006
洞窟の中にどれくらいいたのかわからないが、茜色の光が暗幕の間から射し込んできている事から己の体感よりも随分と長い時間が経っていた事が分かる。
志智郎の話が終わるとその場で解散させられ、負傷者を先にして生徒達が退場していく。
俺は後ろめたさに鉛の様に重くなった足を踏み出せずにいた。
「兄さん、もう行こう。さっきから何だか変だよ?」
すでに人も疎らになった体育館にこれ以上いる意味はない事などわかってはいるが、後悔ばかりが足に纏わりつく。
「けほっ。日向奔君だね? ちょっといいかな?」
いつまでも、うじうじとしている俺に志智郎が声をかけてきた。
俺なんかに一体何の用があるのだろうか、志智郎は微笑を浮かべて俺を誘う。
体育館を出て、案内されるままに志智郎の後に着いて行く。
少し距離を開けて着いてくる静琉が穏やかな表情を浮かべる志智郎とは異なり、眉間に皺を寄せて怪訝な表情をしているのが妙に気になった。
職員室と札の掛かった扉を入り、その奥の学年主任室へ。
ここでは学年主任が最高責任者なのか職員室に並べてあった鉄製の机とパイプ椅子とは対称的に豪華な木製の大きな机とリクライニングチェア、中央には向かい合った来客用と思わしき大きなソファーがある。
俺がいた世界では校長室は大体こんな作りをしているものだが、こちらの世界はやはり少し違っている。
手持ち無沙汰に辺りをきょろきょろと見回しながら突っ立ている俺達に志智郎が座るようにと手だけで促す。
ソファーへと腰かけるとあまりの柔らかさに後ろに大きく踏ん反り返り背もたれに寄りかかってしまった。
直るのも照れくさいのでそのままでいてやろうかとも思ったが、汚物でも見るかの様に俺を見下す静琉の視線に慌てて寛いだ姿勢を正す。
「さて……、ごほっ。」
志智郎が前置きの言葉を発し、緊張に身体がぴくりと反応してしまった。
職員室や校長室って所は悪いことをしていなかったとしても緊張せずにはいられない、と言っても後ろめたい事がなければ連れてこられる事もまずないものだが、異世界からの漂流者と言う後ろめたくはないにしろ、こちらの世界の人間には隠しておきたい事が確かにあるのだから余計に緊張してしまう。
「先程の洞窟での映像はこちらでモニターしていてね。君には面白い物を見せてもらったよ。」
志智郎に聞こえてしまうのではないかと心配になるほど心臓が大きく脈打ち、瞳孔は収縮していく気がした。
魔法が使えないことを言っているのだろうか?
もしかしたらこちらの世界の人間ではないとばれてしまったのか?
ばれていたらどうなってしまうのか?
不安ばかりが募る。
「――あれは機械練成かい?」
「は?」
突然「あれ」と言われても何の事か分からず、つい素っ頓狂な声が上がる。
「洞窟で見せた腕を練成させた術式さ。あんな術式は見た事がない。あれはいつ、どこでインストールした物だい?」
「いや、それは……」
言葉に詰まる俺を真横に立っている静琉が訝しげに見下ろす。
「当然、知っているとは思うが機械練成が不可能と言われているにも関わらず、君は機械練成らしき術式を使用した。私がしている質問は魔法に携わる者として自然な疑問だと思うのだが?――げふん。」
「…………」
「当然」の部分に不自然に語勢を強めた志智郎に上手い言い訳の言葉が見つからない。
どこまで悟っているのだろうか、表情からは何も読み取る事ができない。
言い訳をしても下手を打ちそうな上に、上手く誤魔化そうとしても口元には笑みを湛えてはいるものの、レンズ越しの瞳がまるで笑っていない志智郎には心の奥まで見透かされている気がしてならない。
「答えられない理由でもあるのかな?」
「そういうわけでは――」
「あれは機械練成ではありませんよ!」
俺が困惑し曖昧な受け答えをしていると翔が怒りの色を含んだ言葉を放った。
「私の目には機械練成に映ったのだが――」
「志智郎さんともあろう人が何を馬鹿な事を。人間では精密な機械を思念化する事はできず、術式の開発者自身が思念化できない物は術式化もできないのは最早、常識です。兄の魔法は僕が開発中の人体強化練成術式に過ぎません。」
「ごほっごほっ……。君はそう言うが、形状や素材が大きく変化していたのはどう考えても妙だし、何より思念化をオートで行ったとはいえ、発動した術式を術者が制御できておらず、その場から動く事すらできないとは一体どう言う事だね? 練成を初めて行ったわけでもあるまいし。さらに言えばお兄さんが身に着けているMRDのモデルを私は見た事もない。おかしな点があまりにも目に付くとは思わないかい?」
これまで穏やかだった志智郎の口調が心なしかきつくなる。
口元は相変わらず笑んでいるが、すでにそんな柔らかな印象は微塵もない。
「開発中と説明しました。術者が制御できないのはその為です。MRDも祖母が新しく開発した新モデルで、これもまだデータ採取中の未完成機です。」
「日向笹江女史が……。」
納得した訳ではないのだろうが、祖母の名を出した途端に志智郎はあからさまに言葉に詰まった。
何とか凌げそうな気配が漂ったのは束の間で、それまで大人しく聞いていた静琉が反論する。
