その4
二人で連れだって『アルテミス』に戻ると、シルヴィアがわずかに目を丸くして出迎えた。何か言いたそうな彼女に先んじて、
「俺、上で少し寝るから」
アリアはそう言って、振り返りもせずにさっさと二階へ上がっていってしまった。
「ひょっとして、ミッション成功?」
所在ない様子で残されたセイアに、シルヴィアが声を掛けてきた。セイアは肩をすくめた。胸を張って成功と言えるほどではないが、まあ、自分では精一杯頑張ったと思う。
「フィッシュアンドチップス、一人前を二人で分けて、でも三分の二以上は俺が食べたかも。それと、ホットワインです。酒飲ませてすみません、アリアのリクエストだったので」
「いやー充分よ!ありがとう、ごめんね無茶言って」
シルヴィアは本当に嬉しそうにそういって手を合わせ、セイアに向かってほほ笑んだ。
「あ、けっこうお金余ったので、お返しします」
「いいわよ、迷惑料だから取っておいて。それと、セイアはそれじゃご飯足りないでしょ、何か作るから待ってて」
「えー、申し訳ない……」
だが、セイアが何か言うよりも早くシルヴィアはカウンターの中に入り、カタカタと何か調理を始めた。セイアも、ここは好意に甘えることにした。身体の内側に、まだかなり疲れが残っている。
椅子に座ったままぼんやりしていると、ものの数分で目の前にコーヒーとサンドイッチが並んだ。サンドイッチにはローストビーフが挟んであり、とてもボリュームがある。
「どうぞ、簡単なもので悪いけど。でも、お店で出せるように仕込んでおいたローストビーフだから、美味しいと思うわよ」
「すみません、いただきます」
セイアがジューシーな肉の旨味を味わっている間、シルヴィアは二階へ上がって、何かアリアと話していたらしかった。十分ほど経っただろうか。食べ終わってゆっくりコーヒーを啜っていると、彼女は少し考え込むような表情で戻ってきて、セイアの目の前の席にすとんと座った。
「セイア、あの子の腕の傷、治してくれたのね。ありがとう……なんだか、うちのゴタゴタに巻き込んじゃうみたいになって、ごめんね」
そう言って、ため息をついた。『うちの』ということは、アリアはシルヴィアにとって、『うちの子』扱いなのか。
「それは別にいいんですけど……どういう子なんですか」
「そうね、ざっくり話すわ。ただ……これはアリアも言ってたけど、セイアは警察に聞かれたら何も知らないって言ってね」
念を押した後、シルヴィアは思いついたように立ち上がり、
「私もコーヒー飲もうかな。セイアもお替り、どう?」
と尋ねた。これは、ざっくりと言いつつも、少し込み入った話になるかもしれない。
「いただきます」
と答えると、自分の分とセイアのお替り分を注いで、「さて」と改まった様子でセイアの前の席に座り直した。
「最初に断っておくと、弟とか言ったけれど、血縁は全くないわ。二年前くらいに、シャキの駅にいるのを偶然見つけてね。ケガもしてたし明らかに様子がおかしかったし、これは保護案件かな、と思って」
それで、嫌がるのを無理やり『アルテミス』に連れ帰ったのだという。まるで犬猫だ。
「打ち解けるまでに、けっこう時間かかったけどね……さっき警察が来た時に、あまり褒められないことをしてたって言ったでしょ。どうやら、子どもだけの窃盗グループに入っていて、結構いろいろやっていたらしいの。でも、不手際があって、他のみんなは警察に捕まって……アリアだけが、逃げることができた」
シルヴィアはそこで一度言葉を切って、コーヒーを一口飲んだ。そして、カップの中を見つめながら、話を続けた。
「覚醒、っていうんでしょ。魔術師が、魔法に目覚める、みたいなヤツ」
「あ、はい……そうですね」
「アリアは、みんなが目の前で捕まって、それが起きたらしいの。それで、いきなり結構遠距離のワープをして、この町に来たらしいわ。後から聞いた話だけどね」
セイアは頷いた。あり得る話だ、と思う。覚醒については、個人差はあるものの、自身の肉体及び精神に深刻なダメージを受けた時に起こる可能性が高いとされる。特に精神的なダメージが引き金になることが多い。
「まあ、覚醒の時に魔力が暴走して、最悪人を殺しちゃったりするケースもあるみたいだから、ワープだったのはまだ救いがあるかもね。でもアリアは、みんなと一緒に捕まった方が良かったのかな。自分だけ逃げたことに、ずっと負い目があったみたい」
「そう、ですか」
息苦しさを感じつつ、何とか相槌を打った。ここで覚醒の話を聞くとは。シルヴィアに他意はないだろうが、多くの魔術師にとって、覚醒の話は禁忌だ。セイアも、例外ではない。気取られないように気を付けながら、話の先を促した。
「でも、その話だと、グループのメンバーが捕まったのが二年前なんですよね。どうして今頃、警察が動き出してるんですか」
セイアがそう言うと、シルヴィアはふと暗い顔になった。
「それがね、少し前……一か月、いやもう少し前かな。その頃に、捕まっていたグループのメンバーが釈放されたのよ。トカキの町の、少年院に入っていたらしいんだけど」
話によると、アリアのグループはアリアを含めて五人、つまり捕まったメンバーは四人。そしてアリアは、その中の一人と、付き合っていたらしい。
