その3
「どうぞ」
「はあ……ありがとうございます」
セイアの前に、熱いコーヒーが置かれた。小さな声で礼を言って、それを口に運ぶ。
警官が帰った後の店内で、セイアはテーブル席に座っていた。『アルテミス』は夜だけの開店なので、今の時間帯はとても静かだ。そのテーブル席から少し離れたカウンター席に、行儀悪く立て膝で座り、そっぽを向いている銀髪の少女が一人。
「不貞腐れてないで、アリアもこっちに来なさいよ。仕方ないでしょ、セイアだって、あんたが倒れそうになったから助けてくれただけでしょ」
そういうシルヴィアは、ちょっと笑いをこらえるような表情をしている。セイアにしてみれば、不本意の極みだ。
「いや……あの、ごめん。でも俺も、別に触りたくて触った訳じゃないし」
「わあるかったなぁ、触りたくもないものを触らせて。さぞ気色悪かっただろうなぁ」
「だからさ、そういうことを言ってるんじゃなくて!」
なかなか機嫌が直りそうにない。何となく頬が赤いのは、恥ずかしがっているというよりは、怒っているという解釈の方が正しいだろう。
ギスギスしている二人の間に、やれやれという感じでシルヴィアが口を挟んだ。
「まあ、そんな訳で、この子はアリア・コーダ。一応、女の子です。さっきのおまわりさんの話聞いてたなら分かると思うけど、過去にちょっと褒められないことをしていて……いわゆるお尋ね者ね」
さらりと言っているけれど、それは結構重い事実のような気がする。
「何をやってたのか、聞いてもいいですか?」
「うーん、そうねぇ。どう、アリア?話しても構わない?」
シルヴィアの問いかけに、彼女はわざとらしくため息をついて立ち上がり、セイアの方を威圧するようにじろりと見た。
「別にいいけど。でも、一応言っとくけど、おまえは何も知らないってことにしとけよ。特に警察には」
そして、そのまま階段の方へ向かうと、二階に上がっていってしまった……と思うと、すぐに降りてきた。着ていた服の上に真っ黒なぶかぶかの外套を羽織っている。フードまで被ると、彼女の表情はほとんど見えなくなった。
「ちょっと出てくる」
「え、もうすぐお昼よ。何か作るから、食べてから出たら」
「いらない。腹減ってないし」
取り付く島もない、とはこのことだろう。ドアを開けて出ていくアリアの後姿をぼんやり見送っていると、シルヴィアに「セイア、ちょっと」と声を掛けられた。
「何ですか?」
シルヴィアは身に着けたエプロンから小さな財布を取り出した。そして、折りたたまれた一枚の紙幣を取り出し、
「ミッション」
神妙な面持ちでそう言って、セイアの手にそれを握らせた。
「はい?」
「あの子に声を掛けて、一緒に何か食べてきて。このお金で」
まじまじとその顔を見た。真面目そのもので、冗談を言っている様子はない。だが、そのミッションはあまりに難易度が高すぎないか。
「いやでも、食べないって言ってましたよね?たった今」
「そうも言ってられないのよ。セイアも見たでしょ、あの骨と皮みたいな腕。何か少しでも食べさせないと。さっきだって、階段で倒れそうだったんでしょ」
それはまあ、言いたいことは分かる。だが、そもそも会ったばかりの男に声を掛けられて、ほいほい付いていくタイプではないだろう。しかも不慮の事故とはいえ、結構思い切り胸を触ってしまって、機嫌を損ねてもいる。
「分かりました、ダメ元でやってみます」
それでもそう答えたのは、自分が何かできることがあるなら、可能な限り応えたいと思ったからだ。シルヴィアは頷いて、すこしだけ表情をゆるめた。
「ありがとう。まぁ断られたら、無理じゃなくていいから」
行ってきます、と軽く頭を下げて外へ出た。さっきはいい天気だったが、少し雲が多くなってきている。ちょうど昼時で、ランチを扱っている店はそこそこに混みあっている様子だった。近くの町工場で働いているらしい男たちや、昼休み中の女学生たちが、店舗を覗き込みながら、そこかしこで昼食の相談をしている。
「あたしパンケーキ食べたーい!」
