p2 亜種
全てにおいて世界とは残酷なものだった。でも当時の俺はそれに気づくこともなく、それが当然の世界として疑いもなく受け入れていた。亜種と神である人間の歪で押しつけられた世界を。
缶を蹴飛ばした音でふと我に返った。もちろん僕のものではない。土が向きだしになったコンクリートを感慨も何もなく弾き飛んでいく、配給品の缶を見送る。それを追って子ども達が無邪気にはしゃいでいる。裏腹に空を見上げれば曇天が太陽を覆い、水を差そうと、せっかく止ませた雨を再び降らすかどうかを迷っているみたいにはっきりとしない灰色が波を作っていた。
ふと、足下に缶の乾いた音が落ち着いた。それを特になんの感傷もなく見下ろす。コンクリートの灰色から覗く土色を見てこっちのがマシかもなと思う。
「あ、ナルー!! 蹴って!」
子どもの集団が、蹴り返せと急かす。気取った物思いを捨て、右足を後ろに振り上げる。
「見てなよ。特大の飛ばしてやっから!」
その宣言にわくわくと待つ子ども達の表情を笑顔に変えようと、足に力が入る。つま先に当たる軽い衝撃と蹴られた缶の音が周囲に響きわたる。が、それを見送ろうとするが、視界がそのまま天を仰ぎ尻餅をついた。気持ちの良い音の後に、液体が弾ける音とすぐに染み渡る冷たさが相対して気持ち悪い。それどころか頭に何かが乗った。
「あーあ、ドジだなあ、ナルは!」
「ドジっ子、ナル!」
「大丈夫? ナル兄ちゃん」
謂われのない、いや大いにある二つ名を得ると、子ども達は笑顔を振りまきながら頭に乗った缶をぶんどって行った。唯一気遣ってくれた女の子、ラナは心配そうにのぞき込んできた。
「う、うん、ラナは優しいね」
とりあえず染み込んだ水を乾かそうと立ち上がり、太陽を背に浴びる。当然すぐ乾くわけもなく、着替えが必要だった。
「ううん! いつもナル兄ちゃんには遊んでもらってるもん」
嬉しそうにラナは答えると、先ほどまで髪に埋もれていたふさふさの耳がピンと天に向けて張った。ラナにできた影を見れば、その長い尻尾が元気良く揺れているのが分かる。受け身をすることも忘れた右手でその頭を撫でると見るからに嬉しそうにして尻尾の動きは早くなる。
「へへへ……。あ、でも今日はどうしたの? お母さんもお父さんもカイゴーがあるからって言ってたけど、ナル兄ちゃんは行かなくていいの?」
そう言われて撫でる右手を止めた。そうだった。完全に忘れていた。曰く月一の会合にいかねばならない。
「そうだった! ごめん、ありがとう! またね!」
謝罪と感謝を交互に告げ、右手を軽く降って尻に張り付く気持ち悪さを払拭するのを諦め、駆けだした。
「まったねー!」
背後でラナの声が届く。ふと髪を無造作に触る。真っ白な髪が目の前にたぐり寄せられ、確認するように右手を見る。
「ん、大丈夫かな」
右手になにもついていないことを確認すると会合へとひた走った。顔を出した太陽のおかげで多少は乾きそうだと安心した。
――――
「長! どういうことだ! 早すぎるだろ!」
鉄筋コンクリートでできた建物の一室、その怒号は建物に入ったばかりの僕にも容易に届いた。
「落ち着け! ジクラ! 名誉のことだろう!」
部屋に入るなりジクラが今にも長につかみかかるところを他の者に羽交い締めにされている光景に立ち尽くした。ラナとは違い、怒りと焦りで立ち上がった耳の毛が逆立っていた。彼はラナの父親だ。その傍らできゅっと口を噛みしめているのは妻のエナだ。彼女は逆で耳が元気なく倒れ、節目がちだった。
ようやく遅れてきたナルに気づいたのか、長が声をかけた。
「遅かったな、ナルや」
厳しい目つきをしていた長は、その堅さを解く。どうやら怒っているわけではないらしい。むしろこの状況にいい意味で介入したことが良かったようだ。
