海月
クラゲ。
海に漂う月と書いてクラゲ。
その実体は、目的も不明なまま
ただそこにある世界を漂う
生き物なのか、そうでないものなのか曖昧な存在。
ジェリーフィッシュレイクという湖がある。
そこにはクラゲの外敵となる生き物がいないため、
クラゲたちは身を守るための毒すら持ち合わせていないそうだ。
私もその湖に入った事がある。
その中は、色とりどりの赤や黄色が海中を彩り
浮かんでは沈み、無音の世界を漂う・・・
心を奪われる光景であった。
そんな生き物を綺麗だという者たちもいるが
馬鹿にして嘲笑する者たちもいる。
『無意味な命だ』と。
しかし、私はこう思う。
『クラゲの方がマシだ』と・・・
誰も刺す事もなく、誰も害する事もなく
水の世界を彩る、このどこまでも透明な生き物が
堪らなく好きだった。
私の世界を塗りつぶす存在、『人間』は、
漂うだけならまだしも、目的もなく誰かを刺すばかりだ。
だからこう言いたい。
『人間に、クラゲ程の価値があるのか?』と。
・・・いや、それなら私もまた同じか。
『私達人間は、クラゲ程に美しく透明な存在か?』と、
そう思ってしまう。
満員電車の人の臭いに吐き気を催す。
表では笑顔を浮かべて、裏で顔を歪めて罵る光景に目眩がする。
『自己責任』を振りかざして、相手を混乱させるような無責任な言動に頭痛がする。
ドロドロと得体の知れないモノを内包し、自己中心的に世界を汚していく存在。
そんなものがある世界の全てが嫌になって、私は一人海外に出た。
誰にも触れられない場所に行きたい。
それだけの想いで、一人宛もなく海を目指した。
そしてまた私はかつて、心奪われたあのジェリーフィッシュレイクまでやってきた。
いざ改めて目にしてみると、私がどれ程にそれを渇望していたのかが分かった。
私はまさに、渇く身体が潤いを求めるように一心不乱にその池に足を踏み入れて、深く潜っていった。
深く深く深く沈み、水中から水面を仰ぎ見る。
水面から光が射し、それを反射して輝くクラゲ達。
それはまるで万華鏡の中にいるような光景だった。
なんて、美しくて儚いんだろう。
水面から遠ざっていくにつれ、私はあの忌々しい世界から逃げ切れたように思えてきた。
そして顔が醜く歪むのを感じた。
ざまぁみろ、と。
私はきっと、クラゲ達に囲まれてここで死ぬのだろう。
だんだんと息が苦しくなってきた。
だがそれも悪くはない。
この息苦しさよりも、あの世界の方がこの何倍も苦しかった。
死は美、美は死。
薄暗い水底にゆっくり落ちていく中で、かつてどこかで聞いた言葉が過る。
こうして落ちていき、私が死ぬ頃には
胸が張り裂ける程に恋い焦がれた、水中を漂う月たちと同じものになれるのだろうか。
今まさに、もはや感覚すらない手を伸ばし触れられる程の距離にいる、この美しい生命の一つになれるのだろうか。
すると
胸の奥底から形容しがたい何かが込み上げ、顔の裏を這い上がり、
目から溢れだしていくのを感じた。
涙だ。
水中をまるでクラゲのように、涙が水中を漂っていくのを感じた。
もう、手足が動かない。
視界が朧気に揺らぐ・・・
もっとこの光景を見ていたい。
そんな私に見向きすらせず、クラゲたちはただ世界を彩り、漂い続ける。
そうだ、クラゲにとってはこんな些細な私の人生など関係ないのだろう。
きっと彼ら、彼女らは自分たちの一生など意識しないだろう。
意識せず、認識せず
自分たちがどれ程に、多くを魅了する存在なのかも知らずに、
暗い水中を漂い続けて一生を終えるのだろう。
ああ、卑怯だな。
ああ、悔しいなぁ。
なんで、こんなに、涙が止まらないんだろう。
薄れ行く意識。
私の最期。
クラゲ達の輝きが一層増した気がした。
『バイバイ』
そう、聞こえた気がした。
私の魂は、きっとこれからも
この海の月たちが泳ぐ水中で眠り続ける。