「いいけど、お店混んでない?午後の授業間に合わなくなっちゃうよ」
そんな女学生の声が聞こえ、セイアは「パンケーキ」と心の中で呟いた。悪くない選択肢だが、アリアはパンケーキで靡くだろうか。
そのまま、通りを少しぶらぶらしてみたが、アリアの姿はどこにも見えなかった。彼女は魔術師なので、おそらくワープ……瞬間移動は、簡単にできるはずだ。この町に留まっていない可能性も、充分にある。
(俺もこの辺り、詳しい訳じゃないしなぁ……もう少し探して、見つからなければ戻るか)
探して見つからなかったなら、一応言い訳も立つ。そんなことを考えながら、今度は路地裏を一つ一つ覗き込みながら探してみた。すると、ある路地の行き止まりに、真っ黒な影を見つけた。
(……いた……)
ワインやシードルの木箱が乱雑に積み上げられた上に腰を掛けたその姿は、黒い大きなフード付きの外套にすっぽりと包まれ、まだ明るいにも関わらず周囲にほの暗い影を落としていた。セイアのところにまで、うっすらとタバコの煙が漂ってくる。誰がどう見ても、気安く話しかけられる雰囲気ではない。
正直、シルヴィアに頼まれていなかったら、声を掛けるとか考えもしないだろう。関わりたくないとすら思うかもしれない。セイアは一瞬だけ逡巡したが、ここで回れ右をするわけにもいかず、思い切って路地に入り込んだ。
(どう切り出せばいいんだろう……警戒されないように、あえて親しみやすく、軽妙に。あ、少しバカっぽい感じの方がいいのかな)
これまでの人生でナンパなどしたことがない。一か八か、半ばやけくそで声を掛けた。
「ヘイ彼女。僕とパンケーキ食べない?」
(あ、失敗したな、これ)
フードの陰から目をのぞかせたアリアは、胡散臭いものを見る表情を隠しもせず、セイアを頭から足の先まで眺めた。そしてぼそりと一言、
「……無視してもいいか?」
それだけ言うと、また深くフードを被り直し、吸いさしのタバコに口を付けた。ふーっと、ゆっくり煙を吐き出す仕草が様になっている。慣れている感じの吸い方だ。
無視していいか、というのはまあ、自分に都合よく考えれば、百パーセント無視されているわけではない、ということだろう。がんばれ俺、と自分を励ましながら、セイアはアリアが腰かけている木箱の、近くの壁にもたれかかった。
「シルヴィアさん、心配してるぞ。二人で、何か食って来いってさ」
アリアはしばらく無言だったが、タバコを一本吸い終えて火を消すと、仕方なく、というようにぼそぼそと言葉を返してきた。
「……今、あんまり食欲ないから食えないんだよ。おまえ一人で行って来いよ」
「そうもいかないだろ。シルヴィアさんに金を握らされてるんだよ、こっちは」
「いや、言い方な。それにしてもおまえ、よく平気で話しかけられるな。俺、めちゃめちゃ声掛けるなオーラ出してたのに」
「全然平気じゃないんだけど……」
言い淀むと、やっと少しだけこちらに顔を向け、「正直だな」と表情を崩した。
「心配かけてるのは分かるんだけどさ、ほんとに食えないんだって。いいじゃん、もらった金は自分の飲み食いに使っちゃえば」
「それじゃ意味ないだろ」
言い合っていると、不意に「にゃーん」という細い声が路地裏に響いた。足元を見ると、ふわふわのグレーの毛の猫が、瞳をくりくりさせてこちらを見ている。右目がきれいな青、左目は金、いわゆるオッドアイだ。体が小さめで頭が大きく、まだ子猫だろう。端的に言って、すごく可愛らしい。
「最近よく見かけるなあ、このニャンコ」
アリアはちょっと嬉しそうな様子で木箱から降り、猫の近くにしゃがみこんだ。手を伸ばすと、嫌がりもせず、猫はごろごろと甘えた音を鳴らした。
「え、すごい慣れてる。野良じゃないのか、こいつ」
セイアが驚きながら、おそるおそる手を出すと、その手にも全く警戒する様子も見せずに体をこすり付けてきた。ふわふわで温かく、気持ちがいい。
「飼い猫だと思うんだよなー、この甘えん坊。よしよし」
