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決着

「藤宮様、少し手を貸してください」


 まひるの言葉に肩眉を上げた八剣は、はらはら落ちつかない一ツ鬼を抱き上げて安心しろとばかりに頭をぽんぽんと軽く叩いた。そして、さりげなく袖口から取り出した匂い袋の口を開け、中身を風に撒く。


「どうすればいいの?」


 まろが大髑髏に完全に飲み込まれてしまうまで、時間の猶予はなかった。

 急いで懐に入れておいた呪符を取り出す。陰陽頭からもらった、一対の呪符。

 大髑髏の奔流に負けないよう踏ん張りながら問う藤宮に、まひるは「開」と書いた呪符を持たせると、自身は「口」と書いたもう一枚を片手にして印を組んだ。


 これから行うのは、まひるにとって、初めて行使する陰陽術。けれど、失敗は許されない。失敗すれば、もうこの世では生きていられない。

 もう誰も、死なせない。

 まひるの瞳が決意に強く煌く。


「そのままそこに立っていてください。あとは、動かないで」


 呪符を握り締めてごくりと嚥下する藤宮は、微かに花の香りが鼻腔をかすめたのに気がついた。

 人を落ち着かせる香り。

 八剣のほうを見やると、無言でうなずいた。大丈夫だ、という意味だ。

 風に乗って香ってくるそれを、目を閉じて胸いっぱいに吸い込む。


 大丈夫、私はまひるを信じる。


 瘴気の吹き荒れる中で、まひるから受け取った呪符を離さぬようぎゅっと握りしめた。


 まひるは自分の神通力を集約させて弓矢を具現化させ、その先に「口」の呪符を貼り付けた。

 地響きのような大音声で咆哮をあげる大髑髏は裂帛の凍気を放つ。無数に散らばった極小の刃がまひるに襲い掛かる。

 それを右手で組んだ印を振って払い落とすが、すべてを払えずにいくつかがまひるの頬や腕をかすめた。

 浅くかすめた頬に、一列に並んだ小さな血玉が浮かぶ。


 人の頭ほどの大きさのいくつもの丸い凍気を展開した大髑髏は、その球体を時間差をつけてまひるへ飛ばす。

 上から落下してくる球体を横に飛んで避ければ、避けた先を狙ってまた球体が飛んでくる。前後左右から向かってくる球体を、しかしまひるは舞を踊るように躱していく。

 そのうちのひとつが、まひるの足の間をすり抜けた。背後に注意を向けた瞬間、前方からふたつの球体が同時にまひるを襲う。


 一つは上体を傾けて避けられたが、もう片方は避けきれないと判断して狩衣の袖に当てた。

 じゅううと、狩衣が焼きただれる。球体が纏う瘴気に焼かれたのだ。

 次いで、三つの球体がまひるに接近する。左右の球体は、まひるが後方に飛ぶことで互いを衝突させた。前方から飛んできた球体は、印を飛ばして軌道を反らす。


 まひるとしては、鞠投げの要領で投げ返したいところだが、触れれば瘴気にあてられてしまうので、避けるか相殺させるかしかできない。

 仮に触れられたとしても、まずは大髑髏から少女を引っ張り出さないと碌に反撃もできなかった。

 大髑髏への衝撃は、そのまま少女にも伝わってしまうからだ。


 大髑髏からの攻撃を華麗に避けていたまひるだったが、後方に飛んで瘴気の球体を避けて着地したところを、別の球体が飛んできた拍子に体制を崩してまともにくらってしまう。

 右足が、瘴気で焼け爛れた。痛みに顔が歪む。


 その顔に、ぽたりと雫が落ちてきた。薄く黒ずんだ雨だった。

 

