から手紙が届いたときのこと。
湖での死闘とスフィンクスの死、火山での戦い、渓谷での出会いにヘルモント宅での騒動に、森で戦ったオルトロスの悲惨な最期。
今回の一件で色々体験したようだが、エクリプス・タブレットの情報はもちろん、特に興味を引く記憶はなにもない。
まあいい。実験ももう飽きた。ムネモシュネの力が使えるのなら、ヘルモントやホーエンハイムを捕まえて、奴らの記憶からタブレットの情報を奪えばいい。記憶を覗き見れるということは、奴らが嘘をつこうが意味をなさないし騙される心配もない。
そう考えて薄ら笑いを浮かべた瞬間、チカプの記憶にある奇妙な画が頭に映った。
暗い……。真ッ暗だ。音がする。光が見えた。まぶしい。
…………ホーエンハイムだ。まだ若い。
「やあ、こんにちは」
…………。
「君は、どこから来たんだい? 名前は?」
「おっと失敬。私はロバート・ホーエンハイムという者だ」
………………。
「初めまして、チカプ……」
…………。
場所が転じる。どこだ、ここは。
星空? どこかは分からない。素早く星々が過ぎ去っていく。いや、違う。向こうにあった雲がこちらにやって来て、そして背後に去っていく。飛んでいるのは自分……いや、チカプだ。
ん? なんだ?
また真ッ暗だ。さっきとは、なにかが違う。
音も光もない真の暗黒。
なにか分からない。
十六個の光が見えた。なんだあれは。
なにか分からない。だが、とにかく恐ろしい。
自分の記憶でもないのに、嫌な汗が出てきて息も荒くなる。
…………。
まるで気づくことが出来なかった。
完璧なのだ。いっさい非の打ちどころが無いほどに。
信じられない。生成された肉体を維持するために、その体は香星を使って常に高濃度のマナに満ちていなければならない。魂を体に留めておくには、必ず蝶星がいる。これは今までの研究が導き出したホムンクルス生成の絶対条件である。それなのに、こいつにはそのどちらも存在しない。だが、間違いない。こいつの魂に沈殿していた、すでに消えて隠れていた生成のときの記憶がある。あの戦慄を呼び起こす悍ましい記憶は、それより以前の記憶……つまりは前世のものだ。
テュフォンは大きく息をついた。
「ホーエンハイム……奴には脱帽だ。ホムンクルスの素材は生命体でも死体でも、どちらでも構わないが、普通の生物として生きていくことは出来ないはずだ。必ず生命維持や魂の着装のための星がいる。なのに、このガキの体にはそれが無い。痕跡すらない! 私がどれだけ探し! どれだけ求め! どんなことをしても手掛かりすら見つけられなかったのに!」
こいつのように生成する手段を、ホーエンハイムとヘルモントは知っていたのか。
ならば、なぜあの論文に書かれていなかった。その方法をヘルモントにも伝えないためなのか。
いや待て。そもそも、この生成技術は、ヘルモントと共に研究していたときに確立されたものなのか? もし奴が単独で確立したものなら、ヘルモントを捕らえたところで、この技術を奪うことが出来ない。欲しい。いますぐにでも欲しい!
