表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/34

第十四話 方家堡編 其ノ二 劇場

幕が上がっても、宴賓楼に漂うあの湿り気を帯びた寒気は消えなかった。

それはまるで肌に張りつく薄い膜のようで、形は見えないのに、呼吸だけが確実に重くなっていく。

観客席には、黒々とした影がずらりと座ったままだった。

背筋は不自然なほど真っ直ぐで、両手は行儀よく膝の上に置かれている――

「芝居を待つ人間」というより、そこに並べられた器物のようだった。

灯りがわずかにともる。

だがその光は温もりを持たず、井戸の底から反射してきたような冷たい光だった。

その光に照らされても、浮かび上がるのは鼻筋と頬骨の輪郭だけ。

そこに「人の形」はあっても、「生きている気配」はない。

阿虫は、その場から一歩も動かなかった。

ここが鬼城であることも、

この場所における「一見まともに見えるもの」が、より深い異常の表れであることも、彼は理解している。

だが――

舞台中央に立つあの女に視線を戻した瞬間、思考が一瞬、空白になった。

彼女は灯影の中に立ち、衣の裾を静かに垂らしていた。

線は端正で、過剰な装飾はない。

その美は艶ではなく、長い長い悲しみを骨の奥まで練り込んだ末に残った、冷ややかさと節度だった。

その瞳はひどく澄んでいる。

この陰鬱な城とあまりに不釣り合いでありながら、同時に、この城の闇すべてを映し込めそうな光を宿していた。

舞台の女旦じょたんが、そっと手を上げる。

太鼓も、囃子もない。

喧騒は一切ない。

彼女は指先で、見えない弦を軽く弾くような仕草をした。

次の瞬間――

舞台の奥から、かすかな「カチリ」という音が響いた。

それは木の関節が正しい位置に戻る音にも、金属の留め具が噛み合う音にも聞こえた。

続いて、幕の奥から二つの人影が、ゆっくりと押し出されてくる。

――いや、人影ではない。

二体の「人形」だった。

彼らは帝国の華やかな舞台衣装を身にまとい、冠も、飾り帯も、刺繍も完璧だった。

だが、その動きはどこか不自然で、足取りは浮いているように軽い。

身を翻すたび、関節のあたりから、鋭く小さな摩擦音が走る。

さらに異様なのは、灯りの下で、彼らの袖口や裾が時折、細い光を反射することだった。

――糸のような、線のような光。

阿虫は目を細めた。

糸。

女旦の指先から伸びるそれは、ほとんど見えないほど細く、空気の中に張り詰めている。

蜘蛛の糸のように、そして――人の命脈のように。

「……傀儡か」

彼は低く呟いた。

阿虫の左右に立つ菖蒲と剣蘭も、最初は警戒を崩していなかった。

だが、舞台から最初の唱が響いた瞬間、二人の呼吸がはっきりと止まった。

それは、普通の一座が出せる声ではなかった。

女旦が口を開いたその瞬間、劇場全体に満ちていた「観客たち」の静寂は、さらに深く押し沈められた。

その唱は凄絶で、遥か遠くから届くようでありながら、人の胸腔から直接引き剥がされたかのような、生々しい真実を帯びていた。

――《鳳哀凰離》。

帝国の名劇。

剣蘭は幼い頃、城下で何度も観ている。

菖蒲に至っては、北王府の宴席で繰り返し目にしてきた。

二つの仇敵の皇族。

権謀と血の因縁の中で愛し合った少年と少女が、家の名に引き裂かれ、最後には共に命を落とす――

天下に知られた悲劇だ。

二人とも、すべてを知っている。

展開も、詞も、鼓の入りすら。

それなのに――

今耳にしている《鳳哀凰離》は、まるで初めて観るもののようだった。

女旦は舞台の中央を、音もなく歩く。

一歩踏み出すたび、衣の裾が水のように広がる。

彼女の視線は客席を見ていない。

届くはずのない、遥かな場所を見つめているようだった。

糸に操られた傀儡たちが現れ、礼をし、身を翻し、唱を交わし、抱き合う。

その動きは依然として「生きて」はいない。

だが、女旦の唱の中では、それがかえって残酷な対比となっていた。

魂を持たぬものが魂の悲歓を演じ、

心を持たぬものが人の心を引き裂いていく。

「初逢」の折。

舞台上で、鳳族の継承者が花影を踏み、凰族の継承者が幕の奥から現れる。

二人は見つめ合い、詞には「命にして語るべからず」とある。

だが、女旦が吐き出したその「語るべからず」は、

