第十三話 方家堡編 其ノ一 怪異
方家堡へと近づく郊外で、官道は唐突に狭くなった。
それは道そのものが縮んだわけではなく、何か目に見えないものが迫ってきているような錯覚だった。
道の両側に広がる荒れた丘は沈黙したまま伏し、地表に露出した岩肌は、何度も噛み砕かれた白骨のように不規則な紋様を刻んでいる。
まるで、巨大で緩慢な存在が、かつてここで身を翻し、押し潰していった痕跡のようだった。
本来なら正午であるはずの時刻。
しかし太陽は、何者かに雲の奥へと押し込められたかのように姿を隠していた。
完全な闇ではないが、決して明るいとも言えない。
灰色の濁った暗さが頭上から覆い被さり、湿った鉄板を胸に押し当てられているかのように、息苦しさを覚えさせる。
阿虫、李剣蘭、夏侯菖蒲の三人は、馬を並べて進んでいた。
官道を踏む蹄の音は、この異様な天色に半ば飲み込まれていく。
「前方が方家堡の地界よ。」
菖蒲は手綱を引き、前方の起伏する丘陵を見渡しながら、いつも通り冷静な口調で言った。
「ここは北部最大の製鉄・製鋼の中枢。北王府の兵器の六割はここで作られている。剣の鋳造、甲冑の鍛造、鋼の精錬、弩の製作……すべて堡内で行われているわ。」
少し間を置いて、付け加える。
「普段なら昼夜を問わず炉の火が絶えず、谷の半分が赤く照らされているはずよ。」
阿虫は適当に「ふーん」と相槌を打ったが、明らかに話を真面目に聞いてはいなかった。
彼の意識は、まったく別のところに向いていた。
剣蘭は馬上で、路面の起伏に合わせて体を上下させている。
服装は決して薄着ではないが、若い少女特有の曲線は、動きに合わせてどうしても揺れてしまう。
阿虫は隣で馬に乗り、視線は正面を向いているはずだった。
それでも、少しでも視界の端がずれると、無意識のうちにそちらへ引き寄せられてしまう。
それに気づいた瞬間、彼は慌てて顔を背けた。
――少しして、またこっそりと盗み見る。
――すぐに目を逸らす。
――それでも、また見てしまう。
まるで殻を破ったばかりの少年のように、胸の鼓動だけがやけに速く、視線の置き場が分からない。
何事もないふりをして、前方の道を見つめ続けるしかなかった。
剣蘭はもちろん、そんなことに気づいていない。
だが菖蒲はちらりと阿虫を一瞥し、口元をほんのわずかに動かした。
そのときだった。
異変は突然訪れた。
三頭の馬が、ほぼ同時に恐怖の嘶きを上げた。
それは皮肉な痛みを受けた声ではなく、本能そのものを何かに掴み取られたような叫びだった。
次の瞬間、馬たちは完全に制御を失った。
前脚を高く跳ね上げ、狂ったように方向転換し、手綱も行李も構わず、来た道を全力で逃げ去っていく。
「おい——!」
菖蒲の反応は最速だった。
鐙を蹴り、身を宙へと投げ、半空で身を翻して地に降り立つ。
剣蘭は一拍遅れた。
異変に気づいた瞬間、激しい揺れに体を放り出される。
「きゃっ——!」
無重力に放り出された一瞬、彼女は反射的に横へ手を伸ばした。
掴んだのは、阿虫の衣の襟元だった。
次の瞬間、二人はそのまま地面に叩きつけられる。
阿虫は下敷きになり、背中を地面に強く打ちつけて低く呻いた。
息が詰まり、肺の中の空気が押し出される。
さらに悪いことに——
剣蘭が、彼の上に覆い被さっていた。
柔らかく、温かく、少女特有の気配が、一瞬で彼の世界を覆い尽くす。
香粉でも花の香りでもない。
日向で乾いた布と体温が混じったような、清潔で、胸を締め付ける匂い。
阿虫は一瞬、思考が止まった。
その匂いが、彼の脳裏にぼんやりとした、温かな影を呼び起こす。
――芙蓉。
長らく意識的に思い出すことのなかった記憶が、この瞬間、唐突に浮かび上がった。
「おい、いつまで乗ってるつもりだ?!」
阿虫はほとんど反射的に叫んだ。
声をわざと大きくし、先ほどの一瞬の動揺を塗り潰すように。
「このクソデブ! 俺を潰す気か!? そのデカい尻、さっさとどけろ!」
剣蘭は一瞬呆然とし、次いで顔が一気に赤くなった。
「だ、誰がデブよ?!」
羞恥と怒りが入り混じり、慌てて起き上がろうとするが、体勢が悪く、かえってよろめく。
「お前に決まってるだろ! 少しは自覚しろ!」
「自覚がないのはあんたでしょ! 全身骨ばっかりで硌硌するんだから!」
二人は起き上がりながら言い合いを始め、場は一時、完全に混乱した。
「へえ?」
菖蒲は傍らで、淡々と言った。
「もうそんな段階まで進んでいたの?」
