安達家の一の姫
「準備はいいか」
太陽が中天にかかる少し前、まひると八剣十櫂は平安京の一辺で落ち合った。ここは五条通りといって、別名を「安倍通り」という。件の百鬼夜行の際、安倍晴明たちがこの大通りを拠点に魑魅魍魎を調伏したことが所以である。
すらりと伸びた長身の八剣は、銀髪かつ平服の和装のいでたち。身に着けている服はごく一般的な狩衣だが、街行く人には背中に流した銀色の髪が異邦人のように見えて、その長身も相まって人の往来が激しい中でも十分に目立っていた。
八剣十櫂という陰陽師の名は広く知られているが、その顔を知る者は少ない。故に街中で風貌が目立っていても視線をちらちらと向けられるだけで声をかけられることはなかった。なにより八剣自身の常に不愛想な顔つきと不機嫌そうな雰囲気が声をかけるのを躊躇わせた。
「八剣さんって、色素薄いですよね。瞳の色も灰色がかっているし」
そんな八剣に構わず疑問だったことをそのまま問いかけるまひる。八剣はちらりとまひるのほうへ視線を転じるが、すぐに前へ向き直った。どうでもいいことだ、と無言の返事をする。
その無言に剣呑の色はないとみてまひるは気にせず話し続けた。
「京では珍しいですね。この土地で生まれた人はたいてい髪も瞳も黒ですから」
まひる自身もまっすぐな黒髪と黒耀石を磨いたような黒い瞳をしている、生粋の日本人だ。
平安京へ遷都したのが今から約千二百年前のこと。遷都から三百年ほど経った頃に富士山の噴火による影響で大規模な地殻変動があり、日本を東西に分断する富士山脈ができた。それ以来、東西の山裾にはそれぞれ広大な樹海が広がっており人の往来はもちろん物流の一切も途絶えている。二つに分かたれた日本はしかし島国である。海を渡る航路によって繋がりを保ち、東に行政、西に公家を置くことでひとつの国として成り立っていた。
西日本の心臓部であるのがここ平安京。東西南北を四神に守られる京。その京では珍しい、銀色の髪をした八剣。さらりと流れる銀糸はどこか化生を思わせる。
「もしかして、稀代の陰陽師の血縁ですか?」
振り返って八剣を見るまひるの目はきらきらに輝いている。まひるの言う稀代の陰陽師とは安倍晴明のことで、晴明は妖弧の血を引いているという専らの噂だ。八剣の銀色に輝く髪は、銀狐のようだと思った。
だからまひるが、もしかして安倍晴明と八剣十櫂はどこかで血が繋がっているのではと思うのも無理はない。ふたりが同じ銀弧の血を引く兄弟であってもおかしくはないのだ。
安倍晴明は陰陽頭という立場にいながら謎の多い人物だ。生まれも、家族も、謎に包まれている。
素性のわからぬ者を陰陽師の頂点である陰陽頭足らしめているのは、ひとえにその実力故である。一流とか凄腕という評価を天限突破して御神の顕現と評されることからもそれが窺える。
「………………稀代の陰陽師というのは、まさか安倍清明のことか? 気色悪いことを言うな」
「気色悪いだなんて! 陰陽師の中でも歴代屈指の実力ですよ。私の憧れなんです! もちろん、<対斎>である八剣さんも私の憧れです。今こうして一緒に歩いているのさえ、まるで夢みたいです!」
頬を紅潮させるまひるとは対照的に、口の両端を横に広げて目を眇め、八剣はものすごく嫌そうな顔をした。苦虫を百匹は噛み潰したような顔だ。
どうやら八剣の不愛想な顔にも不機嫌そうな態度にもめげなかったのは、憧れのひとに会えたという興奮からくるものらしい。陰陽師を目指すまひるにとって八剣十櫂という男はそれほど特別な存在だ。
ただ、八剣としては、飄々としているじじいのどこがいいんだかさっぱり理解できないという思いだ。あのじじいには散々煮え湯を飲まされてきたことを思えば、顔も渋くなるというもの。
きっとじじいの本性を知ったらその無駄にきらきらに輝く目に影ができるのだろうなと嘆息する。しかし今ここでじじいの株を落としたところで誰が浮くわけでもなし、それこそひよっこ陰陽師のやる気を削ぐだけである。
誰かに憧れて自分もそうなりたいと思う気持ちは強い。そしてその気持ちを持ち続けることから生まれる強さを八剣はわかっている。
