少女の再来
「…………変化ないですねぇ…………」
安達藤宮の屋敷を見張ること、一週間が過ぎた。
日中は結界維持と体力温存、夕暮れから夜明けまでは屋敷外の見回りと妖たちからの情報収集にここ一週間を費やしたまひるは、ひとりごちた。
霧の少女の足取りを掴むためにできることと言えば限られている。
たとえば結界。これは、またくるかもしれない霧の少女の襲撃に備えてのものであり、わざと綻びを作っている。隙を見せて霧の少女を誘き寄せる罠だ。
安達藤宮を蝕む呪いはひどく強固にかけられており、まずは霧の少女を捉え、その上で術者本体を止めなければならない。
いろいろと事前準備をして手を打たなければ、前回の二の舞になるだろう。
また八剣から「このひよこが」と罵られるだけでなく、時が経てば経ったぶんだけ藤宮の身体は呪いで悪化していく。
事前準備で備えていると言っても、所詮は希望的措置に過ぎない。
霧の少女はもう安達藤宮の屋敷にこないかもしれない。来ても結界に近づかないかもしれない。近づいてもわざと作った綻びに気づかないかもしれない。気づいても屋敷の中へ入ってこないかもしれない。
霧の少女が結界に触れて屋敷の中へ侵入してこないと、まひる達には霧の少女の居所がつかめない。
小さな可能性にかける、僅かな希望だ。
それに加えて、まひるは妖たちへの聞き込みは遅々として進まず、成果が得られなかった。
紫斑の模様の大蛇を調伏したことで仲良くなった雑鬼たちにも協力してもらっているが、霧の少女の足取りは掴めないままだ。
同じことを続けるということは、なかなかの根気と気力のいることだった。
変わらぬ景色を眺めていると変化のない時間に焦りが滲む。こうしている間にも藤宮の呪は進行しているのだ。一刻も早く藤宮を救ってやりたいと思うのに、その手立てが掴めない。
陰陽二元の理に則れば藤宮にかけられている呪は相当の対価が必要だ。しかしまひるには、呪それ自体の目的、なぜ「藤宮」なのか、また呪の完成形、即ち何の対価をもって何を成そうとしているのかが判明しない。
わかるのは、「藤宮」に何かの呪がかけられている、ということだけなのだ。
例えばここに痛んだりんごがあったとする。
このまま放置すれば痛みは進行し、やがて腐敗していくのは明確だ。だが、それを止める術がわからない。
誰がりんごをここに置いたのか。何の為に置いたのか。それがわからなければ、如何なる陰陽術でも腐敗の進行を止められない。
焦りを滲ませるまひるを、八剣は相変わらず表情を表に出さない顔で見やった。
世間では陰陽師といえば、超能力に近い力で悪霊を燦然と調伏し、式神を操ればなんでもできる超人的存在として見られているが、実際のところそんなことはない。
こうして妖が現れるのをただひたすらに待つだけのこともあるし、先にも触れたが、陰陽道には、果てしない数の星をじっと観察し先を読む易占という分野もある。
先人の残した巻物を読解し継承していくために陰陽院が作られたのだが、近頃では霊を退治してみたいだの、式を操ってみたいだのと言って京にやって来て、陰陽師になろうとする者がいる。
そういう者はたいてい暦占や方位占の途方もなく地味な作業に辟易し落院していった。八剣がまだ陰陽院で学ぶ陰陽生だったころ、同期の過半数は一月とたたないうちに院を離れてしまっていた。
そんな中で八剣は、当時の陰陽頭の「無関心よりはいい」という言葉を思い出した。
人がある限り妖は生まれ続け、絶えることはない。
目に見えるものだけに囚われてはいけない。妖はどこにも潜んでいる。
甚大でない対抗し得る力を持って妖と共存すること。世の平和の均衡を乱すのは、強すぎる力である。
