その5
明けて次の日、合格発表当日。昨日はいろいろなことがあった上に、いよいよ合否が分かるというプレッシャーが加わり、ほとんど眠れなかった。明け方にほんの少しだけ眠ることができたが、何か非常に不穏な気配の漂う、よく分からない夢を見た。
(やばい、ネガティブな感情しかない。ここまできて、鬱になりそう)
基本的にセイアは呑気が身上ではあるが、小心者でもある。午前中は近くの図書館へ出向き、本など読もうとしてみたものの、あまりに内容が頭に入ってこないため、諦めていくつかの新聞に目を通して外に出た。
(だいたい、発表が夕方って、どういうことだよ。伝統だかなんだか知らんけど)
頭の中で、ぶつぶつと文句を言った。結果が分かるまで、あと四時間もある。そのまま当てもなく街を歩き回り、軽く昼食を取ってから、『アルテミス』へと足を向けた。
実は、大学の合否の結果を気にしつつも、ずっとアリアのことを考えていた。どうかしていると、自分でも思う。昨日シルヴィアから重い話を聞いたからなのか、それとも……もしかすると自分は、彼女にとって特別な存在になりたいと思っているのだろうか。
本当は、起きたらすぐにでも『アルテミス』に行きたかったのだ。だが、シルヴィアから話を聞いた今となっては、どんな言葉をかけるのが適切なのかも分からなくなっていた。初めての気持ちの行き場が見当たらず、ただただ持て余した。
昼食前に来て、またアリアを食事に連れ出すことも考えたが、さすがにお節介のような気がした。それに、下手をするとまたシルヴィアに昼食を作らせてしまう。それは申し訳ないので、できれば避けたい。悩んだ末、「昼食後にぶらりと立ち寄った」という演出にしてみた。
「こんにちはー……」
扉を開けて店を覗くと、カウンター席に寄りかかるようにして、ぼんやりと座るシルヴィアの姿があった。セイアの姿を見ると、ハッとして立ち上がり、すぐに明るい笑顔を向けた。
「あ、セイア!昨日はありがとう、また来てくれたのね。お昼は?」
セイアが「食べてきました」と答えると、少し残念そうな顔をして、
「じゃあ、お茶でも入れるわね。突っ立ってないで、入って入って」
こうしてみると、シルヴィアの明るさは決して天性だけのものではなく、彼女が努力して培ったものであることが分かる。先ほど見せた虚ろな表情も、目の下のクマも、彼女が振りまく明るい光に隠れて見えなくなってしまう。
だが、一度目にしたものを完全になかったことにはできない。アリアの左腕も、結局は無視できなかった。「どうぞ」とお茶が出てきたタイミングで、セイアは彼女に話しかけた。
「……シルヴィアさん、眠れてますか?」
シルヴィアは一瞬だけ真顔でセイアを見た後、ふっと表情を崩した。
「ありがと、大丈夫よ。心配かけちゃって、ごめんね。セイアも今日は、それどころじゃないでしょうに」
「いえ、俺のことは別に。アリアのことも心配でしょうけど、シルヴィアさんが倒れちゃだめですよ。本当に、無理しないでください」
どれだけ響くかは分からないが、できるだけ感情をこめて伝えた。シルヴィアは困ったように少し笑い、髪に手を当てた。
「昨夜、アリアと少し話したわ。あの子も、立ち直ろうとしてる。セイアに言われた通り、一度警察に行った方がいいかもしれないわね。その方が、きちんと前を向けるのであれば」
迷いの残る表情だった。それはそうだろう。
「あの、アリアは?」
尋ねると、今度ははっきりと分かる苦笑を浮かべて、二階を指さした。
「寝てるわ。昨日みたいに午前中起きてる方が珍しいのよ、あの子。夜遊びばっかりして」
その言葉が聞こえたかのように、二階からトン、トン、トンとゆっくり階段を降りてくる音がした。セイアは思わず、店の奥の階段の方を覗き込むようにした。
姿を見せたアリアは、ゆったりとしたグレーの寝巻の上に柔らかそうなニットを羽織っていた。セイアは彼女をちらっと見たあと、慌てて視線をそらした。
(かわい……え、パジャマって、無防備すぎないか?)
