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ひよっこは美青年を拾ったようです

卒院してからのお話です。ここにきてようやくまひるの相方が登場。

 京の街の一角に小さく構えた店がある。

 店の名は『まろん』。店主の好物が由来だ。白磁の石塀で囲まれた民家の軒先に『陰陽屋まろん』と書かれた看板が立てられている。

 店先にはカランコエの花が咲いていて、朱色の花びらをいっぱいに広げ、春を告げる爽やかな風に揺れていた。柔らかな日差しを一身に受けて気持ち良さそうだ。

 そんなカランコエとは対照的に、重い足取りでふらふらと店へと歩いていく者がいた。

 白い狩衣姿で首から数珠を下げ、黒曜の髪を後頭部でひとつに結って背中に流している。

 もとはしっかりとした上質な仕立ての狩衣だと伺えるが、全身あちこちがすすで汚れ、結った髪はざんばらに乱れ、俯き気味の表情は曇っていた。

 まだ幼さの残る顔つきの少女だったが、まるで生気を吸い取られた死人の様相だ。

 ふらふらと覚束ない足取りでようやく店の前に着くと、門扉を開けて体を傾けるようにして中へ入っていく。


「ただい、ま…………」


 一言呟くと、そのまま床へ倒れこんだ。

 意識を失ったのかと思えば、すぐに寝息が聞こえてきた。


「………ん、おかえり」


 店の中にいた男が、ため息とともに応えた。

 男は慣れた手つきですすだらけの狩衣を脱がせ、少女の身体を抱き上げる。「んぅ」と呻いて抗議の声をあげるが、薄目を開けて男に抱えられているのがわかると、安心したように口元を緩ませて再び目を閉じた。

 腕の中で安心しきって眠る少女を奥の(しとね)へ下ろし、掛布を掛けてやる。

 額についた前髪を払い、髪をほどいて指で軽く梳く。その手つきと、少女を見る眼差しはやさしい。


「あまり無理するなよ」


 といっても聞かないんだろうけど、と胸中で付け足す。


 男の名を、エイドリヒ・ファーレンシュタインという。年は十七、細身の体躯で、短く切った髪と大きな瞳は蜂蜜色をしており柔和な印象だ。

 京の街にはそぐわないその外見の通りエイドリヒは西国の生まれで、この店『まろん』の店主である先ほどの少女、山吹(やまぶき)まひるに拾われた身である。


 エイドリヒは本国フランスから亡命し、東の果てである日本に渡来してきていた。

 追っ手から逃げて森を彷徨い山を越え、逃げに逃げた果てに日本の平安京へと辿り着いた。やっとの思いで京の郊外へ着いたときにはすでに満身創痍、自力で立つのさえ難しい状態だったがせめて空き家で身を隠そうと歩き出したところで力尽きて倒れたのが最後の記憶だ。


 それから、気が付いたら『まろん』の一室で寝かされていた。

 畳と障子、屏風と文机。伽羅の香が炊かれた部屋。エイドリヒの身体には包帯が巻かれ、傷口には薬草が塗られて丁寧に手当てされている。

 目を覚ましたエイドリヒが京の郊外で倒れてからどうやらどこかの屋敷に運ばれたらしいと思案していると、ちょうど盆に湯呑を乗せたまひるが部屋に入ってきた。

 視線が合うと長い黒髪をひとつに結っている少女はにこっと笑った。少し少年っぽさのある、中世的な笑顔だ。

 

「気が付いた?」

「ああ、……ここは、君のうち?」

「そうだよ。覚えてないかもしれないけど、道端で倒れてたのを見つけて、ここまで連れてきた」

「君が?」

「あ、うん、まあそんなところ」


 なぜ言葉を濁すのかわからなかったが、悪意はなさそうだったのでひとまず礼を述べることにした。


「……そうか、ありがとう、助かったよ。僕はエイドリヒ・ファーレンシュタイン。君は?」

「山吹まひる。この店をやっている、陰陽師だよ」

「おんみょうじ? とは、何かな?」

(あやかし)に関する事件や悩み事を解決する手助けをしてる」


 聞きなれない単語に眉をひそめたあと、妖と聞いたエイドリヒの顔が強張った。東の国では、目に見えないものが視える(・・・)者がいるという。

 まひるが盆に乗せていた湯呑をエイドリヒに渡した。白湯かと思ったが何かを煎じてあるようで、仄かな草の香りが鼻腔をかすめる。

 恐る恐る口に含むと思いのほか、苦い。思わず顔をしかめると「薬湯だから苦いけど全部飲んでね」と言われた。


 温かな湯呑を手にひと息つき、改めて黒髪の少女を見る。がんぜない少女の黒目がちの瞳。やたらと袖の広い衣を着て、玉を連ねた首飾りをしている。確かこれは数珠といったはずだ。

