リテイクの終わりに
もし、人生の失敗を全てなかったことにできる能力があったら、あなたはどうしますか?
私たちは、誰かに好かれるため、無意識に完璧な自分を演じようとします。しかし、その編集された時間で築いた関係に、本当の価値はあるのでしょうか。
これは、完璧な瞬間を捨てることで、本物の繋がりを見つけようとした、不器用で愛すべき二人の物語です。どうぞ、ごゆるりとお楽しみください。
僕、タカシには、人に話しても信じてもらえないけれど、確かに存在する力がある。
右の奥歯をぎりりと噛み締めると、世界が一瞬だけ音を失い、空気が逆流するように震える。次の瞬間、時計の針は五秒前へ戻る。
僕はそれを「リテイク」と呼んでいる。人生という生放送を、編集済みの録画のように見せるための魔法だ。この力は地味だが便利で、会話の言い間違いも、転びそうになる失態も、なかったことにできる。おかげで僕は、いつだって「ミスのない僕」でいられた。
今夜は会社の同僚・サトミさんとの初デート。透き通る白い肌に、誰にでも優しい受け答え。社内でも人気がある彼女の前で、僕は完璧な男を演じようとしていた。
「映画はよく観る?」
「うん、けっこう。最近は……ミステリーばかり観てるかな」
笑顔で言い直す。会話が詰まるたびにリテイク一回。グラスを倒しかけたときも即リテイク。この夜、僕は何度も時間を巻き戻しながら、世界を滑らかに繋ぎ合わせていた。まるで現実を編集しているような感覚だった。
会話は順調だったが、デザートの頃、サトミさんがふと真剣な目で僕を見た。
「ねえ、タカシくん。私ね、もっと気軽な人だと思ってた。でも今日話してみて、完璧すぎるの。……私、ちょっと息が詰まりそう」
予想外だった。“完璧”が通じない相手もいるのか。
焦って手を振った拍子に、赤ワインのグラスを倒した。バシャン、と音が響く。赤が白いクロスに広がる。最悪だ。反射的に奥歯を噛み締めようとして――僕はやめた。
これくらいの失敗、見せた方がいいのかもしれない。完璧じゃない自分を、見せてもいいのかもしれない。
「あーっ、ごめん! やっちゃった!」
僕は素で叫び、店員を呼ぼうとした。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。耳の奥で小さくノイズが走り、世界が反転する。
気づけば、テーブルクロスは真っ白なまま。僕の手も濡れていない。
「……僕なんて本当は、ドジだし、優柔不断だし……」
自分の口が、さっきと同じ言葉をしゃべっている。リテイク? いや、僕は発動していない。
サトミさんがホッとしたように息を吐いた。そして、右手でこめかみをそっと押さえる。
「ごめんね。今、グラス倒しそうでヒヤヒヤしてたの」
一瞬、視線が合った。鼓動が跳ねる。
ああ、これだ。彼女も――「リテイク」している。完璧な笑顔の裏で、彼女も何度も時間を巻き戻していたのだ。僕が“理想の反応”を返せたのは、彼女が何度も世界を巻き戻して、僕に合わせてくれていたからかもしれない。
少し笑みがこぼれた。
「僕たち、本当はもっと、不器用でいいのかもね」
「そうね」彼女も笑い、こめかみを押さえながら言った。
「……実はもう、ちょっとヘトヘトなの」
ふたりで笑い合ったとき、ようやく心の中の緊張がほどけた。ここからは、リテイクなしでいこう。
店を出ると、十二月の風が頬を冷たく打った。
ドアの前で僕がレディファーストを決めようとして、彼女とぶつかりそうになる。過去の僕なら即リテイク。でも、もうしない。彼女もこめかみを押さえなかった。
「はは、タイミング悪っ」
「僕のレディファーストは、いつも三秒遅れるんだ」
「その誤差、好きかも」
会話が弾む。それは、今までのどんな完璧な答えより軽やかで、心地よかった。
サトミさんが笑って言った。
「ワイン倒しかけたときのタカシくん、すっごくかっこよかったよ」
「それ、慰め?」
「違うって。ちゃんと“生放送”って感じだった」
その言葉に、胸の奥がじんとした。編集された時間より、失敗混じりの本番の方が、ずっと真実味があるのだろう。人間って、ほんとうに不器用で、それが美しい。
駅が近づく。別れの時間。
反射的に奥歯に力が入りそうになった。けれど、今度はただ、息を整えた。
「あのさ、サトミさん」
「うん」
「今日、楽しかった。ありがとう」
短くて飾り気のない言葉。修正も、編集も、いらない。
サトミさんは少し目を潤ませて頷いた。こめかみに手をやらず、微笑む。まるで時間そのものが、二人のために一瞬だけ止まったかのようだった。
五秒のリテイクじゃ届かない、確かな“いま”がそこにあった。
タカシは、奥歯を噛まずにただ見送った。
リテイクの終わりに、ようやく本当の二人の物語が始まったのだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
私たちは、その不器用さや失敗を笑い合えるときにこそ、最も人間らしく、美しくいられるのかもしれませんね。
あなたの日常に、リテイクのいらない瞬間が増えることを願っています。




