プロローグ
黒い、雨が降っていた。空を覆う暗雲から落ちてくる漆黒の雨が平安京の街全体を闇色に染め上げていく。
普段なら童子たちがはしゃぎまわるこの時刻でも、今はあたりに人っ子一人見当たらない。
重く黒い曇天は時折怒り狂ったような重低音の雷鳴を轟かせて、神の鉄槌とも思える落雷をまき散らす。稲光と轟音が同時に街を襲い、その度にいたるところが雷に焼かれていた。
吹き荒れる暴風で薙ぎ倒された木々が玩具のように転がって民家の壁に衝突し、その形をひしゃげ、また暴風に煽られ飛んでいく。
降り続く雨で泥沼のようにぬかるんだ地面には、歪な赤い模様ができていた。黒一色の世界に浮かぶ赤。それは今も徐々に広がっていて、赤い水溜りを作っている。激しく打ち付ける雨で跳ねた飛沫は、血だ。
血溜まりのもとを辿ると、ひとりの少女がいた。
俯せに倒れ、あちこちが引き裂かれたかのようにぼろぼろの狩衣を纏い、半身を地面に埋もれさせている。横腹からは今なおどくどくと赤い血が流れていた。
出血の原因は、氷柱だ。氷柱が少女の腹に深々と突き刺さり、地面と少女をまとめて縫い止めている。赤い水溜りは少女の血によるものだった。
自然にできた氷柱が街中にあるはずがない。ここは桓武天皇により新たな遷都地として選定された平安京。遷都から一千年の時を経た今でも東西南北を四神に守られる地形は変わっていない。氷柱ができるような場所は平安京内に存在しないのだ。
よって少女に刺さる氷柱は自然物ではなく明らかに人工物。
何者かの手によって作られた氷柱は呪術的な呪いが施され、毒々しい紫色に鈍く光っていた。明確な殺意を込められた氷柱が少女の腹を射抜いている。
かなりの出血量のせいか、少女はぴくりとも動かない。
死が近い。
刻一刻と少女の命は死に近づいていく。このまま放っておけば確実に絶命し、御魂は昇華して亡骸だけが雨に晒されることになるだろう。無常の世からまたひとつ御魂が太陰へと還ろうとしていた。
そんな少女を助ける者は誰もいない。死と絶望が少女を包む。少女のまわりにはただ暴風雨と落雷、そして、何かの動物の頭部の骨、髑髏があるだけだった。
ふいにその髑髏が、かたりと音を立て顔を上げる。
それは意思があるように動いた。目玉のない眼窩で少女を見据え、顎を動かして歯を鳴らす、犬の頭蓋を模した大髑髏。三尺はあろうかというの巨体。強靭な顎に生えた上下四本の犬歯はそれぞれが人の腕よりもなお太い。
首から下がなく頭部だけで宙に浮かんでいる大髑髏は、開いた口からどす黒い瘴気を吐き出しながら、死にゆく少女をただじっと見ていた。
常人ではありえない、人ならざる異形のもの。
――ひとはこれらを、妖と呼ぶ。
よく見れば、犬歯の隙間から絶え間なく漏れている瘴気は狼煙のように空に昇り暗雲へと吸い込まれていた。正確に言えば、大髑髏から放たれる大量の瘴気が暗雲化し、さらに雨となって街に降り注いでいるようだ。
瘴気の雨は命あるものを穢れさせ、その生命力を奪っていく死に至る雨。
横殴りに吹き付けるその雨から逃げることもできずに、ただ晒されるままの少女。
再び、落雷。
――あとふたつ……。
胸のうちで何かを数える少女の指先がぴくりと動く。
一瞬の稲光に照らされた大髑髏はその様子に気づいたふうもなく、骨を歪に軋ませてにたりと嗤った。横殴りの暴風雨の中でただじっと少女を見ている。
「……ぅ…………、ぁ……っ………」
血溜まりに倒れた少女が微かに呻く。
まだ、生きている。
しかし意識が朦朧としているのか、その声は言葉を成さない。
口の中に入った泥水を吐き出す力さえ少女には残っていなかった。死の雨が少女の全身を容赦なく打ち付け、穢れが臓腑まで浸食しているために呼吸すらままならないのだ。
おそらくもう十を数える前に少女の命は果てるだろう。
大髑髏はゆっくりとそのときを待っている。緩慢な動きで歯を噛み鳴らす様は、少女の死を心待ちにして楽しんでいるように思えた。
少女の横腹から流れる鮮血をじっと見つめ、今か今かとそのときを待つ。