そんな動揺を知ってか知らずか、アリアはセイアの姿を確認すると、迷いなくまっすぐ歩いてきて、彼の目の前の席に座った。
「……はよ。セイア、来てたんだな」
「お、おはよう」
思わず、返事を返してしまう。午後一時なのだが。
「何がおはようよ、まったく、こんな時間に。あんたもお茶飲む?」
シルヴィアに尋ねられ、アリアはこくりと頷いた。眠そうな様子が、なんともいえずかわいい。
「何か食べられる?作ろうか?」
「ん……今は、いい。後で、ちょっと食べる」
分かった、と言ってシルヴィアが厨房の方へ入ったのと同時に、外から何やらにぎやかな声がした。店の扉の前で、何人かの女の子たちが話しているのが聞こえる。思わずそちらの方を向くと、身構える暇もなく、ガチャリと扉が開いて華やかな少女たちが三人、転がり込むように店内に入ってきた。
「こんにちはーっ。お邪魔します、急にすみません」
「アリ……じゃなくてシン、今日は起きてるのね。良かったー」
ふわふわした金髪を肩の辺りに広げた、愛くるしい顔立ちの小柄な少女。赤褐色のまっすぐな髪を背中に長く垂らした、はっきりとした目鼻立ちの少女。そして、栗色の緩やかなウェーブのかかった髪を三つ編みにした、穏やかな表情を浮かべた少女。入口とセイアの座っているテーブル席はそれなりに離れていたため、思わずしげしげと観察してしまった。どの少女も、臙脂色を基調とした明るく可愛らしい印象の制服を身に付けている。セイアにもぎりぎり分かる、これはこの町で一番有名な女子校の制服だ。わりと品の良い、いわゆる『お嬢様学校』と言われる類の学校らしい。
「あれ……どうしたのおまえら、昼休み?」
アリアは立ち上がって、彼女らの方へ向かった。表情はあまり動かないが、声が少し嬉しそうだ。
「そうよ、貴重な昼休みよ。昨日も来たのに、会えなくて。あんた、いつでも寝てるか留守かのどっちかなんだから」
赤褐色の髪の勝気そうな少女が、つんとした様子で答える。とりなすように、となりの栗色の髪の少女が、
「でも今日は会えて良かったよー。渡したいものがあるの」
と、おっとりした声で引き継いだ。
「え、何。どうせまた食いもんだろ」
「またそうやって警戒するー。大丈夫よ、今回のは絶対!おいしいから」
「前回もそう言って持ってきたんだよ。それで、食わされたのがアレだよ。覚えてるだろ?」
嫌そうな顔をするアリアに、金髪の少女が、手に持っていた紙袋を有無も言わさず押しつけた。上目遣いで見上げながら、
「……ちゃんと、食べてよね。これは、私たちの『愛』なんだから」
アリアは、その場ですぐにガサガサと紙袋を開けて中身を覗き込んだ。そして、
「ずいぶんとまた、甘そうな愛だなぁ」
と苦笑した。
「分かったよ、ちゃんと食べる。ありがと」
アリアのその答えを聞き、少女たちの顔が目に見えてホッとした。そのタイミングで、シルヴィアが三人に声を掛けた。
「みんな、わざわざありがとう。ひと休みしていく?お茶くらい入れるわよ」
「ありがとうございます。でも昼休みが一時半までだから、もう戻らないと」
そう言いつつも、赤褐色の髪の子が、チラリとセイアの方を見た。声をひそめて、
「……ねぇ、奥の人、だれ?」
アリアに尋ねる声が、セイアの方まで聞こえた。高くてよく通る声の持ち主で、ひそひそ声でも意外と響く。しまった、じろじろ見過ぎたか、と慌てて目を反らしたが、多分もう遅い。
「あー、えーと……セイア・バトル。シルヴァが下宿を世話した、受験生?かな」
「え、受験ってまさか、リスト大学⁉すごい、エリートじゃない?しかも結構、かっこよくない?」
いやいや、聞こえてる聞こえてる。セイアは背中に妙な汗が浮かんでくるのを感じた。目の前で聞こえよがしに噂話をされて、いったいどうふるまえばいいのか分からない。とりあえず勇気を出して、笑顔を張り付けて彼女たちの方を向いてみた。
