祈りとはかくのごとく行うべし
白髪の老婆は眼鏡を掛けて腰を丸めて張りのある声でゆっくりと聖書を読んだ。
「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。その頃、主の言葉が望むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」
「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、『ここにいます』と答えて、エリのもとに走って行き、『お呼びになったので参りました。』と言った。しかし、エリが、『わたしは呼んでいない。戻っておやすみ』と言ったので、サムエルは戻って寝た。」
『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話し下さい。僕は聞いております』と言いなさい。』
「これが祈りです」
と聖書の先生は言った。
「祈りとは、主の言葉を聞くことです。願いを聞いてもらう行為ではありません。『主よ、お話しください。僕は聞いております』」これが祈りの原型なのです」
素直な娘は真面目に授業を聞いていた。テストの点数のためではなく、興味深かったからだ。黒髪豊かな娘は目を光らせて、跪くサムエルの絵を眼光鋭く見つめていた。
彼女は愚直なほどではないが勤勉でありまた幼稚園も基督教系であったから、何か探し物が見つかった時に主の祈りを口ずさむほどには宗教に毒されていた。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに会わせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
これを暗記していなくては彼女の学校では恥をかく、というか六年間も唱えていれば誰だって覚えるし、幼稚園も加えれば九年近く彼女はこれを暗誦している。
便利なもので、彼女はこれを念仏の代わりにしていた。
天にお父様がいらっしゃり、私の傍にはイエス様がいつもいる。
娘は聖霊の概念はよくわからなかったが、幼心に叩き込まれた宗教観は凄まじく、今では初詣で神社に踏み入れることすら躊躇うほどだ。
天才的に頭が良く、見目も麗しい女であった。街で声を掛けられない日はない。
それでも彼女は、敬虔であった。
「私の葬式は、白い百合と讃美歌で」
というと弟が言った。
「姉さんは自分の葬式を結婚式みたいにしたいんだね」
白い百合と讃美歌は確かに――彼女は結婚式で我を通せなくて百合を持てなかったのだが――結婚式のイメージだろう、一般的には。
信仰告白がまだできていなくて洗礼を受けていない娘は、今日も夫の隣で讃美歌は何番にしてくれとか頼み、「エンディングノートを書かなくては」と気の早いことを考えるのであった。
彼女は自由だった。聖書は娘の心の支えとなり、自殺を考えたときには牧師に聞いたのだ。
「何で自殺しちゃいけないんですか?」
牧師は答えた。即答だった。
「十戒で人を殺してはいけないと書いてあるから」
笑顔だった。得心した娘はそのおかげで二度と自殺は考えなかったのだ。
娘を縛る戒律は、人を殺さないことと姦淫しないこと。つまり全てはシナイ山でモーセが神よりいただいた十戒に集約されている。
生き生きと娘は今日も夫を迎えに駅へ向かう。
この幸せが永遠に続きますように。そう彼女は祈らない。
神様の計画通りにこの世があれかし。そう祈るのみであった。