 数珠と思い至ったところで、思い出した。


 かつて聞きかじったことがある。東国の陰陽師というのは、異形(いぎょう)討伐者だと。

 異形というのは、妖、化け物、物の怪、化生、心霊、様々な呼び方があれど、所謂(いわゆる)人外のものを指す。

 すると陰陽師だと名乗るこの少女は常人には見えない異形が視え、それを討伐しているということか。


「まひるは、妖が視えるの?」

「私は、小さい頃からずっと視えてる。もともと鬼見(おにみ)の才はあったんだ」


 開いた手の平を上に向け、「おいで」と言って何かを招くようにぐっと閉じる。それからもう一度手の平を開く。まひるの仕草に首を傾げるエイドリヒ。


「ここに、妖がいる」


 そう言って示す手のひらには、何も見えない。いくら目を凝らしても影も形も見当たらない。

 エイドリヒが困惑していると、まひるは手のひらに乗っているのであろう何かに「もういいよ」と言って息を吹きかけた。


「エイドリヒは常人なんだね……」


 言葉を止めたまひるは思案するように視線を落とし何かを言おうと口を開くが、首を振って口を閉ざした。


 ――今は、まだ、そのときではない。

 まひるは胸の中で呟く。


 そんな様子を見たエイドリヒもまた口を閉ざした。

 異形討伐者だというこの少女。手当てしてくれたことには感謝するが、長居はできない。やはり、少女には自分には視えない何か異形のものが見えているらしい。

 何をもって異形とするのかはわからないが、エイドリヒは自分がひとであることに自信がない。


 自分の素性が知られる前に、ここを出なければ。この少女が自分を異形だと認める前に。


 エイドリヒが苦みを引く薬湯を一気に飲み干すと、湯呑を盆に乗せたまひるが立ち上がった。その拍子に、ひとつに結っていた少女の髪がほどけてはらりと背中に広がった。白地の衣に真っ黒な髪が広がる。


 エイドリヒは、息を飲んだ。

 凛とした立ち姿を見て、ただ、美しいと思った。絵画の様な美しさに心を打たれた。


 さらりと真っ直ぐに伸びる髪はその意志を表すよう。そして黒曜のように力強く輝く瞳。白い首筋が、なぜだかとても妖艶に思えた。自分より年下だろうと思われる少女を相手に、胸を射られたように動けなくなる。

 とくんと跳ねた心臓を悟られないように努めて息を吐くと、まひるは思案顔で指を顎に当てたまま問いかけた。


「ねえ、エイドリヒ。エイドリヒ・ファーレンシュタインってちょっと言いにくい。レンって呼んでいい?」

「え、そこで略すの? ……普通エイとかファルとかってならない?」


 思いがけない方向に話が飛んだのと、かつてない呼び名に戸惑うエイドリヒ。それを意に介したふうもないまひるの感覚はちょっとずれているのかもしれない。


「レンじゃだめなの?」

「いや、かまわないけど」


 唇を尖らせる少女から拗ねたように言われては、認める他ない。エイドリヒ改めレンは苦笑しながら頷いた。

 黙って立つ姿を美しいと思った直後に少女の可愛らしさを覗かせる。変に心臓が跳ねるのをレンは感じていた。そんな自分がなんだか可笑しかったが、異形討伐者である少女に気を許すまいと顔を引き締めた。


