第七話 日朝
天がまだ白みきらぬ刻、聚香城の北王府主殿にはすでに灯がともり、銀焔の灯火が高くそびえる丹柱を照らしていた。光影は殿内の文様を滑り、静かに凍えるような寒意を描き出す。
朝議はまだ始まらぬというのに、冷たい空気だけが先に殿を満たしてゆく。
宮外から聞こえる鼓の音は低く、ゆるやかで、まるで本日の議事が平穏に進まぬことを予め告げているかのようだった。
夏侯昴が大殿へ歩み入った瞬間、胸奥がわずかに縮むような感覚が走った。恐れではない――今日の議題が、北国の根脈に触れる重さを持つと、本能が悟っていたからである。
主殿の最奥、一筋の淡い垂れ帷が下ろされ、風に揺れる珠簾が微かな音を立てた。帷の奥に座すのは、北王太后・司馬馨。
その存在は姿を現さずとも、ただ帷後に端坐するだけで、誰にも侵すことのできぬ威厳と権勢を示していた。若い官吏たちは殿外では小声で語らっていたものの、この大殿に足を踏み入れた途端、すべての声は光影に呑まれた。
夏侯昴の足音が丹煉の床に静かに響く。ひと踏みごとに、彼の肩へ積み重なる責務が思い出される。
殿心に立ち、彼は低く宣した。
「本日の日朝――始める。」
百官は一斉に拱手し、礼を取った。
帷後の太后は沈黙したままだが、その沈黙こそが殿内の空気を締め上げた。夏侯昴は理解していた。今日のひとこと一言が、この無形の冷気の中で裁かれるのだと。
夏侯昴は最初の奏案を開いた。
「南国は濁潮に襲われ、数州にわたり被災民が溢れている。敝としては、隣国を救うことこそ北国の義、すなわち王道に通ずると考える。」
言い終えた直後――反対の声は上らなかった。
代わりに、にこやかに進み出る老臣がいた。声は穏やかで礼を失っていない。
「殿下の御仁心、まことに感服いたします。」
別の大臣も柔らかに続く。
「しかし災勢はいまだ定まらず、軍を深く入れれば危地に陥る恐れもございます。殿下の御仁義は素晴らしきかな、されど慎重にも慎重を期すべきかと。」
三人目の大臣が頷きながら言った。
「さらに本年は東皇への貢期が迫っております。今この時に倉を動かせば、東皇より北国の不敬を疑われましょう。」
どの言葉も春風のように柔らかく、礼を欠く箇所はない。
だが――その実、彼らが述べる“懸念”はすべて阻止であった。
夏侯昴の眉間が僅かに寄る。
士族とは決して「否」とは言わない。
彼らの拒絶は、常に恭維の仮面をかぶってやって来る。
説明しようと口を開きかけた瞬間、帷後から太后の静かな声が落ちた。
「昴、その心は理解している。」
夏侯昴は帷を見上げた。
「だが北国はいま風口にある。些細な一歩が、家国の利を損なうこともある。援助そのものは否とは言わぬ。だが――時機がまだ整っておらぬ。」
太后の声は重くはない。
だが雷のように議場を断ち切った。
「南国の千金、南宮千草が北国に入ったのち、使節と議すればよい。」
途端に百官が声をそろえる。
「太后様の御断、まことに至当!」
夏侯昴の指先が袖中でわずかに震えた。
――母は理解してくれている。
だが、決して彼にその道を歩ませはしない。
その帷幕の奥の静けさは、母の温情ではなく、権力の寒壁なのだと、彼ははじめて実感した。
夏侯昴は第二の奏案を広げた。
「北国は三年、科挙を開いていない。敝は科挙を復して賢才を選び、国の虚を補うべきと考える。」
士族たちは、先ほどと同じ穏やかな笑みを浮かべた。
「殿下の御愛才の心、敬服に堪えませぬ。」
「ただし策問の準備には年余を要します。拙速に行えば、寒門の士子が右往左往し、かえって殿下の悪評となりましょう。」
「もし急ぎ賢才を求められるならば、兵部や府学より試みに推挙を募るのも一策。これならば安定し、殿下の仁徳も示せましょう。」
「科挙は……慎重に、時を選ぶべきでございます。」
反対はしない。
だが一歩も進ませない。
夏侯昴は悟った。
何を言おうとも、彼らは必ず“殿下の優しさ”を盾に封じてくる。
これこそが士族の政治の刃――
柔らかく、温かく、しかし確実に人の手足を縛る。
帷後から太后の声が落ちた。
「昴、才を愛する心、母も嬉しい。だが北国の急務は“安定”。
科挙を開けば、寒門と士族の均を揺るがす。今は時でない。」
軽い声音――
だがその決断は揺るぎない。
夏侯昴は目を伏せ、小さく答えた。
「……昴、承りました。」
第二の道も、閉ざされた。
この時、戸部侍郎が進み出た。
「太后様、方家堡では怪異の噂が立ち、堡主は行方知れず。
調査に向かった三隊はいずれも戻っておりませぬ。
兵器の鋳造も滞り、軍備に支障が出る恐れがございます。」
殿内はたちまち緊張を帯びた。
夏侯昴の胸がわずかに痛んだ。
――方家堡主の子は、長兄を殺めた罪で民の憤怒を買い、
昴はさらなる真相究明を望んだ。
だが、太后は迅速な収束を選び、堡主の子を処刑して事を収めた。
そんな経緯がある場所に、再び妖しげな影――。
昴が兵を出す案を述べようとした瞬間、帷後から声が落ちた。
「方家堡は軍脈の要。失うわけには参らぬ。」
