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第八話 牢中

 泰城タイじょうは、もともと眠らない。


 高空から俯瞰すれば、夜幕に沈む泰城は、金色の縦瞳を見開いた巨大な獣のようだった──


 街路は縦横に走り、灯火は川のように連なり、賭場、酒楼、遊郭、客桟が層をなして、城門から内市の奥まで、途切れることなく明かりが続いている。


 聚香ジュコウが北国の「心と脳」であり、権力と軍令と奏章が集まる政治の中心だとすれば、泰城は北部最大の経済と商いの都だった。


 金さえあれば、身分も来歴も問わず、たいていの者は泰城に居場所を見つけることができる。


 ゆえにこの城は「開明的な政」の代名詞となっている。関税は緩く、行商人は多く、江湖の者、異族の旅人、流民、辺境軍を退いた兵士たち……さまざまな者たちが入り混じり、この城を繁華に、そして濁らせてもいた。


 だが、まばゆい灯火の裏側には、必ず光の当たらない影があり、その影が見せられぬものを引き受けている。


 泰城の西側、表通りから外れたところに、石壁のまだらが目立つ古い塔が一つある。新しく建った商家の陰に押しやられ、今にも視界から押し出されそうな、そんな塔だ。


 その塔の影の下に、泰城大牢が口を開けている。


 そこには、ほとんど灯りがない。


 あるのは湿気と冷風、黴と鉄錆の匂い、そしてどこからともなく漂う血の臭いだけ。


 城中の繁華とは、まるで別の世界だった。


 「入れ──!」


 重々しい鉄扉が「ゴウン」と音を立てて押し開けられ、二つの影が乱暴に牢道へと引きずり込まれた。足首が石段にぶつかり、鈍い音が響く。


 西門鼎シモン・かなえは痛みに飛び跳ねた。


 「っつ……! ちょ、ちょっと手加減しろって! 俺は客であって荷物じゃねぇぞ!」


 彼らを押送してきた獄卒は、鼻で笑う。


 「ヒョウ様を怒らせておいて、まだ自分を“客”だと言えるのか? 寝言は寝て言え!」


 牢道には陰気が溜まり、両側には黒い格子のように牢が並んでいる。


 石壁のあちこちに差し込まれた松明が、影をやけに長く引き伸ばしていた。


 先頭の獄卒が鍵を回し、奥まった一室の牢門を開けると、勢いよく押し広げた。


 「入れ!」


 阿虫あむしは、そのまま放り込まれるように中へ投げ出され、湿った床の上でよろめく。


 続いて西門鼎が蹴り飛ばされるように転がり込み、危うく阿虫の背中に突っ込みかけた。


 「バン──」


 背後で牢門が閉まる音が、西門鼎の悲鳴をかき消す。


 鉄錠が掛けられ、獄卒はろくに中を見もしないまま、松明を引き抜いて牢道の外へ出ていった。


 火が遠ざかるにつれ、牢道は一段と暗さを増していく。


 「阿虫! 俺たち終わった! 今度こそ本当に終わった!!」


 西門鼎は尻を押さえたまま床を転げ回り、声まで裏返っていた。


 「今回は絶対ヒョウ様に許されねぇ! とび児が、俺が大牢に放り込まれたって知ったら、泣き死ぬに決まってる! 違うな、まずボロクソに罵ってから泣く!!」


 それに比べ、一緒に放り込まれた阿虫は、ずいぶんと落ち着いていた。


 彼は床の隅に積まれた、半分腐りかけた藁束を見つけると、そこに腰を下ろし、軽く埃を払っただけで、そのままごろんと横になった。片腕を枕にし、その藁山をごく無理やり枕代わりにする。


 「うるさい。」


 声はひどく気怠げだ。


 「宿のベッドには負けるけど……まだ寝られる。」


 「よくそんなこと言えるな!? 自分が今誰を怒らせたか分かってんのか!? 相手は泰城の覇飆ハーヒョウだぞ!? 身体中ぐるっと一周、全部肉のあの巨熊だぞ!? 一発張り倒されたら、俺なんか床の中までめり込むわ!!」