もちろん猫はすごくかわいいのだが、猫を構いながら、セイアは思わずちらちらと隣のアリアを二度見、三度見してしまった。先ほどよりずっと表情が柔らかくなり、元々の造作の良さも相まって、フードで少し隠れてしまっているのが惜しいくらいだ。
(こんな顔、するんだ……)
もっとよく顔を見たかったが、あまりじろじろ見ていると気持ち悪がられるかも。いやでも、せめてフードを取って欲しい。そんな葛藤に一人苦しんでいると、通りの方から、子どもが何かを呼んでいるような声が聞こえた。
「ドラゴーン、ドラゴンちゃーん」
すると、子猫がその声にぴくりと反応し、声の方へ向かってとことこと歩き出した。二人もその動きにつられて何となく立ち上がり、子猫に付いていくと、路地から通りに出たところで、小さな女の子と鉢合わせた。
「あっ、いた!ドラゴンちゃん!」
これがまた、お人形か妖精のような可愛い女の子だった。年のころは五歳くらいだろうか。リボンやレースで様々な装飾を施した水色のドレスを着て、柔らかそうな白いマントを羽織っている。凝った編み込みで整えられたブロンドの髪には、花の形の髪留めがきらきら光って、それが大きな青い瞳を持つ彼女によく似合っていた。そして極め付きは、髪の間からのぞく、尖った耳。
アリアは小さな少女の前に立ち、少し膝を曲げて話しかけた。
「これ、おまえのニャンコ?」
「そうよ。でもヒメアは『おまえ』じゃないわ、ヒメアってお名前があります!」
少女――――ヒメアは、足にまとわりつく子猫を抱き上げ、アリアに向かってむっとした様子で胸を張った。
「そうか。じゃあヒメア、なんでそのチビがドラゴンなんだよ?」
「だって強そうでかっこいいでしょ。ドラゴンは、ヒメアを守るナイトなのよ」
アリアは、ヒメアに向かって軽口をたたきながらも、周囲に油断なく目を向けていた。セイアもそんな様子が気になり、何となく周りを見回してみた。何か、警戒するべきものがあるだろうか。
「ヒメア、パパかママは?一人じゃないんだろ?」
「うん、ママがいっしょ。でもママはお買い物が忙しくてね、ヒメアはとってもヒマだから、お店から出ちゃったの。そしたらね、ドラゴンが逃げちゃって」
だいたい状況が分かった。しっかりと会話ができる、賢い子だ。アリアはそれを聞いて軽くうなずくと、
「じゃあ、ヒメアのママが買い物してる店まで一緒に行く。一人だと危ないからな」
ヒメアはかくんと首を傾げた。そんなあどけない姿も完璧にかわいい。
「ひとりでも平気よ?ドラゴンもいるし」
「ん、そうかもしれないけどさ。でもほら、ナイトは何人いてもいいだろ?」
それを聞くと、少女の表情がパッと輝いた。アリアの言葉が、幼いハートにヒットしたらしい。セイアよりよほど女扱いに慣れていそうな様子に、少し引いてしまう。
「それもそうね!じゃあ、ヒメアの後に付いてきて」
ヒメアが前に立って歩き出すと、アリアは軽く目くばせをして、セイアのすぐ隣についた。そのまま並んでヒメアの後を歩きながら、小声で話しかけてきた。
「この道の先に、変なのがいる。気が付いた?」
セイアは小さく頷いた。アリアの様子を見て、さすがに気が付いた。通りをまっすぐ行った先のポストの近くで、若い男が四・五人ほど、何かひそひそと話しながらこちらをうかがっている。距離があるので顔までは確認できないが、嫌な雰囲気だ。
「おまえ、ガキの頃、人さらいに遭ったことある?」
「え?いや、ないけど」
「俺はある……未遂だけどな。覚醒前の子どもの魔術師は、利用価値が高くて貴重なんだと」
噂として、聞いたことはある。でも、自分でそういう目に遭っていないので、何となく他人事のように思っていた。歩きながらも、アリアは睨むように前を見据えている。男たちは、あきらめたように一人、また一人と周囲に散っていった。
「嫌な話だな。利用価値って、例えば、どんな?」
「だからさ、覚醒前に洗脳して、覚醒後に自分の代わりに……人殺しとか?」
思わずまじまじと、アリアの横顔を見てしまった。不機嫌そうなその顔は、先ほど子猫に向けていた柔らかな表情とは一転して、冷ややかな色に染まっている。