じじいに対する数々のやっかみを吐露したところで陽に転じることがないのであれば、それをしたところで無駄骨である。
あからさまな不機嫌さを滲ませる八剣を見て、陰陽頭と八剣の過去にきっとやんごとなき何かがあったのだろうとまひる思った。何もなければ、ぶっきらぼうである八剣がこんなにも感情を垂れ流しにするわけがない。
せっかく憧れの陰陽師に会えたのだから聞きたいことは山ほどあるのだが、不穏な空気を滲ませる八剣を見るに事を急くのは得策ではないとしぶしぶ引き下がる。なんだか触れてはいけないもののような気がして、むくむくと沸いてくる好奇心を努めて宥めたまひるは話題を変えることにした。
「ところで、依頼主の安達藤宮様はどんな人ですかね。噂ではたいそうな美人だそうですよ、なんでも、婚姻の申し出が後を絶たないんだとか。あまりに数が多すぎて、侍女が断る文を代筆しているそうです。羨ましいなあ」
まひるも年頃である。歌を返す相手もいないまひるにとって、婚姻を申し込まれることは雲をつかむようなことに感じる。
ふと、自分の胸元へ視線を落とす。悲しいかな、何もない。あるべきふたつのふくらみが。
もう少し存在を主張してくれてもいいんだよ、と胸のない胸中で涙目になる。
肩を落とすまひるの横を牛車がゆっくりと追い抜いていった。
まひるの胸中を察したのか、八剣が無言のまままひるの頭にぽんと手を置く。先ほどまでの苦い顔は一切消えて、労し気な視線を向けてくる。
「逆効果ですそれ」
そんなことはないと否定するでもなく、これから大きくなるさと励ますこともない。頭に置かれた無言の手からは、まあしょうがないだろという諦めの温度を感じた。
半眼で睨みあげるまひるの視線から逃げるように顔を斜め上へ向ける八剣。
太陽が燦々と注ぐ中、ふたりの間を冷めた風が通り抜けた。
しかしそれでも夏季の京は、暑い。山々に囲まれた盆地に位置するため非常に熱が籠りやすい。
街は広大な平野と北方にそびえる山々を利用して作られ、碁盤の目のように真っ直ぐに道が伸びている。
直射日光と温められた土からの反射熱の暑さの中を二人は歩いていく。
簾を下ろした網代車が軋みながら大通りの真ん中を進み、その脇を衵姿の童子が笑いながら駆けていった。
そのまましばらく安達邸への道のりを歩き続けたあと、まひるは木陰に入って立ち止まり、額を流れる汗を拭った。日差しを避けると通り抜ける風が気持ちいい。
ふと視線を落とすと、足元には芙蓉が美しく咲いていた。かつて母が好きだった花だ。青々とした大きな葉をいっぱいに広げ、淡い桃色の花びらを楚々と咲かせている。
優しかった母の顔が芙蓉と重なって見えた。ふふと笑う母はもうまひるの記憶の中のものだ。幼かった自分の手を引いて歩くあの温もりも。
風が黒耀に光る髪を揺らした。
まひるは胸を刺す小さな痛みを宥めるように少し休んでから、八剣のほうへ向き直った。
「言っておきたいことがあるんです。八剣さん、聞いてくれますか」
「なんだ」
八剣はどうしたとまひるを見やった。
「私は何があっても陰陽師になります。これは私の誓いです」
きっぱりと言い放つまひるの真剣なまなざしに一分の揺らぎもなかった。瞳の奥に、確固たる信念を宿している。
――あの<百日悪夢>。
それが起こったとき、まひるはまだ三才と幼かったが、その記憶は鮮明だ。
初めに、母が死んだ。悪霊に憑りつかれた隣人に、首を絞められて。
次に、弟が死んだ。亡霊となった母が百鬼夜行の瘴気にあてられ、暴徒化して、母が弟を撲殺した。弟が泣き叫んでいた。徐々に弱くなるその泣き声は、今も耳に残っている。
父とまひるは、せめて二人の亡骸を埋葬しようとしていたところ、その周囲を悪鬼たちに囲まれた。
常人である父には視えていない。だから気づかない。まひるたちの周りには、すでに逃げ道がないほど悪鬼たちに取り囲まれていることを。
視えているのは、まひるだけだ。
そのうち、悪鬼がにたりと嗤った。
――ととさま、にげて!