「じゃあ、レン。しばらくは、この家にいるといいよ」

「あー、そのことなんだけど……、僕は今すぐにここを出るよ。手当てしてくれて本当にありがとう」


 まひるのもとを去るのは早い方がいいだろう。追っ手がどこまでせまっているのわからないし、長く留まればそのぶん自分の素性を知られる危険が高まる。

 すぐに出ると言い出したレンを心配そうに見つめるまひる。


「傷が治ってから出たほうがいい、そんなに急がなくても、うちは大丈夫だから気にしないでゆっくり休んで」

「お気遣い本当にありがとう。でも、そうもできない事情があるんだ。ごめんね」


 言い終わらないうちに(しとね)から出たレンはそばに置かれていた自分の荷物をまとめた。

 骨折した腕と背中の傷が痛むが、歩けなくはない。

 行き倒れるほどの満身創痍だった身体がここまで回復している。まひるの手当が良かったのと、自分の血のおかげだろうと思った。

 血のせいで本国から逃げてきたのに、血のおかげで助かるとは、皮肉なものだ。全く忌々しい。


 レンが荷物を背負い、(ふすま)に手を掛けた。

 指先がが襖に触れたその瞬間、パチンと電気が走る音がして、襖から青白い炎が燃え上がった。突如として燃え上がった炎の勢いに弾かれ、レンは一歩後ずさった。

 見たこともない現象に驚いて佇むレンに、まひるは静かに問いかける。


「……これは、人外を通さない結界です。あなたが、紛れもなくひとであったなら何事もなく結界を通り抜けられたもの。私がレンを連れてきてから三日です。手当はしたけれど、レンの傷は三日で歩けるようになる状態ではなかった。異常な速さで傷が塞がっていく。初めはあなたのことを妖かと思ったけど、妖が視えない妖なんていない。――あなた、一体何ものですか?」


 鋭い視線がレンの心臓を射抜く。

 視線の圧力に、瞬く間に額に玉の汗が浮かぶ。先ほどまでの柔らかな雰囲気から一変して少女は凄絶な気を纏い、一歩でも動けば身を裂かれるのではないかという錯覚すら覚えた。

 これが、異形討伐者の気迫か。


 ――自分の素性を、本当のことを言えば、きっと僕はこの少女に殺される。


 そんな恐怖がレンの心を染めていく。


 妖を呼び寄せたり、人外を通さぬ結界を張ったり、(うつつ)とは信じ難い不思議な力を使う陰陽師。きっと他にも奇怪な現象を起こせるに違いない。得体の知れない恐怖が足元からじわじわと這い上がってくる。


 そこで、ふと気が付いた。

 得体の知れない恐怖だなんて。

 僕だって、僕自身のことを得体が知れないと思っているのに。


 ――少なくとも、十五を数えるまでは普通の子どもだった。あるとき、最初の血を飲むまでは。








************************








 あのときの僕は、身体の変化に気づいていなかった。

 ただやたらと喉が渇いたから水を飲んで、それでも渇きは変わらなくて、どうしようもなくいらいらしていた。

 そんなとき、飼っていた犬が吠えた。セントバーナードという大型犬だ。穏やかな性格で利口なやつだった。

 庭先で昼寝をしていたかと思ったのに来客が来ればいつの間にか門から玄関までを尻尾を振り振りしっかりエスコート。なかなかできるやつだ。

 エスコートし終わった後のドヤ顔がたまに憎らしい。


 そんなできる犬・我が家のエスコート犬は、普段あまり吼えないやつだったのに、その日はなぜか僕に向かってやたらと吼えた。

 今思えばあいつが一番最初に僕の異変に気づいていたんだろう。


 いくら水を飲んでもちっとも渇きが収まらない僕は犬の鳴き声に怒りを募らせた。異様な吼え方に最初は犬の方を心配もしたけど、渇きのせいですぐに怒りへと変わった。


 ――うるさい黙れ。


 そう思ったら、僕の右手が犬の心臓を引っ張り出していた。


 びくんびくんと波打つ心臓を片手に、僕はとても高揚していたのを覚えている。

 血の滴る温かな心臓を至極美味しそうだと思ったら、もう我慢できなかった。無我夢中で血を啜っていたよ。

 我に返ったときには、もちろん犬は死んでいたし、僕は全身血まみれだった。


 そのことが家族にばれたあとは、それはもう悲惨の一言に尽きる。


 真っ赤に染まった庭で佇む僕を見た母は絶叫して失神、それに気づいた父は警察やら救急やらを呼び、騒ぎを嗅ぎつけた兄弟たちと近所のひとたちであたりは騒然。一気に騒ぎは広がって、僕は異常者扱い。家族の誰も僕を庇うことなく孤立無援。

 

 それで僕は家を追われ、学校にも行けなくなって、街を出て、国を出た。単身ひとり旅なんて気軽なものではもちろんなくて、命からがらの逃亡だ。

 国境を越えても僕を残虐殺人犯として追ってくるやつらがいた。殺されそうになったから、殺したやつもいる。僕は生きるのに必死だった。

 殺さなければ自分が殺される状況で、迷うことはなかった。

 

