結果発表は、じじいの手の中に
霧の少女を無事に救出し藤宮を安達邸へ送り届けたあと、呼びかけても起きないまひるを担いだ八剣は陰陽寮のまひるの自室にいた。
狩衣はすでにぼろ切れと化し、至る所が破けて肌が露出している。血や泥で汚れたまひるをそのまま寝かせておくのは忍びない。仕方なく八剣は、朱雀を呼ぶことにした。
「朱雀、来てくれ」
すると一瞬のうちに、八剣とまひる以外に誰もいなかった部屋に、赤い髪をした美女が現れた。
燃えるように波打つ赤い髪と褐色の肌、たわわに実る大きな胸。申し訳程度に身体に巻かれた布から伸びる長い手足。そして、尖った耳と金色に燃える瞳。長身の八剣の横に並ぶと、同じくらいの背丈だ。
人外ではあるが、化生でもない。彼女は、八剣十櫂の式神・朱雀鳳凰、神の眷属だ。
「どうした、十櫂。……ん、なんだその娘は。堕ちかけか?」
男らしい口調の朱雀が向けた視線の先には、昏倒しているまひるの姿。確かに、全身を覆う穢れや
ぼろ切れの衣を見ると、悪霊か物の怪に堕ちかけている者のように見える。
「いや、違う。晴明の案件でちょっとばかり力を使いすぎた。しばらく寝込んでいるだろうから、世話してやってくれないか」
「晴明の? こりゃまた手酷い仕打ちだな! 年端もいかない娘がこんなに果てるまで一体何をさせられたっていうんだ?」
「とある姫に掛けられた呪詛を解きに。……晴明は、<対風穴>をまひるに持たせていた。全く、まひるを可愛がっているのかいないのかわからんな」
「ほお、<対風穴>と言えば、十櫂と晴明が<百日悪夢>のときに使った浄化の光を生んだあの呪符だろう? またたいそうなものをくれてやったのだな。一歩間違えればこの娘、命を落としていたかもしれんぞ」
全く朱雀の言う通りだった。使い方を間違えればまひる自身もあの風穴に飲み込まれていたかもしれない、とても強力で、危険な呪符だ。
まひるが大髑髏と対峙しているとき、八剣は何度ももう止めろと声をあげようとした。けれどもその度に、強く拳を握って堪えた。まひるも、そして藤宮も、ただひたむきに信じていたからだ。この戦いで、少女を救出し、大髑髏を調伏し、まろも救い出すことを。
瘴気の雨に打たれながら懸命に戦うまひるの姿に、心を打たれた。
そして八剣は、必ず陰陽師になるというまひるの覚悟を聞いていた。ここで自分が止めてしまえば、その覚悟を踏みにじることになる。あの戦いのとき八剣もまた、耐えていたのだ。
それに、まひるには八剣を信じさせる力があった。下手を踏んで「このひよこが」と詰る場面もあったが、それ以上にまひるは陰陽師として十分によく働いていた。まひるならできると思わせる力があった。
「相変わらず十櫂も苦労性だな。晴明に振り回されて、諸々の事後処理はいつも十櫂の役目だ」
労る視線を向けてくる朱雀に肩をすくめる八剣。
朱雀はまひるの傍らに座り込むと、やおら鼻先を近づけてくんくんと嗅ぎだした。
「して、この娘の名はまひると言ったか。なんだか晴明と同じ匂いがするぞ。苦労性の苦労はまたしばらく絶えそうにないな! あっはっはっは!」
「やめてくれ…………、実は俺もまひるを見てそう思ったことがあるんだ…………」
何やら楽しそうに笑う朱雀とげんなりする八剣。
旧知の友のように話すそんな二人の間を、一枚の白い人形の紙が踊り出てきた。
「来たか、晴明」
白い人形は慣れた手つきでパチンと音を立てて煙になると、そこから子狸が現れた。
子狸は後ろ足で立ち上がると、小さな手を腰に当てて胸を張った。
「十櫂よ、ご苦労であった。そこにおるのは朱雀か、久しいの」
「ああ、晴明も変わらず剽軽爺をしているようではないか。あまり人使いが荒いと事後処理班から苦情がくるぞ」