 ヒョウ様──覇飆。


 泰城の黒道で、その名を知らぬ者はいない。


 戸口より広い肩幅、丘のような腹、歩くたびに耳飾りがガチャガチャと揺れる巨漢。


 泰城太守・孫人峰ソン・じんほうは、平素「開明な為政者」として名を馳せ、朝堂でも上から目をかけられている。


 だが「潔白な手」を掲げて立つ者は、同時に必ず「血塗れの手」を一組は用意しておかねばならない。


 覇飆こそが、その血塗れの手だった。


 人身売買、暗殺、取り立て、禁制品の密輸──太守が直接手を出せない場所では、いつも彼の影が動いている。


 今回の女奴隷の運搬の仕事も、表向きはヒョウ様が外に向けて請け負った「貨物運び」に過ぎないが、実際は太守・孫人峰の名の下、辺境から流れ込んだ者たちを「処理」する仕事だった。


 そしてその仕事を、阿虫と西門鼎は、派手にぶち壊してしまったのである。


 阿虫も、そのくらいのことは分かっていた。


 それでも彼は、横になったまま、ただ暗闇の天井から視線を外し、淡々と言った。


 「しくじったのはお前で、俺じゃない。」


 「はあ!?」


 西門鼎は一気に沸騰した。


 「なんで全部俺のせいになるんだよ!? もともとあの銀狐のお嬢様が……いや、あのお嬢様が義賊ごっこなんて始めなきゃ、こんなことには──」


 阿虫は少し考え、「それも一理ある」と頷いた。


 「お前……!」


 「でもな。」阿虫は頭をぼりぼりとかきながら続ける。「ヒョウ様の損失は、そのうち全部お前のところに回ってくる。」


 西門鼎は一瞬でしおしおと萎れた。


 「……だよな。」


 彼は頭を抱えたまま、牢門の根元にうずくまり、ぶつぶつと呟き続ける。


 「妹鳶とびよ、俺がこんなやらかししたって知ったら……俺はあいつの前でどうやってカッコつければいいんだよ。元々チャンスだって多くねぇのに、これで全部パーだ……阿橙あだいさんも、きっと呆れ返るよな……終わった、完全に終わった……俺、一生頭上げられねぇ……」