 あまりに理不尽だ。

 誰が望んでこんな体になるものか。心臓から血を啜るなんて悪魔みたいな真似を、どうして。

 血を啜る度に耳が尖り、牙が伸びた。自分の身体が自分のものでなくなっていく恐怖は凄まじい。


 誰かたすけて。


 日ごと変わっていく自分の姿をどうしたら止められる。

 涙で頬を濡らしながら知らない夜の街を歩けば容赦なく拳銃を向けられ、人気(ひとけ)のない森に逃げれば腹を空かせた熊や狼がいる。安らげる場所なんてどこにもなく、眠れずに身を震わせる夜をいくつも数えた。


 どうしてこうなった。


 頭の中をぐるぐると回る答えのない問いを何度も反駁する。


 逃げてる間に喉が渇けば動物の心臓を取って血を飲んだ。僕が逃げた跡には心臓を抜かれた動物の死骸ができるんだ。鼠や兎の死骸が点々と続く。だから、それを目印にして逃げても逃げても追っ手は絶えない。


 でも、疲れ果てて倒れた僕を拾って匿ってくれたひともいたんだ。

 そう、今のまひるみたいに。


 その一家には本当に申し訳なく思ってる。僕を介抱して寝床まで用意してくれて。僕が泣きながら血と乾きのことを話すと、うちの家畜の血を飲めばいいと言ってくれた。

 フランスの家を出てから初めての、僕の理解者だった。


 そこでの暮らしは一月あまりで終わったよ。僕が終わらせてしまった。

 家畜の血だけでは足りなくて、渇きがまた僕を暴走させた。気が付けば一家皆殺しさ。とても気のいい夫婦だったし、生まれたばかりの赤子もいたのに。


 そうしてまた僕は追っ手から逃げて、各地を転々と放浪して、血を求めている。

 渇きに怯え、それでも生きるためにその手を血で染めていた。


「――まるで、御伽話の吸血鬼みたいだろう?」


 話を終えたレンが自嘲した。自分は、自分こそが得体の知れない化け物だと。

 まひるはレンの耳に触れた。確かにひとより少し尖っている。そしてそがどうしたとばかりに大げさにため息を吐いた。まひるの黒い瞳がレンの蜂蜜色の瞳を覗き込む。


「吸血鬼みたい、じゃなくて、もう吸血鬼なんじゃないの?」


 痛みをこらえるような顔で話し終えたレンの頭を、まひるの投げた直球がスパンと直撃。目を瞬かせて床に崩れたレンをまひるは腰に手を当てて見下ろす。


「喉が渇いて血を飲むって、それもう吸血鬼でしょう。完全に」

「え、でも僕は普通の子どもとして生まれたんだよ。ドイツにはちゃんと両親や兄弟もいるんだ。犬を殺すまでは普通に食事して満足していたし」

「生まれも育ちも関係ない。あなたは吸血鬼。以上!」

「ええぇぇぇっ!?」


 結構重い過去を語ったのに。あなたは吸血鬼ですのひとことで片づけられて、ちょっぴり切なさを感じるレン。

 一方まひるは腰に手を当てたままさらに胸を張り、涙目のレンを見下ろす。


「行き倒れてるところを見かけたときから何か事情持ちだろうとは思ったけど、なんてことはない。ただの自覚のない吸血鬼ってだけじゃない」

「え、やめて、これ以上僕の心をえぐらないで……。僕は自分が吸血鬼だなんて思いたくない……」

「何甘えたこと言ってるの。あなたは紛れもなく吸血鬼。血を吸って渇きがなくなるならそれこそ本物の吸血鬼。ちゃんとした吸血鬼。どう見ても吸血鬼」

「そんなに吸血鬼吸血鬼って連呼しないでよぉ……」


 容赦のない言葉にレンは涙を流す。年下の少女に泣かされる青年。レンは目鼻立ちが整っているぶん、よけいに泣き顔に哀愁が漂う。


「喉が渇いたら、私の血を飲んでいいよ」

「え」

「レンは私が守る。追っ手のひとたちからも隠れられるようにレンを隠す術をかけよう」


 まひるは笑顔だ。

 何も心配することはないという強さを湛えた笑み。


 吸血鬼を怖いとは思わないのだろうか。ここまで逃げてきた経緯を話したのに、レンに対する態度に微塵も恐怖を感じさせない。

 それどころか、僕のこと守るっておっしゃいましたか今。


「君は異形討伐者だから、僕のことが怖くないの?」

「あはははは、なあに異形討伐者って。陰陽師のこと?」

「一体僕をどうするつもり? 油断させておいてあとで異形の餌にでもするつもりかい?」

