第十二話 啓程
裏路地を抜ける風には、まだ夜の気配が残っていた。
刃の立っていない薄い刀のように、肌をなぞっていく。
冷たいが、痛みはない。ただ、意識をはっきりさせるだけの冷たさだ。
小さな灯はまだ消えていなかった。
細い炎が揺れながら、阿虫の足元の一角だけを照らしている。
脇には古びた木札が斜めに立てかけられていた。
相変わらず、何も書かれていない。
――文字を書く必要がない。
来るものは字を読まない。火を見るだけだ。
だが、今夜の客は魂ではなかった。
夏侯菖蒲は灯の外側に立っていた。
夜行装のまま、黒衣の裾には冷たい露がまだ残っている。
その眼差しは夜よりも硬く、鞘に収まりきらなかった刃のようだった。
彼女の背後には李剣蘭。
外套を抱え、表情は複雑だ。
迷い抜いた末に、それでもこの路地へ足を踏み入れた――そんな顔をしている。
菖蒲は阿虫を睨めつけた。
嘲笑うようでもあり、
だが同時に、「必ず殺さねばならない答え」を見るような目だった。
「御魂師――
一塵は、いるか」
阿虫は小さな腰掛けに座ったまま、気だるげに顔を上げた。
唇の端に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
その笑みは温度を持たない。
善意もなければ、和解の色もない。
まるで「ちょうどいいところに来た。夜はまだ終わっていない」とでも言うように。
「俺が一塵だ」
その瞬間、菖蒲の眼が凍りついた。
冷え切った空気が、半拍遅れて路地全体を包む。
「……ふざけるな」
一語一語、噛み砕くように言う。
「本物の一塵に会わせろ」
阿虫はすぐには答えなかった。
まず、膝の上に置いた木匣に手を伸ばし、軽く押さえる。
――飛び出して噛みつきそうな何かを、押さえつけるように。
それから、淡々と口を開いた。
「本物、か。
一塵を看板か何かだと思ってるのか?
堂口を叩けば、出てきて接客するとでも?」
菖蒲の眉間が跳ねた。
眼の奥で、火花が弾ける。
「戒兄は?」
声を低く抑えながら問う。
爆発寸前の怒りを、必死で押し殺した声だ。
「夏侯戒は、どこだ」
その名が出た瞬間、剣蘭の指先もわずかに強張った。
彼女は何も言わない。
だが、全身がその問いに集中しているのが分かる。
阿虫は菖蒲を見た。
その眼に宿っていた薄い笑みが、さらに一段、削がれる。
「冥界だ」
言葉は短く、逃げ場がない。
菖蒲は、何かに真正面から殴られたように身体を揺らした。
眼の縁が一瞬赤くなる。
だが、泣くことを許さない力が、すぐにそれを押し戻した。
信じない。
だが、最初から分かっていた。
そんな矛盾が、その顔に浮かぶ。
「……何だと?」
阿虫は懐に手を入れ、一つの物を取り出した。
金でも、銀でも、玉でもない。
金に換えられるような代物ではない。
薄い木の霊牌。
色はくすみ、角は擦り切れ、
何度も握り締められた痕が残っている。
灯の下に、半歩だけ差し出す。
刻まれた文字は、驚くほど安定していた。
まるで、刻んだ者が死の間際まで手を震わせなかったかのように。
――夏侯戒。
灯火が照らすと、木目の奥に淡い陰が浮かび上がる。
冷気が木から滲み出し、指先にまとわりつく。
否定できない重さだった。
菖蒲は、それを見つめたまま動けなくなった。
唇がわずかに動く。
罵る言葉か、
「戒兄」と呼ぶ声か――
だが、どちらも形にならない。
彼女が敬い、
彼女が寄りかかり、
この世界に踏みとどまるための柱だった存在は、
灯の下で、ただの木片になっていた。
「……あんたが……」
声が震える。
「……あんたが、何をした」
阿虫の眼は静かだった。
井戸の底のような静けさ。
「何もしてない。送っただけだ」
そう言ってから、少しだけ語調が荒くなる。
「文句があるなら、この世に言え」
「送った、だと……?」
菖蒲の声が跳ね上がる。
「そんな言い方で、戒哥を語るな!」
阿虫は目を上げる。
「語る資格があるのは誰だ?