 阿虫は目を閉じたまま言う。


 「今のお前の姿、自分で見てみろ。元々頭上がってねぇぞ。」


 「阿虫!!!」


 牢室は広くはない。壁には水が染み出し、床は冷たく湿っている。鉄格子と石壁以外には、いちばん奥に雑に積まれた藁束があるきりで、そこから黴臭が漂っていた。


 「人に寝床を与える」というより、「せめて直接石の上に寝かせないための敷物」といった方が近い。


 阿虫は寝返りを打ち、手を枕にしながら、何気なくその藁束の方へ視線を滑らせた。


 次の瞬間、その目がわずかに細くなる。


 藁が、かすかに動いた。


 風ではない。ここにはほとんど風がない──あるのは、ただ湿り気だけだ。


 「……何かいる。」


 阿虫は上体を起こした。


 「え? どこに?」


 西門鼎は「人生終わった」モードに浸っていた顔を上げ、鼻水と涙でぐちゃぐちゃの顔のまま辺りを見回す。


 阿虫は答えず、すっと立ち上がると、ゆっくり藁束へと歩み寄った。


 近づくたびに、胸の奥で、鈍い痛みに似た何かが、心臓を軽く叩くような感覚がした。


 ──違う。


 痛みではない。


 どこかで似た気配が、共鳴している。


 藁束の端には、黒紅色に染みた跡がいくつかあった。すでに乾ききっているが、そこからは薄く甘い血の匂いが漂っている。


 阿虫は腰を落とし、藁に指を伸ばした。


 稲の穂先が指先に刺さり、ちくりとした痛みが走る。


 最後の一層を払いのけたとき、健康な色をとうに失った顔が、その下から現れた。


 西門鼎の悲鳴は、牢の天井を突き抜けそうな勢いだった。


 「うわあああああ──死体がいる!!」


 「黙れ。」


 阿虫は眉をひそめる。


 死体ではない。


 少なくとも、まだこの瞬間までは。


 藁の中には、一人の若い男が四肢を投げ出して倒れていた。衣は裂け、胸元や肩口、肋のあたりには、剣傷や掌打の痕、縄で擦り切れた痣など、さまざまな傷が刻まれている。


 肌は灰色がかり、唇は黒く、呼吸は感じ取れるかどうか、というほどに弱々しい。


 だが阿虫の注意を引いたのは、その見た目ではなかった。


 ──この男の身体から微かに溢れている、破れた剣気。


 それは、九天剣法の筋だった。


 破られ、歪められ、毒によって押さえつけられてはいるものの、骨の芯に刻まれた剣意の痕跡は、凡百の剣士が真似できるものではない。


 「……お前らみたいなタイプだな。」


 西門鼎も、ぞくりとするような冷たさを感じ取ったのか、おそるおそる二歩近づき、すぐに三歩下がる。


 「剣を振り回してボロボロになって、それでも一身に怨念背負ってる感じ……」


 彼は男の横顔をじっと見つめ、目を細めた。


 「しかし横顔で見るとさ……なんかお前にちょっと似てない? “この世界にまだ文句言い足りねぇ”って顔、同じ型で作ったみたいなんだけど。」


 阿虫は相手にしなかった。


 彼は黙って手を伸ばし、男の首筋に指を当てる。


 皮膚に触れた瞬間、その表情が少しだけ曇った。


 脈は、乱れた糸のように不規則で、皮の下で頼りなく震え、途切れかけては、また辛うじて戻ってくる。


 経絡と経絡のあいだには、陰寒な濁気がとぐろを巻いており、血の流れに沿ってゆっくりと巡りながら、通り道ごとに人の生気を少しずつ食い破っているようだった。


 「この毒……」


 阿虫の声は低く落ちた。


 「一時いっときのものじゃない。」


 西門鼎は緊張を押し殺すようにしながらも、好奇心を抑えきれずに訊ねる。


 「ど、どういう意味だ?」


 「身体の中に、ずっと隠れてたんだろう。少しずつ蝕みながら。」


 阿虫は眉間に皺を寄せる。


 「最近になって、誰かに無理やり起こされた。そこへ追っ手と傷と、気と神を使い果たした疲れが重なって……最後にここへ捨てられて、死ぬ順番を待っている。」


 牢室はしんと静まり返った。


 さっきまで聞こえていた牢道の罵声や咳払いでさえ、この瞬間だけ遠ざかったように感じられた。


 「誰が、そんなことするんだよ……」


 西門鼎の声は自然と小さくなる。


 「誰が、こんな毒を人に仕込むんだ?」


 「……いちばん近しい相手、かもしれないな。」


 阿虫は淡々と答えた。


 西門鼎はぞくりと身震いする。


 「や、やめろよ、そういう怖いこと言うの……」


 阿虫は、それ以上多くを語らなかった。


 ただ、黙ってその男の顔を見つめる。


 薄暗い牢の中、その顔は血の気を失い、ほとんど透き通るように白い。


 濡れた睫毛には、乾ききらない汗と血の混じった雫が、かすかに張り付いていた。


 どれほど見つめても、胸の奥から、妙な感情が湧き上がってくるばかりだ。


 少し胸が痛むような、少し苛立たしいような。


 それでいて、もっと深いところから浮き上がってくる、薄い共鳴の感覚。


 ──まるで、自分もどこかで同じように捨てられたことがあるかのように。


 「そいつ、死ぬのか?」


 西門鼎が小声で問う。


 「死ぬ。」


 阿虫は正直に答えた。


 「このまま放っておけばな。」


 「なのになんでそんな落ち着いてられんだよ!!」


 西門鼎は思わず声を張り上げる。


 「俺、今にも息が止まりそうなやつと同じ牢にいるのとか、マジで嫌なんだけど! 縁起悪いし、気持ち悪いし! それに俺は、鳶の前で“頼れる兄貴”って証明しなきゃいけないんだぞ!? この西門鼎さまは、将来、泰城一の金持ちで、いちばんイケてて、いちばん義理堅い大人物になる予定だったんだ! なのに、なんで大牢で死人予備軍と同室なんだよ、どこで人生間違えた!?」