「まさか! 私はあなたを助けたいだけ。……レンはたぶん自分で気づいていないだろうけど、そんな体で外を出歩く方が妖たちの餌になっちゃうよ」


 レンの危惧を軽く笑い飛ばすと、まひるは解けていた髪をさっと結い直した。


「ちなみに今は? 喉、渇いてるの?」

「あ、いや、たぶん二・三日は飲まなくても平気……」

「そう、じゃあそれまでは傷を治すのに専念してね。レンはやっぱりこの家から出ちゃだめ」


 レンの荷物を手に取って、まひるは部屋を出て行ってしまう。

 ひとり残されたレンは、なんだか少々強引なまひるに呆気に取られた。

 

 以前レンを介抱し匿ってくれた心優しい一家の夫婦でさえ、吸血鬼だと明かしたときは瞠目し慄いた。それがこの少女の場合は慄くどころか笑い飛ばしたうえで守るとまで言い出した。


 実の家族にさえ捨てられ、残虐殺人犯だと何度も処刑されかけたレンは正直ひとを信じられなくなっている。

 素直に受け取れば嬉しい限りの申し出も、これは罠だと心が警鐘を鳴らす。

 だが、それなのになぜ自分は正直に答えているのだろう。

 少女を美しいと思ったときに跳ねた心が無防備に受け取ろうとしているのか。もう一度誰かのやさしさを、少女のやさしさを信じたいと思ってしまっているのか。


 「レンは吸血鬼」とぶった切ったまひるの言葉に悪意はなく、むしろそう断じられたことでつかえていたものが落ちた気もする。

 自分はまだひとであろうというなけなしの願望は見事に砕かれたが、日ごろ異形を相手にする陰陽師から「レンは吸血鬼」というお墨付きを貰ったと思えば心晴れるといえば晴れる、気がする。


 なんとか思考を上向かせるレンだったが、それは一瞬のことでやはりどうしても上手くいかない。瞼を閉じて浮かんでくるのは、自分を匿ってくれたあの一家の惨殺された姿だ。

 我に返ったときに気がついた、真っ赤に染まった壁や床、生暖い血に塗れた自分の手、鉄くさい匂い、さっきまで赤子が泣き叫んでいたのにしんと静まり返った部屋。

 自分がやったことだと理解すると同時に衝動に駆られて理性を失った恐怖と大切な居場所を失くした寂寥感がごちゃ混ぜになり、深い自責の念に捕らわれた。


 まひるの言うままにここにいてはいずれまた同じことを繰り返してしまう。

 渇きに狂った吸血鬼が少女の心臓を喰らうのだけは避けたかった。渇くまではあと二・三日しかない。そのあとそれだけ理性を保てるかはわからない。

 あの少女を手にかけてしまうのは嫌だ。


 やはり、できるだけ早くここから去ろう。


 レンは、部屋を出ようと再び襖に手をかける。

 すると、パチンッと青白い炎の結界がレンを外に出さないよう拒む。そのあと何度試しても結果は変わらなかった。弱まる気配さえなくレンが触れる度に青白い炎が燃え上がる。

 どうやらまひるの言う通り、部屋にいるしかないようだ。


「参ったな……」









************************








 それからレンの部屋に朝餉と夕餉を欠かさず運び、傷の手当てもしていくまひる。おとなしく静養していることもありレンは順調に回復していった。

 この数日、レンは今までになく穏やかな気持ちでいられた。自分が吸血鬼だと知ってからも、まひるは変わることなく優しい。和やらかな笑顔でレンを見る。忘れかけていた、ひとからの優しい眼差し。

 追っ手から隠れる効果もあるというこの結界の中に居れば安心して眠ることができた。一体どれくらいぶりだろうと思われる安寧にレンは心も休め、その傍らで微笑む少女と過ごす時間は確かに幸せだった。

 寝ているよりも起きている時間が長くなったレンに、まひるは書物を与えた。様々な妖のことについて記されたそれをレンは興味深そうに眺めた。


 だがそれと同時に、レンは少しずつ渇きを覚えていった。

 奥に沈めていた焦りと恐怖が、沸騰するようにふつふつと沸いてくる。渇きを凌いで一日を過ごすたびに、いつまた正気を失うのかと焦燥に駆られる。

 このままではまひるを手にかけてしまう。ここまで自分の世話をしてくれた少女を、みすみす殺したくはない。なんとしても、まひるの傍を離れないと。自分にできるのはそれだけだ。