俺はまだ生きてる。
魂を、行くべき場所へ送るやり方を覚えてる」
そして、意図的に間を置き、刃を突き立てる。
「知ってる限りじゃ、
この世界で御魂術を使えるのは――
今じゃ、俺だけだ」
その一言で、菖蒲の中の何かが切れた。
「――っ!」
彼女は一歩踏み出し、
阿虫の脇に立ててあった木札を蹴り飛ばした。
乾いた音。
木札が倒れ、灯火が大きく揺れる。
それだけでは足りない。
彼女はさらに手を伸ばし、
阿虫の即席の“店”を一気に薙ぎ払った。
木匣。
願魂の欠片。
符紙。
小さな銅鈴。
すべてが地面に散らばり、
叮、叮、と乾いた音が路地に響く。
その瞬間、阿虫の眼が、ほんのわずか沈んだ。
金の問題じゃない。
積み上げてきた“道”を踏みにじられた感覚。
口に出さず、抑え込んできた渇望が、そこに詰まっている。
「菖蒲! やめろ!」
剣蘭がすぐに前に出て、菖蒲を止めに入る。
「もう十分だ!」
「放せ!」
菖蒲は彼女を振り払う。
「こいつが戒兄を――!」
阿虫が、低く笑った。
その笑いは、油を注ぐ音だった。
「俺が殺した?
夏侯戒は、呪い一つで死ぬような男か?」
菖蒲が息を詰まらせる。
「奴は、自分の命で塞いだんだ。
誰を守った?
……お前たちだ。
今、立って、俺を罵ってる連中をな」
胸の奥を、正確に抉る言葉。
「本当に憎むべき相手には噛みつけない。
だから俺を噛む。楽だからな」
菖蒲の拳が握り締められる。
白くなるほどに。
「俺を殴れば、戒兄が戻るか?」
その言葉が、最後の針だった。
菖蒲は今にも飛びかかりそうになる。
「菖蒲!」
剣蘭が必死に押さえる。
「冷静になれ! 私たちは――」
阿虫の視線が、今度は剣蘭に向いた。
新しい刃を探す目。
「“頼む”?
随分と都合がいいな」
彼は彼女を上から下まで眺め、
腰のあたりで視線を止め、口角を上げた。
「で、もう一人は――
デブか」
空気が、破裂した。
剣蘭は一瞬、理解が追いつかない顔をした。
次の瞬間、顔が赤くなり、
さらに青ざめる。
「……今、何て言った?」
答えを待つ暇はなかった。
彼女の拳が、一直線に飛ぶ。
武を修めた者の、容赦のない一撃。
怒りと屈辱が乗った拳だった。
阿虫は完全には避けきれず、
肩を打たれ、背中から壁に叩きつけられる。
灯火が、また大きく揺れた。
菖蒲は、その一撃で我に返った。
――これは喧嘩ではない。
この男は、本当に言葉で人を殺しに来る。
阿虫は肩を揉み、薄く息を吐く。
「……へえ。
デブは噛むだけじゃなく、殴るのか」
「この――!」
剣蘭が再び前に出ようとする。
だが、今度は菖蒲が彼女を止めた。
低い声で、歯を食いしばる。
「……もういい。
ここで、こいつと消耗するな」
阿虫は二人を見た。
心の奥で、何かが、僅かに沈む。
分かっている。
自分が何をしているか。
わざと刺す。
わざと怒らせる。
湧き上がる感情を、押し返すために。
――罪悪感。
それに触れれば、柔らかくなる。
柔らかくなれば、死ぬ。
彼が口を開こうとした、そのとき。
路地の入口から、足音がした。
急がず、遅れず。
熱を冷ます、水のような足音。
阿橙だった。
路地口に立った阿橙は、まず足元の惨状を見た。
散らばった願魂の欠片。
倒れた木匣。
引き裂かれた符紙。
そして、かすかに揺れる灯。
次に、阿虫の肩元へ視線を移す。
衣の皺が崩れ、わずかに歪んでいる。
最後に、菖蒲の顔を見た。
その眼差しには、驚きも、怒りもなかった。
まるで――
この日が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
「菖蒲さん」
阿橙はそう呼んだ。
