012
教室に戻ると白木の机が羅列された最後尾。窓際の指定席に静謐な佇まいで小説に視線を落とす世良羅が目に入った。
右耳に掛かった髪が重力に解かれて、さらさらと輪郭をなぞる。
物語のお姫様をくり貫いて窓際に飾った風な世良羅に近寄り、自分の席に掛かっている鞄へと弁当箱をしまう。
結束集会の事をいつ切り出すべきかと思案し、いざ声を掛けようとすると手に震えが走るほどの緊張が身体を強張らせた。けれど、早いに越した事はないだろうと思い、ノミ並の心臓に鞭を入れる。
「あ、あのさ……。」
一瞬身体をぴくんと強張らせて反応を示したので聞こえてはいるのだろうがあくまで無視を決め込むつもりらしい。
「週明けの月曜日、結束集会があるって知っているか? バディー対抗戦――」
すべてを話し終わる前に、小説を机に叩き付けてその反動に身体を飛び上がらせた世良羅に俺は驚き、身体を仰け反って距離を空けた。
世良羅の絹糸の様に細く白い指先がだらしなく首元で緩んだネクタイを引っ掴み、絞まった襟首が頚部を圧迫して脳へと送られる酸素を遮断する。
酸素を求めたいのは俺の方なのだが、目の前の金色の美女も水面から顔を出した鯉の様に口をぱくつかせて、大きな瞳をはためかせる。本当に酸素が欠乏しているのか、頬は紅潮し、その余波が耳までも及んでいる。
愛らしい口を大きく開き、息を吸い込んで瞳を瞑り、何やら一頻り力む素振りをした後に心地の良い美声を響かせた。
「ぜっ、絶対、か、勝つからね!」
予想外の返答と酸素不足に俺の思考回路は混乱の一路であった。
「と、取り敢えず……タイをひっぱ、らないでくれ……。」
懸命に引き絞った俺の悲痛な声に、至近距離まで近づけていた顔の表情筋に入っていた力を撓ませると同時にネクタイを拘束する握力を弱めてくれた。
「驚いたな……。こんなに興味を示すとは思わなかった。」
無酸素の呪縛から解放された首元を擦りながら、すっかりしゃがれてしまった声を絞り出した。
締め殺されそうになった事にも驚いたが、最も意外だったのは世良羅の反応だ。俺の発する言葉には須らく不平の一つ、不満の一つも言いそうなツンはあってもデレはない彼女だからこその意外性だ。
(実は中身は別の人間なのでは?)と疑いたくなる衝動を、そんな訳ないだろうと、すぐに振り解く。
それにしたって様子は明らかにおかしい、恥ずかしそうに顔を赤らめ、毛先を指に巻きつけてはくるくると落ち着きがない。
「な、何だかよくわからんが。頑張ろうな。」
とりあえず考える事をやめる。俺は悩むくらいなら考えない主義だ。
だからこそ過ちも多いが、考えたってどうせ違えるのだから、それならば考えるだけ時間と糖分の無駄と言うものだ。
「足、引っ張らないでよね。」
「せいぜい気を付けます。」
会話がひと段落した所で、昼休憩が終了した事を告げるチャイムがなり、慌ただしく教室に駆け入って来る者で一時教室は騒然としたが、その後を追う様に入って来た教師が猥雑を鎮め、退屈な授業を開始した。
俺は鼻と唇の間にペンを挟み【退屈ですよポーズ】をとり脳の回復に入った。特に頭を使った記憶もないが、俺の頭は通常生活の中でも十分に疲弊する。容量が少ないのだから仕方がない。などと授業に集中しない事の言い訳を己にして、意識を遥か天空へ。
もちろん授業のノートは後で我が最愛の弟に写させてもらう寸法だ。
***
「兄さん帰ろうか。」
机に突っ伏して惰眠を貪る俺を翔が揺すった。
最近分かった事だが、この学院は教師イコール生徒な形式からか、授業中に上の空だろうが、寝ていようがあまり注意される事はない。もちろん注意する教師もいるが、ほとんどの者は教科書の進行に従事して【教育】を行使する事はない。
けれど単位が取れねば永遠に卒業できないシステム上、大概の生徒は真面目に授業に取り組んでいる。俺が真面目に励む気になれない要因の一つとして今だ漂流者という立場に甘んじている事は否めないのかもしれない。尤もα世界でも真面目に授業を受けていた記憶もないけれど、それは今は置いておこう。