このガキの心の底に、残滓でもいいから手掛かりはないのか。
テュフォンがチカプの心深くを覗き見ようとしたとき、テュフォン‐エキドナは時が止まったように動かなくなる。
「僕はこれからどうやって、こんな体で生きていけばいいんだ!」
「お願い! 生き返って! 僕を見捨てないで!」
「お母さん! お父さん! お母さん! おかああさあん!」
両親が死んだときの画が、なぜか頭に浮かんだ。
なぜ今、こんなものが。
「十四の小僧が、大企業を継ぐなんて非常識にも程がある。冗談じゃない。仕事は飯事じゃないんだぞ。社員の生活が、人生が懸かっているんだ!」
「難しい理屈を抜いて説明するが、十四歳の子供であるヴィクター君が、この権利を受け継ぐ法的資格は無い。ましてや両親の遺言書もないんじゃ議論の余地は当然ない。それでも裁判を起こすのなら別に構わないが、費用は相当高くつくはずだが、君にそれだけの資金と味方になってくれる弁護士はいるのか?」
「寄生虫の子供もまた寄生虫だ。全く、出来損ないの娘は迷惑なものを残してくれたもんだ。一緒に死んでくれれば万々歳だったのに、このクズは遺産と称して私が持つべき利権や財産を盗もうとしている。賊猛々しいとはこのことだ。穢らわしい血は争えなんものなんだな」
両親から受け継ぐはずだった遺産を、ごっそり親戚に奪われたときの記憶。
………………。
ヴィクター・シェリー? ああ、あの根暗な人? あの人ってなんか苦手なのよね。なんて言うか、どう接していいのか分からない。同じ根暗でもネクラーソフさんのほうが一緒にいて楽。だってあの人、趣味が変わってて付き合いづらいだけだから。
ラミア……いや、エリザベス・グローグの声だ。僕のことをそう思っていたのか。
「愛してるよ」
「あたしも」
クレメンティとエリザベスの声。これはエリザベスの記憶なのか。
「子供は何人くらい欲しい?」
「二人か三人」
「じゃあ、男の子がいい? 女の子がいい?」
「どっちも欲しいけど、三人兄弟なら二人は女の子がいい」
「ほう、どうして?」
「だって、一緒にお洒落の話とか出来るでしょ? きっととっても楽しいはず」
「あははは。確かにそうだね。男は母親とお洒落の話なんかしないから」
「でしょー」
そう言えば、この二人……婚約してたっけな。
…………。
僕と向かい合っている。エリザベスの目線か。
僕がなにかを話している。
「クレメンティのことは残念だったね」
「クレメンティはいい奴だったよ」
「僕は君とクレメンティの関係を知らなかったけど、きっと素晴らしい夫婦になれただろうね」
「クレメンティは――」
「クレメンティの――」
「クレメンティに――」
…………。
頭の中でエリザベスの声が響く。
やめて。やめて。やめて。いい加減にして!
なんなのこいつ。何度も何度も何度も何度も、同じようなことを傷を抉るように連呼し続けて。
この男は、そんなにあたしを苦しめたいの? 甚振りたいの? 嬲りたいの?
嫌い、嫌い、嫌い!
……こんな男、大ッ嫌い!
………………。
今度はオルトロスが見えた。人の姿になっている。なるほど、これはラミアのときの……。
「ぼくは パパの おしごとの おてつだいを したいんだ」
「だからね ぼくは パパが ママと どうやって おしごとしてるか みてたんだよ」
「だからね ママ。ぼくと いっしょに パパの おてつだい しよ」
…………。
やめろ、オルトロス。
貴様にそんなことは望んでいない。出来損ないは出来損ないらしく、ただ僕の言うことだけを聞いて従って仕えていればいいんだ。余計なことをするな。
ラミア、ラミア。お前はなぜ、なぜ抵抗しない。
ラミアの心には、なんの感情もない。なにかを思ってもいない。なにかを感じた痕跡すらない。
オルトロスへの恐怖も嫌悪も、親子の情も無いのか。
だから抵抗しないのか。拒絶しないのか。
教えてくれ、ラミア……。
…………。
僕だ。僕が目の前にいる。これはラミアの記憶なのか。
「最初の子供は残念だった。オルトロス……あれはゴミだ。出来損ないの失敗作だったが、まあ初めてのことは失敗することはなんら珍しくない」
ラミア……。
「さあ、二人目を作ろうか。今度こそちゃんとしたホムンクルスを、僕らの子供を作らないと……」
ラミア、やっぱり僕への愛は無かったのか。
ただ、状況に流されていただけで、なにも感じず、なにも思わず、なにも考えずに、ただ受け止めていただけで。
いや! そんなことはない!
ラミアは僕に笑顔を見せてくれた。それは僕への愛情からだ。
僕たちは真剣に愛し合っていたから――。
「ラミア、これから僕と一緒にいるときは、常に笑うんだ。僕と一緒に話をするときも、僕の問い掛けに答えるときも、僕と一緒にいるときは常に、僕が君を見つめたときは必ず、君は笑っていないといけない」
ラミア……。
…………。
あたしは不幸。
――ラミア? 今のはラミアの声だ。
あたしは不幸。こんな奴に好かれてしまったばっかりに。
こんな奴と出会ってしまったばっかりに。
こんな目に遭って、こんな姿になって、考えることも感じることも奪われた。
死にたくても死ねない。自分を殺したいけど殺せない。
誰かあたしを殺して。お願いだから今すぐに。すぐに殺して。
こんな不幸な生きかたしたくない。惨めに醜く生きたくない。
あたしは不幸。あたしは不幸。あたしは不幸。
不幸、不幸、不幸、不幸。
不幸、不幸、不幸、不幸。
不幸、不幸、不幸、不幸。
不幸、不幸、不幸、不幸。
――不幸!