 空に目をやれば、瘴気でできた暗雲から雨が降ってきている。大髑髏から放たれる瘴気が雲となり、それが雨となって周囲に降り注いでいた。

 瘴気の雨に打たれた木々が、穢れによって枯れていく。あるいは道端で逃げ遅れた鼠が瘴気の雨に濡れ、その身を腐らせていく。

 生あるものから命を奪う死の雨。

 瞬く間に空を覆う暗雲はやがて雷を呼び、あたりは荒れ狂う嵐となった。

 吹き荒れる雷雨にあまねく命が削り取られていく。


 まひるが藤宮に視線をやると、目が合った。

 安達家の一の姫は、死の雨が降る中でも逃げることなく、まひるを見ている。瘴気の雨で全身を濡らしながらも、手にはしっかりとまひるから渡された呪符が握られていた。

 雷鳴が轟き、瘴気が吹き荒れ、一転した街並みを前にしても、逃げ出すことなく強い瞳でまひるを見ている。


 一の姫として大切に育てられてきた藤宮が今まで見たこともない恐ろしい光景を前に、怯えもせず立っていることは、どれだけの胆力のいることだろう。

 藤宮は、自分が我儘を言ったことをわかっている。本来なら、屋敷で大人しく待っていれば良かったのだ。人を何日も苦しるような呪詛を扱う術者に自ら近づくなど、自殺行為にも等しい。

 霧の少女の悲しみがどんなものか無碍にできないと言ったのは嘘ではないが、自分が調伏の場にいることがまひるたちにとって足枷になることもわかっていた。


 だから、逃げることなんてできない。

 これは私の我儘だ。

 たとえ死の雨に晒されようと、まひるから渡されたこの呪符を持って、ここにいる。

 まひるは、動かないでと言った。

 だから私は、ここにいるんだ。


 藤宮は真剣な面持ちで事態を見守っている。緊張からくる震える指で、必死に呪符を握りしめて。


 死の雨粒が横殴りに叩きつけてくる。大髑髏から吐き出されるどす黒い瘴気が、ぶわりと広がって更に暗雲を濃くしていた。激しさを増す雨は、もはや墨汁のように黒い。

 もともと白かったまひるの狩衣が、真っ黒に染め上げられていく。


 これ以上瘴気の雨に晒されては、呪いに侵されている藤宮の身体が危険だ。立っているのさえ辛いはずなのに、藤宮は一歩もそこを動こうとしない。


 黒い雫を滴らせながら、まひるは五枚の呪符を構えた。自身と大髑髏を取り囲むように投擲する。


五行五角結界陣ごぎょうごかくけっかいじん!!」


 本来結界とは悪いものを閉じ込めるものだ。まひるはそれを、大髑髏とまひる自身へと施した。

 これで瘴気の雨は集中的にこの結界内へ降り注ぐことになる。藤宮への負担は軽くなるはずだ。


 結界の効力でもはや豪雨となった死の雨の中、改めて大髑髏に目を向けると、低く呪詛が聞こえてきた。雑鬼たちの、音なき歌にも似た、呪いの言葉。大気を震わす戦慄が響く。


 突如現れた二振りの邪念の刃がまひるを襲う!


 完全にまひるの死角に出現したそれは、凄まじい速さで強襲し、まひる目がけて飛翔してくる。


 穢れた右足を庇いながらふらふらと大髑髏の攻撃を避けるまひるの表情に、それでも焦りの色はない。

 業を煮やした大髑髏は、犬歯を噛みしめてぐるるるると唸った。

 鋭く尖った牙を剥きだしにして、ぐごおおおお、と咆哮を上げると、今度は周囲に鋭利に尖った三角錐の氷柱が出現した。

 こんな芸当は、普通の妖ができることではない。明らかに、ひとの手によるもの、術者の力である。

 まひるの心臓目がけて繰り出された氷柱は一直線に突き進む。まひるが横に飛んで躱すと、氷柱はその軌道を変えてまひるを追尾した。


「っ!!」


 思わぬ攻撃に一瞬焦りが出るが、すぐに立て直す。氷柱の軌道は見切れないほど早くない、冷静に避ければ問題がなかった。


 ただし、氷柱がひとつなら。


 まひるを追尾した氷柱を避けたところで、二本目の氷柱がまひるを狙う!

