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第十一話 御魂師

牢の夜は、

誰かが夢を見たからといって、

誰かが過去を思い出したからといって、

ほんのわずかでも温度を与えてくれるものではない。

「記憶の扉」が

独孤翊翃ドクゴ・よくこうの意識の奥底で轟音を立てて開いたあとも、

現実の牢室は相変わらず湿り、黴臭く、

まるで深い井戸の底のような暗さだった。

松明はすでに獄卒によって引き抜かれ、

牢道の奥からときおり差し込む微かな光だけが、

哀れなほど細い魚影のように鉄格子をかすめ、すぐに消えていく。

阿虫は相変わらず、

黴にまみれた藁の山のそばで背を石壁に預け、

まるで自分自身も一つの石になったかのように動かなかった。

西門鼎は牢門の隅にしゃがみ込み、

膝を抱えたまま夜通しぶつぶつと呟き続け、

喉はすっかり枯れているのに、

目だけは異様に光っていた。

――死の間際でも、体面だけは保ちたい人間の光だ。

独孤翊翃は藁の上に横たわり、

呼吸は浅く、ほとんど聞き取れない。

阿虫が胸元の、かすかな上下を見つめ続けていなければ、

誰もが腐るのを待つ死体だと思っただろう。

そのとき――

喉の奥から、さらに軽く、さらに掠れた息が漏れた。

水に噎せた溺者のように、

肺に水はなくとも、本能だけが必死に足掻く。

阿虫の眼が鋭く細まり、

身を乗り出して指先を彼の頸に当てた。

脈は乱れ、冷え、

切れかけた糸のように指腹の下で震えている。

陰寒で濁った気は散るどころか、

夜の中で生き物のように経絡を這い、

ゆっくりと内側を食い荒らしていた。

独孤翊翃の眉間がわずかに動く。

夢の中の言葉に刺されたかのように。

黒ずんだ唇が震え、

途切れ途切れに、砕けた音を押し出した。

「……母……やめ……」

「何をやめるんだ?」

いつの間にか二歩近づき、すぐ三歩下がった西門鼎が、

声を潜めて言う。

「おいおい、今ここで化けて出る気じゃないだろうな?

言っとくけどな阿虫、俺はお前に金は借りてるけど、

こいつにはまだ借りてねえぞ――」

「黙れ。」

阿虫の低い一声は、

刃の背で軽く叩いたような重さがあった。

西門鼎は即座に口を閉じたが、

目尻だけで彼を盗み見ている。

次の瞬間に起き上がって首を絞められるのではないか、

そんな怯えが見え隠れしていた。

独孤翊翃は、もう一度浅く息を吐いた。

喉の音は、砕けた鉄が擦れるようだった。

「……師……匠……」

その二文字が落ちた瞬間、

牢室はかえって静まり返った。

滴る水音さえ、はっきり聞こえるほどに。

阿虫の指先が、わずかに止まる。

「母」「師匠」――

極限に追い詰められても手放せない呼び名。

厄介で、執念深く、

だが笑い飛ばせるものでもない。

人は死に際に、

最も痛く、最も答えを欲するものを掴む。

阿虫はそれ以上、真気を押し込まなかった。

それが焼け石に水であり、

下手をすれば毒を早めるだけだと分かっている。

できるのは、

「今すぐ死ぬ」状態を、

「誰かが来るまで保たせる」ことだけ。

藁を厚く敷き直し、

湿った煉瓦に背が直接触れぬようにする。

いくつかの穴位を指で点じ、

胸に詰まった濁気をわずかに押し戻した。

呼吸は少しだけ整ったが、

それでも蝋燭の火のように、

いつ吹き消えてもおかしくない。

西門鼎が唾を呑み、小声で聞く。

「……朝まで持つか?」

「持たなくても持たせる。」

阿虫は淡々と言った。

「でないと、俺たちは“同牢死人”の厄介を背負う。」

「……軽く言うなよ。」

西門鼎は身を震わせる。

「俺は死体と一晩一緒はごめんだ。」

「死人が怖いのか?」

「面倒が怖いんだ!」

即座に言い返し、さらに声を落とす。

「それに……とび児に、俺が牢で震えてたって知られたら、

腹抱えて笑われる!