「やめろ……、やめろ……、やめろォオオ!」
文字通り頭を抱えたテュフォンが声を張り上げて、チカプを投げ飛ばすとキマイラが身を挺して受け止めた。すぐに二人がテュフォン‐エキドナに目をやると、エキドナは無表情だがテュフォンの顔は絶望に侵され歪んでいる。雨に打たれたかのように汗を流しながら、息も荒々しく乱れている。
「やめろ! やめるんだ、ムネモシュネ! そんなものを僕に見せて何になるんだ!」
――惨めな人。
頭の中でムネモシュネの声がした。
いま頭に浮かぶ画は、ムネモシュネがバシリスク……つまり、ヴィクターの記憶を覗き終えたときの記憶である。
「ムネモシュネ! 貴様まで僕を裏切るのか!」
――哀れ。
「ムネモシュネ! 聞いているのか!」
――情けない。
「ムネモシュネ! 僕を苦しめてなんになる! 僕が死ねば! 貴様も死ぬんだぞ!」
――本当に恥ずかしい男。
「ママ! もうやめて! ママああ!」
――生理的に耐えられないほど、気持ち悪い。
「うわああああああ!」
テュフォンが身悶える。チカプ達からすれば、突然苦しみ出したようなものだが、テュフォン‐エキドナが纏っていた【闇】のマナが別のマナに転々と属性を変えた。
「よく分からんが、好機だ! 今が正念場だぞ」
ケレブの一声に、キマイラに凭れ掛かっていたチカプが立ち上がる。
いつの間にか目が虚ろになったテュフォンは、ゆらゆらと体を揺らしているのだが、不意に悲鳴のような怒号のような声を張り上げて尻尾を鞭のように振り回した。意識は不明瞭なのか、チカプらを狙って攻めている訳ではなさそうだが、元が巨体なだけ始末が悪い。しかし、いまの奴の体を覆っているのは【闇】のマナではなく、基本のマナであるからチカプ達の攻撃はなんとか届いた。仲間を庇いながらも大蛇の尾を躱しては、隙を見つけて攻撃するのをチカプたちは何度も繰り返す。
テュフォン‐エキドナが纏うマナが赤に変わる【焔】の属性を帯びたのだ。この隙を逃さまいと、三人は【地】のマナでテュフォン‐エキドナの動きを封じる鎖を飛ばし、数多の槍を床から生やして突き刺す。だが、奴が巨体であるために土の槍はへし折られて鎖は引き千切られるのだが、【地】のマナが奴の【焔】を吸い上げることで槍も鎖も修復され補強される。テュフォン‐エキドナは四方八方から鎖に縛られて剣山に突き落とされたような状態になるが、悲鳴こそ上げるテュフォンは状況が理解できないらしく、ただ力任せに槍と鎖を破壊しようと暴れ続ける。
奴のマナが変わる。今度は【風】である。奴を封じていた【地】はその【風】に吸収されたのだが、チカプとキマイラが【焔】のマナを放って攻撃する。さらに奴の属性が転じて【地】なり【水】になる。無秩序に属性を変え続けるテュフォン‐エキドナのマナが【樹】になって、奴の体から藪や茂みのように無数の蔓が湧き出してその姿を覆い隠した。
【樹】は【焔】と【風】に弱い。チカプ達が一斉にマナを放とうとした瞬間、唸っていた奴が悲鳴を上げたのと同時に、奴を覆っていた無数の蔓が一斉に四方八方に迫った。ケルベロスは【地】を【風】に転じて放つことでその蔓を切り刻んで掻き消し、チカプとキマイラの【焔】が、その蔓を焼き払いながら伝わせてテュフォン‐エキドナに襲い掛かった。【樹】のマナは【焔】のマナの燃料になってテュフォン‐エキドナの体そのものが燃え上がる。その【焔】の中でテュフォン‐エキドナの影が、必死に腕や尾を振り回すのが見えるのだが、奴の体……いや、エキドナには強く輝く緑色の光が二つあり、そこから奴に絡みつく蔓は増え続けることで、【焔】の勢いも増していた。その【焔】の奥からテュフォンの声がする。
「エキドナ! ムネモシュネ! やめろ! やめるんだ!」
「僕になにがしたいんだ!」
「エキドナ! ムネモシュネ! ラミア! ムネモシュネ!」