 一本目の氷柱を避けた瞬間、目の前に二本目の氷柱が迫っていた。首を捻って躱すも、耳が瘴気に触れた。


 穢れの痛みがまひるを襲う。

 じくじくと膿むような痛み。


 だけど、こんな痛みはたいしたことない。大切な人が目の前で死んでいく痛みに比べれば。


 三本目の氷柱が、まひるを背後から襲う!

 その気配に、とっさに身をよじるが、間に合わない。

 じゅっ、っと、肉が焼ける音とともにまひるの腕に深々と氷柱が刺さる。


 雷鳴と同時に、雷が落ちた。


 轟音が結界を揺さぶる。


「まひる!!」


 悲痛な叫びとともに藤宮が駆け寄ろうとするのを、八剣が制した。


「なぜ!! まひるを助けないと!!」

「動くな。まひるは、そう言っただろう?」


 視線で藤宮が持たされた呪符を指す。その意味に気づいて、はっとした。


 ――そうだ、私は動いてはいけない……。

 まひるが傷ついていくのを、ここで見ていなければけない……。


 藤宮の口から血が滲んだ。何もできない口惜しさともどかしさに、唇を強く噛んだ。藤宮の頬を黒い雨が伝う。


「大丈夫です、藤宮様。だから、なにがあっても絶対にそこから動かないでください」


 まひるがキッと目に力を込めて大髑髏を睨む。

 そして胸中で呟く。


 ――もう少しだ。あと、よっつ…………。


「こんな程度の攻撃じゃ、私は倒れませんよ?」


 大髑髏を挑発するように指をくいっと曲げるまひる。

 

「ごるぉおおおおおおおおっ!!」


 怒気を孕んだ咆哮が、辺りの空気を振動させる。ビリビリと震える大気の中、まひるは口元をにっと釣り上げた。


 さあ、おいで。


 まひるは大髑髏を誘うように舞う。

 袖を翻し稲光を背負い、水が流れる滑らかさで舞うのその姿は、厳かで、どこか神々しささえ感じられた。瘴気の闇に堕ちた京の、この一角だけは、清廉な雰囲気に包まれる。

 

 ぴんと伸ばしたまひるの人差し指と中指には、藤宮に持たせた呪符の対となる「口」の呪符を張り付けた矢があった。

 邪気を退ける舞に怒りを露わにした大髑髏が、まひるを喰いちぎらんとばかりに突進してくる。

 溢れた瘴気が、道端の草木を枯らせてゆく。大髑髏が通ったあとは、まるで死神の通ったあとのようだ。あまねく命あるものを刈り取っていった。

 怒号とともに近づく大髑髏を見据えながら、まひるはなおも舞を続ける。


 腕に刺さったままの氷柱から、穢れが広がっていた。殺意の込められた瘴気の氷柱。そんなものにいつまでも腕を貫かれていては、やがてまひる自身の命さえ危うい。


 時間は刻一刻と迫ってくる。舞を続けるまひるの額には玉の汗が浮かんだ。氷柱から広がる穢れが、腕から肩、首にまで広がってきている。


 それでもまひるは、ある場所へと誘うように懸命に舞い続けた。

 瘴気の雨に晒され、全身が膿んだように熱い。穢れた身体は動かすたびに悲鳴をあげる。

 穢れはじりじりと身体を蝕み、すでにまひるの頬にまで広がっていた。

 それまで舞いながら大髑髏の攻撃を躱していたまひるだったが、飛んできた氷柱を避けようと左へ飛んだとき、痛んだ右足が降り続く雨でぬかるんだ地面に取られ、そのまま地面に倒れこんだ。