阿橙あだいさんにも“やっぱり役立たず”って目で見られる……

俺の面子、どこに置けばいいんだ!」

阿虫は取り合わず、

牢道の奥へと視線を投げた。

夜が、終わりに近づいている。

泰城は眠らないが、

大牢には大牢の時間がある。

夜明け前、獄卒は無駄に足を運ばない。

「まだ死んでいない」――

それだけ確認できれば、仕事は終わりだ。

ましてここは、ヒョウ様を怒らせた連中の牢。

この城で、ヒョウ様を敵に回して

生きて出られる方が珍しい。

案の定、

線香一本分ほどの時が過ぎた頃、

牢道の奥から足音が響いた。

フクロウではない。

夜番の獄卒二人だ。

悪態をつきながら近づき、

松明の光が闇を刃のように裂き、

牢室の人影を薄く切り取る。

一人が西門鼎を見て冷笑した。

「まだ生きてるのか。

一晩中うるせえくせに、元気だな。」

西門鼎は即座に鉄格子へ駆け寄る。

「兄貴!頼む!フクロウを呼んでくれ!

欧陽梟オウヨウ・きょうだ!捕頭だぞ!俺、ツテが――」

獄卒は苛立って格子を蹴りつけた。

金属音が響き、西門鼎が後ずさる。

「調子に乗るな。

ヒョウ様に喧嘩売っといて、ツテだ?

本当に通じるなら、昨夜ここにはいねえ。」

顔を赤くした西門鼎が言い返そうとしたが、

もう一人が遮った。

「いい。相手にするな。

昨夜、伝言が来てる。

こいつらは“手続き待ち”。

放すとも、放さぬとも、まだ上が決めてねえ。

夜が明けてからだ。」

そのとき、阿虫が口を開いた。

「藁の上の奴、死にかけてる。」

獄卒は指された方を見て、

驚きもせず、ただ慣れた無感情を浮かべる。

「ああ、あれか。

昨夜の巡回で拾った。

路地に転がってて、折れた剣を背負ってた。

素性不明、規則通り仮収監だ。」

阿虫の眉がわずかに動く。

「断剣は?」

獄卒は鼻で笑った。

「当然、没収。

ここを宿屋だと思ってんのか?

武器になりそうな物は全部封印だ。

あの剣――折れてはいるが、人は刺せる。」

西門鼎が頷きまくる。

「そうそう、没収で正解!