「……ほんとに、そんなことを?」
「魔術師なら、成功率は高いしな。ちゃんと洗脳できていれば、操っているヤツの身元も割れない。そのまま、使い捨てだよ」
なるほどね、と小さく呟いた。魔術師の覚醒は、だいたい十歳前後。覚醒前は、本当に些細な魔法が使えるくらいで、基本的には普通の子どもと同じだ。ヒメアは五歳くらいで、どう見ても覚醒前だろう。
と、その時、目の前の店から若い女性が飛び出してきた。慌てた様子で周囲を見回し、ヒメアの姿を見て、ほっとした声を上げる。
「ヒメア!よかった、どこに行っちゃったかと思った!」
その女性は、ヒメアと同じような明るいブロンドの髪をして、同じようなふんわりと可愛らしい恰好をしていた。あどけない童顔で、自身もまるで子どものようだが、
「ママ!」
そう言ってヒメアが駆け寄ったところを見ると、彼女が母親なのだろう。
「ママ、お買い物終わった?ヒメア、つまんないからお散歩してたのよ」
「ごめんねー、今終わったところ。あの……そちらは?」
母親は、不思議そうにセイアとアリアの方を見て、かくんと首を傾げた。首の傾げ方が娘とそっくりだ……などと思っていると、アリアが軽くセイアの背中を叩いた。任せる、ということらしい。いや、急に振られても。
「この人たちはね、ヒメアの、ナイトなの!」
「はあ……」
叫ぶヒメアと、戸惑う母親。違う、そうじゃない。慌てて、軌道修正を試みる。
「ヒメアちゃん、ちょっと変な連中に目を付けられていたみたいで。二人で、様子を見ていました。あの……何があるか分からないので、少し、目を離さないであげてください」
突然こんなことを言うのは印象が悪いのでは、とも思ったが、先ほどの男たちの様子を考えると、言わずにはいられなかった。母親は少しの間、驚いたようにきょとんとしていたが、やがて、口元に手を当て、こくこくと小刻みに頷いた。
「分かりました……ありがとうございます。ご迷惑を、おかけしました」
そして、娘の手を引くと、お辞儀をしながら去っていった。ヒメアは無邪気に、何度も後ろを振り返りながら「ばいばーい」と手を振っていた。
セイアの隣で、しばらくの間手を振り返していたアリアは、ヒメアの姿が曲がり角の向こうに消えると、「うーん」と思い切り伸びをした。
「さて、と。じゃあ何か、軽く食べて帰るか」
「えっ?」
思わずアリアの顔を見返すと、彼女はセイアにちらりと目線を送り、分かるか分からないかの微かな笑みを浮かべた。
「パンケーキは、無理だけど。何か、つまむ程度のものなら食えると思う。あと……寒いから何か、あったかいものが飲みたい」
「わ、わかった。じゃあ、えーと……」
確かに、少し肌寒い。今言われたリクエストに応えられそうなメニューを、脳をフル回転させて考えていると、アリアがすっと斜め前を指さした。何やら香ばしい匂いを辺りに振りまいている、小さなスタンドが立っている。数人の列ができているが、あれくらいなら並んでもいい。
「何の店?」
「フィッシュアンドチップス。あと、ホットワイン」
「え、酒じゃん。大丈夫なの?」
「いや、ホットワインは酒じゃないだろ。あれ、でも、おまえ酒弱い?」
からかう感じではなく、普通に心配そうに尋ねられてしまった。弱そうに見えるのだろう、分からないでもない。だが実はこう見えて、セイアはかなり酒が強い。というより、北国の人間で酒が弱い人を見たことがない。
「……ご期待に沿えなくて悪いけど、俺、けっこう強いよ」
「じゃあ、決まりだな」
アリアは満足そうに宣言すると、スタンドの列に向かって小走りで歩みを進めた。セイアも慌てて付いていく。並んでいるのは若者が多く、カップルらしき二人組もちらほら。笑顔の人が多くて、少しホッとした気持ちになる。
このスタンドをよく利用するのか、アリアに聞こうとしたのだが、後方でひそひそと話す声がふと耳に入り、セイアは思わず息を止めて体を硬くした。
