下町探偵奇譚-上-
神奈川県鎌倉市の小町通りといえば
昨今は老若男女がやれ"すぃーつ"だとか、
やれ土産物がどうだとかで犇めき合い
年中活気に満ち溢れた観光名所の一つであると思うが
ちょっと道を外れれば、そこには古い寺や民家が立ち並び
まるで、時代の外につまみ出されたような景色が広がる。
そんな不思議な場所だ。
そんな不思議な場所に一人、
どこか落ち着きのない青年が
そろそろと歩いていた――
***
「うーん、本当にここであっているのだろうか?」
恐る恐る、といった具合に青年はひとりぼやく。
彼、宗岡 三郎太は今まさに大きな大きな危機に瀕していた。
事の始まりは、七日前にさかのぼる。
都内で一人暮らしの大学生の彼は、
日々アルバイトと抗議のレポートに追われ
息をつく暇などないほどに世話しない日々を送っていたわけだが、
ある日友人からこう連絡があった。
「鎌倉に行こう!!」
とっさである。
普段であれば、二つ返事で「だが断る」と
そう返していたであろうが
この時の彼はずばり、どうかしていたのであろう。
「おうけい!!」と気前よく返事をするやいなや
バイトも講義の予定もかなぐり捨てて、
身繕いをすますと、すかさず鎌倉へと飛んだ。
「はぁ??そんな連絡してねぇんだけど??」
とは友人の一言である。
彼はいやいやいやいや、と物申したが
友人の態度からは決して嘘を感じられなかったし、
確かに唐突な奴ではあるが、こんなに悪意のある唐突を仕込むような
そんなやつではないと、三郎太は知っている。
しかしそれはそれ。
確かに友人の電話からメールで連絡があったことは
まごうことなく事実であった。
一つ物申そうと息を巻いたその時である。
突然、電話越しの向こうの声が「ぶれた」
「あれ?もしもし?もしもーし!」
ざぁっ・・・ざっ、と砂嵐の音に
壊れたラジオのようなぴーひょろとした音が聞こえると
ぶつりと電話は途絶え、それ以降繋がることはなかった。
そこで帰っていれば、きっと間違いもなかったのだろう。
しかし彼としてみれば、せっかく何もかもを捨て旅に臨んだ身。
ここでただ帰るのももったいないと、そう考えたのだ。
彼は一人、鎌倉の街を練り歩くことにした。
普段は決してお目にかけない、厳かな寺や石畳に
目をキラキラと輝かせ、新鮮な魚介料理の舌鼓を打ち
すっかり鎌倉を満喫して、気が付けば日が暮れかけていることに気が付く。
「うーん、ここで帰ってもなぁ・・・
どうせなら一晩ゆっくり休んで・・・
あぁっ!何なら温泉もいいかもなぁ!!」
幸いにも、ここ数日でため込んだバイト代で
懐はまだまだ潤沢。
少しくらいの贅沢くらい、たまにはいいだろう!
と、心を弾ませて宿屋を探して歩き回った。
ほどなくして宿は見つかった。
いや、今思えば「捕らえられた」のかもしれない。
その宿は寺が立ち並ぶ街並みからそれた路地裏で見つかった。
一見、古風な銭湯に見えるその宿屋。
屋根からはもうもうと湯煙だろうか、煙突から白い煙が上っていた。
宿の外にはかすれた墨字で「樺倉屋」と札が立っている。
他の宿も探してみようかと最初は考え、踵を返そうとしたが
三郎太がここまで歩いてきた道のりは、街灯も消え、人気も去り
夜の帳に鎖されているように見えた。
それが少しばかり空寒く、不安から逃れたいとも思った。
なにより、その宿屋に妙に心引かれるように感じたのだ。
三郎太はしずしず、しかし足早に宿屋の暖簾をたくしあげて足を踏み入れたのだ。
「ごめんくだーい」
中は暖かい空気に包まれていた。
時折家鳴りが聞こえ、少々不気味さも感じるが、
それがこの時の彼には「味」だと感じたのだ。
しばらくして、スーっと襖が開く音が聞こえ
やがて、トトトと足音が聞こえると
入口からまっすぐ闇に続くその奥から、店主と思わしき男がぬらりと現れたのである。
「いらっしゃいまし、お客様」
「こんばんは、突然にすみません。
今日、東京から来たばかりなのですが
宿を取ってなくて・・・
部屋は空いておりますか??」
「へぇ、遠くからよくぞお越しくださいました。
部屋は空いておりますゆえ、寂れたところではありますが
よければ湯に浸かりながら、骨を休めてってください」
店主の男は、目元に深い皺と濃いクマをこさえており
不気味さを覚えたが、にへらと愛想よく浮かべたその顔が
気の良い好々爺を彷彿させた。
三郎太はそれに気をよくして、宿の戸を後ろ手に占めると
案内に従って、二階へと駆け上がる。
通された部屋は、三間十六畳の一人で過ごすには、
いささか広いように思えるそんな部屋だった。
天井に吊るされた灯篭のような明かりが、
隅々に置かれた、古風な置物に当たり
部屋を雅に彩っている。
不相応に感じた三郎太。
いくら懐が潤っていようとも、
ひょっとしたらとてつもなくボられるのでは?