「……こんにちは」
「こんにちはー、初めましてー」
少女たちはシンクロするように挨拶を返してきた。それを受けて、アリアが少しぎこちなく、セイアに向けて三人の紹介をしてくれた。
「……レイアと、ミアと、サラ。近くの女学校に通ってる子で……俺とはまあ、遊び友達」
名前を呼ばれてそれぞれ会釈をした順番から、金髪の子がレイアで、赤褐色の髪の子がミア、栗色の髪の子がサラという名前であることが分かった。
皆、にこにこと愛想よくしてくれているが、特にミアは、期待のこもったようなキラキラした瞳でセイアを見つめている。何か勘違いしていないだろうか。
「セイアさん、いつまでこちらにご滞在ですか?よかったら私、授業が終わった後にでも町をご案内しますよ」
「えーと……」
返事に困っていると、サラがミアの袖をくいくいと引いた。
「ミア、でもほんとにもう戻らないと。これ以上授業に遅れると、私たち、昼休み外出禁止になっちゃうよ?」
それを聞いて店内の時計を見たミアは、ハッと真顔になった。
「確かに。それじゃ、そろそろ失礼します」
お邪魔しましたーと口々に言いながら、三人はばたばたと扉の外へ出た。そしてその場から、もう一度中を覗き込んで、
「セイアさんも良かったらお菓子食べてくださいー。手作りなので」
「シン、またね!今度食事会やるから、それまでにちゃんと体調治しなさいよ!」
ばたん、と扉が閉まり、彼女たちが駆け足で立ち去る気配が遠ざかると、嵐が去った後のように一気に静かになった。
思わずため息をつくと、アリアがおかしそうな含み笑いをしながら、テーブル席に戻ってきた。先ほどの、手作り菓子が入っているという紙袋をセイアの方に見せながら、
「というわけで、一緒に食べるぞ。味の保証はできないけど」
「え、でもアリアに作ってきてくれたんだろ、あの子たち。いいのかな、俺が食べても」
察するに、アリアがあまり食欲がないことを心配して、食べられそうなものを差し入れしてくれたのだろう。セイアが戸惑っていると、シルヴィアがなにやらそわそわした様子で、アリアの分のお茶をテーブルに運んできた。
「ごめん、私ちょっと出てくるわ。今日の夜、商店街のお祭りの話し合いがあるんだけど、その前にお隣の店と打ち合わせしようって話になって。お昼終わったらお隣に行くことになってたのに、すっかり忘れてた」
「分かった。行ってらっしゃい」
アリアが軽く手を振ると、シルヴィアはエプロンを外して慌てた様子で出て行った。
「……やっぱり、心配かけてるよな。シルヴァ、そういうの忘れたりしないのに」
ポツリと呟き、アリアは紙袋の中身を取り出した。二つの包みが入っていて、開けてみると、一つはキャラメル、もう一つはクッキーだった。どうぞ、とセイアにも勧めながら、彼女はキャラメルの包装紙をはがして一つ口に入れたが、途端に思わず、という様子で口元を押さえた。
「………あっっま」
大げさな、キャラメルなんだから甘くて当たり前だろ、と思いながらセイアも口に入れたが、やはりしばらく口元を押さえたまま固まってしまった。何だろうこれは、よく分からないが今までに食べたどんなお菓子よりも甘い。香料が入っているらしいのだが、その香りも甘ったるく、とにかく全体的に甘さがしつこい。
「……確かに甘いな、この愛は」
「バカだろあいつら、何を入れるとこんなに甘くなるんだよ。絶対おいしいって言ったくせに」
アリアは文句を言いながらも、耐えられないように笑い出した。そしてひとしきり笑ったあと、少しだけ笑みの残る表情のままで、
「シルヴァから聞いた?その……俺のこと。彼氏のこととか」
思いのほかに静かな声だった。控えめにセイアが頷くと、そっか、と呟いてクッキーに手を伸ばした。