士族たちは予想通り、誰も責任を負いたがらない。
「別の者をもう一度送ればよいでしょう。ただし慎重に。」
「賊徒の可能性もあります。軽挙は禁物かと。」
彼らは中庸を語ることで、結局は何もせぬ。
その時、大殿の空気を切り裂く声が響いた。
「その件、泰城へ行き、御魂師を招きましょう。
私にお任せください。」
夏侯菖蒲が暗紅の礼服を纏い、堂々と入殿した。
「方家堡の怪異は尋常ならず。泰城に在す御魂師——一尘をお呼びできれば、道は開けましょう。」
大臣たちの表情に揺れが走った。
“一塵”が何者かは知らずとも、その腕が確かであることは皆知っていた。
太后が帷後から静かに問う。
「長らく戻らぬ男を、汝は動かせると?」
夏侯菖蒲はまっすぐに答えた。
「父と旧交がございます。北国が危地にあると知れば、必ずや応じましょう。」
事実を語らず、しかし否定もできぬ絶妙な言いまわし。
夏侯昴が声を添えようとしたが、太后の一言がそれを止めた。
「よい。菖蒲に任せる。」
彼女が退こうとした時――
「わ、私も……菖蒲様に同行したく……!」
若い声が震えながら響いた。
李剣蘭。
頬を真っ赤に染め、言いかけた「久しぶりにあの兄……」を慌てて飲み込み、
「お、お支えできるかと……!」
総管の李鎮厳がすぐに叱責した。
「剣蘭! ここがいかなる場か、わかっておるのか!」
剣蘭は即座に跪き謝罪。
菖蒲が静かに援護する。
「長年私に仕えております。共にあれば何かと助けになりましょう。」
太后はしばしの沈黙ののち、ゆっくりと言った。
「……よい。だが、目立つな。」
“大多数は知らぬ”
――あの御魂師が何者であったかを。
議題が女奴に移ったとき、大殿は再び沈黙に落ちた。
夏侯昴は慎重に言葉を選ぶ。
「これらの女子は多くが脅され利用された者たち。敝は、彼女らを府に収め、技を授け、自立させるべきと考える。」
士族たちは、またも柔らかな笑みを浮かべた。
「殿下の御仁心、尊きものです。ただ……」
「東皇は近頃、北国を何かと試しておられます。」
「女子らの心向きが定かでない以上、将来の災いとなるやもしれませぬ。」
柔らかい声音。
しかしそれは、濡れた絹で鋼の刃を包むような拒絶。
夏侯昴の胸に再び締め付けが走る。
母の声が落ちることを、彼はすでに悟っていた。
「昴、汝は情を重んじすぎる。」
帷の向こうの影は動かない。
しかし、その静止こそが絶対だった。
「これら女子は、東皇の放った“試子”。収編すれば、雷を背負うことになる。汝が担うべき事ではない。」
夏侯昴は震える声で言う。
「しかし……彼女らは無罪です。」
太后の声は冷ややかだった。
「昴。この世の誰が――彼女らの罪・無罪を気にかける?」
昴の胸中で、何かがひび割れた。
そのとき、菖蒲が一歩進んだ。
「母上、私は昴哥を支持します。慎重に行えば、禍にはなりません。」
殿内が静まる。
太后は小さく、誰にも届かぬほどの溜息を洩らし――
「……汝らの好きにせよ。」
許された。
だが、それは“責任ごと押しつけられた許し”だった。
日朝が終わった後、北王府の後院では女奴たちが数班に分けられ、名を記されていた。
怯え、泣き、震える者たち。
しかし――
その中の一人が、そっと顔を上げた。
灰白の肌、凄艶な赤い瞳。
彼女は院壁、哨戒、通路、影になる部分をひとつひとつ目に収めていく。
そして薄く笑った。
「思ったより……やりやすい。」
香坊、薬坊、厨へと振り分けられるということは――
彼女らが北王府の内部を自由に歩く権利を得るということ。
あとは時間だけが必要。
「道、倉、暗門……全部、掌中に入る。」
彼女は怯えたふりをしながら、
守衛たちの交替の刻まで精密に記憶していた。
胸奥に潜む殺意は、海底の潮のように密かに、そして確実にうねった。
翌朝。
北王府西院は薄い霧に包まれていた。馬の吐く白息がゆらゆら揺れ、石畳に蹄音が静かに響く。
夏侯菖蒲と李剣蘭は旅装に身を包んでいた。
剣蘭は手綱を握りしめながら、わずかに震えていた。
聚香を離れることも久しいが……
今回向かう地には、彼女が心に秘め、長く会えなかった“あの人”がいる。
その時、元気な声が響いた。
「待って!」
夏侯瓊が二つの木匣を抱えて駆け寄った。
「これ、持っていきなさい!」
彼女は一つを剣蘭へ差し出した。
「改良型の伸縮降魔棍。
あなたの……お父様――李総管がね、頼んできたのよ。
あの人、心配してるくせに言葉にしないんだから。」
剣蘭の瞳がたちまち潤む。
もう一匣を菖蒲へ。
「安神丸と、獣避けの香。道中、夜獣に出会ったら使って。」
菖蒲は深く頷く。
「ありがとう、瓊。必ず役立てる。」
馬へと乗り込む二人を見送りながら、瓊は小さく囁いた。
「……あの御魂師に会ったら、よろしく伝えて。」
剣蘭の頬が一瞬で真っ赤になった。
蹄音が高く響き、二騎は霧の中へ進む。
夏侯菖蒲は前を見据え、静かに言った。
「昴哥、母上――必ず、希望を持ち帰ってみせます。」
彼女らの向かう先は泰城――運命の結節点。




