e7 人でありなしである
ハルは数日、本を手に取ることはなかった。高校生として当たり前の期末考査の勉強をしなければならなかったからだ。そういうことにしていた。あれから更新されたとのメッセージがないのが理由としては大きい。空気を読んだのか、それともナルという人物――ハルとしては人という認識で、こだわりはなかった――が起きるのを待っているのかはわからない。
一夜漬けほどではないが、本に気を取られていたこともあり、それなりに詰め込みが必要だった。幸いにも初日は文系科目のため短期的記憶で済むこともあり問題ではなかった。
教室の空気は浮ついていた。この考査が終わればほどなくして夏休みだからだ。ただ進学を目指す学生がほぼなのだが、まだ焦る空気はないのが現実だった。
「やほ。どんな感じ?」
初日のテストも終わり、午前で終わったのもあり、勉強しに帰るものも、遊ぶ者も様々であっという間にざわついた。
リタが瞼をこすりながら声をかけてくる。充血した目とその下の隈が一夜漬けしたのだと一目瞭然だった。あのリタと被るがまったく理由が違うのだろう。
「まあそれなりに乗り越えたと思うけど」
謙遜なしでハルは答えた。リタはあからさまに恨めしそうに見ているが、恨まれる覚えなどない。
「あーそういうこと。確かに頭よさげだもんね」
見るからに自分と比べて卑下している感じだ。
「手ごたえがどうかはわかんないけどさ、まだ三日あるし、諦めるのも早いだろ」
励ましたつもりだったが、リタはあからさまに肩を落とした。
「そこなのよ、現文と古典、英語はまあなんとかなりそうだけど、後半の化学、物理、数学のラッシュよ? 暗記とかノリでどうにかならないじゃない」
「ノリはどうかと思うけど……」
苦笑いを浮かべていると、影が近寄った。
「リタ、今日バイトあんの? マイと話してたんだけど、何人かでカラオケで勉強しね?」
声をかけたのはコウキだった。リタはコウキに振り向く前に露骨に嫌な顔をしたが振り向いた時には顔は変わっていた。
「え? あーうん。マイちゃん達が行くならいいけど」
マイといえば既に女子連中と固まって人数を決めているようで、リタに手を振った。
「おっけ、決まりな」
コウキはクラスの野球仲間を連れて行くようだ。彼らの顔は勉強するようには見えず、一生懸命に声の調子を整えていた。話がついたようなのでハルは自分の身支度をする。さすがに勉強しに帰るつもりだ。もしくは市立図書館でもいいか、など頭の中で候補地を決めていく。
「ハル、なにやってんだ。一緒に行くぞ」
帰ろうとしたときに声をかけたのは、リタではなくコウキだった。ハルは予想外な展開に立ち止まらざるを得なかった。
「知ってんだぞ、お前成績いいってな。頼りにしてんだぜ」
コウキは腕を回し肩を勢いよく抱いてくる。困惑していると思いのほか男子にも女子にも受け入れられていた。
「まっじ? ハルって頭良かったん?」
「てか、そんな仲良かったの?」
ハルの話題で盛り上がっていた。リタとハルを交互に眺めていたマイは多少不服そうだったが、それは飲み込んだようだ。
「じゃ、リタいこ!」
「え、うん」
リタは少し険しい表情をしていたが、マイに声をかけられるとすぐに笑顔になってハル達は近場のカラオケへと足を運んだ。
「わりいな、嫌だったか?」
カラオケであてがわれた部屋に皆入っていく。最後にコウキがドリンクを手にしてハルに声をかけた。
「いや、ただこういうのあんまりなくて」
ハルは正直に答えた。コウキは屈託なく笑った。
「そかそか、おせっかいかもだけど、こういうのもやっとかねえともったいねえぜ」
その笑顔に偽りはなさそうだった。どこまでもさわやかで面倒見のいい奴だと思った。以前、印象が良くないとリタと会話したこともあったが、その認識を改め、心で謝っておいた。
「とりあえず歌うか!」
部屋に入るなり、準備運動とばかりにカラオケが始まり、勉強道具はテーブルの上に広げたままだった。
歌いながら、歌わない者は勉強に勤しむ。声は聞こえづらいがハルはそれぞれに勉強を教えていた。文系科目は教えようがないため、理数系を中心に回していく。
『ハル頭良すぎでしょ!』
女子の一人が自分の番になったとマイクを持ちながら、ハルを呼び捨てにした。気づけばマイ以外とは距離が近くなっていた。むずがゆい感覚がありながらも、これもありだなと思うようになっていた。
「ねえ、これだけど」
リタの顔が近い。真横に座った彼女からは違った香りがする。嫌いではなく好きな香りだった。それがなんなのかはわからないが居心地がよかった。
「ああ、これはイメージすればわかりやすいよ。どっちから近づいてくるかだから」
ドップラーについてイメージ図を問題に書き込みながら、公式とイメージを当てはめるようにして説明していく。
「なるほど、おっけ!」
それから数度質問に答えていると、コウキがリタを挟んで歌を入力するタブレットを持ち出しハルへと渡した。
「ほら、お前も歌えよ」
半ば押し付けられると、画面を見てしばらく悩んだ。こういったとき何を歌えばいいのか、そもそも歌える曲なんてあるのかも不安だった。今歌っているマイが終わったら次はハルの番だった、助けを求めたわけではないが、リタを見るとコウキとなにやら楽しげに会話していて、叶わず、焦るようにして履歴でなにかないか探す。だいぶ過去、別の客が入れていたであろう曲が目に付いた。あまり万人受けするような曲ではないが、それでも歌えるのはこれだけと考える余裕もなかった。意を決して送信する。大型モニターに次の予約が入る。
「え?」
終わりかけた曲にマイがそのタイトルを見るとハルではなくリタを見ていた。僕はもう一個のマイクを手に取り、順番を待った。
イントロが流れる、知らない人間はいなさそうだったが、この場で歌うにはあまりふさわしくない曲で言いたいことを言う、というような曲だった。そのイントロに気づいたリタは顔上げて、シャープペンシルを置いた。
『お前は人でなしだ、だとしたらなんだというのか。なにもかも置いてきたこの街で――』
リタは黙って聴き入っていた。