焦れたようにひとつ唸った大髑髏の眼窩が、その奥で一瞬光を放った。
大髑髏はぐわりとそのあぎとを開き、十数本の大小の氷柱を少女を取り囲むように出現させた。その中の小さな氷柱が一本、ふわりと宙に浮いたまま音もなく滑るように飛んでいき、その勢いのまま少女の足を貫く。
「――ぅがぁっ!?」
身体中を駆けた激痛に、朦朧としていた少女の意識が覚醒する。
反射で跳ねる体を、今度は続けて飛んできた大きな氷柱が貫いた。
そして残りの氷柱が次々に飛んできては少女を地面に縫い付けていく。泥沼となった地面に磔にされた少女は込み上げる吐き気を堪えられずに吐血した。気道に張り付いた血のせいで十分な呼吸ができずに、肺が空気を求めて無理矢理伸縮し、ごふっと喉を詰まらせてまた血を吐く。
失血のせいで薄れる意識を痛みで堪えながら、やっとの思いで、ひゅうひゅうと細い息を繰り返す。
すっかり血の気が失せて、顔はもはや紙のように白い。
気づけば最後の氷柱の切っ先が、少女の喉元へ押し当てられていた。鋭利な先端が少女の白い肌へ食い込んでいる。
あと半寸ほど沈めばその切っ先は少女の喉を貫くだろう。ほんのあと少しの力で、少女は、嗚咽することすら奪われる。
逃げることもできず、助けを求めることもできず、全身を蝕む瘴気の激痛にただひたすらに耐えながら死を待つ。もういっそ早く果てたほうが楽だろうというほどの、窮地と絶望の中。
しかし少女は、うっすらと目を開けていた。
その目に、悲観の色はなく。
そこにあるのは、光だ。
一縷の望みを諦めていないという程度の光ではなく、むしろ一種の強い確信に満ちた光。強固足る信念の光。
その力強い光に呼応したかのように、また雷が落ちた。落雷の衝撃で瓦屋根が剥がれて飛んでいく。
――あとひとつ……。
少女が胸中で呟く。
同時に、大髑髏から死角になっている右手の指二本を動かした。
そして、目が眩むような閃光があたりを満たした。
次いで地を這うような轟音とともにひときわ大きな雷が、少女の隣に転がってきた大木へ落ちる。
――できた、……。
次の瞬間、少女の口が笑みの形に引き上げられた。そして、少女は右手の人差し指と中指をぴんと伸ばした印を組む。
すると泥沼に広がる赤い水溜まりが少女を中心に五芒星を描き出していく。
青白い光でできた、少女を囲むように作られた大きな五芒星だ。
よく見れば五芒星の頂点の直線上にそれぞれ落雷の傷跡があった。壁や、大木、地面に黒い焦げ跡が残っている。
「――急急如律令!」
少女の口から、真言が放たれた。
それは、陰陽師が使う力ある言の葉。
血にまみれた少女の全身を、青白い神通力が迸る!
かっと見開かれた瞳は仄かに青白く光を帯びて、どこか神々しささえ感じられた。
少女を磔にしていた氷柱は青白い神通力によって爆砕し、周囲に破片をまき散らした。横腹に刺さっていた氷柱も消え、青白い光がその傷口を塞いでいく。
そのおかげで出血も止まり、少女はやっとまともな呼吸ができるようになった。
対して大髑髏は金縛りにあったように硬直していた。それまで自在に操っていた氷柱も、口から噴き出していた瘴気も、みな消えている。
少女の指先から伸びる青白い神通力の光が、大髑髏へとつながっていた。
そして立ち上がった少女は不敵な笑みを大髑髏へ向ける。
「――言霊って知ってますか?」
大髑髏は恐怖に慄くようにカタカタと歯を鳴らすばかりだ。
少女の黒い髪が、さあっと風に流れた。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前!!」
驚愕の色を浮かべた大髑髏が、青白い光の柱に包まれる。
「――私は絶対に倒れたりしない」
少女の瞳に宿る強い意志。口に出した言の葉は言霊となり、神に誓う祝詞となる。
青白い五芒星の光の柱に閉じ込められた大髑髏を見据える少女は凛として美しい。
それは黒く荒廃した今この街に顕現した女神かのように。
少女が、強く笑った。