「待てよ、翔。じゃあ何か? お前の糞馬鹿兄貴は不完全なMRDをぶら下げて、不完全な術式を窮地の場面で発動したとそう言うわけか?」
「そうです。」
「MRDの再起動をクソビッチの千早にやらせて、ATモードにしたのも不完全なMRDの所為だとでもいいやがる気かよ?」
「そうなりますね。」
静琉は嫌悪感を露わにして口元を歪め「ふざけやがって。」と捨て台詞を残すと部屋を出ていった。
表情一つ変えず口から出まかせを次から次に繰り出す翔に感心する。
俺は黙っていた方が良さそうだと思い、ソファに寄り掛かり他人事のように振る舞った。
穏やかな表情のまま睨みをきかせ合う翔と志智郎。
やがて志智郎が大きな咳払いを一つして根負けしたのか、翔から目を逸らした。
恐らくその間三人の中で一番緊張していたのは小心者の俺だったのだろう、志智郎に悟られない様に静かに長く息を吐いた。
「まぁいいでしょう。そう言う事ならばこれ以上追及もしません。ごほほっ……。けどね翔君。僕は君の事もなんだか別人みたいに感じているんだ。はっきり言えば不審に思っている。それだけは忘れないでくれ。げほっ……げーほっ。負傷者も多いので明日以降はしばらく休校にするから、しっかり身体を休めてくれたまえ。」
一礼して主任室を出ようと扉に手を掛けると背後に視線を感じた。
志智郎が時折みせるあの猟奇的な眼差しを俺達の背中に向けているのではないかと思ったが振り返れば彼の中の疑念は確信に変わってしまう。そう思ったから振り返らずにおいた。
帰りの廊下では誰一人、人とすれ違う事はなかった。
静まり返った廊下に俺と翔の足音だけがぺたぺたと響く。
別の世界云々《せかいうんぬん》は勘付いていないとしても、俺達が本当の俺達ではないのではないか、という疑念は持っていると確かに言った。
考えてみれば死んだとされていた俺達が実は生きていたと突然現れれば誰だって大なり小なり不信感は抱く。
魔法で姿形を真似る事も可能なこの世界では疑われても当然と言えば当然だ。
「――兄さん先にバス停に言っててもらえるかな?」
思案に更けていた俺は隣りを歩いていた翔が立ち止っている事に気が付かなかった。
俺の5、6歩後方でやや俯き加減の翔の姿に何やら胸騒ぎを感じた。
「何言ってんだよ?」
「教室にちょっと忘れ物をしてね。すぐに追いつくから。」
「俺も一緒に――」
「大丈夫だから。」
言葉を被せる様にする翔はいつもの様に愛らしい笑顔だったが、胸騒ぎはさらに募った。
「そ、そうか。」
俺はこういう時の翔の詮索はしない。と言うよりできない。
自分より遥かに優秀な弟の心配をして、これまで取り越し苦労に終わらなかった事はない。
俺は翔を置いて、廊下の曲がり角を曲がりバス停へと向かった。
***
「――趣味、悪くないですか?」
空虚に言葉を吐きかける翔。
「僕が気付かないわけがないでしょう?」
翔の背後の少し離れた空間がねじ曲がるように歪んだ。
カップのコーヒーにミルクを落とした時の様に景色が渦巻き、色が混ざり合う。
「あたしはさっきの説明じゃ納得できねぇな。お前、本当は翔じゃないだろう?」
混ざり合った色が弾けて広がり、そこから飛び出る様にして静琉が現れた。
静琉は下着に近い露出度の高すぎる赤い服の上に前のボタンは全開の七分丈のジーンズ生地の上着を羽織り、かなり際どい所まで切り上がったショートパンツ姿へと着替えていた。
首だけを背後へと向ける翔の顔にいつもの笑みはない。
「日向翔ですよ。どう見たってそうでしょう?」
「何かおかしいってあたしの勘が言ってんだ。」
「それではどうすれば納得してもらえるのでしょうか?」
「力を示せ。あたしをイカせて見ろよ! 偽物野郎!」
静琉の首元にあるネックレス状のMRDが強い光を放ち、翔へと踏み出した肉付きのいい色っぽい脚がコンクリートの床を踏み抜く。
高速で飛来する静琉が通った後の廊下の窓ガラスが彼女を追う様に砕けて飛散した。
翔の眼前に現れるまでコンマ何秒という速さで距離を詰めた静琉が大きな胸を左右に揺らして正拳を繰り出す。
静琉の拳は風の壁を貫いた様に破裂音を立てた。
翔は間一髪で頭を後ろに倒して交わしたが、常識外れの速度と威力を誇る静琉の拳が掠めた前髪が焦げ臭い煙を上げる。
勢いあまって翔を通り過ぎた静琉が地面に片手をついて、廊下を滑る様に後ろに下がり二人の距離が離れた。
踏ん張らなければ止まれないのだろう。静琉の脚と手が着いた床の表面が削れ、三本のラインを残している。
「がはっ……。」
攻撃したはずの静琉が腹部を抑えて吐血する。
細く括れたわき腹にはっきりと残る殴打された様な痣。
静琉へと冷酷な程に冷ややかな視線を向ける翔の手には本の形状をしたMRDが持たれていた。
「何しやがった?」
翔は答えない。
静琉はショートパンツのポケットから黒の生地にピンクのレースが飾られたシュシュを取り出し、一度口に咥え、長く艶やかな黒髪を束ねた。
反対のポケットから黒い皮手袋を出してゆっくりと手に嵌める。
「いいねぇ。濡れるぜ。――前戯は終わりにして、ここからは本番と行こうか!」
両足で踏み切った床が爆発音と共に粉砕し、静琉の大きな胸が上下に大きく揺れる。