「もうやめろ! 僕を苦しめるな! 僕を虐めるな!」
「エキドナ! ムネモシュネ! ラミア! ママああああ!」
その叫びが、奴の最期の言葉となる。
燃え上がっていた【焔】が弱まっていき、その中には大きな影のような塊が残されていた。チカプたち三人が茫然と黒い塊を見つめていると、柔らかな夜風を受けてそれが朽ちていき、それが呼び水となって大きく砕け落ちて最後には砂塵のような残骸だけになった。
テュフォン‐エキドナこと、ヴィクター・シェリーとエリザベス・グローグは死んだ。奴に取り込まれていたムネモシュネの姿はない。奴の道連れに死んだのか。それとも、ヴィクターの言葉から察するに、あれはエリザベスとムネモシュネの自殺だったのか。いや、奴は暴走したムネモシュネの能力のせいで苦しんでいただけで、自分自身の状況を理解していなかったと考えるほうは自然か。
傷まみれのチカプたちが、それぞれ顔を見合わせた。ヴィクターの死を確認したケルベロスとキマイラが人の姿に変わる。しばらくの沈黙ののち、小さく息をついたキマイラが「帰ろっか」と二人に言った。
ヴィクターがアジトにしていた廃山には医務室もあったので、そこで簡易的な治療を行ったあとに、チカプたちはキミア大学に戻った。そして大学で一睡もせずに彼らの帰りを待っていたヘルモントとホーエンハイムらから治療を受けながら、アジトでの出来事を告げた。
「ケレブが倒した悪者って、どんな感じだったの?」とエディスだ。彼女も寝ずにケレブことケルベロスと、チカプの帰りを待っていた。
「とんでもなくでかい、蛇みたいな化け物だったぞ」とケレブが教える。
「え! それって気持ち悪い!」
「見た目が気持ち悪いなんて言ってられないほど、やばい奴だった」
「もう、そんな奴は現れないよね?」
「ああ。しばらくは大丈夫だろうな」
ここでヘルモントが話し出す。
「ところで、(ヴィクター・)シェリーが持っていたエクリプス・タブレット関連の資料は、今はどうなっているんだ?」
「それなら、ケルベロス……ケレブたちが来るまでに調べたんだけど、あのアジトのどの部屋にも無かったし、ヴィクターのいた部屋にも無かった」と、メリッサことキマイラだ。
「ムネモシュネが持ってた原本は、ヴィクターが死ぬときに一緒に燃えたと思うから、今はエトンが盗んだ予備だけだと思う」と続けた。
短い沈黙のあと「まあ、小難しい話はあとにして、今は休んだほうがいい」とホーエンハイムが言った。
チカプたちが仮眠を済ませてから今後について話し合う。ヴィクターの件を警察や軍部に言わない訳にもいかないので、あとで通報することにして、その前にヴィクターの自宅とガイアの丘にある屋敷にあるかも知れないエクリプス・タブレットの資料を回収について段取りをつけた。
その後のケレブとメリッサについての話になる。
「先に言っておくが、オレとキマイラ……じゃなかった、メリッサはあの異常者から自由になるために戦ったんだ。奴の次に軍部やお巡りに飼われたり、お前らの実験台になるなんて真ッ平御免だ」
「ほう? なんでお前たちが軍部に飼われたり、私たちの実験台になるんだ?」などとヘルモントが惚けた。
「なぜって――」
ケレブとメリッサが周囲のみんなを見ると、ホーエンハイムも惚けて、エディスは小さく笑って、チカプは我関せずと言いたげに両腕を組んで目を瞑った。なるほど、誰も二人がヴィクターによって作られたホムンクルスだと軍部や警察に伝えるつもりはないらしい。
「それと相談なんだが、オレもメリッサも身分を証明するものを持っていない。これからどうやって生きていくかという話に――」
「それなら問題ない」とヘルモントだ。