長く喉に詰まっていた言葉を、無理やり押し戻すようだった。

声が、ほんのわずかに震える。

だがその震えは、観る者の心臓を直に打った。

剣蘭の指が、無意識に強く握られる。

ここは本来、軽やかな掛け合いが入り、甘さが滲む場面だ。

それなのに、女旦の唱う甘さには、痺れるほどの苦味が混じっている。

――これは始まりなどではない。

始まった瞬間から、すでに終わっているのだと。

そう告げられている気がした。

菖蒲もまた、言葉を失った。

技巧も演出も、誰よりも見てきたはずなのに、

今耳にしている唱が、技なのか、それとも――真なのか、判別できない。

舞台で演じられているのは名劇ではなく、

演じる者自身の過去なのではないか。

そんな錯覚すら覚えた。

言葉にできない引力が、劇場に満ちていく。

先ほどまでの陰湿な圧迫感は消えていない。

ただ形を変え、音楽となり、詞となり、呼吸の合間の沈黙となって存在している。

見えない手が、そっと後頭部を押さえ、視線を逸らすことを許さない。

阿虫も、目を逸らさなかった。

最も警戒すべきは彼のはずなのに、

気づけば――聴いてしまっている。

女旦が「冤」の折を唱う。

鳳族の継承者は反逆の汚名を着せられ、万人に糾弾され、

最も近しい者たちすら、口を開いて彼女を裁く。

舞台上の傀儡たちは、玉印や鉄符を掲げ、ぎこちなく指を突きつける。

顔なき裁定者の群れのように。

女旦はその中央に立ち、声を極限まで落とす。

喉から声を抜き取り、残った一線の息で唱う。

――「我に罪なし」。

だが、その三文字には弁明の力がない。

あるのは、限界まで押し潰された、語ることすら許されぬ痛みだけだ。

阿虫の指が、ゆっくりと食い込む。

その引力の正体が、ようやく分かった。

芝居ではない。

冤罪を受け、口を封じられること。

その痛みを、彼は知っている。

思い出したくないほどに、知っている。

だからこそ、毒舌や冷笑で誤魔化してきた。

「くだらない」と切り捨てることで、認めないようにしてきた。

それでも――

かつて自分も、指を突きつけられる側に立っていたことを。

芙蓉。

その名が、胸の奥で小さく響いた。

顔は思い出せない。

だが、あの清潔な匂いだけは覚えている。

陽に干した布のような、遠い温もり。

思い出した瞬間、その温もりは、より鋭い痛みに変わる。

阿虫は思った。

女旦が唱っているのは、鳳族でも凰族でもない。

生きながら、訴える場所を持たぬ者たちだ。

芝居は、次第に刃となる。

長老たちが別離を強いる場面。

本来なら「天命」という言葉で片付けられるはずのそれは、

ここでは冷酷な別物に変わっていた。

――天命ではない。

――人心だ。

――運命ではない。

――権力だ。

傀儡たちが輪を作り、糸が網のように二人を引き離していく。

女旦の唱は、ここで完全に解き放たれた。

長く抑え込まれていた悲嘆が、一気に溢れ出す。

観客たちは動かない。

だが空気は締め付けられ、剣蘭は息ができなくなる。

目が、赤く滲む。

これは芝居だと知っている。

名劇だとも、何度も観たことがあるとも。

それでも――

今、瞬きをしたら、舞台の二人は永遠に引き裂かれる気がした。

そして、結末。

原作では、二人は死ぬ。

仇は解けず、悲劇は固定される。

だが、ここでは違った。

運命の縄を、力づくで断ち切るように。

最後の折。

枷が下ろされ、傀儡が迫る中で、二人は死を選ばない。

見つめ合い、

絶望の底で、互いの手を見つける。

そして――背を向ける。

死ではなく、逃走。

唱は一瞬、軽やかになる。

それは喜びではなく、絶望の中の反逆だった。

「俗を棄て」

「天地を路とし」

「ただ一生を共にせん」

糸が乱れ、傀儡の動きが狂う。

幕を抜けた瞬間、舞台の奥に、あり得ない暖光が灯る。

この鬼城では、あまりに不釣り合いな光。

だからこそ、胸を刺した。

剣蘭の涙が、今にも零れ落ちそうになる。

声を出せば、この幸福が壊れる気がして、唇を噛みしめた。

最後の唱が落ち、女旦が指を戻す。

糸は緩み、傀儡は力を失い、静止する。

死のような静寂。

幕が下りる。

「――ドン」

世界の扉が、閉じられたような音。

だが剣蘭と菖蒲は、動けない。