八剣は師からの教えを反芻し、まひるに問いかけた。
「なぜ、陰陽師を志した?」
ぼんやりと外を眺めていたまひるが、一拍置いてから答える。
「――家族に。陰陽師になった私を、見てもらいたいと思っています。……もう、亡くなっているんですけど」
おどけたような軽い口調だったが、八剣は、まひるの大きな黒目に偽りはないと見えた。
まひるの胸中には、確かに<百日悪夢>のとき、もっと早く助けてくれていれば、父も母も弟も死ななかったかもしれない」という思いはある。
されどそれ以上に、いや、そんな気持ちが沸いてくる度に、思うのだ。
自分が強くなろう。助けられるかもしれない誰かを助けられる強さが欲しい、と。
そしてそれを、認めてもらいたい。自分の目の前で誰かが死んでいくのは、もう見たくないと思う。
八剣は、まひるの家族が寸前のところで間に合わなかった、ということを知らない。
京の街を逆再生のごとくよみがえらせた浄化の光は、木々や対物には効果を発揮するももの、ひとや動物の命を再生することはない。
まひるの家族だけでなく、あのとき京にいた多くのひとびとは<百日悪夢>で命を落としている。
逆に、まひるも、八剣が<百日悪夢>で失ったものを知らない。あのとき安倍晴明とともに行った、浄化の光。陰陽二元の理に則り、その陰陽術の対価として八剣は片方の視力を失っている。瞳が灰色なのも、色素が抜け落ちて髪が銀色なのも、浄化の光の代償なのだ。
安倍晴明も浄化の光による対価があるはずなのだが、それは八剣でさえわからない。
聞いても教えないだろうことは想像しなくてもわかるので、あえて聞かない八剣だ。それをわかっていて自ら教えるような真似をしないのも、安倍晴明という男である。
狸のそんなところも非常に腹立たしい。
まひるは決然とした表情で言う。
「陰陽頭が私に陰陽道を示してくださって、本当に感謝しています」
「『何があっても陰陽師になる』というのは」
まひるは、昔を懐かしむように屋敷の庭を見ていた。上品だが華美すぎず、清楚感のある庭造りだ。
八剣がちらりとまひるを見ると、形のいい弓形の眉は凛々しく、月明かりに照らされた長い睫毛が瞳に薄い影を落としていた。
「私は、養護院で育ちました。私は、もとから鬼の視えない常人ではありませんでした。鬼見の力があったんです。まだ小さな子どもだったころ、木の葉を式にして子鬼の妖とじゃれて遊んでいました。当時私の世話をしてくれていた舎人は自由闊達な人で、子鬼と遊んでいようと、全く気にしていなかったんです」
困ったように笑うまひる。妖を忌避するきらいのある常人とは違った、非常に大らかな舎人だった。小さなことなど気にしない、ざっくり言えばあらゆる面でとても大雑把だった。
童子が怪我をしても、たいていの傷は唾つけときゃ治るよ! と笑い飛ばす舎人だ。
そんな自由で豪快な舎人がまひるは大好きで、よく式を使って舎人を驚かせていた。
ある日、舎人が料理をしている後ろから突然大量の木の葉を吹き散らしたことがあった。式の子鬼と一緒になってそれはもう盛大に吹き散らかした。単に舎人を驚かせたくてしたことだが、料理に使っていた火が木の葉に燃え移り、油を吸って風に煽られた木の葉が四方に飛び散り、辺りが一気に勢いよく燃え出した。
院内が赤く燃え始める中、舎人は比較的大人に近い年齢の童子たちに水を運ばせそれぞれに指示を飛ばし、すぐさま消火させた。冷静で、迅速な対応である。
あわや大火事となる事態になったときでさえ、舎人は「いやあよく燃やしたね!」と豪快に笑い飛ばしていた。そして、次の瞬間には一切の笑顔を消して「これでやって良いことと悪いことの区別はつけられるね?」と背後に般若を湛えて言い含めた。