と、不安を感じて店主に「いいんですか?」と尋ねる。
すると店主は、ひと間おいてほっほっと察しがついたように笑って答えた。
「どうせ、誰もいやしませんし
これからいらっしゃるお客さんもいやぁせんでしょう。
心配せずとも、取って食うような真似はしやせんよ」
これはいかん。
失礼を働いたかもしれない。
三郎太は控えめに、お辞儀をすると「じゃぁ、遠慮なく」と答えて笑う。
店主は三郎太の顔を見て、また人の好さそうな笑みを浮かべる。
しかし一瞬を、三郎太の顔を透かして虚空を眺めたように見えた。
三郎太が違和感を口にしようとする前に、店主がぬっと身を引く。
「・・・ごゆるりと」
そう言って、襖を引いて姿を隠した。
***
真夜中。丑三つ時。
床に就く前まで外で聞こえていた虫の鳴く音も
今ではすっかり静まり返り、世のすべてが眠ってしまったであろう時間。
そんな時間に息苦しさを感じて、三郎太は目を覚ました。
周りを見渡す。
特別変わった様子はない。
都会の貧乏学生が泊まるには、
少々贅がすぎると思う部屋の景色が伺えるだけだ。
少し暑かったのか。
気が付けば浴衣がじっとりと濡れているのを感じる。
貧乏心ゆえに、エアコンをタイマーでかけたのが間違いだったか?
やれやれと、乱れた浴衣を整えて立ち上がり、エアコンをつけなおそうとした。
しかし
「あれ?・・・」
身体が重く、自由が利かない。
背筋に悪寒を感じて慌てふためく三郎太。
息が、苦しい。
空気を多く取り入れようと、大きく息を吸おうとして
のどに違和感を覚える。
何かが喉の奥に絡んでいるような、気持ちの悪い感覚。
焦り、正体のわからぬそれを懸命に吐き出し、
べっと布団に転がり落ちたそいつを手に取ると
それに気が付いて、ばっと手を放す。
濁り、どろりと溶けかけた飴玉のようななにかに
絡みついた人の毛のような塊が落ちた。
三郎太の呼吸が乱れる。
ひゅーひゅーと漏れる息の音に合わせて、
これまで沈黙を保っていた部屋が急に鳴き出した。
「なんなんだよこれ!?」
腰を抜かした三郎太は辺りをせわしなく見渡す。
すると、部屋の奥に真っ黒な「淀み」を見つけた。
身を震わせ、その一点に目を凝らす。
"それ"の正体に気が付くと、ぞぉっとつま先から頭のてっぺん目掛けて怖気が走った。
暗がりに浮かぶ女の顔。
大層整ったその顔には、しかし大きく欠いたものがある。
目のあたりは大きくくぼみ、下あごがないのだ。
そいつは音もなくそこに在り、
あるはずのない目で、三郎太を見つめていた。
声にならない悲鳴をあげる。
女がじりじりとこちらへ近づいているように見えた。
腰の抜けた身体に鞭を打ち、必死で這うようにして女から距離を取ると
部屋の戸へと手をかけた。が、しかし
開かない!開かないのだ!!