 阿虫は横目でちらりと見た。


 「……つまり、お前は死ぬのが怖いってことだな。」


 「当たり前だろ! 俺はあんたみたいに悟った顔してる貧乏人とは違うんだよ、やりてぇことも、見せてぇ姿も山ほどあるんだよ!」


 やけになって怒鳴る西門鼎の姿は、正直滑稽でもあったが、その必死さ自体は嫌いではない。


 阿虫は小さく息を吐いた。


 「……心配するな。こいつは、まだ死なせない。」


 「はあ!? どうやってだよ!」


 阿虫は男から手を離し、立ち上がる。


 「毒そのものは、俺には抜けない。医術は、得意じゃないからな。」


 「お前な、その自覚があるならさっきみたいにそれっぽく診たフリすんなよ……」


 「判断しただけだ。毒の回り方と、気の乱れを見た。」


 阿虫は牢の鉄格子の方へ歩き、牢道の暗がりを見据えた。


 「でも、この手の毒から人を引き戻せるやつは、知ってる。」


 西門鼎の顔色が、一瞬で青ざめる。


 「ま、まさか……毒女か?」


 辛夷シンイ


 数ヶ月前に泰城へ現れた、謎めいた女。


 市の広場で起きた揉め事をきっかけに、人攫いだの、子供を材料に毒を練っているだのと噂され、「毒女」と陰で呼ばれるようになった。


 多くの者が彼女を恐れるのは、金を巻き上げられるからではない。ほんの一瞬目を離した隙に、実験台にされて毒を試されるのではないかと怯えているのだ。


 だが阿虫は知っている。


 彼女が恐ろしいのは悪事を働くからではなく、毒に関する知識と扱いにおいて、常人のはるか上を行っているからだと。


 「本気で毒女を呼ぶつもりか……?」


 西門鼎は肩をすくめる。


 「べ、別に怖いわけじゃねぇよ? たださ、あの人、絶対“あ、新しい解毒薬できたから、ちょっとここ刺していい?”とか言いながら、いきなり針ぶっ刺してくるタイプだろ。危ねぇ女なんだって。」


 「でも、いい人だ。」


 阿虫は変わらぬ調子で答える。


 「それに、こういう毒の中から人を引き戻せる奴なんて、そう多くない。」


 西門鼎は、二呼吸ほど黙り込んだあと、ぼそりと言う。


 「……じゃあちゃんと言っとけよな。俺は無実だって。刺すなら先にお前から刺せって。」


 阿虫はその言葉を聞き流した。


 もう一度、男の呼吸を確かめ、いくつかの経絡に指を当て、少しでも呼吸が楽になるように調整していく。


 昏睡しているはずの男の眉が、ごくわずかに動いた。


 「……おい。」


 阿虫は低く呼びかける。


 「聞こえるか。」


 返事はない。


 もとより、すぐに意識が戻るとは思っていなかった。


 ただ、ごくわずかな真気を指先に集め、干上がりかけた川に一杯の水を注ぎ込むように、相手の経脈をそっと押し広げてやる。


 そのとき──


 男の喉から、ひどくかすれた、ほとんど聞き取れない呟きが漏れた。


 「…………」


 風にさらわれる灰のように、小さな声だった。


 西門鼎が目を丸くする。


 「今、誰呼んだ?」


 「……母上ははうえ……なぜ……」


 男の声は途切れ途切れで、一言吐き出すたびに、残った力をすべて使い切ってしまうかのようだった。


 「……師匠……俺は……もう……言われた通りに……やったのに……どうして……」


 阿虫の指先が、びくりと震える。


 母。


 師匠。


 その二つの呼び名が、胸の奥に隠れた古い傷跡を、そっとなぞるように通り過ぎていく。


 幼い頃の、ぼんやりとした記憶。


 愛を求めて伸ばした手。


 山頂で剣を振るう自分を、どこか冷めた目で眺めていた師匠の横顔。


 ──この男は、毒を盛られ、江湖で追われ、牢へ捨てられ、死を待つその最後の瞬間にさえ、心の底で「師匠は俺をどう見ているか」を気にしている。


 阿虫は、いつ息を止めていたのか分からなかった。


 ただ、胸の奥がきしむように痛み、言葉にできない苛立ちと苦しさが、じわじわと絡み合っていく。


 「……母上……なぜ……」


 男のまつげがかすかに震え、目尻には乾いた血の跡が見えた。


 「師匠……俺は、もう……全部……やったのに……」


 そこまで言ったところで、喉の音は完全に途切れ、ふたたび無音の闇へと沈んでいった。


 牢室には、水滴の落ちる音と、遠くでときおり聞こえる足音だけが残る。


 西門鼎は小さく唾を飲み込んだ。


 「……なんかさ、この人……めちゃくちゃ可哀想だな。」


 阿虫は何も言わない。


 ただ、藁束をかき集めなおし、男の身体の下に敷き直してやる。少しでも冷たい床から離せるようにしてから、胸に当てていた手をそっと離した。


 「少なくとも。」


 阿虫は低く呟く。


 「姉ちゃんが来るまでは、生かしておく。」


 「おいおい、お前まさか“英雄が美女──じゃなくて、もう一人の不幸者を救う”ってやつをやる気じゃねぇよな? 見ろよこの顔色、いつご先祖様に挨拶しに行ってもおかしくねぇレベルだぞ?」