それを見た童子たちは、「火はあぶない。じぶんたちで気をつけよう」と深く心に刻んだ。
そしてまひるは自分のしでかしたことを深く反省するのだった。
そんなふうに過ごした幼少時代は、ある男の訪問によって終わりを告げる。
「そして、子鬼と遊ぶ子どもがいるという話が今の陰陽頭の耳に入り、私は陰陽院に引き取られることになりました」
今でも覚えている。
ある日突然やってきた紳士然とした男が、やたらにこにこ笑いながら近寄ってきて、こう言った。
「妖が好き?」
陰陽頭と名乗った朗らかな笑顔が胡散臭すぎて、まひるは幼心に何を言われても絶対についていくものかと思ったものだ。
自分で考え、自分で守る。自由すぎる舎人のもとで育った童子たちはみな一様に自立心が強くなっていて、まひるもそれに漏れず自分の身は自分で守るということをすでに学んでいた。
しかしそれがどう転んだのか、気がつくとまひるはすっかり陰陽頭に懐いてた。
今思えば何かの術でもかけられて懐柔されていたような気がしないでもない。
しかし幾日もまひるのもとへ通い、舎人を説得し続けた陰陽頭の熱心さには心打たれるものがあった。
まひるは陰陽頭を気に入って以来変わらず大好きだ。
もうだいぶいい年なのに、悪餓鬼みたいな悪戯をするところも、憎めない。
もしも今、正直に<百日悪夢>であった過去のすべてを八剣に話したら、きっと八剣は気を悪くするだろう。
そのことでまひるが八剣を恨んでなんかいないとしても、八剣にとってもまひるの家族の命は、守れたかもしれない命だったはずだ。
あとほんの少し京に早く着いて、あとほんの少し術式を早く完成させられていたら。もっと多くの命を救えていたはずだ、と。
まひるは八剣を責めたくなかった。だから、まひるの家族のことは黙っていることにする。代わりに、これは八剣自身のことを聞ける機会だと逆に質問することにした。
「八剣さんはどうして陰陽師になろうと思っ――」
瞬間、首筋がぞわりと粟だった。
ほぼ同時に八剣は築地塀から飛び降り着地している。
安達邸を取り囲む空気が一変していた。
禍々しい気が漂い、奇妙な静けさが満ちている。鼠一匹鳴きもしない。野生の動物たちは本能で異変を察知していち早く逃げ出していた。
息を潜めて神経を集中させる。
「……――来た」
遠くを見渡せるとうにあえて塀に上ったままだったまひるも八剣の隣に着地すると、邪気の濃いほうへと走り出した。
横目に塀を見ると、予めわざと作っておいた結界の綻びが大きく破れていた。
何者かが侵入した形跡。霧の少女が狙い通りに罠にかかってくれたらしかった。
法具を包んだ布袋から一枚の符を取り出して真言を唱える。
「namo bhagabate uṣṇīṣāya oṃ ru ru sphuru jvala tiṣṭha siddhalocane sarvārtha-sādhaniye svāhā……!」
まひるの瞳が神通力で蒼白い光に輝く。
夜の薄明かりの中で浮かび上がる双眸が侵入者を捕らえた。
十尺ほど離れたところで八剣が腰を落として構えをとる。
「namaḥ samanta-buddhānāṃ oṃ buddha-locani svāhā!」
続けて放つまひるの真言に合わせて地面に描かれた五芒星が炎のようにゆらめき、周囲の気流を取り込んでゆく。
炙りだされる様にして黒い霧が中央部へとより集められ、再び人形をとった。
ぼろぼろの指貫をまとった少女がこちらをゆっくりと振り返る。
げっそりとそげ落ちた頬、うつろな目、身から放たれる邪念。
見た目は少し変化しているものの、一週間前に襲撃してきた霧の少女だ。
「どうして、邪魔をするの……?」