魔法練成技術の習得は今の俺には最優先事項なので真剣に取り組まなければならないのだが、余計な知識まで身につける気はない。必要最小限。こと戦闘に関してはさらに優先度は下がる。けれど、昼食時に降りかかった唐突な戦闘イベントは不可避なもので、β世界での生活には戦闘技術が多分に必要な事もまた事実だろう。
帰り支度を整え、隣の世良羅をさり気なく横目に見る。
帰り支度もせずに、彼女はまた小説を広げていた。昼の反応はやや俺の心の中に疑問として残っている。本当は俺と仲良くしたいと思っているのかもしれない。
止せばいいのに、脳がまだ半覚醒だったのだろう。俺は周囲から己を隔絶するかのように手元にある架空の物語へと遁走する彼女へと声をかけた。
「千早さん、帰らないの?」
声をかけた後に後悔する。すぐに反応を示さないという事は無視されるという事なのだろう。俺だって無視されれば傷つく。案外、繊細な少年なのだ。
「じゃ……じゃあ。」何やら気まずくなって慌てて席を離れようとすると、身体の前で小さく振った手を掴まれた。
「い、一緒に、帰る。」
これには昼休みの時よりも驚いた。何かのフラグが立ったのだろうか、明らかに今までの俺と世良羅の関係性ではあり得ないルートに進んだ。
しかし、断る理由もない。彼女は俺の相棒だ。それよりも断った後の自分の身が心配だ。
翔の顔をちらりと見やると了承の意を含んだ笑顔を俺へと傾けていた。
翔は兄である俺が言うのも何だか、かなりのブラコン性癖があり、兄を傷つける者には決して心を開く事はしない。けれど不思議な事に世良羅はその限りではないらしい。一度目の保健室に現れた時も二度目の時も寧ろ世良羅をフォローしている素振りすらも見とめられた。
こうして、ブラコンな弟とツンデレな相棒と共に家路につく事となった。
校門までの道中、他生徒の視線が痛い程に突き刺さる。色々な意味で目立つ二人を伴っているのだから当然の事だろう。翔には言うまでもなく女子生徒達のファンクラブ染みたものが存在するし、世良羅にも秘密裏にそれに順ずる組織があるのだと、男子達の間では実しやかに囁かれている。実害のない者達は本当にお気楽で羨ましい。
一緒に帰ると言っても、校門前のバス亭前までで、俺達はほとんど乗る者のいない山頂行きだ。しかし、広大な学院は校門前のバス亭に辿り着くまでに十分以上の道程があるのだから一緒に帰ると言えなくもない。
「それじゃあ、ここで。」
丁度、到着時にやってきた山頂行きのバスに乗り込もうとする俺の袖を翔が引っ張り、耳打ちをする。
「兄さん、千早さんと一緒に街にでも行って来たら? 僕達はいつまでこの世界にいなければならないかもわからないし、バディーとしてコミュニケーションをとっておいた方が得策だと思うよ?」
嫌がる俺を押し退け、そう言ってバスに乗り込んだ翔は運転手に「彼は乗りません。」と告げてバスを発車させ、取り残された俺と世良羅は飛び去って行くバスを呆然と見送る。気が利きすぎる出来た弟も考えものだとこの時ばかりは思わずにいられなかった。
しばしの静寂の後、沈黙に堪りかねた俺が「ま、街の案内をしてくれないか? 俺、こっちに来たばかりで。」と言うと予想外に快く承諾された。
「なんで君なんかと!」とか、地図を渡されて「どうぞご勝手に。」ってパターンを予想していたが、世良羅も結束集会を前にして、俺とのコミュニケーションの必要性を感じていたのかもしれない。
***
俺達の通う学院は日本列島の中部北側の【北都地】と呼ばれる場所にあり、その地域はα世界では栄えた場所とは言えない。どちらかと言えば【地方】【田舎】と呼ばれる地域だ。
しかし、そんな北都地もβ世界では軍事都市と呼ばれる場所のようで、ある程度の発展が見られた。