「とはいってもね、まあ子どもだし、かわいらしいお付き合いだったのかな、と思うけど。でもそれなりに、少なくともアリアは真剣だったんだと思う。あの子すごくお酒が強いんだけど、うちに来てしばらく経ったころに、一度だけ珍しく酔ったことがあってね。彼氏がいるんだ、今は会えないけどいつか結婚するんだ、って言ってたわ」
「え、それはまた……」
意外過ぎて、うまく想像できなかった。アリアの口から、結婚という単語が出ること自体が、何かの間違いのような気がする。
「ね、びっくりでしょ。今は男みたいにしてるけど、結婚したらちゃんと女の子に戻るんだ、って。……それを聞いて、恋ってすごいなぁ、って思ったからよく覚えてる」
どうやらアリアは、窃盗グループに入る際に「女は目立つから」と言われ、男装を余儀なくされていたらしい。それがそのまま今も続いているのだろう。
「その、彼氏って」
嫌な予感がして、セイアは言葉を飲んだ。女の子に戻って、結婚。それだけ聞けば、微笑ましいエピソードと思えなくもない、でも。
……失恋中だと、言っていた。そして、左腕に刻まれた、深いリストカットの跡。
「……死んじゃったのよ。しかも、事故とかじゃないの。明日は少年院から出られるっていうその前日の夜に、院から抜け出して、崖から投身自殺」
沈黙が落ち、セイアは下を向いた。これ以上ないくらい最悪だ。アリアが失恋中だと言った時に、あまり余計な詮索をしなかったことだけは、かろうじて良かったと思えた。
「本当に、自殺なんですか。足を滑らせただけの、ただの事故とか」
事故だって、全然よくない。それでも、受け止めなければならない重みは、かなり違うはずだ。だが、それを聞いたシルヴィアは、静かに首を振った。
「遺書があったらしいわ。グループのメンバー一人ひとりに宛てて」
「どうして……」
「はっきりしたことは、分からないみたい。同じグループだった子がアリアを探して伝えてくれたんだけど、その子も混乱してたわ。……でもね、言い訳するようだけど、一報を聞いたばかりのアリアは、割と落ち着いて見えたのよ。あの子も印刷屋さんで働き始めて、うちを出てやっと一人暮らしが軌道に乗ったばかりだったから、私もまあ……無理に連れ帰らなくても、様子を見てもいいかな、と思っちゃって。読みが甘かったわよねぇ」
シルヴィアがコーヒーを口に運ぶのを見て、セイアも思い出したようにコーヒーを飲んだが、驚くほど何の味も香りもしなかった。
「さっき遺書があったって言ったけど、アリアには何もなかったみたい。本人はそれもショックだったんでしょうね。結局、手首をざっくり切って意識がなくなってるのを見つけたのが……十日くらい、前かな。あんまり覚えてないし、思い出したくもないわ。割とすぐに意識は戻ったけど……」
そこまで話して、シルヴィアは軽くため息をつき、鼻をすすった。シルヴィア自身もかなり辛そうで、ダメージの深さが感じられた。
「意識が戻ったっていう連絡を病院からもらって、すぐに駆け付けて……恥ずかしながら、病室で大ゲンカ。初めて、思い切りひっぱたいちゃったわよ。あんた、私に葬式まで出させる気なの、ふざけないで、って」
乾いた声で笑って下を向いた、その痩せた頬の横顔が、本当に疲れて見えた。
「病院を出た後は、とりあえずうちに連れ戻して、仕事も休ませて、まあ今のところリハビリ中ね。……話を戻すと、その、他の子たちが少年院から出るくらいのタイミングで、何かアリアの身元が分かるような出来事があったんだと思う。一週間くらい前から、急に警官がこの辺りをうろうろするようになってね。それで急遽、すごく雑ではあるけど偽名を使って髪を染めて、その場を凌いでるって感じかな」
なるほど、と呟いて、再び味のしないコーヒーを飲んだ。一応これで、ざっくりとした話は一段落したらしい。だが、この問題はまだしばらく続くのではないだろうか。シルヴィア自身も『その場凌ぎ』という言い方をしたとおり、今の状態では何も解決していないに等しい。
「シルヴィアさん、あの。部外者の俺がこういうことを言うのも、どうかとは思うんですが。……酷なことを言うようですけど、警察に出頭するという選択肢はないんでしょうか。名指しで探されているなら、むしろその方が」
セイアが思い切ってそう切り出すと、シルヴィアは顔を上げ、静かに頷いた。もちろん、何度も考えてはいるのだろう。
「そのことは、アリアとも話し合ったわ。あの子は、出頭した方がいいって言ってた。自分のことだけじゃなく、私のためにも。こうやって匿っていることそのものが罪になるかもしれないんだから、って。でもね」
そこで言葉を切って、大きく息を吐き、再び顔を伏せた。
「私の方が、耐えられないの。あの子が一人で少年院とか刑務所に入るとか、辛くて考えられない。罪になっても構わないから、匿えるなら匿いたい。……本当に、私のエゴよね。分かっては、いるんだけど」
それは、エゴではなくてきっと何か他の呼び方があるだろう、と思ったが、
「そうですか」
とだけ呟いて、セイアもそれ以上は何も言えなかった。何かできるなら何かしたい。それが正しいかは分からないが、その気持ちだけは、セイアにも痛いほど分かるような気がした。
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