「黒いフードのあれ、アリアじゃね?隣の男、だれ?」
「知らない顔だよなぁ」
見られてる。アリアは地元の有名人、ということか。まあ、これだけ美人なら無理もないだろう。でも、それなら偽名を使ってもあまり意味がないのでは。
硬直していると、隣のアリアに軽く肘で小突かれた。
「堂々としてろよ。おまえは何もやましいところはないんだから」
声を潜めて、そんな風に言われた。それはそうなのだが、小心者のセイアとしてはどうしても人の目が気になってしまう。そうこうしているうちに前が空き、順番が回ってきた。
「フィッシュアンドチップス一つ、あとホットワイン二つ」
「はいよー」
中年男性の店員に注文と支払いをすると、彼はお釣りを返す際にアリアに気づき、嬉しそうに声を上げた。
「おー、久しぶりだなアリア!少しは食えるようになったか?みんな心配してるぞ」
「……ありがと。でもおっちゃん、今あんまりその名前、大声で呼ばないで。違うことになってるから」
「あ、そうだったな!今はあれだな、シンだったよな。悪い悪い!」
セイアは膝の力が抜けそうになるのをかろうじて堪えた。隣で、アリアも苦笑している。これでは、ばれるのは時間の問題だろう……警察だって、こんなのがいつまでも通用するほどバカじゃない。
品物を受け取って店の前から離れながら、セイアはこっそりアリアに耳打ちした。
「まずいんじゃないのか?みんな結構、普通に名前で呼んでるぞ」
「まあなあ、一応近所の連中には口裏を合わせるようにお願いしてるけど。でもそんなのこっちの都合だし、いくらこそこそしても、捕まるときには捕まるさ」
アリアは面倒くさそうにそう言って、バサリとフードを外した。秋の風が襟元をかすめ、銀の髪が揺れる。思わずそちらを見ると、顔を上げた彼女とばっちり目が合ってしまった。そしてそのまま目を逸らすことができず、しばらくの間見つめてしまった。
冷たい風が一瞬だけ止まり、少女の輪郭が鮮明に見えた。少し見開いた大きな黒い瞳、それを縁取る長いまつ毛、有機物と思えないほど透明度の高い白い肌。
(……うわ……)
見つめ合ったあと、先に目を逸らしたのは、アリアの方だった。
「……この先に、座って食えるところがあるから」
「あ、うん」
慌てて頷きながら、セイアは内心、ひどく混乱していた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。最初に見た時から、美人なのはもちろん分かっていた。それでも、今の一瞬は心を奪われるのに充分だった。
セイアは小さいころから人よりも勉強ができる子どもだったので、早めにとりあえずの目標設定を「リスト大学に入学すること」に決めて、これまでの人生は基本的に勉学に力を入れてきた。友達も多くはなく、異性にもさほど興味はなかった。人から興味本位に「好きなタイプは?」と聞かれた時は、無難に「優しくて物静かなタイプ」と答えていたのだ。そして当面は、いわゆるお付き合いというものをする気はまったくなかった。
(いや、ありえないだろ。何を浮かれてるんだよ)
アリアは先に立って、細い坂を上っていく。黙って付いていくと、それほど行かずに、小さな木製のベンチがポツリと置かれている、少し開けた高台に出た。
「あんまり知ってる人がいないみたいでさ、ここはいつも空いてるんだ」
当然のように、二人でベンチに並んで座る。大きめのマグカップに入ったホットワインを渡すと、
「ありがと」
ほほ笑んで受け取った。シチュエーションもやり取りも、まるで恋人みたいだ。セイアはぼんやりとそんなことを思いながら、自分もホットワインを口に運んだ。甘くスパイシーな香りが湯気となって辺りを包む。
「そういえばおまえ、合格発表っていつなの?」
夢見心地に浸っていると、いきなり目の覚めるような現実が戻ってきた。セイアはため息を押し殺して、何とか平常心を装った。
「明日だよ。午後五時」
「そうか。受かってるといいな」
そのセリフは、残念ながら、いかにも心がこもってないように聞こえた。