 そのまま勢いよく泥沼に突っ込む。


「ああぁっ!」


 激しい稲光とともに、大きな落雷が大木を焼く。

 焦げた臭いが鼻をついた。


 ――あとみっつ……。


 俯せに倒れたまひるを容赦なく氷柱が襲う。大髑髏の眼窩が機を得たとばかりに光った。

 鋭く尖った氷柱が、黒く染まった狩衣ごとまひるの腹を貫く。


「ぅがぁっ!?」


 意識が飛ぶ程の激痛が走った。

 貫かれた横腹から、どくどくと血が流れだし、瞬く間に血溜まりを作る。急速に、全身が脱力感に襲われる。腕に力を込めても、指先がぴくりと微かに動くだけだった。

 だが、まひるは安堵した。


 まだ、動ける。


 雷鳴が轟く中で、満身創痍のまひるを見た大髑髏がにたりと嗤った。

 近くで、また雷が落ちた。


 ――あとふたつ……。


 全身を打ち付ける瘴気の雨は、まひるの命を削っていた。長く雨に打たれたことで、臓器までもが穢れに浸食されている。

 倒れたときに口の中に入り込んだ泥水を吐き出す力さえ残っていなかった。

 それでも呼吸をしようとすれば、血の塊が邪魔をして喉に詰まり、息が止まる。あまりの苦しさに涙が滲んだ。血の塊を無理矢理吐き出せば、大量の吐血。

 まひるの顔は失血しすぎて、すでに紙のように白い。


 気づけば、大髑髏の放った氷柱が喉元に押し当てられていた。


 最期のときを待っているように、大髑髏は眼窩をまひるへ向けている。


<……私の邪魔をしなければよかったのに>


 それは、霧の少女の声であり、大髑髏から発せられた声。


<丁度、明日で完成するところなの。陰陽師のあなたならもう見当はついているのかしら?>


 大髑髏の中でくつくつと嗤う少女。

 朦朧とする意識の中、まひるは身体を動かすこともできないほど衰弱していた。しかし、その目は未だ光を失っていない。


五五日呪(いつかしゅ)。五十五日で完成するおまじない。>


 やはり、と思った。時折飛びそうになる意識をなんとか堪えながら、少女の言葉に耳を傾ける。


 五五日呪とは、五十五の妖と五十五日の時をかけて行う呪術だ。それで術者の願いを叶えるという。「いつかいつか願いは叶う」そう唱え続けることで、願いは呪詛となり(のろ)いの言葉となる。

 

 犬歯をかたかたと鳴らす大髑髏から吐き出された瘴気は狼煙のように絶え間なく空へ上り、暗雲を作り続けている。

 再び、稲光とともに落雷が襲う。


 ――あと、ひとつ……。


<ねえ、さっき大髑髏が飲み込んだ小鳥の妖は、あなたの式? あの子目敏くてしつこくて参ったわ。せっかく私が準備した仕上げの呪符を咥えて逃げたから、よく叱ってやった(・・・・・・・・)のよ>


 ああ、だからまろはあんなに傷ついていたのか。身体中の羽を毟られて、翼を折られて。お前がやったのか。

 まひるの瞳に剣呑な色が宿る。


<痛めつけてる途中で上手く逃げられてしまったと思ったのだけど、戻ってきたから驚いたわ。意外にお馬鹿なのかしらね?>


 きっとまろは、大髑髏の居場所を見つけて、そこで例の呪符も見つけたのだろう。それを知らせるために、一度安達の屋敷に戻った。

 そして大髑髏と少女の呪詛の完成を少しでも遅らせようと、足止めするために再び大髑髏のもとへ戻ったのではないだろうか。敵わないと知りつつも、少しでも藤宮に掛けられた呪詛を完成させないために。傷つくのを覚悟していたに違いない。

 そして、まろがひとりで足止めしているところを一ツ鬼が見つけ、まひるたちに知らせたのだ。


 そんな献身的なまろを、どうしてお前が馬鹿だと笑う。今なお、まろは藤宮のために命をかけているというのに。


 ――早く、早く来い。


 まひるは墨汁の雨を降らせる曇天を睨んだ。


<あなたも、あの小鳥の妖も、私の邪魔をするからいけないのよ。邪魔をしなければ、無駄に死ぬことはなかったのに。かわいそうだけど、さようなら――>


 直後、くぐもった少女の声が、特大の雷鳴に掻き消された。同時に、大地を割るような雷が落ちる


 まひるが、嗤った。


「――急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!!」


 高らかに、歌うように。

 その真言は、放たれた。


 青白い神通力が、まひるの全身を走る!


