その6
(うーん………)
その日の夕方、セイアはリスト大学の掲示板の前に佇んでいた。混みあう時間帯を避けて少し遅めにやってきたのだが、思ったよりも人がいる。皆歓声を上げたり、写真を撮ったり、泣いたり笑ったりと忙しい。セイアだけが無言のまま、本来自分の受験番号があるべき場所を穴のあくほど見つめていた。見ているうちに、数字と数字の間から自分の番号が浮かび上がってくるような奇跡でも起きないかと思ったが、もちろんそんなことはない。
(落ちたな、これは。まあ、仕方ないよなぁ)
そっと掲示板の前を離れ、大学を出るため門へと向かった。門をくぐる時、もう一度振り返って、歴史あるリスト大学の校舎をしっかりと目に焼き付けた。ここに、通いたかった。聞きたかった講義、会ってみたかった教授、憧れの大学生活……そんな未来が、泡と消えた。
(さて、と)
嫌なことは早めに終わらせてしまった方がいい。セイアは、大学の近くのテレフォンボックスから、実家の叔母とシルヴィア宛にそれぞれ電話を掛けた。二人とも言葉少なにセイアをねぎらい、「残念だったわね」「気を落とさないで」などの言葉を掛けられた。居心地の悪いことこの上ないが、とりあえず報告すべきところへの報告が終了し、ホッとした。受話器を置いて、深いため息をつく。
そのまま、ぼんやりしながら歩いていると、『アルテミス』のある通りに出てきてしまった。下宿先に戻るつもりだったのに、どうやら気持ちがこちら側に引っ張られているらしい。
正直、今はアリアに会いたくない。もう、不合格の件はシルヴィアから聞いているかもしれないが、変に気を使われるのは悲しい。それに、合格出来たら、まだこの町にいられたのに……毎日会って、親しくなって、そんな時間を持てたかもしれないのに。
でも、現実はこれだ。そもそもそんな妄想をすること自体が分不相応だ。セイアはもう一度深いため息をついて、昨日ヒメアと会った辺りへと足を向けた。あの周辺にも、結構飲める店があった気がする。
(今夜はやけ酒だな、これは。久々に、がっつり飲むか)
安くて一人でも入りやすそうな店を探し、通りの店を覗いていると、不意に後ろから声がかかった。
「あんた、ちょっといい?」
最初は、自分に声を掛けられているとは全く思わなかった。覗いた店がまだ営業時間前だったので、次に行こうと足を進めると、前に大きな人影が立った。
「あんたよあんた。聞きたいことがあるから、ちょっといい?」
「え?」
ぎょっとして立ち止まり、目の前の男を直視した。セイアよりもかなり身長が高く、肩幅のがっしりした体格のいい男だ。彼は長い前髪をうっとうしそうにかき上げながら、セイアをにらむように見据えた。左腕に、目立つ腕章をしている。黒地に青い星……警察だ。
「セイア・バトルね?昨日、『アルテミス』に居候してる子と一緒にいたでしょ。銀髪の、きれいな子。あの子について、教えて欲しいんだけど」
(油断した……)
いや、油断というか、自分のことで一杯いっぱいであまり周りに注意を払っていなかった。突然、はっきりと名前を呼ばれたことにも動揺した。こうなる可能性があることは指摘されていたのに、いざとなるとまったく頭が働かない。だが、何か答えなくては。
とりあえず、一緒にいたのは見られている。そこから否定すると、かえってあやしい。
「……なんですか。少しの時間一緒に飲み食いしただけですけど、それが何か」
緊張して、自分の声が遠くに聞こえた。警官に職務質問されるとか、生まれて初めてだ。微妙に反抗的な態度になったのは、あまり良くなかっただろうか。
大柄でオネエ言葉の警官は、フン、と鼻を鳴らして腕を組んだ。
「飲み食い、ね。ナンパでもしたの?優等生のくせに」
一瞬、まあそうですね、別に優等生でもないので、と答えそうになって踏みとどまった。例外もあるだろうが、だいたいの場合、男がナンパ目的で声を掛けるのは女の子だ。アリアが女の子だと知っていることになる。そこから言い逃れるのは、多分かなり面倒くさい。
……話していて、ふと気付いたことがある。
(この警官、昨日『アルテミス』に来ていたヤツと、同じだ)
口調があまりに独特なので一瞬分からなかったが、声が一緒だ。ということは、アリアを探しているのはこの警官一人だけなのか。いや、そんなことはないと思うが。
(どうしよう。どこまで知られてる?)
