表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: Kamias
8/8

悪食


最初に食べた人は母さんでした。

その時のことを語るには、時間が少々足りないかも

しれません。

ただ、どうしょうもなく、むしゃくしゃしていて

それと同じくらい、お腹が減っていたというのが

印象に残っています。


僕の母さんはひどい癇癪もちで、

父と離婚してからは

特にひどかったと覚えています。

僕も親譲りの癇癪持ちで、

社会の人々の営みに対して、

どうしょうもなく苛立ちを感じていました。

道行く人の話し声、

車のクラクションの音、

同僚や友人たちが送るお決まりの慰め。

そのどれもこれもが、僕の胸の中で

煌々と燃える埋め火を育てていたように

思います。


それが爆発したのが2年前のあの日です。


母さんはその日も僕に罵声を浴びせ、

ものをなげつけてきました。

それ自体に対しては、もはやなんの

感情もいだくことはなかったのですが

母さんはそんな僕に絶縁を言い放ちました。


僕はこの時、散々人から奪うだけ奪い、

吸い上げるものがなくなったら捨てるという

人の醜さを、僕の周りを囲う人の醜さを

母さんに見出したような気がしました。

僕はこの時初めて、他人に暴力をふるいました。

友人たちのアドバイスが脳裏によみがえり、

見ざる聞かざる言わざるを徹頭徹尾、実行しました。

母さんだった肉塊が床に転がっているのに気が付くと

その時自分がどうしょうもなくひもじい思いになっているのを

感じて、気が付くと肉塊はむごたらしく食い漁られた

魚のような有様になっていました。

残っていたそれを、庭の土に埋めることにしました。


それからの生活は、とても静かなものであったと思います。


幸い母さんが関わっている人間は僕以外になく、

僕が人を殺して食べたという事実が明るみになることもないまま

僕の日常は過ぎ去っていきます。

徐々に言いようもない恐れは薄れていき、

イヤホンで耳をふさげば、人の喧騒も

気になることはなくなったのです。


ある日、朝の食卓で眺めるニュースで

とある殺人事件について報道されていました。

殺された人間についてはさほど語られることは

ありませんでしたが、僕はこの殺された人物を

想い、こう考えました。


きっと碌な人ではなかったのだろう。


僕はとてつもない

幸福感と優越感を抱いたことを

覚えています。


僕は食物連鎖の頂点に立ったのだと。


それからの人生はバラ色でした。


社会に生きる人々はたくさんの悩みを

抱えながら生きていくのでしょうが、

僕だけはその枠組みからはずれ生きていける。

人は殺せば死ぬのだし、食べれば跡形もなく

消え去ってしまうのだと僕は知っている。

その事実が、僕に自信を与え、

あれほどに苛立ちを覚えていた人々が

どうしょうもなく愛おしく、尊いものに

感じることができたのです。


「あなたって、人を食ったような性格をしてるのね」

ある日の晩、ある女性が僕にこう言いました。


その日は会社の飲み会で、僕はこっそり

退屈を持て余していました。

お酒の場はあまり好きではないのです。

あの鼻腔を刺すような酒の匂いがどうしても苦手でした。

しかし、仮にも人間社会に身を置くものとして、

付き合いは大切にしなくては、とそう考えて

できるだけ、酒の場には付き合うようにしていたのです。

場が落ち着いたのを見計らい、僕はその場を後に

しようとした所に彼女は声をかけてきたのです。

彼女は会社の同期で、直接話しをしたことは

ありませんでしたが、明るくて元気で

周囲からとても評判の人間であったかと思います。

彼女はずいぶんと酒気を帯びているようでした。

目がとろりとしていて、呂律も回っておりませんでした。

「帰るのななら一緒に帰ろう」と言ってきたのですが、

正直あまり乗り気ではありませんでした。

しかし、特に断る理由も思いつきもしなかったので

僕はしぶしぶ彼女の申し出を受けました。

彼女はとめどなく口が良く回り、帰り道まで

飽くことなくしゃべり続けていて、僕はそれに対して

適当に相槌を繰り返すばかりだったのですが、

彼女は何をどう勘違いしたのか、僕にこう提案して

きたのです。


「泊まれる場所にいこうか」


それまでの彼女に抱いていた印象が覆った瞬間でした。

手頃なホテルに辿りつくや否や、彼女は僕の唇に

自分の唇を押し付けてきました。

その表情はさきほどまでの無防備な少女のような

それとは異なる、完全な雌の表情のようだったと感じました。

僕は彼女に応えるように、一心不乱に彼女を抱きました。

生まれて初めて女を抱いた夜でした。

それはなんとも、形容しがたい体験であったと思います。

肉食獣の戯れとはきっとこんな感じなのだろうかと

妙なことを考えていたと思います。

情事にふけり、互いに体力を使い果たしてベッドに倒れこんで

しばらくしていると、彼女は僕の上に覆いかぶさってきました。

未だ僕を求めているようでした。

僕は疲れたと、拒絶の意を示しました。

それでも彼女は迫ってきます。

僕はその時、彼女の目が誰かに似ていたように思いました。

あの表情は確か、そう、死んだ母と似ていたのです。

僕はその目に、長らく忘れていた恐怖と怒りを思い出したのです。


艶やかな雰囲気は一気に剣呑としたものへと変わり、

気が付くと僕の手は華奢な彼女の白い喉元へと伸びていました。

力の限り、彼女の首を引き絞りました。

甘たるい彼女の声はガチョウのようなそれへと変わり果て、

僕の背に爪を立ててしばらくして、ついに果てたのです。

彼女の呼吸が止まっていることを確認して、僕はようやく

落ち着くことができたのですが、そこへどうしょうもない

空腹感が襲ってきました。酷く懐かしい、母を殺したその日に感じた

焼けるような空腹感でした――


――「お話しすることは、これくらいになります」


まもなく死刑執行となる、地下の小さな一室。

かつて世間を恐怖のどん底に突き落とした優男は

少し疲れたような表情を浮かべた。

私を含む死刑執行人の3名は、饒舌に語られた非道の数々に対する

吐き気と嫌悪感を必死に堪えて執行の時を待った。


ごおん、と鐘の音が鳴る。

私たち3名の執行人は緊張に身を構え、

男は静かに鐘の音に耳を傾けていた。


「・・・最後に言い残すことはあるか?」


気まずくなった私はつい口を滑らせしまう。

それを聞いた男は数度、目をぱちくりとさせて

ふっと短く笑みをこぼすと、ただ一言漏らした。


「なにもありません」


私たちは手を添えていた電気椅子のレバーを

思い切り下ろす。


次の瞬間、男が腰かけていた椅子に

電流が走り、男の命を奪った。


男に裁きが下るその瞬間に浮かべた表情が

いまでも脳裏に焼き付いて、離れない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