声は柔らかいが、輪郭がはっきりしている。
「夜は冷えます。
ここで立ち話をする場所ではありません」
菖蒲は反射的に口を開きかけた。
だが、阿橙の顔を真正面から見た瞬間、言葉を飲み込んだ。
――知っている顔だ。
二年前。
一笑楼。
後厨に立ち、澄んだ湯の香りが漂う中で、
この女は同じように穏やかに笑っていた。
その時の自分は、もっと尖っていた。
刺々しく、何も隠せなかった。
今の自分は、成長したはずなのに――
それでも、この人の前では、背筋を正さざるを得ない。
李剣蘭が低く言った。
「阿橙さん……
私たちは、騒ぎを起こしに来たわけじゃありません」
阿橙は軽く頷く。
「分かっています。
だからこそ、先に中へ」
彼女は二人に背を向け、灯のある方向――一笑楼の方を示した。
「温かいものを用意します。
空腹のままでは、言葉は必ず荒れますから」
その言い方は、命令ではなかった。
だが、拒否できる余地もなかった。
菖蒲は唇を噛み、視線を落とす。
剣蘭もまた、一拍遅れて頷いた。
阿橙の視線が、阿虫に向く。
「阿虫」
阿虫は答えなかった。
しゃがみ込み、地面に散らばった願魂の欠片を拾い始める。
一枚、一枚。
丁寧でも、急ぎでもない。
まるで、壊れた何かを元に戻すように。
阿橙はそれを見守り、急かさなかった。
「ここでは、やめて」
静かな声だった。
阿虫は最後の欠片を木匣に戻し、蓋を閉じる。
立ち上がり、肩を軽く回す。
「ごゆっくり。
俺は付き合う気、ないから」
そのまま踵を返し、裏へと歩き出す。
前堂へは行かない。
後厨の脇にある、柴部屋と繋がった小さな自室へ。
扉が閉まると、外の気配は一枚布を隔てたように遠くなった。
部屋は冷たい。
だが、路地よりは静かだ。
阿虫は扉にもたれ、目を閉じる。
胸の奥で、行き場を失った感情が、鈍くぶつかり合う。
そのとき――
外から、かすかな呼び声がした。
「……一塵さま……」
人の声ではない。
風でもない。
井の底から返ってくるような、湿り気を帯びた声。
阿虫は目を開け、扉を少しだけ開いた。
闇の中に、淡い影が立っている。
高くはない。
だが、姿勢は不思議なほど真っ直ぐだ。
――方正行。
「また催促か」
阿虫は低く言う。
「考えるって言ったはずだ」
影が、わずかに揺れた。
溜息とも、頭を下げたとも取れる動き。
「急かすつもりはありません。
ただ……忘れられるのが、怖くて」
阿虫は鼻で笑う。
「忘れるくらいなら、生きてない」
方正行はしばらく黙っていたが、やがて声を落とす。
「では……方家堡で、お待ちします。
怨が、あまりにも重い。
これ以上遅れれば、待つことさえできなくなる」
阿虫の指が、扉の縁を軽く叩く。
返事は短い。
「分かった」
それ以上、約束はしない。
影は、風に溶けるように後退し、
やがて完全に消えた。
部屋には、阿虫一人。
彼は扉を閉め、背を預ける。
冷たい板が、背骨に伝わる。
――その瞬間、
記憶が、不意に引きずり出された。
冬。
まだ雪は降っていなかったが、空気は凍るほど冷たかった。
八歳の頃。
塾の外。
空き地に子供たちが集まり、コマの唸りが響いていた。
最初の勝負は、回転の持続。
彼のコマは、数息も持たずに傾き、
酔ったように揺れ、地面に倒れた。
「また負けだ!」
「回し方も知らねえのか!」
笑い声。
彼は顔が熱くなり、手のひらに汗をかく。
陀羅を拾い、輪の外に立った。
次は、花式。
技を競う勝負。
挑んだ瞬間、コマは石にぶつかり、欠けた。
その瞬間、彼はそれを叩き割りたい衝動に駆られた。
壊してしまえば、恥も消える気がしたからだ。
笑いは、さらに大きくなる。