最悪の場合、ワープで逃げるか。あまり良くない手だとは思うが、余計な情報を与えるよりはましか。そんな考えを巡らせ始めたとたん、急に強い力で、ぐいと後ろに腕を引かれた。
「……言ってるそばからこれだよ。巻き込まれ体質か、おまえ」
耳元で低い声が聞こえた。黒いフードの下からのぞく、銀髪と鋭い眼光。アリア、と言いかけて、ぐっと声を飲む。
「おい、お巡り。用があるのは、俺だろ。言っておくけどこいつは無関係だし、聞いても何も出ないぞ」
フードを外してセイアの前に立ち、声を張ったアリアを見て、警官は驚いたように目を見開いた。
「やっと会えたわね、シン。会いたかったわ……アリアって呼んだ方が、いいかしら?」
「気色悪い言い方すんな。……聞きたいことがあるなら、俺が話す。こいつはこの場で解放、いいな?」
警官は口を開いた。もちろん、とか言おうと思ったのだろう。だが、その声が言葉として形作られる前に、彼は言葉にならない奇声を上げて跳び上がった。
「きゃ―――っ、なに、なに⁉」
彼の足元に、何かふわふわした生き物がいる。彼はそれが何者か確認したとたん、さらに野太い悲鳴を上げて後ずさった。
「ねこーっ!ダメ、あたしねこダメなのよーぅ!」
アリアは警官のそんな様子には頓着せず、その場にしゃがみこんで猫に向かって手を伸ばした。きれいなグレーの毛並み、オッドアイのその猫は、アリアに向かって何か必死に訴えるように、みゃーうみゃーうと声を上げた。
「……ドラゴンじゃん。どうしたおまえ、ご主人は?」
その姿は、確かに昨日会ったヒメアの飼い猫そのものだったが、昨日の甘えっぷりと比較して、明らかに様子がおかしい。嫌な予感がしてセイアとアリアが顔を見合わせたちょうどその時、ひとつ向こうの通りから、絶叫が聞こえた。
「いや―――――っ!離して、助けて――――——――っ‼」
小さな女の子の声だった。
「ヒメア!」
間髪入れずにアリアが走り出す。セイアも後を追った。一瞬遅れて、その後を警官が追いかけてくる。
駆け付けた場所では、数名の人が興奮したように何か叫びながら、道の向こうを指さしていた。先ほどセイアたちがいた通りに比べ、閑散としている。
「女の子は⁉」
アリアが一人の人を捕まえて、嚙みつかんばかりに尋ねると、その人は首を大きく横に振った。
「さらわれた。黒いオートモービルに乗せられて……一瞬だった」
「オートモービル……」
自動車か。セイアは、実際に自動車が走っているのを一・二度見たことがある。だが、その程度だ。西国では、割と当たり前に走っているのだろうか。
少女の悲鳴を聞きつけた人が駆け付け、閑散としていた通りには多くの人が集まってきた。人々のざわめきが広がる中、道の傍らに佇んでいた女性が、ふらりと体を揺らしてその場に崩れるようにしゃがみこみ、両手で顔を覆った。
「ヒメア……どうしてこんな……」
ヒメアの母親だ。アリアはキッと顔を上げ、セイアが制止する間も与えず、彼女に駆け寄るとその襟首を掴んでむりやり立ち上がらせた。
「あんた、目を離すなって言ったよなあ⁉」
「やめろ、アリア!」
慌てて二人の間に入り、襟首から手を離させた。気持ちは分かるが、彼女を責めても仕方がない。うわ、結構でかい声でアリアって言っちゃったよ、と思ったが、チラリと警官の方を伺うと、こちらもそれどころではない様子で、周囲の人に聞き込みをしている。
セイアの視線に気づいたのか、警官が緊張した面持ちで二人の方へ駆け寄ってきた。
「……女の子がさらわれたわ。アタシはこっちの捜索を優先する。すごく悔しいけど、仕方ないから、あんたらは帰っていいわよ。また、そのうち会いましょ」
良かった、と思うべきなのか。セイアが複雑な思いで振り返ると、アリアが道にしゃがみこんで何かを拾っているのが目に入った。小さな髪飾りだった。花の形をして、キラキラしている。それに目を落としたまま、彼女が低い声で呟いた。
「俺も行く」
「は?何か言った?」
警官が不審そうな顔で聞き返してきたが、セイアは内心、やっぱりそうなるよなあ、と思っていた。アリアは顔を上げると、強い眼差しで真っ直ぐに警官を見て、言葉を続けた。
「俺も行く。昨日会ってるし、捜索に役立てると思う。この辺りの地理も、多分あんたより詳しい」
「いやちょっと待って、なんでそうなるの?状況分かってる?」
「分かってる。別にいいよな、あんたも願ったり叶ったりだろ?」
警官は一瞬絶句したあとため息をつき、調子狂うわね、と言いながら頭をかいた。そのタイミングで、セイアも思い切って片手を挙げた。
「俺も行きます」
「いやだからなんで!」
声を上げた警官は、ふと何かを思いついたように、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「そうか。あんたたち、魔術師よね。ワープとか、使えるの?」
「使える。基本能力だろ」「俺もそこそこ使えます」
アリアとセイアが口々に答えると、うーんと腕組みをして、考え込んだ。セイア自身は、自分で使えるのでよく分かるが、ワープは地味に効果が高い。警察としては、欲しい能力だろう。
「一度、署に戻って、上と相談してから、また戻ってきて……」
「んな悠長なこと言ってられっか。子どもがさらわれてんだぞ!」
アリアが一喝すると、彼はハッとして、表情を引き締めて大きく頷いた。
「そうね。あんたの言うとおりだわ。……捜索に、協力してくれるのね?じゃあ、このまま一緒に署に来て。できるだけ早く情報を集めて、作戦を立てるわ」
にゃーん、という鳴き声にふと足元を見ると、小さなグレーの子猫と目が合った。ドラゴンはセイアを見上げ、もう一度にゃーんと心細い様子で鳴いた。
「……そんな顔するな。おまえは強いドラゴンで、ヒメアのナイトだろ」
セイアは子猫に小さく声を掛けると、抱き上げた。そして、再びしゃがみこんでしまったヒメアの母親の元へ連れていき、もの言いたげな彼女の腕に抱かせた。
「娘さんの無事を、祈っていてください。ドラゴンと一緒に」
母親は、娘に似た大きな瞳を潤ませ、力なく頷いた。セイアも頷き返し、アリアと警官の元へと駆け戻った。
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