表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/34

第十話 母愛

風雪が城を押し潰す。

西境の夜は、火光によって一寸一寸引き裂かれていた。

城門はすでに崩れ落ち、断たれた軍旗は雪の上に伏し、馬蹄に踏み荒らされ、もはや元の紋様すら判別できない。

血は石段を伝って流れ、雪と混じり合い、夜の中で暗紅色の氷痕となって固まっていた。

殺し合いの声は、次第に遠ざかっていく。

戦が終わったからではない。

叫ぶことのできる者が、すでにほとんど残っていなかったからだ。

偏殿の内。

火盆は倒れ、炭火が床に散らばり、ぱちぱちと細かな音を立てている。

揺れる火光は壁に影を長く引き伸ばし、まるでなおも刃を振るう亡霊のようだった。

聖鎧を解除した男が、片膝をついていた。

胸に刻まれた剣傷は、もはや噴き出すことはないが、なおもゆっくりと血を滲ませ、衣の隙間から滴り落ちている。

呼吸は乱れ、途切れがちだったが、意識は失っていなかった。

その視線は、ただ一人、正面に立つ影を見据えていた。

その者の手にした剣から、血が滴り落ちている。

一滴、また一滴。

石床に落ちる音は、不気味なほど鮮明だった。

「……二弟……」

掠れた声には、怨嗟はなかった。

むしろ、この瞬間をすでに覚悟していたかのような静けさがあった。

男は口を開き、なおも言葉を継ごうとしたが、吐き出されたのは血だけだった。

立つ者は、何も答えない。

伏せた視線に表情は見えない。

だが、剣を握る指が、ほんのわずかに強く締められた。

この一剣は、大義のため。

そして、終わらせるため。

そのことは、互いに理解していた。

「……お前は……」

声は次第に低くなり、

「……結局……ここまで来てしまったな……」

言い終える前に、息が途切れた。

身体は前へと崩れ、重く床に叩きつけられる。

その鈍い音が偏殿に響いたが、誰一人として近づかなかった。

一瞬の沈黙。

壊れた窓から風が吹き込み、火焔が大きく揺れる。

床に横たわる亡骸を照らし、同時に立つ者の瞳に一瞬だけ宿った疲労も照らした。

やがて、足音が近づく。

血にまみれた部下たちが駆け込んできた。

そのうちの一人が進み出て、片膝をつく。

「大人。」

立つ者は剣を納め、振り返らない。

「ここは任せる。」

低い声だったが、異論を許す余地はなかった。

跪いた中年の男は顔を上げる。

剛毅な顔立ちの奥には、なおも戦火の衝撃が残っている。

一瞬の躊躇の後、深く頭を下げた。

「……は。」

その時、偏殿の奥、帳の向こうから、かすかな泣き声が聞こえた。

絶望の叫びではない。

恐怖でもない。

死というものをまだ知らぬ、

赤子の、本能的な泣き声。

その音は、この場において異様なほどに際立っていた。

中年の男は息を呑み、思わず帳の方を見る。

立つ者も、ようやく振り返った。

その視線が、闇の中に落ちる。

趙氏が、そこに跪いていた。

血に染まった衣、乱れた髪。

腕の中には、襁褓に包まれた幼子を固く抱いている。

身体を前に傾け、まるで背で全てを防ごうとするかのように。

彼女は泣いていなかった。

ただ、守っていた。

視線を向けられた瞬間、赤子の泣き声は次第に止み、荒い呼吸だけが残った。

立つ者は、数息沈黙した。

そして、一歩前に出る。

「……子は、残せ。」

淡々とした口調。

だが、そこに交渉の余地はない。

趙氏ははっと顔を上げ、一瞬だけ恐怖を浮かべたが、すぐにそれを押し殺した。

反抗はせず、ただ子を抱く腕に力を込める。

立つ者は、中年の部下に視線を移す。

「穆隊長。」

男は即座に身を正す。

「ここに。」

「彼女を預ける。」

命令だった。

拒否は許されない。

「西境を離れよ。」

胸を打たれる思いを押し込み、男は即答した。