「練習してないだろ?」
「先生も言ってたぞ、あいつは一番ダメだって!」
世界が、笑い声で囲まれた。
勝負が終わり、彼の手には何も残らなかった。
賞品を持った子供たちが走り回る中、
彼は欠けたコマだけを握っていた。
塾の門前で、先生に呼び止められる。
「何一つ、まともに練習しない。
遊びですら、この程度だ。
それで将来、どう成るつもりだ」
言葉は低い。
だが、骨に刺さる。
――不成器。
意味は分からなくても、
「お前は駄目だ」ということだけは、はっきり分かった。
泣きたかった。
だが、泣けばさらに駄目になる気がして、耐えた。
帰り道。
家の前。
糟糠芙蓉が、水を抱えて立っていた。
彼の冷え切った手を見て、すぐに盆を置き、しゃがみ込む。
「冷たい……」
彼女は手を包み、擦る。
温かくはないが、彼よりは温かい。
彼は何も言わない。
欠けたコマを見ると、芙蓉は半拍だけ黙り、
問いただすことも、叱ることもせず、
灰を払って彼の手に戻した。
「壊れたなら、直せばいい」
拙い言葉だったが、真剣だった。
「ゆっくりでいい。
長く回したいなら、長く回せばいい」
彼は顔を上げ、赤くなった目で彼女を見る。
「先生が……俺は不成器だって」
芙蓉の手が止まる。
彼女は先生を否定しなかった。
だが、そっと前髪を整える。
「先生は、そう思うかもしれないね。
でも、あんたは先生のために生きてるわけじゃない」
その言葉は、当時の彼には大きすぎた。
彼はコマを強く握り、心の中で誓った。
――誰にも見せずに、練習する。
見られなければ、否定されない。
否定されなければ、痛まない。
その癖は、今も残っている。
一笑楼の前堂では、朝餉の湯気がゆっくりと立ちのぼっていた。
鍋はすでに火にかかり、澄んだ香りが室内に満ちている。
阿橙は二人を席へ案内し、温かい汁物と簡素な肴を運んできた。
その所作は一貫して落ち着いていて、
まるでここが酒楼ではなく、争いを鎮めるための静かな結界のようだった。
菖蒲は碗を前にしても、すぐには箸を取らなかった。
湯気を見つめたまま、しばらく黙っていたが、やがて低く問いかける。
「……戒兄は、本当に……もう……」
言葉は途中で切れた。
それ以上続ければ、崩れてしまうと分かっている声だった。
阿橙の指が、卓の縁でわずかに止まる。
彼女は「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。
ただ、碗を少しだけ菖蒲の方へ寄せる。
「冷めると、胃に悪いわ」
その一言が、肯定でも否定でもない答えだった。
菖蒲は唇を噛み、何も言わずに碗を持つ。
湯を一口飲み下すと、喉がひくりと鳴った。
李剣蘭が、場を和らげるように口を開く。
「阿橙さん……
私たちは、阿虫に方家堡へ同行してもらえないかと思って来ました」
阿橙は頷いた。
「ええ。分かっています」
「私たちだけでは……あの件は手に負えません」
阿橙はしばらく沈黙し、それから静かに言った。
「阿虫は、もう私の言うことをあまり聞きません」
「頑固で、意地っぱりで……」
少しだけ、苦笑が混じる。
「行くかどうかは、彼自身が決めることです」
剣蘭は言葉を探したが、見つからなかった。
阿橙が無関心なのではないと、むしろ誰よりも分かってしまったからだ。
――姉として、もう無理に引き止められないところまで、
弟は来てしまっている。
前堂の灯は、明るすぎず暗すぎず、
湯気が静かに空気を満たしている。
菖蒲は黙って食べ続けた。
怒りも、悲しみも、すべてを腹の底へ押し込むように。
阿橙は器を下げながら、声を少し落とした。
「ひとつ、先に伝えておきます」