その一言は、針のように刺さった。
二人は同時に黙り込む。
剣蘭は素早く距離を取り、耳まで真っ赤に染める。
阿虫も咳払いをし、顔を背けて衣服を整えるふりをした。
ようやく、空気は元に戻った。
短い混乱の後、周囲は再びあの不自然な静けさに包まれる。
阿虫の表情は、ゆっくりと引き締まっていった。
「馬の問題じゃない。」
彼は言った。
「もう、入ってる。」
剣蘭は周囲を見回し、思わず身を震わせる。
「入って……どこに?」
「方家堡の地界だ。」
阿虫は空を仰いだ。
「動物は人間より敏感だ。感じ取ったのは危険じゃない。死が、ここで呼吸している。」
一拍置いて。
「今なら、引き返せる。」
剣蘭は首を横に振った。
「無理。」
菖蒲も口を開く。
「北王府の人間がここで消息を絶っている。私は調べなければならない。」
阿虫は二人を見て、それ以上は何も言わなかった。
「……ちっ。綺麗事ばっかり言いやがって。」
「何かあったら、結局俺が後始末だろ……。」
「だったら何のために呼んだのよ、一塵大師!」
菖蒲は阿虫の背中を軽く叩き、進むよう促した。
三人は持てるだけの荷をまとめ、徒歩で方家堡の入口へ向かう。
進むほどに、空気は冷たくなっていく。
温度の問題ではない。
背筋を這い上がるような、陰湿な冷えだった。
周囲の音は次第に消え、風の音さえ、何かに吸い取られていく。
やがて、方家堡の城門が見えてきた。
高く聳える城門。
斑に風化した石壁。
煉鉄色の痕が煉瓦の隙間を伝い、乾き切った血のように残っている。
城門に近づいたそのとき、内側から慌ただしい足音が響いた。
一隊の兵士が、よろめきながら飛び出してくる。
鎧は乱れ、顔は恐怖で歪んでいた。
「待って!」
菖蒲は彼らの装備を一目で見抜き、叫ぶ。
「あなたたち、北王府の——」
声は届かなかった。
兵士たちはまるで菖蒲の存在に気づいていないかのように、ただ必死で外へ逃げていく。
視線は正面に固定され、背後に名状しがたい何かが迫っているかのようだった。
彼らは三人の横を駆け抜け、視線を向けることすらなく、次の瞬間、城外の霧の中へと消えた。
剣蘭はほっと息をついたが、言葉を発する間もなかった。
しばらくして——
同じ足音が、再び城門の内側から響く。
同じ隊列。
同じ動き。
同じ恐怖。
まったく同じだった。
まるで、途中で止められた記憶が、何度も再生されているかのように。
「……どういうこと?」
剣蘭の声が震える。
菖蒲の表情も硬くなった。
阿虫は小さく息を吐いた。
「もう死んでる。」
彼は言った。
二人が同時に彼を見る。
「さっき見たのは亡魂だ。」
阿虫の声は平静だった。
「結界が地界を封じ、魂も封じている。死ぬ直前の恐怖が強すぎて、記憶が最後の瞬間に固定された。」
「だから、逃げ続ける。」
「出られない。」
剣蘭は背筋が冷たくなり、思わず阿虫の袖を掴んだ。
そのとき初めて、彼の両腕に巻かれた包帯に気づく。
「その手……」
問いかけようとした瞬間。
「何だ、デブ。そんなに近づいて。」
阿虫は即座に遮った。
「怖いなら、そう言え。」
「誰が怖がってるのよ!」
剣蘭は顔を赤くして手を離し、菖蒲の腕に絡みつく。
菖蒲は二人を一瞥し、何も言わず前へ進んだ。
城門をくぐった、その瞬間。
阿虫の足が、ほんのわずかに止まった。
何かを見たからではない。
――何も起きなかったからだ。
城内には、想像していた血痕も、屍も、怨霊もなかった。
彼らを迎えたのは、広く整えられた一本の主街だった。
石畳は平らに敷かれているが、目地には暗赤色の錆が滲んでいる。
長年流れ冷えた鉄水の名残のようだった。
街路の両脇には低く密集した家屋が並び、軒先に吊るされた鉄製の看板が風に揺れている。
しかし、ほとんど音は立てない。
静かすぎる。
それは「音がない」静けさではなく、あらゆる音が半分ほど削ぎ落とされたような静けさだった。
鍛冶屋では、鉄槌が鈍く落ちる。
火花が散るが、無形の水膜に吸い込まれるように、光は一瞬で消える。
「……おかしい。」
菖蒲が低く呟いた。
彼女には、鍛冶師が振り上げ、振り下ろす動作がはっきり見えている。
だが、何度打っても、鉄塊はほとんど形を変えない。
鍛えているようで、
すでに終わった動作を繰り返しているだけにも見えた。
通りには人がいる。
籠を提げた婦人が、一定の速度で歩く。
子どもが走るが、必ず同じ距離で引き返す。
商人が低く呼び声を上げるが、言葉は聞き取れない。