魂を引かれたまま、呼吸すら芝居の余韻に縛られている。

阿虫が手を振る。

「おい。起きろ」

反応はない。

菖蒲の睫毛が震えるが、上がらない。

剣蘭は、暖光の中に立ったままだ。

「……チッ」

その時、幕が再びわずかに上がる。

女旦が前へ出て、深く、正確な礼をした。

すべての悲しみを礼節に封じ込めたような動きだった。

「ありがとう」

唱よりも軽く、だがはっきりした声。

「あなたたちは……初めて、私の改編版を最後まで観た人」

視線は阿虫に向けられる。

三人の中で、彼だけがまだ現実に立っていると、知っているように。

「これまでの人たちは、結末まで耐えられなかった」

「途中で逃げるか……二度と出られなくなるか」

一瞬の沈黙。

「ここは、あなたたちの来る場所ではない」

「できるなら……魂を奪われてほしくはない」

阿虫が低く問う。

「出ていけって言ってるのか」

否定はしない。

「だが、もう入ってる」

「ここまで来て、今さら?」

女旦は一瞬、影を落とす。

「……ええ。もう出られません」

指を引く。

見えない糸が張り詰め、彼女の輪郭が薄れる。

「せめて、自分で選んで」

「魂を、ここに残さないで」

糸が巻き取られ、女旦は闇に消えた。

劇場は、空になった。

次の瞬間――

地が、低く唸る。

中央が裂け、黒気が噴き出す。

「――嗷啊啊啊!!」

魂を噛む咆哮。

鬼王、方家堡の主が、姿を現す――

裂け目の中から、ひとつの影がゆっくりと浮かび上がる。

豪奢な衣をまとった男だった。

体躯は大きく、だが顔は火に焼かれたかのように歪み、皮膚は不自然に引きつっている。

冠は傾き、衣のあちこちには、鉄錆のような暗色の痕が残っていた。

それは血にも見え、冷え固まった鉄水にも見えた。

なにより恐ろしいのは、その眼だった。

底の見えない穴のように黒く、その奥では怨嗟が渦を巻いている。

方家堡堡主。

この地に巣食う鬼王。

男は口を開いた。

その声は、鉄刃で骨を削るようだった。

「方家堡に足を踏み入れし者よ――

 その魂、我が子らへの供物とせよ!!」

その言葉が落ちた瞬間――

観客席に座していた“観客”たちが、一斉に立ち上がった。

あまりに揃いすぎた動き。

息が詰まるほどの統一。

顔立ちは生きた人間のままだ。

だが皮膚の下には、不自然な灰色が透けている。

瞳は空虚で、口元だけが微かに痙攣している。

まるで内側から何かに皮を引っ張られているようだった。

歩き出しても、足音はしない。

聞こえるのは衣擦れの「サラ……サラ……」という音だけ。

まるで、屍衣を引きずる音。

「……尸煞か」

阿虫が低く言う。

これはただの亡霊ではない。

魂を奪われ、人の皮だけを被せられた傀儡。

鬼王に使役され、魂を狩るための存在。

尸煞たちは一斉に三人へと向きを変えた。

生気を嗅ぎつけた虫の群れのように、じりじりと距離を詰めてくる。

阿虫は即座に符を取り出した。

すでに用意していた符紙が、掌の中で広がる。

彼は指先を噛み、血を落とした。

血が符に染み込むと、符紋が生き物のように脈打つ。

地面に叩きつける。

「起!」

淡い光が円を描き、三人を包む薄い結界が立ち上がった。

尸煞が突進し、見えない壁にぶつかる。

「ドン、ドン……」

鈍い衝撃音。

だが、その結界はあまりにも薄い。

紙一枚のようで、いつ破られてもおかしくなかった。

阿虫は振り返る。

剣蘭と菖蒲は、まだ半ば魂を引きずられている。

瞳の奥に、さきほどの芝居の残響が残っている。

舌打ちひとつ。

――考える暇はない。

阿虫は腕を振り上げ、そのまま平手を叩きつけた。

「パァン!」

剣蘭の顔が横を向く。

呆然と振り返る彼女の目には、まだ涙の名残が浮かんでいた。

阿虫は間髪入れず、もう一度。

「パァン!」

「目、覚めたか!!」

怒鳴り声が劇場に響く。

菖蒲はもともと意識が強かった。

最初の鬼嚎の瞬間、すでに気で精神を押さえ込んでいた。

平手の音を聞いた彼女は、袖から細い針を抜き取り、迷いなく掌に突き刺す。

鋭い痛み。

「……大丈夫です」

掠れた声だが、意識は完全に戻っている。

剣蘭は、遅れて涙を滲ませた。

それは感動ではなく、屈辱と恐怖だった。

「な、なによあんた……!