菖蒲が顔を上げる。
阿橙の目は、優しいままだったが、
そこには経験者だけが持つ重さがあった。
「もし、あなたたちが阿虫と同行するなら……
必ず、彼の感情を抑えさせてください」
剣蘭が眉をひそめる。
「感情、ですか?」
阿橙は小さく頷く。
「喧嘩や怒りの話ではありません」
「もっと……戻れなくなる類のものです」
菖蒲の指が、碗の縁を強く掴む。
「どういう意味?」
阿橙は一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。
「阿虫の血には……
普通の“怒り”では済まないものがあります」
室内の空気が、わずかに沈む。
剣蘭は気配で察し、声を低くする。
「……代償、ですか」
阿橙は肯定も否定もせず、ただ続けた。
「詳しくは言えません」
「でも、阿虫には……
触れてはいけない線がある」
彼女は菖蒲をまっすぐ見た。
「感情を極限まで追い詰められるたび、
“記録”されていく」
菖蒲の顔色が変わる。
「……残り、四回」
阿橙は、静かにその数字を告げた。
剣蘭の呼吸が止まり、
菖蒲は思わず拳を握りしめる。
「それ以上は、戻れません」
阿橙はそれ以上説明しなかった。
ただ、その事実を卓上に置いただけだった。
「覚えておいてください」
「彼を、絶望へ追い込まないこと」
「恨みで」
「正義で」
「“当然だ”という言葉で」
特に、と付け加える。
「……あなたは、菖蒲」
菖蒲は何も言えず、ただ視線を落とした。
やがて阿橙は、少しだけ柔らかい声になる。
「でも……心配はいりません」
「私の知る阿虫は」
「口では突き放しても、決して見捨てません」
「汚れ役を全部引き受けて、
誰かが戻れる道だけは残す人です」
剣蘭は小さく息を吐いた。
「信じてるんですね」
阿橙は頷く。
「信じています。
だから、任せるのです」
彼女は立ち上がり、器を下げた。
「今夜は休んでください」
「明日は、長い道になります」
翌朝。
細い光が窓の隙間から差し込み、
床に散らばった符紙を照らした。
阿虫は夢の途中で目を覚ます。
先生の声が、まだ耳の奥に残っている。
「不成器だ」
彼は舌打ちし、起き上がる。
佩剣を取り、
符、鈴、針、丹薬を確認する。
準備を終え、扉を開くと――
外には、すでに二頭の馬が待っていた。
菖蒲は旅装に身を包み、
剣蘭は手綱を握っている。
菖蒲が口角を上げる。
「日が高いぞ、怠け者。準備はいい?」
阿虫は答えず、軽く笑うだけだった。
三人は馬に乗り、泰城を出る。
やがて林道へ入ると、
木々の幹に無数の傷痕が現れる。
深く、浅く、
何度も、何度も刻まれた痕。
剣蘭が呟く。
「……まるで、誰かが一人で」
菖蒲が阿虫を見る。
「知ってるんでしょ?」
阿虫は前を向いたまま、短く言った。
「知らない」
その言葉が、
一番嘘だと分かる返事だった。
林道はさらに奥へと続き、
湿った土と落葉が蹄の音を吸い込んでいく。
傷痕のある木々は、
ある地点を越えたところで、忽然と姿を消した。
そこから先の幹は滑らかで、
まるで先ほどの光景が嘘だったかのようだ。
菖蒲は振り返り、
あの傷だらけの林をもう一度見た。
胸の奥に、言葉にならない違和感が残る。
――あれは、
戦いの痕ではない。
殺し合いの跡でもない。
もっと孤独で、
もっと静かなものだ。
剣蘭も同じことを感じていた。
「……ねえ」
彼女は小さく言う。
「さっきの林、
あれって……」
言葉を探す途中で、やめた。
阿虫の背中が、
それ以上の質問を拒んでいる気がしたからだ。
彼は何も言わない。
だが、
その沈黙こそが、答えだった。
三人はそのまま馬を進める。