 飢えに震える手を握りしめて、レンは、夜を待った。


 月が昇り、砂をこぼしたように数多の星が煌めく。まひるはもう、眠っただろうか。

 息を潜めて部屋の外の様子を伺うも、人の気配はない。

 あらかじめ用意しておいた文を、枕の上に置いた。



――我が身こそ 朧月夜の彼岸花 月に届かじ 灰になりけむ



 叶わぬ願いは空に放とう。燦々と輝く星になれ。爛れた胸は灰に、枯れぬ涙とともに大地に還れ。


 深く、息を吐く。


 もう、限界だ。


 レンは、襖へと手を伸ばした。まひるの青白い炎の結界は未だ張られている。

 しかし、怪我の治った今なら。


 指先が結界に触れると、青白い炎が部屋の周囲を囲んだ。その業火は部屋の出入り口のみならず、床や天井までも覆い尽くしている。異形だけを通さないその結界は明らかに当初より強固なものになっていた。

 どうやらまひるはいつの間にかご丁寧にもレンの体力の回復に合わせて結界を強化していたらしい。先を越されたかと(ほぞ)を噛むも、ここで引き返しては意味がない。

 意を決して結界の業火に燃える襖へ手を伸ばす。

 青白い炎がレンの指先から手、肘、肩を焼いていく。

 腕を丸ごと青白い炎に呑まれながら、レンは音をたてないようにゆっくりと襖を開けていく。空いた隙間に体を滑り込ませて、全身を焼かれながら部屋の外に出た。


「――っ…………」


 「人外を通さない結界」から出られた安堵と、身を焼かれた痛みと、愛しい少女のもとを離れる痛みに、レンの顔が歪む。

 このままここにいては、すぐにまひるに見つかるだろう。レンは家を飛び出し、夜の京を駆け抜けていく。

 風が、レンの頬を切る。郊外から森へ入り、とにかく走った。できる限り、まひるから遠いところへ。血に飢えて正気でいられなくなる前に、もっと。

 涙が、止まらなかった。このまま自分は灰になるんだと思うとどうしようもなくあとからあとから涙が溢れてくる。


 生きたい。


 でも、もうひとを殺めるのは嫌だ。ましてや、自分が愛しいと思う少女を手にかけるなんてことは絶対にしたくない。

 だからそうなる前に終わろう。


 しばらく闇雲に走ると、鋭く切り立った崖に辿り着いた。ごつごつとした岩肌が月に照らされている。下を覗けば、遥か下方に木々が見えた。ここから落ちればまず助からないだろう。

 レンは意を決したように懐から取り出した短剣を逆手に持つ。


 このまま心臓を一突きしよう。

 短剣を持つ手が震えた。全速力で走ったせいか、死ぬことへの恐怖か。どちらでも構わない、どうせ朽ちる身だ。

 月明りが短剣の先を照らし、きらりと光る。

 レンの(まなじり)から雫が零れ頬を伝う。


 さようなら、まひる。


 レンが腕を伸ばして勢いをつけた短剣の切っ先が、自らの心臓目がけて突き刺さろうとした、瞬間。


急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!!」


 青白い鎖が、幾重にも重なってレンの身体を拘束した。

 腕に絡みついた鎖に締め上げられ、短剣を取りこぼす。固い岩肌に落ちた切っ先がきんと澄んだ音を立てた。

 首を捻って声のするほうを見れば、白い狩衣姿のまひるがいた。その瞳は神通力で青白く光り、どこか神々しささえあった。


「馬鹿者」


 吐き捨てるようにまひるが言う。


「夜中に結界を抜け出すからそろそろ渇いたのかと思えば、こんなところで自害する気?」


 まひるの瞳は怒りを帯びている。

 片手に持った呪符に口づけると、それをレンに向かって放つ。

 レンに巻き付いていた鎖が、硝子が割れるように砕けた。足元に散らばったその欠片をひとつ拾うと、そのままレンの目の前に翳す。


「レン。もう一度言う。私の血を、飲んでいい」

「………………嫌だ」

「どうして? 渇いているんでしょう?」

「一度飲んだら、途中で止められない。まひるが死ぬまで血を飲んでしまうから……。まひるを、死なせてしまうから……、だから……」

「だから、


――我が身こそ 朧月夜の彼岸花 月に届かじ 灰になりけむ


 と、こんなへたっぴな歌を詠んだのかな?」


 にやりと嗤うまひるの手には、レンがしたためた恋文があった。


「!?」

「まあ、素敵な恋文をありがとう。おかげで私も心おきなくレンに血をあげられる」


 レンにとって一世一代の恋文だったのだが、それを本人の前で読み上げるとは、まひるはなかなかの悪女と言える。

 しかしその顔は、どこか嬉しそうだ。

 

