p16 額縁に切り取られた風景
皆が集まり切る頃には汗は冷え切っていた。たぶん寒がっていたのは僕だけだろう。努めて日差しに出て体を温める。さすがにこの場を離れるわけにもいかなかった。それに、イルミナ様との会話がここを離れることを許さなかった。最後によぎったのは、もしかしたらあの子が現れるかもしれないという願望だった。
「みなさん、今日一日、ご苦労様でした。皆の生活に触れられ私も楽しく過ごすことができました」
壇上に立つ物腰柔らかな神の言葉に、皆喜びを噛みしめていた。だが、まだ心の底から喜びきれているわけではない。皆、次なる言葉を待った。
「それでは、今回の神迎えですが、今回は一人だけといたします。皆さんの気持ちは分かりますが、発表は明日の太陽が真上にくる頃に発表いたします。それと大事な大事な発表もありますので、皆さん、必ずお聞きください。それでは」
一瞬、肩すかしを食らったように呆けた集団だったが、すべては明日だとまた気持ちを震わせた。それと別の発表があるということで、皆、ざわざわと互いに話しながら家路へと放れていった。
すっかり冷えた体を引っ張り、僕も家路へと向かった。クインもラナもルルもセラも探すこともなく、空虚さに引かれながら僕は着いたなり二階のベッドに転がりこんだ。気づけば眠ってしまっていた。
窓から吹き込む冷たい風に眼を覚ました。
「開けたまんまだったっけ」
窓からは月明かりも差し込み、周囲を蒼く浮かび上がらせている。僕は体が冷えたこともあり窓を閉めようとベッドを降りて手を掛ける。ふと蒼く照らされる眼下を眺める。ちょうどそこは、あのリタという少女、いや神が降りた場所だ。この丁度上の屋根から飛び降りたと思うとさすがに高くて真似できそうにない。したいわけではないが。
この朧気さがまるでまだそこに彼女がいるのかと錯覚さえする。
「やられすぎだなあ」
どれだけその残滓が焼き付いているのだろう。それほど日常にない刺激的で衝撃的な一日だった。肌に感じる風が冷たさから涼しさに変わっていく。
「なーにが?」
ほら、幻聴さえ聞こえる。
「おーい。浸ってんなよー」
結構、ひどい言い方だ。浸っているからこそ幻聴が聞こえるのに。
「むう。ていっ」
額に軽い痛みが走る。思わず眼を開けると、天地がひっくり返ったのか、逆さまの彼女が窓の外に頭をぶら下げていた。
「う、ふあがわが!?」
意味不明な絶叫と一緒に尻餅をつく。先ほどの痛みは逆さまの彼女がしたり顔で手を伸ばした先、つまり指をはじいて額にぶつけたのだ。
「なに、その反応。ちょっと心外だなあ。よっと」
彼女は窓の縁をつかんでそこを軸にして体を部屋に滑り込ませた。窓から視線を離し、彼女は振り向いた。月明かりに柔らかく照らされた彼女の横顔は、年相応のあどけなさを照らしていた。髪は淡い蒼で包まれ、神秘的だった。
「リタ……?」
彼女の名前以外、口からでるものは無かった。
「やっほ。元気?」
リタはこの状況にも変化はなく、あっけらかんとしていた。それが余計に僕を混乱させる。まだ額がひりひりする。ただその痛みだけが、これが現実だと告げていた。
「なんで……?」
わざわざこんな夜中に来たのだ。散歩していたわけじゃないだろう。
僕はベッドに腰を落ち着かせる。僕が混乱しているのを知ってか知らずか、影で僕を覆い、顔を上げるとまた、目の前にリタの顔があった。ただ今度は驚かないように耐える。右目か左目かを交互に焦点を行き来させながら次のアクションを待つが、こちらをじっと見つめたままで、どこか不満げなのか、頬がむくれているような気がした。思わず視線を落とすと、息が止まった。この時ばかりは暗がりを少し恨んだ。唾を飲み込むのと合わせてリタは曲げた背中を戻した。残った彼女の甘い香りが漂う。
「なんでだろうね」
暗がりだから顔の表情ははっきりとしないが、どこか悲しそうでそれでいて嬉しそうな声の印象だ。その視線はずっと僕に向けられているのだ。
「なんでとは?」
「んーん。なんでもない。で、神迎えはどうだった?」
リタが話題を変えてきたので、多少、気にはなったが、わざわざ話を戻すほどでもない。というか、それでようやく血が廻った。
「なんとか乗り切ったって感じかな。あ、リタは大丈夫だったの?」
そうだ、別れた後、リタが無事に逃げ切ったのかどうか心配だった。僕は僕でぎりぎりだったから忘れてしまっていた。
「あー、全然大丈夫! そう、そのお礼を言いたくて、本当にありがとう」
窓の縁に腰を掛けたリタは、初めは右の親指を上げて、満面の笑みだったが、頭を下げ、程なくして頭を上げた彼女は急におしとやかに見えた。言葉はおかしいがとても神らしかった。あの月光も良い演出家なものだ。
「ん、どったの?」
おしとやかさは颯爽と消え失せ言葉遣いも併せて天真爛漫さを伺わせた。
「……なんでもないよ」
たぶん笑っていたのだろう。怪訝そうな表情を浮かべてリタは僕の顔を凝視していた。
「わざわざお礼のために来たのかい?」
律儀な神様だ。それでいてとても居心地が良かった。なんら僕たちと変わらない接し方に戸惑いながらも、もう受け入れ始めていたのだ。
「ま、そうだね。じゃあ、もういこっかな」
すると、リタは足を窓の外に下ろす。夜風でリタの長い髪の毛が揺らぐ。文字通りの神秘さだ。僕たちのように余計な部分のない、完成された体。本当に神なのだと認識させられた。
「あ、ハンカチ、まだ返せてないんだった」
リタが体を落とそうとしたが、僕の言葉に静止した。
「ん、いいよ。今度で」
流し目で僕を捉え、往復した時に彼女の体は吸い込まれるようにして窓の枠から消えていった。僕は彼女の言葉を反芻しながら、被写体が居なくなって月夜だけになった絵画を見つめていた。