その目は、生きている者のそれではなかった。
焦点がなく、揺らぎもない。
まるで、定められた意志に引かれ、前を見ることだけを許されているかのようだ。
剣蘭は思わず阿虫の方へ身を寄せた。
「みんな……同じ場所を見てない?」
阿虫は答えなかった。
彼は、すでに気づいていた。
これらの「住民」は、どの方向に立っていようと、身体の向きがどうであろうと、
視線の焦点だけは、必ず同じ角度に寄せられている。
街路の先ではない。
さらに奥だ。
三人が進んでも、誰一人として避けない。
だが、ぶつかることもない。
住民たちは、三人が近づくと、ごく至近距離で唐突に進路を変える。
まるで、あらかじめ計算されていたかのように。
それは譲り合いではない。
――「変数」を避けている。
「見えていないわけじゃない。」
阿虫が低く言った。
「反応を制限されてる。」
「……舞台装置みたいね。」
剣蘭は、その例えに鳥肌を立てた。
菖蒲は足を止め、一人の婦人の前に立った。
手を伸ばし、進路を塞ぐ。
婦人は止まらなかった。
衝突する直前、身体が極端に不自然な動きで横に逸れ、菖蒲を避けて歩き去る。
その間、表情は一切変わらない。
「悲歓台。」
婦人が低く呟いた。
声は喉から出たものではなく、胸腔の奥から押し出された残響のようだった。
「悲歓台。」
剣蘭が振り返る。
周囲の人々が、次々と同じ言葉を繰り返している。
合言葉のように。
あるいは——魂に刻み込まれた台詞のように。
街路の先に、高大な建物の輪郭が浮かび上がった。
宴賓楼。
方家堡の中でも、ひときわ豪奢な建物だ。
三階建てで、飛檐が重なり合う。
だが、その軒先は本来の軽やかさを失い、重力に引かれるように垂れ下がっている。
外壁の木目は暗色に塗られ、薄暗い天光の下で、ゆっくりと油脂を滲ませているように見えた。
「ここ……何をする場所だったの?」
剣蘭が尋ねる。
「宴の場。」
菖蒲の声は静かだった。
「功績を祝し、褒賞を与え、芝居を奉納する場所よ。」
宴賓楼に近づくほど、通りの住民は増えていく。
彼らは道端に、軒下に、戸口に立ち並び、何かを待っているかのようだった。
全員の顔が、同じ方向を向いている。
次の瞬間——
何の前触れもなく。
すべての動きが止まった。
鍛冶師の槌は宙に止まり、
商人は口を開いたまま、
子どもは片足を上げたまま。
一枚の絵が、誰かに一時停止されたかのようだった。
そして。
一斉に。
すべての人間が、腕を上げる。
その動きは、あまりにも揃いすぎていて、背筋が凍る。
無数の指先が、宴賓楼の大扉を指し示していた。
空気の中に、何千、何万もの呼吸が同時に止まったような、かすかな気配が走る。
「……行くぞ。」
阿虫が言った。
宴賓楼の扉は、見た目以上に重かった。
三人で力を合わせて押すと、木扉は低く、鈍い呻きを上げる。
それは開く音というより、呼び覚まされたかのような音だった。
中の空気が、一気に流れ出す。
冷たい。
温度の低さではない。
骨の奥まで染み込むような湿冷。
長年陽の当たらぬ地下水の気配。
広間は、異様に深かった。
半円状の観客席が、幾重にも上へと積み重なっている。
暗がりの中、そのすべてに人影が座っていた。
彼らは背筋を伸ばし、膝の上に手を置く。
会話はない。
咳払いもない。
呼吸の上下すら、見て取れなかった。
その瞬間、彼らはもはや「観客」ではない。
ただ、必要とされる数として配置された存在に過ぎなかった。
三人が足を踏み入れた刹那、阿虫ははっきりと感じ取った。
――何かが、見ている。
一つの視線ではない。
空間そのものの注意だった。
そのとき。
音楽が流れ始めた。
太鼓でも、笛でもない。
低く、長く引き伸ばされた旋律。
遥か彼方から届くようでいて、鼓膜の内側を直接震わせる音。
舞台中央。
帷幕が、ゆっくりと開く。
灯りが、わずかに灯る。
一人の女が、そこに立っていた。
すらりとした体躯。
端正な佇まい。
衣の裾が垂れ下がる線は柔らかく、抑制され、無駄な装飾は一切ない。
彼女は、ただ立っているだけだった。
それだけで。
陰鬱な広間全体が、一瞬で——静まり返った。
それは、あまりにも矛盾した美。
賑やかでもなく、
死の静寂でもない。
むしろ——
あらゆる悲と歓が、同時に一瞬へと押し込められた平衡点。
彼女が、目を上げる。
その瞳は澄み切っていた。
この鬼の城と、
決定的に、相容れないほどに。