それと言うのも、海を挟んで北にある大陸の【北】と言う国と日本はある種の冷戦状態と呼べる状態にあったからだ。
α世界と異なり、魔科学が発達したβ世界は裏を返せばα世界と比べると戦闘技能に特化した人類と呼べる。そんなβ世界だからこそ、国家間での争いも起こる様で隣国である北との国家情勢も微妙と言わざるを得ない。α世界では国家間の戦争など歴史や物語だけの産物であっただけに、そんな話を祖母に聞かされた時は思い切りカルチャーショックを受けたものだ。
情勢が揺らいだ発端は三年前に起きた北国民による自爆テロ事件だ。
北都地にて火炎系術式を暴走させたテロ犯により、都心は炎上。死者は百名を超えた。
日本が北に攻撃される理由は十分にあった。世界的に有数の魔科学技術発展国である日本は軍事力、経済力共に大国である北を上回ろうとしていたからだ。北にとっては目の上のたんこぶの様な存在であった事は存在に難くない。
一時は戦争に発展しかけたその事件だが北政府側の「一部の反政府分子によるテロ行為」であるとの主張により、確証が得られなかった日本は一度は振り上げた拳を下げる形となったのだった。
そんな政治的な事情もあり、北都地は北に対する防衛拠点と威嚇の役割を担う重要な軍事拠点となり、有事の際の貴重な戦力である、魔練師を多く輩出する魔立学院がこの北都地に建造されたわけだ。
不謹慎な言い回しになるが、さすがに三年前、都心に壊滅的打撃を受けただけはあり、都心部は新築のビルが立ち並ぶ最新鋭都市といった風格があった。
綺麗に舗装された歩道に一定感覚で植えられた街路樹の控えめな枝振りが灰色の街にささやかな彩りを与えている。
立ち並ぶビルはどれも新築でディティールにこだわった外装だった。球体に近いビルや、円錐形のビル。α世界では見る事のできない近未来的な印象を受ける街並みに自分が別世界にいる事を思い出させられる。
粗方散策し終わり、歩きつかれた俺達は世良羅行きつけの喫茶店へと足を踏み入れた。
ファンシーで色彩豊かな外装をしたその喫茶店は俺の世良羅へのイメージとは大幅な隔たりがあった。
彩り豊かな什器が配置されており、形状も曲線のみで構成されている店内は女性客で占められていて、強烈な疎外感を感じさせる。
橙色のチェックのタイトなシャツとミニスカート、そしてたっぷりとレースの施されたエプロンをつけたウェイトレスにメニュー表の中で一番最初に目に付いたホワイトチョコレートカフェモカなるものを適当に注文した。名前を見ただけでは殆どの商品が想像もつかない。
届けられたホワイトチョコレートカフェモカは大量の砂糖が溶け込んでいるのか、喉をつくほどに甘かった。軽く咳払いを一つして正面でブレンドコーヒーを啜る世良羅に目線を向け、(俺も普通にブレンドにすればよかった。)と後悔した。
一日一緒に街中を練り歩いたというのに会話はほとんどなかった。何かを質問しても、「そう。」とか「違う。」と言うだけで、一言で返せないような質問をした場合は「知らない。」と返されるだけだった。
この喫茶店に入る経緯も何とも居心地の悪いものだった。俺が「どこかでお茶でもしようか?」と場の雰囲気を和ませようと意を決して言葉を発すると、突然前に躍り出た世良羅が何も言わずにここまで歩いて入り、俺はそれに黙って従い、そこには和やかなムードが介在する余地など微塵もなかった。
「こ、ここにはよく来るのか?」
「わりと……。」
「なんってゆーか、俺はこういう所には来た事なかったけど、男にはちょっと入りづらいよな。」
「そう……。」
「他に目立ったスポットとかってないのか?」
「ないわ……。」
「買い物とかしたければ付き合うぞ?」
「買いたい物があれば、今度一人で来るわ……。」
「そ、そうか……。」
「えぇ……。」
俺は激甘のホワイトチョコレートカフェモカを一気呵成に口内へと流し込んだ。