 西門鼎は口だけは相変わらず軽い。


 阿虫は横目で一瞥した。


 「死人が怖いのか。」


 「こ、怖くねぇし! ただ、夜中に隣で急に起き上がられたら嫌なだけだ!」


 牢道の向こうから、ふたたび鍵のぶつかる音が聞こえてきた。遠くで扉の開け閉めされる音と、何やら話し声が混じっているが、内容までは聞き取れない。


 西門鼎はすぐさま鉄格子に張り付き、喉が裂けそうな声で叫んだ。


 「おーい! 誰かいねぇのか! フクロウ! 欧陽梟オウヨウ・きょう! 誰でもいいから呼んでこい! 鼎さまはまだ若いんだ! 阿橙さんの前でカッコつけ足りねぇし、鳶に一番高ぇ簪だってまだ買ってねぇんだぞ! 俺の人生を牢の中で終わらせるなああああ!!」


 外から、荒っぽい怒鳴り声が返ってくる。


 「うるせぇ! これ以上騒いだら、その口縫い付けるぞ!」


 「やれるもんならやってみろ! 俺が出たら毎日お前の悪口言いふらしてやるからな! 毒女に頼んで、お前んちに毎日“お薬”届けてもらうぞ!!」


 罵声がいくつか飛び交い、やがて足音は遠ざかっていった。


 それが報せを伝えに行ったのか、それとも騒ぎから逃げただけなのかは分からない。


 阿虫はそのやり取りを聞き流しながら、ふたたび藁束の上の男を見つめた。


 男の呼吸は相変わらず浅いが、辛うじて続いている。


 わずかな胸の上下に合わせて、身体の奥深くで、微かな剣意が脈打つのを感じた。風の中で、今にも消えそうな最後の灯火のような気配。


 「……母上……師匠……」


 先ほどのかすかな呟きが、まだ耳の奥で渦巻いている。


 阿虫は無意識のうちに、自分の胸に手を当てた。


 そこもまた、うっすらと痛んだ気がした。


 「ここで死なれたら……あとあと面倒なことになりそうだ。」


 ぽつりと漏らした言葉に、西門鼎が首を傾げる。


 「今、なんて言った?」


 「別に。」


 阿虫はそれ以上何も言わず、静かに目を閉じた。


 ──その瞬間。


 彼のまぶたが落ちるのとほとんど同時に、藁の上の男の意識が、何かに引かれるように揺らいだ。


 闇の奥の、はるか遠くから、鉄鎖の擦れ合う音が聞こえてくる。


 牢の鎖ではない。


 もっと深く、記憶の底で鳴っている、別の鎖の音だ。


 怒号。冷笑。裏切りの言葉。


 霧雨の夜の追撃。


 遠ざかる親の背。


 師匠の、静かで、それでいて失望を隠そうともしない眼差し。


 ばらばらだった欠片が一気に押し寄せ、男の意識を「少し前」の道筋へと引き戻していく。


 それは──


 彼がもっとも振り返りたくない、あの夜だった。


 江湖の者たちに追われ、ついには泰城の暗い路地へと倒れ込み、流れ者の乞食と同じように大牢へ引きずられていく、その直前までのすべて。


 牢室の空気は、何ひとつ変わっていない。


 ただ、誰の目にも見えないどこかで、一枚の記憶の扉が、音もなく開いていた。


 そして阿虫は知らない。


 このとき「見捨てない」という選択をしたことで、自分とこの男との運命が、今後ほどけぬほどに絡み合っていくのだということを。


 泰城の外では、夜はいつも通り更けていく。商人の呼び声、賭場の喧騒、歌姫の歌声は途切れない。


 城内で最も明るい灯と、城底で最も濃い闇が、同じ時刻に静かに共存していた。


 そしてこの大牢の一室で、阿虫と西門鼎、そして息も絶え絶えの男は、肩を並べるようにして、ひとつの転機の上に座っていた。


 ──ただ、そのことに気づいている者は、まだ誰もいない。

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