 同時に、大髑髏を青い五芒星の光が煌々と包み込む。


「ぐごぉががぁぁああああっ!!」


 くぐもった雄叫びをあげて大髑髏が苦悶した。

 光の中から抜けだろうと暴れまわるが、五芒星の結界に捕らわれて、その動きを封じられている。

 まひるが執拗に舞っていたのは、五芒星の結界を敷くためだ。はひるが飛ばした五枚の呪符をそれぞれ落雷で焼くことで、より強固な結界となり、大髑髏を術者の力ごと封じることができる。

 そして、その結界の中心に誘い込むために大髑髏を挑発し、穢れも厭わずに舞い続けたのだ。


 まひると、大髑髏と、藤宮。

 三者は、今、一直線に並んでいる。


 しかも大髑髏がいるのは、五芒星の結界を挟んだまひると藤宮のちょうど真ん中。


 まひるの全身を包む青白い光は、まひるを貫いていた氷柱を爆砕し、腹の傷を修復していた。痛みの引いた身体を起こしたまひるは、神通力の弓を構える。


 身動きのできない大髑髏に、ぴたりと狙いを定めた。

 左手に挟んだ呪符矢を、右手に具現化した弓でゆっくりと引き絞る。 


「――言霊って知っていますか?」


 静かに語りだしたまひるの瞳が青く澄んで、神気を帯びた気流がふわりと渦を巻く。

 大髑髏はかたかたと奥歯を鳴らすばかりで答えない。

 まひるの黒髪が、さあっと風に流れた。


「妖に喰われてまで望むことはない。『いつかいつか』なんて誰もが願うことです」


 構えた弓の切っ先が、大髑髏の中心を捕らえた。粘りつくような瘴気の塊が、ぼたりと地面に落ちて染みを作る。それは、大髑髏の涙だろうか。


「『いつか』叶うのなら、そう思うのは自然なこと」


 まひるは弓を構えたまま、ゆっくりと言葉を続ける。


「ただ、貴女は間違った力で望みを手に入れようとしている」


 大髑髏から、骨の軋む音がした。

 まひるの神通力がさらに高潮していく。小さな波紋からさざ波、さざ波から大波、大波から津波へと、そのうねりを大きくしてゆく。青白い光の海原がまひるを中心に揺蕩(たゆた)う。


 自分が持ちうるすべての力を、この一矢に込める!


「貴女をそこに留めることはできない。貴女は、そこにいるべきではない!!」


 言葉と同時に矢を放つ! 