「さあ、遠慮はいらない。私の血を飲みなさい」


 唇の端が、月の形に吊り上がる。まひるは手にしていた硝子の欠片を、首筋に当てた。そのままつうと肌の上を滑らせると、首筋に赤い血玉が浮かぶ。その首筋を見せつけるように、狩衣の首元を緩めた。

 月明りに照らされて浮かぶ血玉が妖しく光り、魅せられたようにレンの視線が釘付けになる。

 だめだ、とどこかで警鐘が鳴る。けれどそれはどこか遠い。

 目の前に据えられた、ずっと渇望していたもの。


「あ…………」

「んっ…………」


 砂漠の放浪者がオアシスを見つけたときのように、震える手をその首に伸ばした。温かく、甘い香り。

 唇を寄せるとまひるの身体がぴくりと跳ねた。レンは安心させるように抱きしめて、舌先で血玉を舐める。口の中が甘い痺れで満たされた。

 再び浮かんだ血玉を舐め取ると、甘く広がる痺れにも似た感覚。

 ずっと欲しかった。手に触れることさえ躊躇われた少女が、今、腕のなかにいる。その少女の血を舐めている自分がいる。

 身体中が、歓喜に震えた。

 沸騰しそうなほど熱い。心臓がどくどくと早鐘を打ち、頭の中が真っ白になって身体の中が熱で溶けてしまいそうだ。


 この幸福の他に何もいらない。一番欲しかった血が、ここにある。


 一心に舌を出して血を舐め取るが、少しずつ浮き出てくる血玉に焦らされているようで、欠乏感が募っていく。

 浮き出た血玉を舐めるだけでは物足りない。もっと欲しい。もっと飲まなければ、この渇きを満たせない。

 焦燥感にも似た欠乏感から、レンはただ吸血鬼の本能のままに、まひるに牙を突き立てた。

 ぷつりと皮膚を裂く音のあとに、血を啜る音が響く。


 月夜に浮かんだふたつの影が、ひとつに重なって倒れていった。


 獣が血肉を貪るようにレンはまひるの首に喰らいつく。脈動に合わせて流れ出るまひるの血を、一滴も零すまいと舌と唇をがむしゃらに這わせるレン。

 じゅるりと啜る音がやけに響いた。


 首筋に顔を埋めていたレンが、煩わしいとばかりにまひるの狩衣の襟口を剥ぐと、乳房のふくらみが白く覗いた。頬を染めるまひるが胸を隠そうと腕をおろすと、邪魔だと言ってまひるの手首を取って地面に縫うように抑えてしまう。晒された首筋からは血が止めどなく溢れている。

 恥ずかしさから悶えるように身を捩ると、袴の裾がめくれて太ももが露わになった。月明りの下で白磁の肌が晒される。


 再び舌を這わせるレンの息遣いが荒い。

 口の端からまひるの血を零すレンの目は、獰猛な獣のそれだった。腕に力を込めても振りほどけずに、両手は地面に縫われたままだ。身を捩れば捩るほど狩衣が乱れて解けていく。