幼いまひるが叫んだときには、もう父は悪鬼に四肢をもぎ取られていた。血飛沫が、視界を赤く染める。
世界が止まったように、色彩を失って色あせていく。そして地軸が狂ったように、世界がぐにゃりと歪んだ。
みんな、死んでいく。
三才のまひるが、初めて絶望に呑まれた瞬間だった。
父からもぎ取った腕を、玩具のように投げて遊ぶ悪鬼たち。父だったものの手足を、おてだまをするようにぽんぽんと投げている。ずいぶんと小さくなった父からは、未だ真っ赤な血が流れだしている。
悪鬼たちはその光景をまひるに見せつけて、絶望の上にさらに絶望を塗り込めて楽しんでいるようだ。幼子の恐怖と絶望を喰ってやろうという悪食である。
涙も、声も、出なかった。
あまりのことに、恐怖も悲しみも、どこか遠くのものに感じた。自分の体が自分のものでないような、どこか心が壊れたように、すべての感情がぼやけて感じた。
目の前で起こったことの衝撃が強すぎて理解が追いつかず、また感情の奔流が心に触れるのを拒んでいた。
「キキッ?」
どうだ? とばかりに悪鬼がまひるの顔を覗き込む。俯いたままのまひるは、力なく遠くを見ていた。焦点が合わずに虚ろな目をしている。
……このままわたしも死ぬ……。
父も母も弟もみんな死んだ。誰も助けてくれない。
悪鬼が、次はお前の番だとばかりにまひるへ手を伸ばす。
父と同じように手足をもいでやる。それならさみしくないだろう? そんな悪鬼の声さえ聞こえる気がした。
悪鬼たちの手が、まひるの四肢にまとわりつき、力をこめていく。ぎりぎりと嫌な音を立てて骨が悲鳴をあげる。
――もう、だめだ。
父の亡骸から流れた血だまりの中、そんなふうに諦めた、そのときだった。
一条の光が、世界を満たした。
音もなく、ただ光だけが溢れた。全てのあらゆる音が光に吸い込まれ、ただ静寂が満ちた。
そして一拍の後、それは起こった。
世界が、再生されていく。
静謐な静寂を突き破るように、家が、木々が、塀が、あらゆる建物が、めきめきと音を立ててひとりでに直っていく。あるべき姿へ帰っていく景色に誰もが息を飲んだ。
更にはみるみるうちに周りを取り囲んでいた悪鬼たちが消え、むせかえるほどの瘴気も消えていく。掴まれていた手足も、わずかに痺れを残しただけで無事だ。常人ではありえない、超常的で、圧倒的な力。
それは、浄化の光。
いったいどのくらいの時間そうしていかのか。悪鬼たちが次々に消えていき、光の中で景色が再生されていく。
その閃光の中で、まひるはこの悪夢が終わりを迎えるのだということと、自分が泣いているということに気が付いた。
浄化の光によって消えた悪鬼たち、そして悪鬼たちによって帰らぬひととなった家族たち。街の風景は元に戻ったけれど、そこに住まうひとびとは戻らない。
百鬼夜行を発端にした悪鬼たちの悪行により、まひるは家族を奪われた。
幼いまひるに残されたのは、ただ生きることだけだった。
母と弟とそして父の亡骸を埋葬したあと、力尽きたまひるは土まみれのまま気を失った。
まひるはその後、生存者を捜索していた警邏に発見され治療を受けたあと、養護院に預けられた。それから何年か経ったのち、陰陽師を目指すべく陰陽院への転院をすることとなる。
十年前のあの<百日悪夢>のときのことを思えば、浄化の光を放った安倍晴明と八剣十櫂への思いは複雑なものがあった。それは、傲慢と謝辞だ。
どうしてもっと早く助けてくれなかったの。父も母も弟も、みんな死んでしまった、という僻む気持ち。あの瞬間からあと一歩遅れていれば、自分は今ここにいない、助けてくれてありがとう、という感謝の気持ち。