 呪符矢は吹き荒れる嵐の中でも力強く真っ直ぐ飛んでいき、大髑髏の眉間に命中した。

 呪符矢は大髑髏の分厚い障壁に確かに食い込み、しかし、寸前のところで少女に届かない。大髑髏の中にいる霧の少女が、大髑髏から引き出されるのを拒んでいるのだ。


「はあああああああああああっ!!」


 まひるは裂帛の気合とともにさらに神通力を叩きこみ、呪符矢をねじこむ。ぐいと食い込む呪符矢。


 あと少し。もう少し。


 青白い光の奔流とともにじりじりと大髑髏の頭蓋骨へ食い込んでいく呪符矢。

 呪符矢の切っ先が、あと紙の厚さほどで、少女に触れようかとした、そのとき。


 惜しくも呪符矢の動きが止まった。


 少女が大髑髏の中から、呪符矢を押し返している。

 まひるは神通力を込めたまま、唇を噛んだ。口の端から血が流れる。


(りん)(とう)(びょう)(しゃ)(かい)(ちん)(れつ)(ざい)(ぜん)!!」


 まひるの身体が、神通力の青い電流を纏う。

 あまりの圧力に塞がったばかりの傷口が開き、再び全身から血が流れだす。しかしそんなことを厭うこともなく、まひるは自身を巡る神通力を、口の端を流れる血で描いた印呪に乗せて呪符矢に込めた。穢れた身体で受けるには度がすぎるほどの神通力に、全身の血が沸騰するかと錯覚しそうになる。

 世界が、白く染まった。


「――私は絶対に倒れたりしない!」


 霞む視界の中で、一縷の望みを叫ぶ。



「受け取れ、まろ!!」



 まひるが叫ぶと、












 ちゅん











 応えが、あった。

 そして、呪符矢が大髑髏の中へ引きこまれていく。


 瘴気の塊である大髑髏に呑まれるも、まろはもともと妖である。しかも、(しき)(くだ)った妖だ。

 瘴気の中でも息絶えることなく、まひるの呪符矢を受ける機会を身を潜めて待っていたのだ。

 少女がまひるの呪符矢を押し返すことに注意を向ける、その瞬間まで。


 まろによって引き込まれた呪符矢の切っ先が、少女に触れた。


 大髑髏に張り付いた呪符からは黒い霧が溢れ出し、藤宮が握り締めている呪符のほうへ流れていった。

 大髑髏自身が風穴となって、怒号を轟かせながら穴に吸い込まれていく。

 風穴と藤宮の持つ呪符との間に、一筋の黒い死の道が出来上がっていた。


「namaḥ samantabuddhāna-ṃ gaṃ gaganavaralakṣaṇe gaganasamesarvatrodgatabhiḥ sārasambhave jvala namo 'moghānāṃ svāhā!」


 黒い塵芥が、風穴に向かって流れていった。大髑髏が砂のように崩れ、風穴へと吸い込まれていく。大髑髏から放たれていた瘴気も、街を覆っていた暗雲も、すべてを風穴は飲み込んでいく。


 これが、安倍晴明からまひるへ手渡されていた一対の呪符、<対風穴(ついのかざあな)>の効力だ。


 塵芥と化した大髑髏の残骸が、すべて風穴に吸い込まれて消滅したあと、黒い霧が晴れたところから白袴の少女が出てきた。

 気を失っているようで、力なくそのまま地面に倒れこむ。


 風穴を閉じ、まひるが神通力を収めると、視界が蒼い光に包まれ、眩しさに目を覆う。

 その暖かな光のなかで、小さく、すすり泣く声がした。


 声が……ひとり……ふたり……?


 肩で息をするまひるが泣き声の在り処を探っていると、ふいに強烈な睡魔に襲われた。

 極端に神通力を消耗したせいだろうか。

 今眠ってはだめだ、まだ終わっていない、そう思うのに、体の疲労感が募って全身が鉛のように重い。

 意識が飛びそうになるのを必死で堪える。すると、視界の隅に手のひらほどの白い人型の紙を見つけた。

 ひらひらと踊るように舞うそれが、ぱちんと手を叩く。

 あの白い人形(ひとがた)はなんだろう――、と思考を巡らせるが、重いまぶたを堪えきれず、まひるは地面に倒れこんだ。


 そしてそのまま意識を手放したまひるは眠り込んでしまった。


 淡い青が仄かに光る中で八剣が目を開けると、ふたりの少女がうつむき、身を寄せて肩を震わせ泣いていた。


「どうして邪魔をするの……?」


 その少女の口から漏れた言葉は、黒い霧の少女と同じものだった。


「どうして泣いてるんだろう……」


 自分でも分からないといったふうに、涙をぬぐいながら言ったのは藤宮だ。


「ものすごく、悲しいの。胸が苦しい」


 顔をあげたふたりの少女を見て、八剣は息を呑んだ。

 少女たちは、鏡合わせのように瓜二つだった。

 どうやら、まろ媒体にしたおかげで、大髑髏に呑まれていた少女の魂魄が割れることはなかったようだ。まひるの思惑通りに、うまい具合にまろが蝶番の役目を果たしてくれたらしい。