 お父様だって、こんなふうに叩いたことないのに!」

阿虫は冷笑する。

「今は感情論の時間じゃねぇ。

 今起きなきゃ、次は親父の顔すら分からなくなるぞ」

剣蘭は言葉を失った。

その間にも、尸煞の衝突は激しさを増す。

符の光は明滅し、引っ掻かれるような「ジジ……」という音が響く。

「突破するぞ!」

阿虫が叫ぶ。

「甘えるな!」

菖蒲が最初に動いた。

手首を返し、数枚の飛刀が放たれる。

冷たい光が閃き、先頭の尸煞二体の眉間を正確に貫いた。

だが、倒れない。

身体が硬直し、皮膚の下から黒気が噴き出す。

裂けた袋から空気が抜けるような「シィ……」という音。

剣蘭も歯を食いしばり、降魔棍を振るう。

金属音を伴う一撃が尸煞を弾き飛ばす。

だがその感触は、生身ではない。

皮を被せた木塊を叩いたような、空虚な反響。

数が増えていく。

観客席、通路、階段――

四方から黒い影が溢れ、潮のように押し寄せる。

結界に、ひび割れのような光の線が走った。

「多すぎる……!」

剣蘭が息を荒くする。

菖蒲の額にも冷汗。

「……合神、使いますか?」

阿虫の目が鋭くなる。

合神。

鎧魂萃を用いた鎧甲合神――

短時間で戦力を跳ね上げる切り札。

だが代償は大きい。

神識の消耗は激しく、維持もできない。

「今合神しても、もたねぇ」

彼は鬼王を睨む。

「こいつらは前座だ。本命はあいつだ」

裂け目の上空で、鬼王堡主は獲物を眺めるように笑っている。

怨気が濃くなり、黒気が触手のように結界へ伸びる。

光がさらに削られる。

「一度撤退だ」

阿虫は早口で言う。

「生きて出て、仕切り直す」

菖蒲は即座に頷く。

剣蘭は反論しかけたが、結界の限界を見て歯を噛みしめた。

「……分かった!」

その瞬間――

「ドン!!」

劇場の側扉が、乱暴に破られた。

一条の影が、嵐のように飛び込んでくる。

長槍を携え、鋭い光を帯びた刃が回転する。

振るわれるたび、空気が裂ける音が走る。

引き締まった肢体が、灯りの中で鮮烈な軌跡を描く。

高く結われた長い馬尾が、舞うように弧を描いた。

それは危険で、同時に美しかった。

槍は龍のごとく走り、人は槍と一体となる。

――演武ではない。

生死の中で磨かれた動きだ。

一閃。

挡路に立つ尸煞が、まとめて宙を舞う。

黒気が刃先で弾ける。

「どけ!」

澄んだ女声。

戦場で鍛えられた、迷いのない声音。

槍が横薙ぎに振るわれ、正面の尸煞列が崩れる。

彼女は踏み込み、槍尾を床に突き立てた。

木床が唸り、衝撃が走る。

――道が、開いた。

阿虫の目が細くなる。