悲しみを絞り出したような声で、霧の少女は言った。
「酷い人……」
霧の少女の髪が波打ち、全身のから怨念のこもった瘴気が溢れ出てくる。
大きく振り下ろした腕から衝撃波が放たれ、邪念の刃がまひるを襲う。
両足で地を踏みしめて、まひるは胸の前で素早く刀印を組んだ。地面から土が盛り上がり、まひるを覆う壁となる。
邪念の刃を受けた土壁は脆く崩れ、その隙間から今度はまひるが木の葉の刃を飛ばす。少女は力を失ったようにふらついてそれを避けた。
ゆらりと風に揺れた髪のひと房が木の葉の刃で切れ、地面に落ちる前に塵になって消えた。
霧の少女の目がすっと細められた。
まひるの体がずしりと重さを増す。ねばりつく邪気が全身に張り付いて、極度の疲労感に襲われる。
霧の少女から放たれる瘴気が時を追うごとに濃さを増し、結界内に充満していた。粘度の高い瘴気に、まひるは狩衣の袖口で口元を覆った。
「あなたは今、どこにいますか」
まひるが少女に問う。
首を傾けたまま顔を上げた少女の口はうっすら開いたまま動かない。
「あなたは強い思いだけでここにきてしまっている。あなた自身は、どこにいますか」
ふいに少女は嗚咽を漏らした。涙がほほを伝う。
「暗い、冷たい、ひとりは嫌……」
泥沼に沈んだような息苦しさの中、まひるは次の言葉を待った。
少女の涙が雫になって地面に丸く黒いしみを作っている。
「あの女がいなければ、私はひとりじゃない。私は影でなくなる」
零れた言葉は呪言のささやきだった。
あの女とは藤宮のことだろうと当たりをつける。
まひるは少女の一挙一動を見逃さないように注意しながら逡巡した。
霧の少女だけを退散させることはできるが、それでは根本的な解決にならない。根源を見つけなければ意味がない。
安達藤宮に掛けられた呪詛は複雑に織り込まれているため、術者がそれなりの術力を持っていると思ったほうがいい。
もしこの霧の少女だけを調伏したなら、術者がさらに強力な呪いをかけてくる可能性もある。
「邪魔を、しないで……」
霧の少女は両足を浮かせたまま音もなく滑空して近づいてきた。
それを見据えたまま、まひるは符を切り神通力を高めていく。
「臨・兵・闘・者…………」
悲しげに伸ばした手がまひるのほほに触れる。冷やりとした感触。
冷たいと思うと同時に、悲痛な叫びが頭に直接響いた。悲しみの奔流が流れ込んでくる。それは、嵐の後の激流のように混濁として、あらゆるものを飲み込み、無常にすべてを押し流す濁流。
直後、細い指がまひるの首に絡みついた。
力のこもった指と長い爪が首筋にくいこんで、鋭い痛みに顔が歪む。
空いているほうの手でまひるは片手印を相手の胸に投げつけ、続けざまに裂帛の気合を飛ばす。
一瞬緩んだ少女の手を振り払い、そのまま肘で突いて後方に突き飛ばした。軽々と飛ばされた少女は床に転がり、ぐったりと項垂れる。
まひるは喉元を押さえてげほっっと咳払いした。
「あなたの、帰る場所へ、行きましょう」
まひるの言葉に、少女はむくりと上体を起こした。そして、砂利を掴んだ少女は瞳にこれ以上ないほどの狂気を宿していた。
霧の少女から放たれる瘴気が、ちりちりと小さな音を立ててその濃さを増していく。
邪気を吸った砂利は、どす黒く染まってこれ以上ないほどに穢れきっている。
少女は力任せにその砂利を投げつけ、まひるは衣を被いてそれを避けた。
まひるが顔を上げると、少女は藤宮がいる寝室へ向かっていた。
「あの女がいなくなれば私は帰れるのよ!」
まひるは両の手のひらを合わせて真言を唱え、霧の少女を囲むように風の障壁を作った。
行く手を阻まれた少女は逆上して邪気の刃を乱射するが、風に反らされてひとつも命中しない。