 少女と一緒に大髑髏から吐き出されたまろは、傷ついた羽を休めながらこちらの様子を窺っている。


「邪魔しないで。会いたいだけなの。今夜で、完成するのよ」


 少女はいつのまにか持っていた手のひらほどの短刀を、藤宮ののどもとに突きつけた。


「やめなさい!」


 八剣の静止を聞かずに、少女は藤宮を後ろから羽交い絞めにする。

 藤宮は抵抗してみるも、少女に抑えられた手首に予想以上の力があって、とても振り払えそうにない。


「でもね、この女がいなくなれば、呪詛なんかなくたって、それでいいのよ」


 短刀の先端が、白い首筋にくいこもうとした瞬間。


「悲しいのね……」


 藤宮の涙が、少女の手に伝い落ちた。


「会いたいんでしょう。どうしてかしら、あなたの気持ちが流れ込んでくるみたい」


 思いがけない藤宮の言葉に目を瞠る少女の手が止まった。


「同調しているのか……」


 藤宮は、子供を抱く優しい母の口調で、そっと少女を抱きしめた。手のひらを合わせると、少し震えが伝わってきた。


「貴女の心が伝わってくる……貴女が会いたいと思っている人は、ここにはいない……」


 少女は玉の涙を目いっぱいにためて、藤宮を見ている。


「私を殺しても、そのひとには会えないわ。会いたいのなら、探しに行けばいい。きっと、今もどこかで貴方みたいに困ったひとを助けているわ」


 藤宮の影として生きてきた少女は、あまりにひとりだった。だから、こんな言葉をかけてくれるひとすら、まわりにいなかった。

 人探しの為に自由に外を歩くなんて、ありえないことだった。


「あなたを殺せば、私の猫を助けてくれたあの人に会えると……。だから私、どうしてもあなたを……」


 藤宮は、小さく首を横に振った。


「そんなことをしても、あなたの手が穢れるだけ。あなたの願いは叶わないわ」


 少女の体から、力が抜けた。

 手が白くなるほど強く握っていた短刀が乾いた音を立てて地面に落ちた。

 少女はその場に声をあげて泣きながら崩れ落ちた。

 焦がれる想いを胸に留め、会いたいという祈りがやがて呪いへと変貌したのだろう。少しも揺らぐことなく一心に願うばかりに、狂気へと姿を変えてしまった願い。一途な少女の祈りは、狂気と紙一重だったのだ。


 藤宮は、もう大丈夫よ、と涙を零す少女へ唇を寄せた。


 気づけば、結界内に充満していた禍々しい邪気が消えている。

 安堵した八剣が倒れたままのまひるを見ると、傍には、人形(ひとがた)の白い紙きれが落ちていた。

 やれやれ、と息をつく。


 まひるが眠り込んだのは狸の術に違いない。

 神通力の無理な消費はときに精神力までも消耗することがある。あまり無理をすると、魂魄に傷が残る。これ以上の無理をさせないよう、狸の術で強制的に眠らせたのだろう。


 そもそもこんな事態になった大本の原因は狸の采配である。

 心配性なのか、それとも単に遊び心なのか八剣にはわからなかったが、あの爺のことだ、おそらくその両方なのだろうと決め込んだ。



 しばらくして心を落ち着けた少女は、少女の屋敷に戻っていった。改めて、猫を癒した陰陽師を探すという。

 驚いたことに、藤宮は少女を安達の屋敷へ招くつもりらしく、少女が去る前に、少女の名をしっかりと聞いていた。少女の今後の身の振りを思ってのことだろうが、藤宮から少女への呪詛返しを案じていた八剣は改めて藤宮の胆力に感心した。