(只者じゃねぇ)

菖蒲はさらに早く気づいた。

女の胸元――羽翎の紋。

鳳翎ほうれい

「……鳳翎の人ですか?」

思わず声が漏れる。

女は一切の無駄を省いた。

「鳳翎所属、瑞木菀ズイモク・えんだ」

槍先を外へ向ける。

「今は話してる場合じゃない。

 生きて出るぞ!」

彼女は黒気を払い、側幕を掴み取る。

引き裂かれた幕が落ち、尸煞の突進を阻む。

布が焦げ、黒く爛れる。

「走れ!」

阿虫は即断した。

符を収め、結界を解除。

剣蘭の手首を掴み、菖蒲を押す。

「ついてこい!」

四人は駆けた。

背後で、劇場の秩序が完全に崩れる。

殺到する音、呻き、床板の軋み。

鬼王の嘲笑が、天井から降り注ぐ。

「逃げる?

 逃げ切れるとでも――!」

黒気が鞭のように打ち下ろされる。

瑞木菀が振り返り、槍を突き出す。

轟音。

雷のような衝撃。

彼女は半歩退いたが、踏みとどまった。

(……やはり)

阿虫は悟る。

槍は強い。

だが無形の怨魂には決定打にならない。

術と符が必要だ。

彼らは宴賓楼の側廊を抜ける。

方家堡の街路は相変わらず薄暗かった。住民たちの「停止」は破られ、さらに多くの“人の皮”をまとったものが路地から向きを変えて現れる。まるで同じ意志に起こされ、同じ合図で動き出したかのように。

追手は刻一刻と濃くなり、空気に漂う死気は潮のように盛り上がって押し寄せてくる。

四人がいよいよ包囲されかけた、その時。

前方の目立たない小屋に、ぽつりと一盞の灯がともっていた。

灯りは大きくない。だがこの陰の中では異様なほどくっきり見え、まるで黒い水面に誰かが星を一つ点したみたいだった。

戸口に、痩せて小柄な男が立っている。

手には灯を提げ、光が横顔をなぞって、疲れているのに目だけは醒めている――そんな表情を浮かび上がらせた。瑞木菀たちが来るのを見るなり、男は灯をすっと持ち上げ、声を落として、急き立てるように呼ぶ。

「こっち! 早く来い!」

瑞木菀は足を止めた。だがそれは迷いではなく、まるで最初からここを知っていたかのような一瞬で、すぐに先頭に立って駆け込む。

「入れ!」

一同は小屋へ飛び込んだ。

扉が閉まると同時に、外の陰冷さと喧騒が、刃でばっさり断ち切られたみたいに途切れる。屍煞の足音、黒気の唸り、遠くで鬼王があげる嗤い声――それらは見えない壁にぶつかったように、瞬く間に遠のき、ぼやけていった。

阿虫は反射的に振り返り、扉の隙間越しに見た。数体の屍煞が戸口へ扑っと飛びつき、手を伸ばして掴もうとする。だが透明な障壁に当たったかのように弾かれ、指先が触れた瞬間、鈍い「ドン」という音が鳴った。