「昨日、ホーエンハイムとも相談したんだが、君らはヴィクター・シェリーに拉致されて記憶を奪われた被害者だということにする。現に、ホーエンハイムとフラメルさんが実際に拉致されているのだから、警察や軍部も騙せるだろう。それに、ホムンクルスの生命維持や魂の着装に使っている星も、実験台にされた後遺症であり、除去すると命に関わると説明すれば、警察や軍部も黙るだろう。それに、星については核心を突いてはいないが嘘もついていない」と続けて小さく笑った。
さっそく予定通りに動く。ケレブとキマイラは、ヴィクターの自宅とガイアの丘の屋敷を捜索して、エクリプス・タブレットの資料が無いのを確認したあとに、ヘルモントらがヴィクターによる怪物騒動について通報した。それからもトントン拍子に事が運んだ。ヘルモントらが事件の真相を警察に告げなかったこともあり、誰もケレブとメリッサも化け物であるとは考えず、計画通り怪物騒動の被害者として扱われた。体を巡るマナや、体内の星のことも警察には気づかれたのだが、それも錬金術研究の大家であるヘルモントの言葉によって丸く収まる。
そして、二人は偽名として名乗ったケレブ・ウォルフと、メリッサ・フルーリーとして生きていくことになった。テュフォン‐エキドナが消滅して数日たつが、新聞などの報道には今回の怪物事件の真相が載ることはないどころか、警察や軍部も得た情報を世間に流すのは危険と判断して隠蔽される。そのため、せいぜい別件の行方不明者としてヴィクター・シェリーのことが小さく掲載される程度であった。
身寄りのなかったエディスは、ヘルモントがしばらく預かって引き取ってくれる親戚を探すことになり、ケレブとメリッサは、逃亡したエトンと奴が持つエクリプス・タブレットの資料を捜すためにそれぞれ旅に出た。そして、はぐれ村に戻ったチカプとホーエンハイムは、今まで通り二人で自宅に住んでいる。この小さくちっぽけな村に、チカプとホーエンハイムが一緒に帰ってきたときには、「ホーエンハイムが帰ってきた! 英雄チカプのご帰還だ!」とお祭り騒ぎになって、この親子を困惑させた。最初は、ホーエンハイムがどうして攫われたのか、チカプはどうやってホーエンハイムを救い出したのかと、いろいろと質問攻めにあったのだが、二人とも多くを語ることはなく、村長も「ホーエンハイム親子が帰ってきた頃から、怪物騒動の報道が下火になったということは、警察や軍部が公表できないほどの大活躍があったのだろう」と勝手な憶測を言って村人を諌めた。そう言われると反って興味を持つ村人ばかりだったが、きっと事情を知ると軍部や警察に暗殺されるような凄いことがあったんだという噂が起こって、それからは誰も怪物事件の真相を尋ねてくる者はいなくなった。
ホーエンハイムが読んでいた本を机の上に置いた。そばにいるチカプが話しづらそうにしている。テュフォン‐エキドナの戦いのときに見た、自分でも知らない昔の記憶が心に引ッ掛かっているのだろう。
「気になるのか? 生まれ変わる前のことが」と、ホーエンハイムが尋ねる。
「…………」
「ケレブ君から、お前の体のような体に出来ないかと色々と尋ねられてね。バシリスク……ヴィクターだったかな。奴がお前のことをホムンクルスだと言ったとか。ムネモシュネとかいうホムンクルスの力で、覚えていない遠い昔の記憶を見たんだろ?」
「…………」
「……私は、お前が小さい頃からお前を知っている。だが、お前がチカプ・ホーエンハイムになる以前のお前のことは知らない。だから、教えてやれる事はなにもない。もし、お前がお前という存在を知りたいというのなら、私は止めたりしない。それに、お前にはこの村はあまりにも狭すぎる。一度くらいは広い世界に出て、見聞を広めることも大切だ。その結果、こんな田舎を捨てて新たな土地で生きていくのも、まあいいだろう」
「…………」
「だがな、チカプ。これだけは忘れないでくれ。顔を見せろとは言わないが、どこへ行ってもたまには手紙の一つくらいは送るんだぞ」
その言葉に応えるように、チカプは頬笑んだ。