相反する気持ちが胸の中でぐるぐると渦巻いている。捌け口のない思いをずっと抱えてきた。
しかし、今まひるは陰陽師を目指している。
自分がもっと強かったら。三才であったまひるに、陰陽術が使えたら良かったと思うのは無理な話ではない。生来、妖が視えていたまひるだ。もしかしたら、その生まれ持った強い神通力で守れるものがあったかもしれない。もしかしたら、まひるが救えた命があったかもしれない。
そう考えると、安倍晴明や八剣十櫂に対する僻みよりも、自分への戒めの気持ちが強くなる。
もしまた百鬼夜行が暴れたら。
その不安はまひるだけに限らず、<百日悪夢>を経験したひとびとの胸から消えることはない。
そもそも、なぜ<百日悪夢>が起こったのかさえ、未だにわかっていないのだ。何者かによる政治的な陰謀だという説もあれば、百鬼夜行自体がそもそも自然災害だという説もある。
原因の解明されていない恐怖は、しっかりとひとびとの記憶に根を張っている。
だからこそ、まひるは陰陽師になりたいと思う。
妖を調伏できるのは、陰陽師なのだ。今度、百鬼夜行が暴れたら、必ず力になろう。助けが遅いと嘆く前に、自分の無力さを呪う前に、強くなろう。稀代の陰陽師と呼ばれるくらいに。
まひるの瞳に宿った意思を、見定めるようにじっと見入る八剣。
「心意気だけは汲んでおいてやろう」
「充分です」
八剣の了解の意を受けて、まひるは柔らかく笑った。
二人はじりじりと照り付ける太陽の下をささらに進み、やがて安達邸へとたどりついた。
築地塀がぐるりと一区画を囲む大きな屋敷で、大判の瓦屋根が太陽光を照り返して黒光りしている。
滴る汗を拭ってから戸を叩く。
「どなたか。陰陽院より参りました、山吹まひるにございます」
誰何してしばらくすると、侍女と思しき女が塀に取り付けられた小枠から顔を出した。
まひるの姿を見て、こくりと頷く。
「山吹まひる様ですね、お待ちしておりました。どうぞ中へ」
侍女が緊張した面持ちで門扉を開き、安達邸の奥へ案内する。
渡殿を通って更に奥の寝殿所の前まで先導すると、侍女はどうぞお入りくださいと言って下がっていった。
陰陽頭によれば、安達家の一の姫が悪霊にうなされているとのこと。
一の姫はたいそう美しく、その美貌故に様々な妬み嫉みを浴びながら育ってきたらしい。美しさのあまり物の怪であるなどという噂や、蛙の死骸を庭に投げ込まれたり、泥を食えば人間になるだろうとありえない言いがかりから大量の泥を飲まされたり、数々のいやがらせを受けてきたようだ。
その藤宮と呼ばれる美姫の名を安達薫琉という。
「陰陽院の山吹まひるでございます。入ってもよろしいでしょうか?」
襖越しに声を掛ける。しかし、返事は無かった。
まひるは八剣と目を合わせた。姫の部屋に無断で入るわけにはいかないが、侍女からは中へどうぞとは言われている。逡巡したのち、さらに待っても返事はないので、しかたなく中の様子を伺うことにした。
襖に手をかけ、そっと開いていく。
部屋は広く、立派な掛け軸と屏風が立てられ、中央には御簾で囲われた敷布があった。
そこに少女が横たえられ、静かに眠っている。
まひるは少女を起こさないように横に座った。
八剣は、まひると少女から一歩離れたところで腕を組んで腰を下ろした。見守る態勢だ。
少女が眠っているのを確認したまひるは、口の中で小さく真言を唱えながら、少女の胸元に手をかざす。
すると蛍の光ほどの小さな青白い球体が生まれ、わずかな気流に乗って渦を巻いた。まひるの前髪がふわりと揺れる。
しばらくすると、少女の体が突然ぴくりと反応した。瞼がふるふると震えたと思ったら、ぐわりと背をのけぞらせ、次の瞬間には苦しそうに顔を歪めた。