「そうだけど、多分無理なんじゃないのかなぁ……」
つい、弱気な本音が漏れた。不思議なことに、相手が美少女だということを意識しつつも、会話自体にはあまり緊張しなかった。むしろ、すごく話しやすい。なぜかはセイア自身にもよく分からない。
「いや、でもさ、万が一受からなくても、また来年とか」
「うち、そんなに裕福でもないからな。今回ダメだったら、地元で就職するつもりだよ」
遮るように答えながら、北国の実家で待つ叔母の顔が浮かんだ。セイアは、その人を「母さん」と呼んでいる。本当の両親は、セイアが生まれてすぐの頃に死んだ。
叔母との関係は悪くない。むしろ、本当によく面倒を見てくれて、感謝しかない。決して居心地の良い生まれ故郷とは言えないけれど、少しだが友達と呼べる人もいる。戻ることになったとしても何とかやっていけるはずだ。
ふいに、アリアが意味深な笑みを浮かべた。
「なるほど、地元でかわいい彼女が待ってる、とか?おまえ、モテそうだもんな」
「はあ?いや、モテるわけないだろ?」
見当違いのことを言われ、反射的に真顔で答えてしまった。モテるって、なんだその降ってわいたような妄想。
「え、マジで。告られたこととか、ないのか?」
「いや、まあ……それは、ないことは、ないけれども。でもそんなに多くないし」
口ごもりつつ、頭の中で過去を振り返る。二年前に一人、去年一人、今年に入って三人。
「……五人、かな」
「おまえさぁ、それ、ほんとにモテないヤツに言うと、後ろから蹴り倒されるぞ」
おかしそうに、笑いながら言われた。そういうものなのか、と少し驚いた。同じクラスにすごくモテる男子がいたので、それがモテの基準になっていたのだが。
「それで、全部『ごめんなさい』?」
「だって、彼女とかできたら勉強の邪魔になるだろ。まぁ、さすがにそういう断り方はしなかったけど」
そんな話をしながら、時折マグカップを口に運び、ポテトなどをつまんだ。紙皿に、結構な量のポテトと揚げた魚が盛られている。カリッとして塩気が利いて、とても美味しい。アリアも、少しは食べているようだった。これで、一応シルヴィアに対して申し訳が立つ。
「……アリアこそ、モテるんじゃないのか?彼氏とかは?」
何とか話を切り返すと、アリアはふっと黙った後、取ってつけたように笑みを浮かべた。
「俺は、今はまあ、失恋中ってことで」
「ふーん……」
もう少し聞いても良かったのだが、あまり触れられたくない雰囲気を感じ、その話題はそこで切り上げた。その後、しばらく二人でだらだらといろいろな話をした。とは言っても、お互いに、あまり身の上話のようなことはしなかった。誕生日や最近読んだ本、お互いの国で今何が流行っているのか、エトセトラ。西国と北国の何が同じでどこが違うかという話だけでも、意外と盛り上がるしネタが尽きない。
そんな他愛のない話をしながら、セイアはずっと気にかけていることがあった。触れるべきか触れないべきか、悩んでいるうちに、紙皿もマグカップも空になった。
ここにいれば、人目にもつきにくい。拒絶される怖さはあったが、帰ろうか、という流れにならないうちに、意を決して、言葉にすることができた。
「アリア。……よかったら、左腕、見せて」
アリアは瞬間的に顔を強張らせた。迷うような沈黙がしばらく続いた。そして、やっぱり失敗だったか、とセイアが思い始めたころ、彼女はおもむろに肘まで袖をまくり上げた。
無言のまま、目の前にむき出しになった左腕が差し出される。かなり太い傷が一本、周囲にためらい傷が数本。ここ数日の傷ではない……少なくとも、一週間以上は経っているだろう。一応塞がってはいるが、まだ痛々しい。
「……治してみて、いい?言っておくけど、時間の経った傷は、治りにくい。きれいに治る保証はないけど、これより目立たなくはなるんじゃないかな、と思う」
ためらいながら掛けた言葉に、アリアは顔を背けたまま、小さく頷いた。