俺のボロ弓も没収しといて――

……あ、弓は馬車に置きっぱだった。」

獄卒は無視し、

松明の光が独孤翊翃の灰色の顔を照らす。

「死んでなきゃ放っとけ。

死んだら……

名もない流民だ。

札一枚書いて、共同墓地行き。」

そう言い残し、足音は遠ざかった。

牢道は再び闇に沈む。

「名もない流民」

その言葉は井戸に落ちた石のように、

反響さえ残さなかった。

西門鼎は唇を白くする。

「……本当に死んだら、それだけか?」

「そうだ。」

阿虫は静かに答えた。

「泰城は開明だが、

開明にも金が要る。

金も保証もない人間の値段だ。」

西門鼎は言葉を失った。

虚勢も見栄も張る男だが、

この城の残酷さは知っている。

背景も名前もない人間は、

死んでも空気が一つ減るだけだ。

夜明けの色が、わずかに灰を帯び始めた。

牢道の奥で、

鍵が触れ合う音が響く。

獄卒の巡回よりも、はるかに規則的なリズム。

続いて、短い口笛が鳴った。

梟の声にも、夜回りの合図にも似た音。

西門鼎の目が一気に輝く。

「来た! 来た来た来た!」

鉄門の外に、

背の高い影が立っていた。

夜巡捕快の黒衣には夜露が残り、

肩の外套はわずかに湿っている。

腰の横刀は安定して吊られ、

その佇まいだけで“場を収める側”だと分かる。

欧陽梟オウヨウ・きょうは門前に立ち、

まず牢内の三人を一瞥した。

その視線は阿虫の顔で一瞬止まり、

――この二人がまた天を突き破る真似をしていないか、

確認するようだった。

「騒ぎは終わったか?」

フクロウは、

どこか慣れきった諦めを含んだ声で言う。

「本当に口を縫ってくれるなら、

俺は打点の金を二分は節約できる。」

西門鼎は即座に姿勢を正し、

“実は余裕でした”という顔を作る。

「咳払い……

私はただ、正当な要望を述べていただけでして。

ほら、こうして生きておりますし――」

梟は聞く耳を持たず、

手を上げて獄卒に合図した。

手続きは手際よく進む。

書面、印、預り金、人情。

泰城の規矩は、この街の路地と同じだ。

一見雑然としているが、

どの道も最終的には

“金”という場所に繋がっている。

門が開いたあとも、

夜梟はすぐに出ろとは言わなかった。

声を低くして告げる。

「先に言っておく。

お前たちの件が揉み消せたのは、

今回の“荷”がその場で騒ぎにならなかったからだ。

太守の顔も、まだ完全には潰れていない。」

そして視線をずらし、

西門鼎を見る。

「だが覇飆ハーヒョウの損失――

それはお前の借りだ。

外に出たあと、

俺が肩代わりすると思うな。」

西門鼎の顔が強張る。

思わず牢道の反対側を見る。

そこに、

一人の女が立っていた。

阿橙あだい

牢室の中には入らず、

湿った冷たい廊下に静かに立っている。

夜明けの薄光が、

彼女の輪郭を灰色の膜で包むが、

それでも貧民区には似つかわしくない

清潔な気配は隠せない。

質素な衣。

だが袖口の縫い目は整い、

髪は大人しく束ねられ、

脇の編み込みはきっちりと留められている。

腕には外套を抱えていた。

――弟が出てきたとき、寒くないように。

彼女の視線は、

まず阿虫に向けられた。

責めでも、慌てでも、涙でもない。

「やっぱり、また面倒を持ち込んだのね」

そう言いながら、

まず怪我をしていないか確かめる眼。

阿虫は口角を動かし、

いつものように

「姉さん、どうしてここに」

と軽く言おうとした。

だがその視線に触れた瞬間、

その言葉を飲み込んだ。

阿橙の目が牢室を一巡し、

藁の上の男で止まる。

誰かは聞かない。

ただ、眉をわずかに寄せる。

――死にかけの人間を見慣れた者の、即座の判断。

梟も同じ方向を見る。

「昨夜の流民だ。

身元不明、危険人物の疑いあり。

規則上、簡単には放せない。」

阿虫が言う。

「毒だ。

今救わなきゃ死ぬ。」

梟は眉を顰める。

「分かっている。

だが俺が保てるのは、お前だからだ。

名があり、保証がある。

一人が担保できるのは一人まで。」

そのとき、阿橙が口を開いた。

「私が、阿虫を保ちます。」

声は柔らかいが、明確だった。

言い終えると、

視線をわずかに横へ送る。

そこに立つのは、西門鸢シモン・とび

阿橙より少し痩せ、

だが立ち姿は芯が通っている。

西門鼎を見る眼には、

心配と、

「またやったのね」という苛立ちが同居していた。

彼女は静かに言う。

「私が、彼を保ちます。」

西門鼎は即座に胸を張る。

「鸢、心配するな!