「命に従います。」

再び、視線は赤子へ。

まだ形を成しきらぬ顔。

ぼやけた眉目。

だが、この血と雪の世界を前にして、不思議なほど静かだった。

「今より――」

「この子は、元の名を捨てる。」

趙氏の指先が、かすかに震えた。

「名は――独孤翊翃ドクゴ・よくこう。」

その声は、あまりに軽く。

だが、廃墟の上に、抜けぬ楔を打ち込むようだった。

穆隊長は、深く頭を垂れ、その名を胸に刻む。

立つ者は、すでに背を向けていた。

「俺が、送る。」

風雪越しに声が届く。

「問天教へ。師傅のもとへ。」

「この先、この子は西境のものではない。」

「……誰のものでもない。」

風雪が再び偏殿に吹き込む。

その背は、火光と夜の狭間へと消えた。

残されたのは瓦礫と、世に知られることのない始まりだけ。

この夜――

毒は、まだ存在していなかった。

愛も、まだ語られてはいなかった。

だが、すべての因果は、血と雪の中で、すでに定まっていた。

記憶は、そこで途切れた。

まるで見えない手に押し戻されるように。

独孤翊翃ドクゴ・よくこうは、はっと目を開いた。

篝火が、夜風に揺れている。

彼は火のそばに座り、剣を握っていた。

剣身に映る火光は、冷たく、あまりにも鮮明だった。

もう、どれほど長い間、まともに眠っていないのか分からない。

目を閉じるたび、過去は勝手に蘇ってくる。

「……仁剣門。」

低く、その名を呟く。

年月が過ぎても、あの者たちはなお名門正派として高座に座り、万人の敬仰を受けている。

そして、自分の手元に残ったのは――

ただ、この一振りの剣だけだった。

九天剣法・閃。

その最終式が、脳裏で何度も反復される。

それは単なる殺招ではない。

余地を残さず、退路を与えぬ――

「終わらせる」ための剣。

月初は近い。

行くべき場所は、すでに定まっていた。


仁剣門。

山門は大きく開かれていた。

擂台は早くから設えられ、門内外には各派の旗が林立している。

表向きは観礼。

だが、誰もが待っているのは、ただ一つの答えだった。

独孤翊翃が山門を踏み越えた瞬間、低いざわめきが走る。

「……あれが……」

「各派掌門を一剣で下した男だ。」

彼は意に介さない。

視線の先、擂台の中央には、一人の中年の男がすでに立っていた。

その手に握られた剣は、光を抑えながらも、確かな威圧を放っている。

――重光。

独孤翊翃は、その剣から視線を外し、台下の一角へと目を向けた。

趙氏が、そこに立っていた。

記憶の中よりも、ずっと落ち着いた佇まい。

素素しい装い、静かな表情。

歳月の痕は確かにあるが、それを巧みに包み込んでいる。

「少侠。」

彼女は一歩前に出て、柔らかな声で言った。

「長旅、お疲れでしょう。」

独孤翊翃は答えない。

「比武の前に、少しお休みになっては。」

「妾身が、お茶をお淹れいたします。」

周囲がざわつく。

「何だ、あれは……?」

「なぜあの女が、あいつを……?」

独孤翊翃は、趙氏を見つめた。

その瞬間、はっきりと悟った。

自分の中にある彼女の記憶は、常に断片的だったということを。

冷たさ。

距離。

そして、決して近づくことのなかった隔たり。

「……少しだけだ。」

そう言って、彼は応じた。


偏室の扉が閉まる。

外の喧騒は、完全に遮断された。

趙氏は振り返ると、ほとんど震えるようにして彼を抱きしめた。

「翃児……」

その声は、低く、かすれている。

独孤翊翃は応えない。

抱擁を拒まなかったが、抱き返すこともなかった。

茶の湯は澄み、湯気が静かに立ち昇る。

「……私が、手ずから煮たものです。」

そう言って、茶碗を差し出す。

独孤翊翃は、その茶を見つめた。

理性は告げている。

比武を前に、余計なものを口にすべきではない、と。

だが、顔を上げた瞬間。