方家堡へ続く道は、
これから本当に“始まる”。
その頃、一笑楼では、朝の鍋にすでに火が入っていた。
奥の間では、独孤翊翃がまだ横たわっている。
玉蓮は寝台の傍に付き添い、
布を替え、水を絞り、汗を拭う。
その動きは静かで、
まるで彼の夢の中のもがきを驚かせてしまうのを恐れているかのようだった。
阿橙はそばへ歩み寄り、声を落として言った。
「玉蓮、少し休んだら。私が代わるわ。」
玉蓮は首を振る。
「大丈夫です。ここは私が見ておりますから、お嬢さまは表を。」
彼女の視線は独孤翊翃の顔に注がれていた。
まるで、いつ砕けてもおかしくない陶器を見つめているかのように。
理由は口にしない。
だが、「ここで見守りたい」という頑なさは、すでにその表情に表れていた。
阿橙は無理に勧めず、
ただ軽く「……ええ」と頷いた。
朝の喧騒が少し落ち着いた頃、
阿橙は前堂を離れ、
阿虫の小屋へ向かった。
扉を開けると、
そこは相変わらず“生活感”というものがなかった。
最低限の寝具。
無造作に置かれた符紙。
きちんと揃えられていない、けれど使い込まれた道具。
彼はここを、
「帰る場所」ではなく
「倒れないための場所」として使っている。
阿橙は静かに片付け始めた。
布を畳み、
散らばった符をまとめ、
破れた紙を捨てる。
そして、
隣の柴屋へ続く扉を開けた。
――その瞬間、
彼女は足を止めた。
木屑の匂い。
乾いた刃の痕。
柴屋の中は、
“整理された薪”ではなかった。
そこにあるのは、
剣で斬られ、叩き割られ、
原形を失った木の残骸。
壁際には、
一本の太い木杭。
そこには、
何十、何百という斬痕が刻まれている。
深いもの。
浅いもの。
力任せに振り下ろした痕。
途中で止めたような、迷いの線。
阿橙は、何も言わずに立ち尽くした。
ここで、
誰にも見られず、
誰にも褒められず、
誰にも止められず、
――阿虫は、剣を振っていた。
夜中に目を覚まし、
眠れず、
怒りを外に出せず、
悲しみを口にできず、
ただ、
身体が動かなくなるまで。
誰にも見せない努力。
見せれば、
「足りない」と言われる努力。
だから、
見せない。
阿橙はゆっくりと息を吐く。
その吐息には、
叱責も、憐れみもなかった。
ただ、
「知ってしまった者」だけが持つ重さがあった。
「……また、自分を削って」
彼女は小さく呟く。
それは責める言葉ではない。
止める言葉でもない。
――分かっているからこそ、言えない言葉だ。
阿橙は中へ入らなかった。
木杭に触れもしない。
ただ、
その扉を静かに閉めた。
まるで、
誰にも見せてはいけない“真実”を
そっと覆い隠すように。
一方、城外。
馬は一定の速度で進み、
太陽はゆっくりと高くなっていく。
阿虫は先頭を走る。
背中は真っ直ぐで、
迷いがないように見える。
だが菖蒲には、
その背中が
どこか“折れないように固められたもの”に見えた。
剣蘭は手綱を握りながら、
ふと拳の痛みを思い出す。
――昨夜、
彼女が叩きつけた拳。
阿虫が壁にぶつかった瞬間の、
あの沈んだ目。
あれは、
恐怖ではなかった。
怒りでもなかった。
もっと、
慣れきった痛みだった。
剣蘭は、
初めて理解する。
この男は、
無頼漢ではない。
“無頼でいなければ、生きられなかった者”だ。
林を抜け、
道はさらに先へ延びる。
風が吹き、
松脂の香りが混じる。
その奥に、
方家堡がある。
怨みが積もり、
名を呼ばれ、
逃げ場を失った場所。
三人の影は、
朝の光に引き伸ばされ、
一本の線のように前へと続いていた。
それぞれが、
違うものを背負いながら。
だが、
戻る道は、もうない。