俺は――」

「黙って。」

西門鸢は容赦なく遮った。

二つの保証が確定し、

牢室に残った三人目は、

宙に浮いた刺のようになる。

――誰も担保しない。

そのとき、

阿橙の後ろに控えていた玉蓮ギョクレンが、前に出た。

彼女は常に阿橙の半歩後ろ。

酒楼で最も目立たず、

だが最も信頼される影。

派手ではない衣。

だが指先は清潔で、

眼差しは揺れない。

玉蓮ギョクレンは藁の上の独孤翊翃を見つめ、

数息ののち、口を開いた。

「……私が、担います。」

梟が一瞬、言葉を失う。

「お前が?」

玉蓮は頷く。

「担保します。」

阿橙はすぐには止めなかった。

ただ一度、玉蓮を見る。

その視線は軽い。

だが、確かな重さを肩に乗せる。

「……覚悟は?」

「あります。」

理由は言えなかった。

彼女自身にも、分からない。

昏睡の中で漏れた

「母」「師匠」という呟き。

それが、

認めたくない柔らかい部分を

かすかに引いたのかもしれない。

あるいは、

捨てられた者の気配に、

背を向けられなかっただけか。

梟は沈黙ののち、頷いた。

「いい。

規則通りに。

保証金、印、名前を書け。」

手続きはすぐに終わった。

独孤翊翃は昏睡したまま、牢を出される。

獄卒は封印物の目録を差し出し、冷たく言う。

「人は解放。

物品は一時押収。

断剣は返還不可。

別途申請が必要だ。

前歴が出れば、没収。」

阿虫は目録を受け取り、

一瞥してから黙って畳んだ。

牢を出る頃、

泰城の空は水で洗われたように明るい。

外の街は、

牢の冷気など存在しなかったかのように賑やかだ。

朝餉の呼び声。

戸を開ける木栓の音。

賭場の前で続く、徹夜明けの笑い声。

――泰城特有の

「生きている音」。

阿橙は外套を差し出す。

「羽織って。」

阿虫は受け取り、

いつもより半拍遅れて動いた。

昨夜、自分が一歩間違えば

血になっていたことを、

ようやく実感したように。

西門鼎は印象回復を狙い、

無理に口を開く。

阿橙あだいさん、実は俺は――」

阿橙は微笑む。

「鼎。

まず、生きなさい。

面子は、そのあとで。」

その一言は静かだが、

叱責よりも鋭かった。

西門鼎はその場で言葉を詰まらせ、

顔を蒸されたように赤くする。

貧民区の酒楼――

一笑楼に戻ると、

熊伯はすでに厨房で火を起こしていた。

鍋で煮える澄んだ湯。

香りは淡いが、

腹の奥を緩める。

阿橙は誰にも説明を求めず、

まず独孤翊翃を奥の間に運ばせ、

厚い敷布を敷き、

清潔な布に替える。

その手際は、

何度も同じことをしてきた者の動きだった。

玉蓮は自然に床脇に座り、

水を用意し、布を絞り、汗を拭う。

指先が彼の肌に触れた瞬間、

ほんのわずか、止まる。

――この体には、

あまりにも多くの古傷がある。

「……目を覚ますでしょうか。」

玉蓮が問う。

阿虫は戸口で答える。

「まずは解毒だ。」

そう言って、背を向けた。

阿橙が呼ぶ。

「阿虫。」

振り返る。

彼女は相変わらず柔らかい表情で、

だが声を低く落とした。

「無理はしないで。

人を救うのはいい。

でも、自分まで賭けないで。」

阿虫は「分かった」とは言わなかった。

ただ一度、頷いた。

――姉の言葉は、いつも正しい。

彼は城を出て、

あの小屋へ向かう。

辛夷辛夷シンイは起きていた。

灯の下で薬を挽いている。

短い巻き毛は乱れ、

暗紅紫の髪が火光に燻る灰のようだ。

褐色の肌は寒さの中でも生命力を帯び、

背の烙印が衣の下に覗く。

消えない過去の痕。

「早いじゃない。」

口角を歪める。

「また拾ってきたの?