それでも少女の瞼は固く閉ざされたままだ。
真言の詠唱を続けると、かはっと開いた少女の口からどす黒い気体が流れ出した。
すかさずまひるが一枚の呪符を取り出し、流れてきたものをからめとる。
「っ、っ、っああああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
少女が息をつまらせ、苦悶の声をあげた。肩が激しく上下するほど呼吸を荒くし、うっすらと目を開ける。
小刻みに体を揺らし、少しずつ目の焦点がずれていく。
何かがとりついたように、両手が空中をさまよった。
赤く塗られた指先が、どこかをかき毟るようにせわしなく動いている。
まひるが黒く染まった呪符を少女の胸に貼ると、ぱたりと少女は気を失い、糸が切れた人形のように力なく横たわった。
「…………うわぁ、真っ黒ですね~」
気流が収まるのを待ってから、まひるがのんきな声で言った。
「ここまで漆黒に染まった符は初めて見ました。これはちょっと、いや、だいぶやっかいかも?」
少女の乱れた黒髪を直してやりながら、まひるは対策を考える。
悪霊に取り付かれただけならば、悪霊を除霊すればいい。しかし、呪符の色目を見る限り一筋縄ではいかなさそうだ。いくつもの怨念が混ざり合い重なりあうことで強い呪いへと変貌している。
まひるの所見は、全く正しかった。呪符の色目を見た八剣もまた、同様の感想を抱く。
「まひるの言う通り、少しばかり卒院試験には手厳しいかもしれん。だが、やるんだろう? 未来の陰陽師さん」
八剣は口の端を上げて笑った。
「もちろんです。引き下がるわけにはいきません」
「いい度胸だ。さて、これからどうする?」
「藤宮様が目を覚ますのを待って悪霊を呼びます」
「了解」
呪符の色目はすこぶる悪い。しかしだからといって折れる理由は全くない。まひるが目指すところは百鬼夜行に対抗できる陰陽師だ。少女に憑りついた悪霊退治ができないようでは到底晴明の域まで届かない。
もう一度黒く染まった呪符を見て、しばし黙考する。
そうしてしばらく考えていた様子だったまひるは、やおらすくっと立ち上がると部屋を出ようと襖へ手をかけた。
「どこへ?」
「念のため、敷地内に結界を張っておきます。余計なものまで呼び込んでしまうと面倒ですから」
「ぬかりないな」
八剣がまひるの背を見送ったあと、部屋には静寂が満ちていた。続けて黙考していた八剣がふいに、まひるが出て行ったのとは違うほうの障子に目をやった。
すると、障子の隙間から一枚の紙が滑り込んできた。手のひらほどの大きさで、人の形に切り取られている。それはひらひらと風に舞いながら八剣の足元にやってきた。
八剣は片方のまゆを上げ、腕を組んだまま紙を見下ろすと、そのままさりげなく片膝を立てて紙を踏みつけた。
紙はぱたぱたともがいたあと、観念したようにくたりとしなる。
「酷い扱いをするな十櫂よ」
声は紙から発せられた。
「酷いだと? 狸がほざくな。あんな小童の面倒を押し付けておいてよく言えたもんだ」
冷たい視線の八剣が踏んでいる方の足を上げると、紙は立ち上がって伸びをし、ぱちんと手をたたくと、白い煙がもくもくと沸きあがった。綿菓子より一回り大きい白い球体に留まった煙は、すぐに霧散して消えた。
白い煙が晴れると、そこにはやたら尻尾のふさふさした子狸が現れる。黒目の大きなつぶらな瞳。手触りの良さそうなふかふかの毛並み。目元に一筋の赤い線が入っているのが特徴的だ。
その子狸は小さな爪を使って器用に顔の毛づくろいを始めた。猫かアライグマのようなその仕草は実に様になっている。
「まひるは優秀じゃ。手間はかかるまいよ」
