(2) 6/26 PM5:30
「おい泉ぃ! お前またリズムよれてんじゃねえか。もう本番間近だってのにいつまでへろった音出してんだよ!」
もう何度聞いたか分からない寺谷の怒号が部屋にこだまする。思わずため息が漏れそうになるが、こちらに飛び火をくらいそうなので僕は心の中だけでため息を留めた。
今日も今日とて、泉信はキーボードの前で寺谷の怒鳴り声に、今にも泣きそうな声で身体を振るわせていた。
「す、すみません……」
泉の声はもはや蚊が鳴くよりも小さなものだった。
本番まで約一週間。寺谷はいつにもまして気が立っていた。三年の寺谷は今年で卒業だ。最後の文化祭、そして軽音学部としての大トリ。有終の美を飾る日の為に、寺谷の気合は半端なものではなく、わずかなミスにさえ敏感だった。
――所詮学生のお遊びレベルだってのに。
僕は熱く怒鳴り散らす寺谷を冷ややかな心で眺めていた。最初は寺谷の怒鳴り声にびくついていた僕も、毎日のように聞いているとさすがに慣れて来る。とは言え、その怒鳴り声を直で浴びている泉の心境はそうもいかないだろうが。
「まあまあ、落ち着きなよ和君。そんなに怒鳴ったら泉君も心が乱れて余計ダメになっちゃうかもしれないでしょ」
ベースボーカルの紅一点、圧倒的美人で部のカリスマ的存在でもあり、なぜか寺谷の彼女でもある平瑞枝先輩は言葉ではそう言うものの、そんなもので寺谷が治まるなんてこれっぽっちも思ってないせいで、言葉にいまいち感情が感じられない。彼女は彼女で自分の彼氏にお手上げ状態のようだ。
「時間がねえんだよ。低いレベルに合わせてられねえんだよ。こいつ一人のせいで俺まで大恥かくなんって絶対ごめんだからな!」
「わかった、わかった。泉君、落ち着いて。普段通りに弾いてくれたら何の問題もないんだから」
「はい、すみません……」
しかしその後も寺谷の泉への叱責はとめどなく続いた。
寺谷と泉の関係はこうやってバンドを組む以前からずっとこうだった。
泉のキーボードはけっして下手ではない。いや、むしろレベルは高い。幼少の頃からピアノを習っていた事もあり、音楽的なセンスや技術は申し分ない。だからこそ寺谷は自身の最後のライブに泉を加入させた。
泉の欠点と言えば、良く言えば穏やか、悪く言えば臆病な気の弱い性格だ。寺谷と泉の関係はこの点で水と油ほど相性が悪く、それが結果として音楽にも齟齬が生じてしまうわけだ。
しかし齟齬が生まれながら、あれだけ泉に対して怒りを向けている寺谷もどこかでそれを楽しんでいる面も見られる。王様である自分自身の言葉で震える奴隷を見て楽しんでいるかのようで、怒鳴り散らしながらもその口元にふっとわずかに笑みを浮かべているサディスティックな瞬間を僕は何度も見ている。
そうする事で自分の嗜虐的な部分を満たしているのだ。きっとそれが泉を選んだもう一つの理由だろう。
疲れる。心の底から。
寺谷と同じメンバーでバンドなどしたくなかった。
瑞枝さんという女神がいなければ、こんなバンドすぐにでもやめていただろう。