見なかったことにしようと思っていた。踏み込むべきじゃないだろう、と。あえて一歩踏み出したのは、きっと、彼女が自分に、思ったよりもいろいろな顔を見せてくれたから。
よし、と気合を入れて、治療に取り掛かった。アリアには言わなかったが、実はこの力を使うと地味に体力を消耗する。しかも、今日は二回目の治癒魔法だ。それでも、青い光を当て始めてすぐに、手ごたえのようなものを感じた。意外ときれいに治せるかもしれない。
「……何か、言わないのか」
治療を初めて少し経ってから、アリアがポツリと呟いた。セイアは戸惑った。そりゃあ言いたいことや聞きたいことは、ないわけではないけれども。
「今日初めて会った俺が、何か言えるような立場でもないだろ」
そういうと、そっか、と言って俯いた。再び沈黙が落ちた。
(聞いた方が、いいのかな。何があったのか)
でも、ここまで傷を晒したのなら、話したければ自分から話すのではないかという気もする。それに、あまり余計なことを考えていると、治療に専念できない。
セイアが黙って傷に向かい合っていると、アリアの小さな低い声が耳に届いた。
「腕、わざと見せたんだ」
「え?」
聞き返すと、わずかに声のボリュームを上げて答えが返ってきた。
「セイアが、シルヴァの傷を治してるのを見てさ。もしかしたら、治してもらえるかもって思って、わざとあの時腕を見せたんだ」
「ああ……」
そう言われると、何となく納得できる。そして、いつもはシルヴァって呼んでいるのか、確かに姉貴じゃないもんな、などと場違いなことをぼんやりと思ったりした。
「そうだったのか。でも、俺、気づかなかったかも知れないけど」
「その時はそれまでだな、って思ってた。自分から、治して欲しいって、言えなくて。……ごめん、ずるくて」
「いや、まあ、余計なお世話だって言われなくてよかったよ」
それにしても、やはり思ったより傷の治りが遅い。さっきよりは確実に傷は薄くなってはいるけれど、これだとまだ目立つ。
右腕を中心にして、全身に疲労感がたまってきた。心なしか、光も弱まってきた気がする。一度手を下ろして、身体の緊張を解きほぐす。深呼吸しながら肩を回したりしていると、アリアが心配そうに声を掛けてきた。
「それ、疲れるんだな……もう大分きれいになったし、ここまででいいよ」
「いや、せっかくここまで治したんだし、もう少しやらせて。多分、時間かければいける」
できる限り力強い感じで宣言してみたのだが、なぜかアリアは困ったように目を伏せた。
「ここまでしてもらってなんだけど、俺、何もお礼とかできないよ?」
「……何を言うかと思えば。だいたい、こっちが勝手に始めたことだし」
拍子抜けしてそう答えたが、ふと思いついて、セイアはわずかにアリアの方へ身を乗り出した。
「お礼とかはいいからさ、また同じことしないで。せっかく大変な思いして治すんだから」
あまり諫めるようなことは言いたくないと思っていたのだが、やはりこれだけは言っておきたかった。実際どのくらいの状況だったのかは分からないが、これだけ深い傷だと下手をしたら死んでしまうだろう。
何か言い返してくるかと思ったが、アリアは意外にも殊勝な様子で小さく頷いた。
「……もうしない。シルヴァ、死ぬほど泣かせちゃったし」
そうなのか、とちょっと胸が詰まった。シルヴィアがどれだけこの少女に献身しているのかは分からないが、自分の力も、少しは役に立っていると思っていいだろうか。
そのあと治療を再開し、何度か様子を見ながら、治せる限界まで治した。うっすらと跡は残ったが、パッと見では全然分からない程度にはなった。
「ここまでだなぁ。これ以上は、多分無理」
「ありがと。すごくきれいになった。良かった……」
アリアはそう言って、嬉しそうに左腕を眺めた。セイアは倦怠感の残る身体を休めながら、その横顔を見た。一仕事終えた満足感の中に、言葉で言い表せない空しさがあった。
傷は治せても、アリアの悲しみに手を伸ばして支えてあげられない。そんな自分がどうしようもなくもどかしく、ふがいなかった。
* * *