子狸は流暢に人の言葉を話した。
「怪しいな。あんたが俺にただの試験監督の仕事なんかさせるわけないだろう」
腕を組んだままの八剣は子狸を見下ろす。
そ知らぬ顔の狸は、今度は背中を丸めて自分の尻尾の毛づくろいを始めた。
普通ならば愛くるしい姿なはずだが、狸の本性を知っている八剣には若干気に障るものがある。
八剣が狸の首をつまむとおとなしくなり、そのまま目の高さまで持ち上げると狸は小さな舌を出してにへらと笑った。てへぺろの顔だ。
つまんでいた手を離すと、床からべちゃっと音がした。
「痛い」
抗議の声が聞こえたが黙殺する。
「何事も適材適所。かわいいまひるを任せられるのはお主しかおらん。京の果実は甘くて美味いぞ。ここのところ高報酬な仕事ばかりこなしてもらっていたしの、たまにはいいではないか。息抜きせいよ」
再び尻尾の毛づくろいをしながら、心底楽しそうに笑っている。
「言ってることに一貫性がないんだが……?」
「ほほほ。気にしたら負けじゃ」
「式神の目的はなんだ」
狸は手を休め、ついと目を細めた。
二本足で立ち上がり両手を腰に当て、えっへんと決め体勢をとる。
「暇潰し」
「失せろ」
にこりともせず八剣は狸に向かって印を飛ばした。
狸は即座にその場で前転し、姿をくらませる。いつも逃げ足だけは速い狸だ、と八剣はため息をついた。
わざわざ式神を飛ばしてくるなんて、やはり狸は何か考えがあるに違いない。
先ほどのまひるの呪符を見てもそうだが、この一件は簡単には済みそうにない。妙に嬉々とした態度の狸もひっかかる。
なんだか嫌な予感をひしひしと感じた八剣が深くため息をついたところで襖が開き、まひるが戻ってきた。
「結界張り終わりました。って、あれ? 肩なんか落としちゃって八剣さん何かあったんですか?」
「……いや、なんでもない」
脱力した声音で八剣が答えると、浅黄色のうちぎの下で藤宮がもぞりと動いた。
「ううん」
おぼろげな目つきでうっすらと目をあけ、あたりを見回す。
「気がつかれましたか、藤宮様」
まひるが声をかけると藤宮は視線を向けた。
藤宮は噂通りの美しい少女だった。
年の頃は十二、三といったところで、確かに愛くるしい顔立ちをしている。ふっくらとした唇、上に伸びた長い睫毛に弓形の整った眉、細い首筋、透き通る白い肌と、艶やかな宵闇色の黒髪。胸のふくらみの曲線からは、少女のあどけなさの中にも、大人の女性のしとやかさが感じられた。
噂には聞いていたものの、実物はそれに違わぬ、いやそれ以上の美貌を持っていた。
頭が痛むのかこめかみに手を当てた藤宮は部屋をぐるりと見回し、ある一点で視線をとめた。
「あら、いい男」
藤宮の見つめる先には、腕組みをしている八剣の姿があった。
「は?」
思わず間の抜けた声が出たのはまひるだった。八剣は表情を崩すことなく沈黙している。
藤宮は新しい玩具にくいついた童子のような顔をして、今にも獲物を捕らえそうな勢いだ。
「何その眉目秀麗は」
瞳がものすごく輝いている。頭痛はどこかに吹き飛んだらしく、元気にがばりと上体を起こしていて、なんだか結構な生命力を感じる。
「はい?」
完全無視されるまひる。
「ずいぶんといい顔してるじゃないの。ちょっとそんなところに突っ立ってないでこっちにいらっしゃいな。あなた名前は?」
ぐいと腕をつかんで引き寄せる。
「……八剣だが」
「ああ久しぶりに充電できそうだわ」
「じゅ、じゅうでん??」
めげずに絡んでみるまひる。
「あなたが父の依頼した陰陽師でしょう? 会えて嬉しいわ。変なおまけがついてるみたいだけどこの際だから我慢する」
無視の上におまけ呼ばわり。
私、もしかして邪魔者扱いされてる?