彼女の瞳に、一瞬だけ浮かんだ――懇願。

そのとき、脳裏をよぎったのは、襁褓の中の、あの微かな温もりだった。

彼は茶碗を受け取り、一息に飲み干した。

苦く、そして、ほのかに甘かった。


擂台。

剣が鞘を離れる。

――その瞬間、世界が傾いた。

真気が、何かに引きずられる。

経脈が、刺すように痛む。

理解した。

毒だ。

視線が、無意識に台下を探す。

趙氏は、そこに立っていた。

無表情で。

それは、あの雪の夜と――まったく同じだった。

「……なるほどな。」

独孤翊翃は、低く笑った。

この瞬間、毒はすでに骨まで回っている。

そして、母は――彼の剣の、向こう側に立っていた。

風が、強くなる。

毒は血の中でうねり、冷たい蛇のように経脈を伝って心臓へと絡みつく。

彼は無理やり体勢を保つが、足元はすでに定まらない。

剣が――

いつもより、わずかに遅い。

たった半拍。

だが、それは彼にとって致命的だった。

「独孤少侠。」

対面の声が、再び響く。

穏やかで、抑制された調子。

まるで親切な忠告のように。

「……どうやら、ご体調が優れぬようだ。」

場に落ちたその言葉は、至極もっともだった。

だが、独孤翊翃の耳には、どんな挑発よりも鋭く突き刺さる。

彼は答えない。

ただ、自分の剣を握る手を見下ろした。

白くなった指。

わずかな震え。

恐怖ではない。

――悟ってしまったのだ。

この一局は、あの茶を受け取った時点で、すでに結末が書かれていたのだと。

「……始めよう。」

低く、しかし明確に告げる。

ざわめきが、一瞬止んだ。

毒と剣意が、体内で激しく拮抗する。

彼は逆流する気血を押さえ込み、一歩踏み出した。

その一歩は、いつもより重い。

重光が、空を裂いて迫る。

剣風が擂台の縁板を揺らすほどの威力。

独孤翊翃は反射的に鞘で受け止める――

「――ッ!」

激震。

腕から胸へ、衝撃が一気に突き抜けた。

身体が弾かれ、背中から擂台の縁に叩きつけられる。

木片が飛び散る。

喉に、鉄の味。

血の気配が口内に広がった。

観衆から、押し殺しきれぬどよめき。

「押し返された……!」

「やはり、神兵には敵わぬのか……」

独孤翊翃は片膝をつき、剣先を床に突き立てて、ようやく倒れるのを免れる。

顔を上げる。

人垣の向こう――

再び、あの場所を見る。

趙氏は、そこにいた。

驚きも、動揺もない。

ただ、すべてを予期していたかのような眼差し。

その瞬間、彼は理解した。

これは、仇でも裏切りでもない。

――選択だ。

彼女は、あちらを選んだ。

「……はは。」

小さな笑いが漏れる。

それは、誰よりも自分自身を傷つける音だった。

彼は、再び立ち上がる。

今度は、毒を抑えようとしなかった。

真気を強引に引き上げ、逆行させる。

経脈が裂けるような痛み。

視界の端が暗く染まり、耳鳴りが轟く。

だが、剣意は――

極限まで研ぎ澄まされていく。

「やめろ!」

誰かが叫んだ。

だが、彼の耳には、もう届かない。

この一剣は、勝敗のためではない。

――終わらせるための剣。

彼は踏み込んだ。

擂台が震える。

重光が、再び正面から迎え撃つ。

刃がぶつかる刹那、空気が引き裂かれ、衝撃波が板を砕き、砂塵が舞い上がる。

「――カァン!」

そして。

「……ッ!」

乾いた、嫌な音。

彼の剣が、ついに耐えきれず――折れた。

だが、無理やり搾り出された剣意は、なおも重光を貫き、肉体を裂き、深い傷を刻む。

二つの影が、同時に吹き飛ばされた。

擂台は、崩壊寸前だった。

砂塵が晴れたとき、場は静まり返っていた。

独孤翊翃は、折れた剣を支えに、ゆっくりと立ち上がる。

世界が、揺れている。

毒が、完全に回った。

彼は、引きずるように歩き出す。

倒れ伏す者へと。

「……返すべき債だ。」