部屋の外から何者かに抑えられたように
戸は固く閉ざされていた。
そうこうしている間に、女は目と鼻の先にまで近づいてきていた。
口のあたりから腐臭が漂っている。
すっかり混乱した三郎太は、部屋の戸をドンドンと蹴ってぶち破ると
転がり落ちるように一階へと駆け下りた。
そのまま宿の引き戸に手を駆けると、一糸乱れた姿もお構いなく外へと飛び出して
夜の街を駆けた。
「はぁ・・・!はぁ・・・!」
三郎太は必死で駅を目指して駆ける。
途中民家の戸をだんだんと叩いたが、
どこもかしこも固く閉ざされて、人が出てくる様子はなかった。
途中途中で、後ろを振り返り、あの女が追ってきていないか確認しながら
走り回り、ようやっと駅にたどり着く。
しかしながら、当然駅には誰も人がいない。
駅の入り口に腰を下ろすと、息を着く。
女は、追ってきてはいない。
はぁーっと大きく息を着いて目を閉ざす。
深呼吸して、呼吸を整えて、コンビニを目指そうと
冷静さを取り戻していく。
よし、と立ち上がろうとして目を開くと
あの女が目の前に立っていて、自分を見下ろしていた。
時が止まったように感じた。
恐らくうめき声をあげているのだろう。
しかし、耳に何も入ってきはしなかった。
ぼとり、ぼとりと、女の喉の奥から
何かが自分の上に零れ落ちる。
それを確認する前に、三郎太は意識を手放した。
――おにいさーん。もしもーし?
誰かが自分を呼んでいる声が聞こえてきた。
次に閉じた瞼の外に明るさを感じる。
三郎太は、ゆっくりと目を開けると
駅員であろう男性が、心配そうに、そして少し迷惑そうに自分を見ていた。
寝転がった身体を起こして、周りを見ると、通勤通学途中の人々の往来が目に映った。
「困るよお兄さん、こんなところで寝られちゃあ」
はて・・・?何故、自分はこんなところで寝ころんでいたのか?
未だ働きの悪い頭を使って、昨夜のことを思い出す。
確か自分は、突然友人に誘われて、鎌倉にきて、宿を探してそして・・・
あの女の顔が記憶の底から呼び起こされた。
「お兄さん、大丈夫かい?顔色が悪いようですが・・・?」
「あ、あの、女が、昨日ここに、女が」
「はぁ?お兄さん、変な女に捕まったのかい?
この辺りの夜はおっかねぇですからね。
気をつけてくださいよ?」
「は、はぁ・・・あの、ちょっと道をお尋ねしたいんですが
"樺倉屋"って宿屋はどこですか?」
「はぁ・・・?樺倉屋、さん、ですかい?
さぁ・・・生憎、このあたりは詳しくないもんで・・・
そこに、交番がありますから、そこで聞いてください」
「あ、その、どうもすみません」
ゆっくりと立ち上がると、自分の姿に目が向いた。
裸足に、はだけた浴衣。
気恥ずかしくなって、三郎太はいそいそと交番へと足を運んだ。
ガラガラと戸を引いて、交番に足を踏み入れると
何事か、といった表情を一瞬浮かべて、駐在さんが
「どうしましたか?」と伺ってくる。
三郎太は尋ねる。
「あの、すみません。先日、樺倉屋って宿に泊めていただいてたんですが・・・
道がわからなくてですね。道を教えていただけますか?」
それを聞いた駐在さんが顔をしかめる。
すると奥の部屋から、別の駐在さんがやってきて
こそこそと話している。
何事だろうか?
怪訝そうに顔をしかめていると、
後からやってきた駐在さんが訪ねてきた。
「お兄さん、"樺倉屋に泊まった"って?」
「えぇ、はい。それで昨日・・・ちょっと大変なことがあって
それでこの格好で・・・荷物を置きっぱなしなので
急いで取りに戻りたいんですが」
三郎太の言葉に対して、ためらいがちにこう返した。
「何かの、間違いじゃないかい??
樺倉屋さん、ずいぶん前に"亡くなってるんだよ"」