多少引け腰になったまひるは、いやしかし私が依頼を受けているのだからここで引き下がってはいけないと自分を奮い立たせ、きちんと正座して藤宮を見つめた。これは卒業試験、これは卒業試験、これは卒業試験。
「藤宮様。私はおまけではありません。私が陰陽師として、今回の依頼を受けさせて頂きます」
明らかに不服そうな目で見てくる藤宮をまひるは負けじと見つめ返す。
「ふうん。華奢で頼りない感じで、なんだか弱そうよね。こんなんでちゃんと治せるのかしらね」
「ご安心を。頼もしい助っ人もついております、藤宮様のご要望は必ずや叶えて差し上げます」
口の端を引きつらせながら言った。
「あなたにどうこうできる問題であればいいのだけど」
藤宮はついと横を向く。
心なしか、その表情が陰ったように見えた。すでに何かあきらめているような、気落ちした声音で言う。まひるはその小さな変化を見逃さなかった。
「今まで幾人もの祈祷師や除霊師に頼んできたけれど、誰もこの痣を治せた者はいないのよ」
そう言って藤宮は小さなため息とともに袖をめくって見せた。
そこには、肘から肩にかけて大きな痣ができていた。痣は奇妙な紋様を描き、皮膚の上を這う蚯蚓のようだった。
「これは……」
怨念が体現される様を数多く見てきた八剣でさえ、息を呑むほど強烈な有様だ。
八剣は内心やはり、と毒づいた。
まひるの呪符といい狸の式神といい、藤宮に向けられた怨念は強固なものであることを示している。
「まひる。痣の紋様をよく見てみろ」
文字を崩して描いたような腫れ。心臓部に向かって濃くなってゆく色調。確たる意志をもって怨念を呪として扱い、藤宮を苦しめている。
呪い主は呪術の知識に長けた者のようだ。それもかなり上級の術師である可能性が高い。
「藤宮様ってもしかして毎晩悪い夢を見ていませんか」
「そうね」
「吐き気や眩暈なんかが日常的で」
「ええ」
「ときには意識がなくなったりしているんじゃありませんか」
「そうよ」
「自分の行動が制御できなくなったり」
「ないこともないわね」
肩を落とすまひる。対照的に藤宮はほけっとしている。
「どうしてもっと早く言わないんですか」
「何が」
「苦しかったでしょう」
うつむく藤宮の小さな肯定。
「心当たりはありますか」
「何の」
「恨まれるようなことは」
「ないわ」
「本当に?」
「いいえ」
「どっちですか」
「おそらく」
藤宮は無感動に言った。
「美しさかしら」
「美しさ?」
「私には誰もが羨む美貌があるわ。美姫とはいつの時代も恨みをかうものよ」
「多少癇に障るものがありますが、そこは聞こえないふりをしましょう」
「……まひる、声に出てる」
八剣の指摘にも、まひるはにっこり笑っている。
妙な沈黙が部屋に流れた。
藤宮はしれっとしたままでいるし、まひるは女の敵を見たようで営業的笑顔を張り付けたままでいるし、八剣は俺は監察官だから介入しないと腕組みしたまま無干渉を決め込んでいる。
さらに沈黙が続く。
どうしたものかと、三人がしばらく考え込んでいると、まひるが何かを思いついたように手を叩いた。
「とりあえず様子をみましょう。夜になれば怨念に魅かれて雑鬼たちが騒ぎ出し、何か手掛かりが得られるかもしれませんから。先ほど張った結界に仕掛けを加えておきます」
そう言い残すと、まひるはそそくさと退席した。