「誰が事後処理班だ」
ほっほっほっほ、あっはっはっはと笑う晴明と朱雀を不機嫌そうに見る八剣。
今回の件では、晴明は八剣に本当の意味で監視をさせたかったのだろう。事あるごとにこうして式を飛ばしてくる晴明だ。どうやらかなりまひるのことを目にかけているようである。
晴明が最も信頼する陰陽師が八剣十櫂だ。陰陽院のいち教え子の卒院に関してわざわざ十櫂を呼んだ時点でまひるへの期待度はかなり高い。
可愛いまひるが危険な橋を渡るから見ていてくれと素直に頼まない男であるのはよくわかっている八剣だ。それでも今回ばかりは幾度か肝を冷やしたが。
「さて、十櫂よ、まひるはどうじゃった?」
どうだったも何も、ほとんど一部始終を白い人形の式を通して見聞きしていた晴明だ。事のあらましは今更話すまでもない。聞いているのは八剣から見たまひる自身のことである。
「……まあ、晴明が気にかける理由は分かった。しかし、まだまだひよこだな」
「ほっほっほ、厳しい男よの。まあ良い、こうして無事に帰ってきたのだから」
三人の話し声にも全く起きることなく眠り続けるまひるを見る晴明の目は、やさしさに満ちていた。
朱雀がまひるの額に張り付いた髪を指で触ると、血が渇いて固まっていた。
「さあ、そろそろ男どもは出ていってくれ。かわいいかわいいまひる姫をいつまでも汚れたまま寝かせておくのは可哀想だ。身体を拭いて清めてやろう」
「よろしく頼む」
「うむ、では失敬するかの」
八剣と晴明が部屋を出て行くと、朱雀は固く絞った布でまひるの身体を拭いてやりながら呟いた。
「この娘、化生に惹かれる運命を持っている…………さて、吉と出るか凶と出るか。晴明も十櫂も、なかなかに面白い子を見つけてきたものだ」
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翌日、丸一日中爆睡してようやく目を覚ましたまひるを待ち受けていたのは、満面の笑みを浮かべる陰陽院の統括である陰陽頭・安倍晴明だった。
「無事に藤宮姫を救うことができたようだの。何より何より」
歴史を感じさせる深い皺の刻まれた好々爺顔でしきりに頷く陰陽頭・安倍晴明を前に、まひるは内心ひやひやしていた。
晴明に初めて会ったときに感じた、あの胡散臭い笑顔が目の前にあるからだ。
隠してる。絶対何か隠してる。
そう疑うことはあっても、隠している何かを見抜くことはできない。まひるにはその術がない。
結果としては確かに藤宮を守ることはできたし、大髑髏に喰われた少女を救うこともできた。
しかしそれはまひるだけの力ではなく藤宮や八剣、ひいてはまろや一ツ鬼がいなくては成しえなかったことだ。
陰陽院にいる先達博士たちの足元にも及ばないまひるだが、地道な星読みも苦手な作暦も精一杯努力してきた。
院に入って実践経験も積み、そろそろ卒院試験の声がかかる頃だと思っていた。
合格か、否か。
その境界線を、越えたい。
緊張と不安で胸が早鐘を打つ。
まひるは、自分の心臓がのどにせりあがっているのではないかというほど、どくんどくんと脈打つ鼓動を感じていた。
沈黙がやけに長い。
厳かに、陰陽頭は告げた。
「邪念にとりこまれた者を、式を使って救出したという点はすばらしく、賞賛に値する。よって、これよりまひるを陰陽院卒業一級陰陽師と認可する」
はっと顔をあげるまひる。
しかし陰陽頭はにやりと笑った。
――嫌な予感がする。
「と、いいたいところだが、依頼人の式に頼った上に調伏できたのは藤宮姫の助力によるところが大きい。挙句、途中術者をみすみす逃したと聞く。これはどうしても見過ごすことはできんな」