低く、凍るような声。

「今、返してもらう。」

断剣が、持ち上がる。

その瞬間――

誰一人、声を出せなかった。

この一剣が落ちれば、今日という日は、すべてを断ち切ってしまう。

――だが。

一つの影が、躊躇なく飛び出した。

叫びもない。

ためらいもない。

身体が、そのまま剣の前に差し出される。

温かい感触が、柄を伝ってきた。

独孤翊翃の動きが、止まる。

見下ろす。

剣は――腹部に突き立っていた。

鮮血が、素素しい衣を一瞬で染め上げる。

「……母……?」

その声は、自分のものとは思えなかった。

趙氏はよろめいたが、倒れなかった。

剣身を掴む。

指先が切れ、血が滴っても、決して放さない。

「……もう、いい。」

その声は、驚くほど静かだった。

独孤翊翃の思考は、真っ白になる。

毒も、仇も、周囲の視線も――

すべて、消えた。

「……なぜだ……」

震える声。

「なぜ、止める……」

趙氏は、彼を見た。

そこに、もはや冷たさはない。

長年まとっていた殻を、ようやく脱いだかのような目だった。

「……あなたは……」

血を吐きながら、言葉を継ぐ。

「……これ以上、殺してはいけない。」

「あなたが、彼を殺せば……生きていけなくなる。」

独孤翊翃は、激しく首を振る。

「毒を盛ったのは、お前だ!」

「俺を、ここまで追い込んだのは……!」

趙氏は、かすかに笑った。

「……毒は、私が盛った。」

平然と、そう言った。

「……あの時と、同じ。」

その一言が、すべてを打ち砕く。

「なら、なぜ剣を受けた!」

叫び声に近かった。

「最初から、決めていたんだろう!」

趙氏は、ゆっくりと首を振る。

「……選んだ。」

「……そして、後悔した。」

身体から、力が抜けていく。

それでも、彼女は立ち続けた。

「……戻れないことも、ある。」

指先で、彼の頬に触れる。

「……でも、人だけは……」

「……二度と、間違えさせてはいけない。」

独孤翊翃の手が、激しく震える。

その瞬間、ようやく理解した。

――この剣は、すでに刺さっている。

彼女は、避けなかった。

「……あの茶は……」

声は、かすれていく。

「……あなたを、負かすためじゃない。」

「……生かすため。」

「……すぐには、死なない毒。」

「……でも、すべてを殺し尽くせなくなる。」

視線が、台下の群衆へと向けられる。

恐怖。

憎悪。

だが、誰一人、近づけない。

「……もし、あなたが……」

「……そうなったなら……」

「……生きていても、世界に殺される。」

その力は、ついに尽きた。

身体が、崩れ落ちる。

独孤翊翃は、反射的に抱きとめた。

――軽すぎる。

「……憎んでもいい。」

ほとんど聞き取れない声。

「……でも、自分だけは……」

「……憎まないで。」

「……翃児。」

それは、最初で最後の呼び方だった。

「……生きなさい。」

手が、衣から滑り落ちる。

世界が――

静まり返った。

独孤翊翃は、擂台に膝をつき、彼女を抱いたまま動かない。

折れた剣が、傍らに転がっている。

毒は巡り。

剣意は崩れ。

彼を支えていたすべてが、失われた。

涙は、出なかった。

ただ、俯いたまま、長い時間が過ぎた。

やがて、下から声が上がる。

怒号。

非難。

剣を抜く音。

だが、それらは、厚い水の膜越しの出来事のようだった。

彼は、ゆっくりと立ち上がる。

彼女を抱いて。

一歩ずつ、擂台を降りる。

誰も、止められない。

「母毒。」

「母愛。」

その二つの言葉が、重なり合い、そして引き裂かれる。

独孤翊翃は、ついに理解した。

――ある愛は、それ自体が毒である。

――そして、ある毒は、愛の名で差し出されるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