最近、善人にでもなった?」

阿虫は簡潔に説明した。

毒が体内に埋められ、

何かをきっかけに発動したこと。

辛夷の目が、一気に冷える。

「それは街のチンピラの毒じゃない。」

薬をさらに細かく挽きながら言う。

「経絡を知る人間の手。

埋めて、

一度刺激すれば、

腐った木みたいに崩れる。」

阿虫は眉を上げる。

「俺を罵ってるのか?」

「ええ、あんたを。」

辛夷は容赦しない。

「その頭、突っ込む以外の使い道ないの?」

言葉は荒いが、

手は速い。

薬が炉に入り、

火加減は完璧。

丸薬が作られ、

阿虫に投げられる。

「抑えるだけ。

完全に抜く? 夢見なさい。

毒を盛った奴を引きずって来れば、話は別。」

阿虫は受け取る。

「解体は得意だな。」

「失せな。」

阿虫は笑い、

去った。

その笑みは軽くない。

刃の上で生きる者の、癖だ。

夜、再び城へ。

一笑楼の奥には灯があり、

玉蓮はまだ床脇にいた。

阿虫は丸薬を渡し、

使い方を低く伝える。

玉蓮の指は、わずかに冷たかった。

ふと思い出したように、阿虫が言う。

「そうだ。

この前、白蓮に会った。」

玉蓮の動きが止まる。

阿虫は続ける。

「今は夏侯家で、護衛隊長だ。

安定してる。

悪くない暮らしだ。」

それだけ。

慰めも、説明も、

“会いに行くか”もない。

ただ情報を置いただけ。

拾うかどうかは、

彼女次第。

玉蓮は視線を落とし、

薬を強く握り、

小さく「……はい」と応えた。

独孤翊翃は薬を飲み、

呼吸に力が戻った。

眉間の強張りが少し緩み、

唇の色も戻る。

だが目は開かない。

まだ夢の中で、

「母」と「師匠」に答えを求めている。

阿橙は戸口で一度見て、

中には入らず、

灯芯を少し上げて前へ戻った。

酒楼は昼も動く。

帳簿があり、鍋があり、薪がある。

泰城の生活は、

誰かが死にかけても止まらない。

深夜。

阿虫は小さな腰掛けを運び、

裏口に座る。

小さな灯を点す。

その光は足元だけを照らす。

そして、

文字のない古い木札を立てた。

――客は字を読まない。

字は要らない。

彼が待つのは、生者ではない。

風が路地を抜け、

灯が揺れる。

埃のようなものが舞い、

やがて形を結ぶ。

亡魂。

顔のない者。

欠けた者。

脚を引きずる者。

胸に穴を抱える者。

借りの列。

阿虫は淡々と言う。

「一人ずつだ。

内容を言え。

報酬は規則通り。」

女の魂が震え、

米粒ほどの灰白の欠片を差し出す。

――願魂の欠片。

灯に照らされ、

ため息のように光る。

阿虫は受け取り、

小さな木匣に入れる。

中には、すでにいくつも。

彼は聖人ではない。

助けるのは、

彼らが払うからだ。

匣が満ちたとき、

冥界の扉を叩く。

魂が散ると、

灯が再び揺れる。

今度は、

より重く、黒い影。

灰ではない。

城そのもののような重さ。

血と鉄と湿り気を帯びる。

低い声が響く。

「……御魂師。」

阿虫は目を細める。

「泰城の者じゃないな。」

「方家堡。」

三文字で、

風が冷えた。

阿虫は名を問わない。

「いくら出せる?」

影は沈黙し、

やがて雨のように欠片を放つ。

灯が、明るくなる。

阿虫の呼吸が、

わずかに遅れる。

――大きすぎる依頼。

「何をさせたい?」

「冤死だ。

城全体が、怨に沈んでいる。

父と、弟を……救ってほしい。」

阿虫は答えない。

欠片を匣に収め、

蓋を閉じる。

「考える。

今夜は散るな。

明晩、また来い。」

影は退いた。

そのとき、足音。

生者の音。

だが、静か。

顔を上げる。

夏侯菖蒲カコウ・しょうぶが立っていた。

夜行装のまま、

眼差しは刃のように冷たい。

その後ろに、李剣蘭リ・けんらん

外套を抱え、

迷いを引きずった顔。

菖蒲が低く言う。

「御魂師――

一塵いっじんはいるか。」

阿虫は笑う。

温度のない笑み。

「俺が一塵だ。」

菖蒲の目がさらに冷える。

「嘘を言うな。

本物に会わせろ。」

剣蘭は、

灯と、

その下に残る“人ならぬ気配”を見て、

喉を鳴らした。

――ここはもう、

酒楼の裏路地ではない。

別の世界の、

入口だ。

灯が揺れる。

夜は深くなり、

運命は、近づいていた。

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