ごくりと唾の飲み込むまひるを見ながら陰陽頭は十分すぎるほど間を取って、
「留年決定」
朗らかに言い渡した陰陽頭の声は、まひるの胸にむなしく響いた。
いやあのでも本当に私精一杯やったんですけど、と言いたかったまひるだが、涙目で拳を握りしめて堪えた。
陰陽院で学ぶ者にとって陰陽頭の言葉は絶対だ。
稀代の陰陽師である安倍清明は、まひるが最も尊敬する人。
きっと百万語の言葉を飲み込んでいるであろうまひるを見た八剣は、晴明の意図をうかがい知ることができた。
晴明は、まひるの徳を気に入っているのだろう。
雑鬼に好かれるところや、他人の式と呼吸を合わせることができるという徳。
今回の一件、本来ならば、<対風穴>という呪符は<対斎>が行うべきものだった。
たとえば、<百日悪夢>で浄化の光を放った、安倍晴明と八剣十櫂のような。
陰と陽を担う二人がいてこそ、陰陽師の真価を発揮できる陰陽術が、あの浄化の光である。
まひるが行った、「開」「口」の呪符<対風穴>による陰陽術は、<対斎>であればもっと容易かったはずだ。それを、まひるは、自身ひとりと、他者の式でやってのけた。おそらく、陰陽頭の術がなくとも術を行使したあとすぐに神通力の枯渇により失神していただろう。
結果を見ても、その経過を見ても、八剣からすれば十分にまひるは及第点だ。
しかし晴明は好々爺然とした相貌のまま、ほほっっと笑顔で告げる。
「落第者には追って課題を知らせる。自室で待機するように」
心が灰になっていくのを感じながら、まひるは硬直した。
やがて、落胆したまま機械的に一礼して部屋を出て行く。
そんなまひるを八剣が追いかけ、肩にぽんと手を乗せた。
「まあ、そう気を落とすことはない。晴明はまひるのこと結構気にかけてるみたいだから」
八剣を顧みたまひるの目は胡散臭いと如実に物語っていた。
「まひるの慧眼は俺が賞賛してやる」
まひるは、とくんっと胸が鳴ったのを感じた。
え、これって褒められてる?
陰陽頭に落第を言い渡され、奈落を味わった後のやさしい言葉。
じいんと染みるものがある。
赤面、してはないだろうかと頬に手を当てる。
「あまり、気にするな」
晴明はすべて知っていて今回の案件をまひるに任せたのだ。もしかしたら、まひるを卒院させる気がないのかもしれない。
わざと無理難題をやらせて、かわいいまひるを自分の手元においておきたいだけかもしれない。
まひるに力をつけさせるためだと主張しそうだが、とにかくあの自由人である狸のことだ、私利私欲を満たすためならどんな理由だって並べ立てることを八剣は知っている。
しかし、それをまひるに教えてやるほど優しくはない八剣だ。
むしろこれは晴明への単なるやつあたりに等しい。
「お前、変なのに愛されてるな」
頭に「?」が浮かぶ。
まひるは自分へ想いを寄せるひとに、心当たりがないのだ。
「変なの……? 八剣さん、私のこと愛してるんですか?」
「人をなんだと思ってる」
変なのと聞いて思い浮かぶのが俺か。大髑髏を調伏して倒れたまひるを陰陽寮まで運んでやったのは俺なのに。
前言撤回、断固否定したい気持ちでいっぱいの八剣だった。
気を取り直すようにして、まひるは大きく息を吸い込んだ。
「次の課題は何だろうな。その前に、藤宮様とまろにもう一度会っておきたいな」
まひるには、心に誓ったものがある。
陰陽頭、私はいつか父に、胸を張って言いたい。
私も陰陽師になりました、と。
そのために、まだまだ修行して力をつけ、学ばなければならないことがたくさんある。
いつまでもくじけていられない。
障子を開けると、空は快晴、心地よい風が吹きぬけていった。