 血を嚥下するレンに組み敷かれたまま、まひるは月を見上げた。まるでまひるの内心の焦りを映すように陰りを見せる朧月だ。

 レンは獰猛な獣となってただひたすらに、空腹を満たすために食事をしている。まひるはすでにかなりの出血をしているように感じられた。

 しかしレンの食事はまだ終わらない。一体どれだけの血を飲まれるだろうか。自分の腕を見れば、もともと白い肌が血の気を失ってもはや紙のように白くなってきている。


 首筋を這う舌の感触に、背中から恐怖が這い上がった。


 ――このままでは、完全に喰われる。


「あっ…………、んぅ…………」


 急激に力が抜けていくのを感じたまひるは、左手で刀印を組むと手首だけを動かしてレンの胸に叩きつけた。


「きゅ、急急如律令きゅうきゅうにょりつりょうッ!!」

「――ッ!?」


 青白い閃光が走った。

 それと同時にレンの身体を、青白い電流が襲う。

 次の瞬間、そこにはぴくぴくと震えながら、全身に若干の焦げ目をつけたレンが倒れていた。まひるの電撃は思いのほか効果が強かったらしい。


「あ、ごめん手加減間違った……、だ、大丈夫…………?」


 恐る恐る聞くと、白目を剥いているレンから返事がない。


「やば……」


 まひるは慌てて式を呼び出し、レンを『まろん』へ運ばせた。










************************











 気が付くと、レンは再び見覚えのある部屋に寝かされていた。


「知ってる天井だ……」

「何言ってるの?」


 レンが目を覚ますと、隣にはまひるが座っていた。


「具合はどう?」

「あー……、うん、誰かの電撃がいい感じに入ったからすこぶる調子がいい」

「それは本当にごめんなさい。でも、これでわかったでしょう?」


 まひるは、笑顔でレンの目を覗いてくる。


「私の血を飲めばいいって言った意味」

「かなり激烈だけどね。確かに、まひる相手に吸血してもまひるは死なないね」

「私は陰陽師だから。ちょっとやそっとじゃやられないよ。だから、レンがいくら理性を失っても私が止めてあげる。激烈な電撃で」

「ははっ、それは勘弁してほしいな」

「あ、笑った!」

「え?」

「やっぱりね。笑うと可愛いねレンは」


 思いがけないまひるの言葉に赤面するレン。

 そんなレンを見て、満足そうに笑うまひる。


「ね、この恋文、すごく嬉しかったよ」


 手には、レンが書いたあの置手紙がある。

 まひるはその手を、レンに差し出した。

 レンは目を見開いて、差し出された手を見つめる。

 にっこりと笑うまひるの目は、優しい。

 おずおずと、自分の手をまひるの手に重ねた。

 頬を染めて花が咲いたように笑うまひる。その笑顔を見て、レンもまた同じように笑った。


「一緒に暮らそうよ。もう、あんな悲しいことしないで」


 もう、自分には帰る場所ができるなんてありえないと思っていた。だからこそ、命を断とうとも思った。


 でも、居場所ができた。

 他の誰を傷つけることなく、愛しい少女とともに生きる。

 レンを絶望の淵から救ったのは、この笑顔だ。


「……うん、僕で良ければ。まひる……、本当に、ありがとう……」


 ぐすっと鼻を啜ると、

 

「まあ、しばらくは嫌でも一緒に暮らさなきゃいけないけどね! 何せレンは穢れすぎ! 今まで殺めた命の数だけちゃんと禊をしないと、祟られちゃうよ!」

「うん? けがれ? みそぎ?? たたたられれ???」

「私がしっかりお祓いをするから、それまでレンは外出禁止! わかった?」

「??」


 それから、穢れだの禊だののあれこれを説明したまひるは、レンの禊の為に、各神社の清水を汲んできたり、必要な呪符を用意したり、浄化の炎をわけてもらったり、日夜奔走しているのだ。

 今までレンが殺めた命は数百を超える。よく今まで祟られずにこられたというくらい穢れていた。おそらくは、吸血鬼の血が祟りを遠ざけたのだろうと思われた。

 けれど、穢れは穢れ。禊をして、晴れた気持ちで共に太陽の下を歩きたい。

 レンの禊は、まひるの願いでもある。






 『まろん』に帰ってきた途端に倒れるほど頑張るまひるを心配すると同時に、レンはとても愛しく思う。

 すやすやと眠るまひるの頬をつつくと、むにゃんと顔をしかめた。


 僕のためにやってくれているのはわかるけど、あまり無理はしないでね。僕の心配も少しは汲んでくれると助かる。


 レンは、そんな想いを込めてまひるの額に口づける。

 今度はむにゃんと幸せそうに頬を緩めるまひる。

 レンはくすりと笑みを零した。


 愛しい少女に出会えたことに感謝します。

 僕が吸血鬼になることがまひると出会うためだったのなら、僕は何度でも吸血鬼になる。


 レンは、まひるが目を覚ましたらすぐに朝餉にできるよう、支度を始めた。

 頑張っているまひるに、まひるの好物の栗きんとんも作ってやろう。

 きっと喜ぶから。

 まひるの笑顔は、レンを生かす奇跡の笑顔だ。

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