眉間のしわを深く刻んで睨み付けてくる少女。完全に正気を失っている。
どうにか少女の激情を鎮めようと、空へと高く跳躍したまひるは懐から符を取り出した。
烈風に捕らわれた少女が呟く。その右手は、血で赤く染められていた。
「いつかイツカ、会えると信じてる」
瞬間、まひるの動きが止まった。
禍々しい瘴気の渦に吐き気がした。
臓腑からのどもとにせりあがる不快感をなんとかやりすごして、手にした符を少女の心臓目掛けて投げた。
符は、充満している瘴気に負けて効力を失くし、ただの紙切れと化す。
「まひる?」
八剣が怪訝そうに聞く。
霧の少女は藤宮のいる寝殿の前まで迫っていた。
「……大丈夫、です」
肩で息をしながら答え、再び符を持ち直す。額に汗が一筋流れた。
「藤宮様にはこれ以上近づけさせません」
構えた符からは、仄かにに花の香りがした。
「はっ!」
香のついた符は女の背後で霧散し、むせかえるほど強く香った。
少女は顔をしかめて匂いを振り払うが、あたりにまとわりついた香は消えない。
少女はちっと舌打ちをして、再び黒い霧になった。
「覚えていろ」
視界を覆う黒い霧が薄く延びて屋敷の外へ流れ、代わりにすがすがしい蘭気が入り込み、霧の少女の残滓が薄くなっていく。
「八剣さん」
腕を組んで沈黙を守る八剣は視線だけをまひるに投げた。
「藤宮様に向けられた呪詛に見当がつきました」
首元をおさえたまひるの手には血がついていた。
しかしそれは、まひる自身の血ではない。
「この血、術者のものです」
呪の媒体となる呪物に血を染み込ませ、対象のもとに送ることで穢れさせる呪い。
先の襲撃で、霧の少女はまひるの血を浴びたとたんに退却した。
おそらく、他者の、それも調伏させる力を持つ陰陽師の血が混在して効力が鈍るのを避けるためだ。
そして今回の襲撃では、香がついてから藤宮のもとへ行こうとはしなかった。
香で穢れが薄れるのを避けたのだろう。
まひるが投げた香の呪符を避けたことで、確信した。
「血染めの爪、香を避けての退却、『いつかイツカ、会えると信じてる』という言葉……」
全てを繋ぎ合わせて出てくる答えは。
ふいに、八剣が寝殿の御簾のほうに振り向いた。
つられて同じほうを見ると、向こう側から布ずれの音がする。
「藤宮様?」
御簾越しに問いかけると、こちらに近づいてくる気配があった。
「まひる?」
御簾を上げて高欄に出てきた藤宮は打ち掛けを羽織っていた。
「起きてらっしゃったんですか」
廂に腰掛けて庭を見渡すと、風が吹いて木の葉が揺れた。
「また霧の怨霊が来たのね?」
「ええ。今はもういませんから、安心してください。しかし、おそらくまた現れるでしょう」
庭には、夏の夜独特の風が吹いている。心をなぞるように弱く流れる風。
どこか淋しさを感じさせる、嵐のあとに吹く風によく似ている。
藤宮は胸いっぱいに吸い込んだ息を、目を閉じてからゆっくり吐き出した。
「夢を見たわ」
藤宮の瞳が揺れていた。
「私に似た誰かが、泣いてた。わけのわからない淋しさがあって、悲しくて、私も泣いていた」
藤宮の夢から何か得られるかもしれないと思い、まひるは隣に腰掛けた。
ひとの形をした手のひらほどの大きさの白い紙がひらりと見えた気がして、八剣が一瞬瓦屋根の上を見たが、またすぐに視線を戻した。
「どこかはわからないけど、暗くて淋しい場所だったわ。ただひどく悲しくて、涙を流してた。『会いたい、会いたい』って泣いていたような気がする」
「藤宮様、もう少し詳しくわかりませんか?」
藤宮は首を横に振った。
「そのうち流れた涙が赤く染まってきて、それがよく見たら血なの。私、思わず怖くなって叫んだら、目が覚めたわ」