「ナル……」
続けて皆、自分に気づき、ジクラに至っては冷静さを取り戻したのか、自らの姿を見せたくないのもあったのか、おとなしくエナの横へと腰掛けた。
長であるタルラはこの集落の代表のようなものだ。ただの集落ではなく亜種生活区域、一般にゲットーと呼ばれていたが、その意味はそういった区域のことを指すこととして浸透していた。ここはもっとも東に面することから極東ゲットーと呼ばれている。他にもゲットーはあるようだが、情報は希薄で繋がりも薄かった。
タルラは長命で知られる妖精族だ。少ししわが寄ってはいるが、堅苦しい言葉遣いから、何十年、いや百は越える経験を積んでいることが伺える。特徴はとがった耳と色白の肌だ。髪色も様々ではあるが淡い色が多い。かく言う僕も妖精族の種別に入る。白髪や黄昏を映したような瞳の色は固有のものだが、その淡さと色白は共通していた。
「一体全体どうしたんですか?」
遅れてしまったことで蒸し返すようで悪い気はしたが、空気を変えたことで相殺を願った。
「いい身分だな、無責任の渡り鳥は」
案の定、ちくりと刺された。この会合には各種族の主要なリーダー各が集っており、少なからず僕という個人に対して悪感情を持つものもいる。頭に生えた二本の角持ち、頭角族のリーダー、ドラグに悪びれて見せる。あの尖った角もそうだが、大柄な筋肉の固まりに睨まれては萎縮してしまうものだ。
「やめんか。ナル、以後気をつけなさい」
「はい。申し訳ありません」
タルラが諫めると、深々と頭を下げ、一番端へと席を降ろした。
「では、揃ったところで改めて話を戻そう。昨日、使者様から連絡があった。神迎えについて。次、水日に開催するとのことだ」
神迎えという言葉に、ジクラは拳を握りしめ再び立ち上がるのを我慢していた。我慢できたのは傍らでその手を重ねるエナのおかげでもあるのだろう。だから代わりに聞く必要があった。
「どうして、この時期に? つい先の月に開催したばかりではありませんか? いや、悪いということではなく、喜ばしいことです。ただ単に理由を伺いたく」
顔を列から覗かせナルは質問を投げかけた。ジルラが目だけで感謝を伝えていたようで、力を抜いた。
「ふむ。使者殿曰く、このゲットーにおいては著しく優秀な亜種が多いということ。また近々、大きな祭事がありその準備に手伝いが必要ということなのだ」
「祭事とは?」
前者の理由は本当なら嬉しいことだった。それだけこのゲットーの評価が高いことが伺える。ただ神迎え以上に大きな祭事があることが気になった。
「詳しくは神迎えの時に伝えると」
タルラは淡々と告げた。隠しているわけでもなさそうで表情にも動きは見られなかった。ふと疑いかけたことに内心反省する。そんな気持ちは持ってはいけないと頭を振る。
「どうした?」
「いえ……。とにかく神迎えは確実ということですね」
「ジルラといい、お前も不満そうだな。神迎えにより我ら亜種の中から神仕えという栄誉が得られるのだ。これ以上の喜びがどこにある。俺の息子も立派に旅立っていったというのに、いい大人が情けないと思わないか? いや、お前は大人かどうかもわからんのだったな」
ドラグが心の声をそのまま口に出すように、言葉を選ばない。その正直さは尊敬はするが、時に辛辣だ。
「不満などございませんよ。ただジルラさんも私も、驚いただけでございます。そうでしょう、ジルラさん」
「……ああ。驚いただけだ」
「ね?」
にっこりとドラグに笑顔を浮かべる。
「ふん、なら良い」
納得したようで鼻息を一つ、どっしりとジルラは構え直した。すると焦げ付いた臭いがした気がして、下を向いて列に戻った。もちろん、本当に焦げているわけではない。焦げたのは自分の心のような気がした。