「あ、こっちはうまい。食べてみ」
そう言われて、セイアも一枚口に運んだ。確かに、ほんのり塩気が利いたチーズの味がして、とてもおいしい。
「これ、黒コショウが入ってるんだな。あとでレシピ教わろう」
そんなことを呟いてもう一枚つまみながら、アリアはセイアの方へ顔を向けた。
「あのさ、シルヴァはあんな感じで、お節介の権化みたいな人だからさ。おまえは別に、シルヴァと一緒になって俺の心配とか、しなくていいんだからな。今日もわざわざ来てくれて……でも、今から合格発表なんだろ。自分のこと、考えないと」
彼女がこちらのことを思って言ってくれているのは分かるのだが、境界線を張られたような、軽い疎外感を感じた。踏み込むな、ということか。でも、ケガは治させてくれたのに。
「俺が自分の意志で心配してるのに、ダメなのか」
自分でも思いがけず、強めの口調になってしまった。言った後で、しまった、と思った。今の段階では自分はまだ友達ですらない存在だ。
彼氏面すんな、と言われるかと身構えたが、そんなことは言われなかった。代わりに、
「心配してくれるのは、嬉しいけど。でも、警官がうろうろしてるだろ。昨日俺たちが一緒にいたところ、見てるヤツは見てるし、何かおまえも聞かれるかもしれない。……しつこいようだけど、聞かれても何も知らないって言えよ。会ったばかりなのに、これ以上迷惑かけたくないんだよ」
落ち着いた声で、噛んで含めるように言われた。逆に心配されていることを強く感じ、セイアは何も言えなくなった。
この子は、そっけなく見えるけど、見た目よりずっと優しい子だ。アリアだって、警察に追われている自分の身の上が何よりも気がかりだろう。その上で、他人の心配ができる子だ。
昨日、ヒメアの危険をいち早く察知して、さりげなく護衛についた彼女の姿を思い出した。男たちを威嚇するようにまっすぐ睨む、強いまなざしを。あの場でとっさにあれができる人間は、そう多くない。
「……分かった。俺は嘘が下手だから、なるべく警官には会わないように気を付ける」
「うん、その方がいいかもな。確かに、嘘も隠し事も下手そう。顔にも出やすいし」
いたずらっぽい口調で言われ、思わず少しドギマギした。顔に、出ているのか。もしかすると、今も?
「五時だっけ?合格発表。大学の前に張り出されんの?」
「うん。……でも、受かってる気がしないなぁ」
「一緒に見に行ってやろうか?……でもまあ、あんまり一緒にいない方がいいだろうな」
「いや、気持ちだけで。落ちてたら、お互いにいたたまれないだろ。ああー緊張してきた」
そんなことを話しながら、二人でお菓子をつまみ、お茶を飲んだ。クッキーと交互に食べると、甘過ぎるキャラメルもまあ、食べられないこともない。ふと気付くと、クッキーが残りの一枚になっていた。
「やば、ごめん。俺食べ過ぎたかも」
セイアが慌てて伸ばしかけた手を引くと、アリアがチラリとセイアの方を見て、なぜか椅子から立ち上がった。そしてその残りの一枚のクッキーを手に取ると、身をかがめるようにして、セイアの口元にクッキーを近づけた。
(……え、……)
反射的に開いた口の中に、押し込まれた。その時、彼女の指が、ほんの少しだけ唇に触れた。細くて冷たい指。
「……はい、完食」
ぺろりと指に付いたクッキーの粉を舐め、にこりと笑って、そう告げられた。セイアは顔が赤くなっているのを隠すように、口元を手で覆いながらもぐもぐと咀嚼した。こんなことで、と思いつつ、一気に早くなった自分の心臓の音を自覚する。
(反則だろ、これは……)
顔に出てしまっても、仕方ないんじゃないだろうか。
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