八剣がもう一度瓦屋根を見上げると、まひるから死角になる位置で人形の白い紙がこっそり様子をうかがっていた。
小さくため息をついた八剣は片手で額を押さえ、少し飽きれ交じりに言った。
「藤宮様。夜風に当たると体に障る」
右手を差し出して褥へ先導しようとする八剣を、藤宮は困ったように笑った。
「まひるからもらったお守りのおかげでうなされることはないけど、なんだかよく眠れないの」
うつむいた藤宮の羽織をなおしながら、まひるが言う。
「おそらく、近日中の夜にまたあの霧の少女が必ずやってきます。そこで決着をつけましょう。今夜はよく休んでください。よく眠れるように香を焚きますから」
「居場所がわかったの?」
「はい。呪詛にだいたいの見当がつきましたから、今度はこちらから仕掛けましょう」
藤宮はしばらく考えてから意を決したようにまひるに言った。
「ひとつ、お願いをしていいかしら」
「なんですか?」
「私もその場に一緒にいさせて欲しいの」
思いがけない願いに戸惑いの色を隠せないまひる。
「どうしてそんなことを……」
真剣な藤宮の目に八剣も戸惑っている。
「この目で見ておきたいの。呪詛を送ってきた相手がどんな人なのか。夢で感じたあの悲しさはきっと、私に関係の深いものだと思う……。あの女の子の悲しさが伝わってきて、無碍にできなかった」
夢に出て祟られたにもかかわらず、相手の感情に同調したということだろうか。
普通ならうなされたり反発したりするというのに。
「ですが、危険すぎます。相手は藤宮様を本気で殺すつもりかもしれない」
声を低くして言うまひるを、真正面から見つめ返してくる藤宮に迷いはなかった。
どういえばあきらめてくれるだろうかと考えていると、とんでもない横槍が飛んできた。
「……依頼人の頼みである以上、同行することを認めてもいいんじゃないか?」
「八剣さん!?」
いくら依頼人だからといっても、身の危険を冒すことを許可することはできないはずだ。
陰陽師として、してはいけない。
「ありがとう。さすが、いい男は言う事が違うわ」
藤宮はすっかりその気になっている。
「いやでもあの……」
「じゃあ明日、待ってるわ」
にっこり笑う藤宮は褥へ戻っていってしまった。
あとに残されたまひるは呆然と立ち尽くしている。
「決定だな」
まひるの頭では、霧の少女からその本体をおびきだして直接対峙する予定だったのだ。
それがいとも簡単に崩されてしまった。
「な、なんであんなこと言ったんですか? 藤宮様は呪われてる本人なんですよ? 藤宮様を守りながらあの怨霧の少女と対峙するってことですよね!? それって一対一で対峙するより難易度あがってませんか!?」
「まひるが頑張ればすむことだ」
涙目のまひるに冷たく言い放つ八剣が、実は狸へのささやかな反抗をしているだけであることに、まひるは気付く術がない。
かつて八剣と対をなしたあの男に似ているまひる。事あるごとに式を飛ばして様子を探ってくるあたり、あの男は相当にまひるのことを気にかけているようだ。
普段なにかとあの男には振り回されている八剣である。たまには意趣返しもしたいところだ。
要は、八剣の狸に対する当てつけであり、まひるにとってはとばっちりだ。
「頑張るって、そんなぁ」
「監察官として温かく見守ってやるから安心しろ」
頭を抱えてしゃがみこんだまひるの頭上高くで、白い紙がひらひらと踊っていた。
「俺は放任主義だがな」
涼しい顔をした八剣は独り言のようにつぶやいた。言外に、卒業試験の難易度あげたけど、別に手伝うつもりはないと言っているのだ。なかなかの鬼教官っぷりである。
白い紙がへなへなと萎れていく様を見て、八剣はふんと鼻を鳴らした。