屍煞たちは悔しげに周囲を彷徨うが、どうしても一歩が踏み込めない。最初から“入れない”と知っているように、境界の前で足を止め続けた。

小屋の中の空気は、外とはまるで違った。

冷えは残る。だが「死気が呼吸している」あの圧迫がない。灯火がかすかに揺れるだけで、人は久しく忘れていた安全感を、思わず胸の奥で確かめてしまう。

灯を提げていた男はそれを下ろし、ゆっくり息を吐いた。長く息を詰めていた恐怖を、ようやく吐き出すみたいに。

「……当面は安全だ」

声は軽い。だが、はっきり醒めている。

「ここには結界がある。鬼は入ってこられない」

剣蘭はその時になってようやく気づいた。

室内の壁際には数枚の符が貼られている。符紋は阿虫のものと違い、より細く、より隠れるようで、攻めのためではなく遮断のための符に見えた。梁のあたりには、小さな鈴が一串吊るされている。鈴は鳴らない。それでも、音もなく境界を保っているようだった。

菖蒲が男を見据える。

「……あなたは誰?」

男は目を上げた。屍煞のような空洞はない。生者の目だ。疲れがあり、それでも確かに“生きている”重さがある。

懐玉かいぎょくだ」

名を告げ、続けて一言足す。まるで皆が一番気にしていることに答えるように。

「……僕は、まだ人間だ」

彼は皆を見回し、とりわけ阿虫へ視線を置いた。ここで決めるのは彼だと見定めたように。

「ここは、さっき劇場で見た女旦――殷翦璃が残した場所だ。彼女がわざわざ結界を張った……僕を守るために。……それから、今みたいに一時的に入ってきた生者も守れる」

阿虫は眉をひそめる。

「……なぜ、彼女はお前を守る?」

懐玉の目が一瞬だけ揺れた。即答せず、低く落とす。

「話せば長い。……ただ、彼女の中では、僕が唯一、まだ彼女を裏切っていない人間なんだ」

外では、鬼王の嗤い声が今も遠くから届く。風に鉄屑が混じって耳膜を削るような、嫌な音。

だが屋内は、まるで別世界へ切り離されたみたいに、灯は安定し、符紋は静かだった。

瑞木菀が長槍を脇に立て、室内を一度掃うように見て、沈んだ声で言う。

「まずは息を整えろ。外のアレは、これで終わる気はない」

菖蒲はようやく瑞木菀の胸元の鳳翎の徽章をしっかり見直し、声を落とす。

「……どうして鳳翎がここに? あなた……」

瑞木菀は壁にもたれ、短く答えた。

「お前たちより数日早く来ていた」

「修行の旅の途中で、ついでに探している人間がいてな」

「ここを通りがかった時、明らかにおかしいと感じた。だから、首を突っ込んだ」

自嘲するように一度笑う。

「結果はこうだ。私の槍はあれらを殺せる。だが、本当の鬼王には届かなかった」

「懐空に会っていなければ、私はもう死んでいた」

阿虫を見る。

「……お前は術を使うのか?」

阿虫は否定しない。

「まあな」

瑞木菀は小さく頷き、何かを確かめるように言う。

「ならいい。これからここを出るにしても、槍だけじゃ足りない」

懐玉は灯を机に置いた。灯影が顔を横切り、声はいっそう低くなる。

「ここまで入った以上、方家堡が簡単に逃がしてくれると思うな」

「ここの“規則”は、人が決めたものじゃない」

「生きて出たいなら――」

「まず、悲歓台が何を演じているのかを突き止めろ」

小屋の中に沈黙が落ちる。

剣蘭はようやく完全に我に返り、阿虫に叩かれて赤くなった頬を押さえた。怒りと怖さを混ぜたまま、声だけは低く抑える。

「覚えてなさいよ……外に出たら、絶対に精算してやるから」

阿虫が横目で見る。

「まず生きて出てから言え、デブ!」

「あなた――!」

菖蒲は深く息を吸い、感情を沈めてから阿虫を見る。

「……まずは慎重に。鬼王と、あの女旦の演目……何かが繋がっているはず」

阿虫は答えず、ただ扉の向こうの闇を見上げた。

結界の外で、何かが徘徊しているのを感じる。血の匂いを嗅ぎつけた獣のように、辛抱強く、こちらがこの扉を開けるのを待っている“何か”。

そして阿虫は、はっきり分かっていた。

――これは、まだ一夜の始まりにすぎない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