 藤宮とともに安達邸まで戻る道すがら、八剣は、ひとつだけ気にかかっていたことを聞いた。

 力尽きて眠るまひるは、八剣が横抱きにして運んでいる。


「どうして、あの少女と藤宮様が瓜二つなんだ? 双子か、血の繋がった姉妹でもない限りあそこまで似ることはないだろう」

 

 藤宮は、お腹の辺りで絡めた指をきゅっと結んで唇を噛んだ。


「以前……、聞いたことがあったわ。私には、影がいる、と。私に万が一のことがあったときに、安達家の一の姫として生きる影武者の運命の子がいると……」


 自分の身代わりのために生きる存在。同じ星のもとに生まれた異なる命。

 俯いた藤宮から、言葉につまる感情を感じ取った。


 もしかしたら、本当の妹かもしれない。安達の家の二の姫は後妻の子である。前妻との間に姫が続いては跡継ぎに支障が出ると、本来二の姫となるべき子が、一の姫の為に隠されることはある。


 深い海溝に沈んでいく藤宮の心胸を推し量っても、それは想像でしかなかった。


 妹がいたとして、どちらかしか表で生きられないというのなら、私は……。


 泥沼を進むような歩調の藤宮に合わせて、八剣はゆっくりと歩く。空を見上げれば、いつの間にか月が出ていた。雲のない、煌々と明るい月だ。

 京の月に晒されたゆずり葉が、風に揺れて頭を垂れた。


「この痣、消えるのかしら……」


 腕をさする藤宮の肩で、まろがちゅうんと鳴いた。


「……おそらく、しばらくは消えないだろう。痣を見る限り、かなり強固な邪念で作られたものだ。薄くはなるだろうが、完治するかは微妙なところだ」


 包み隠さず事実を告げる八剣に、藤宮はふっと笑った。


「何故笑う」

「だって貴方、話に聞いた通りなんですもの。陰陽頭の言ったとおりの人ね」

「陰陽頭を知っているのか?」

「ええ、知っているわ。兄さんを通じてとてもよくしてもらっている」


 普段、滅多なことで感情を表に出さない八剣だったが、このときばかりは目元を歪ませて渋い顔を作った。

 依頼人と陰陽頭が既知の間柄だったとは、全く知らされていなかった。


 陰陽頭ほどの実力の持ち主ならば、藤宮の痣について占うことは容易い。

 おそらく霧の少女と術師の関係にも見当をつけていたはずだ。その上で、まひるに調伏させ、その随身として八剣を任命した。

 呪符をあらかじめまひるに渡しておいたのは、魂魄を引き出さなければならなくなることを予想していた故だろう。

 救出に成功した時点でまひるを寝かせたのも、陰陽頭の術だ。

 全ては陰陽頭の台本通りだったということか。


 内心舌打ちする八剣。

 まひるだけでなく、自分まで手のひらの上で踊っていたとは、なんと後味の悪い。

 昔からくそ狸に関わると碌なことがない、と内心で毒を吐く。


 二人が安達邸の門扉の前で立ち止まると、藤宮は頭を下げた。


「ありがとう。陰陽頭にも伝えておいてもらえるかしら」

「ああ」

「まひるは大丈夫? 早く傷の手当てをしないと」

「いや、大丈夫だ。力を使いすぎて眠っているだけで、そのうち目が覚める」


 見れば、まだ顔色は優れないが、規則正しい寝息を立てている。黒くなった衣はちこちが縮れて破けているし、全身は血と泥にまみれている。けれど、八剣の陰陽術で確かに傷口は塞がっている。

 今はしっかり眠らせてやったほうがいいと判断した藤宮は、後日改めてお礼をしようと思った。


 まひるの無事に安堵した藤宮は、それじゃあまた、と言って屋敷に戻っていった。

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