その11
帰りの馬車の中は、誰も喋らなかった。アリアは疲れ切った顔で、セイアの隣で目を閉じていた。眠っていないのは明らかだったが、あえて声はかけなかった。
アルテミスの前に馬車を停めると、すぐに心配そうな顔のシルヴィアが中から出てきた。
「何かあった?出てったきりだから、気になって……あ、」
そしてケネイアの姿を見て、顔を強張らせた。ケネイアはシルヴィアに一礼すると、丁寧な口調で話しかけた。
「すみません、少しお時間よろしいですか。お話しておきたいことが」
アリアは、疲れたから上で休む旨を簡単にシルヴィアに伝え、そのまま階段の方へ姿を消した。その泣きはらした顔で、ただ事ではないのは一目瞭然だっただろう。シルヴィアは気がかりな様子でアリアの消えた方を見遣った後、「なんでしょうか」と、緊張した面持ちでケネイアに向かい合った。
そのあと、二人でしばらく店の前で話をしていた。セイアは勝手に店内に入ると、テーブル席に座り、ぼんやりとテーブルの木目を眺めた。そういえば、今日は『アルテミス』は定休日だ。昼間来た時にはそんなことを思わなかったのに、店内がやたらと広く感じられる。
どれくらいの間そうしてぼんやりしていただろう。シルヴィアの「お疲れさまでした」という声で我に返った。入口の方を見ると、ちょうど話を終えたケネイアが店をあとにし、シルヴィアが入ってくるところだった。彼女はこちらへ近づいてくると、セイアの前の席に腰を下ろした。
「……セイアも、お疲れさま。いろいろ、ありがとう。今、お巡りさんからだいたいの話は聞いたわ……大変だったわね」
セイアは一言「いえ」とだけ答えて、シルヴィアの顔を見た。疲れた顔をしているのは、皆同じだ。彼女は肩を下ろすと、ふーっと長く息を吐き出した。力なく笑いながら、
「あー、やっぱり、こうなっちゃったか。そうよね、無理があるもんね、弟とか」
そう言って、目を閉じた。
「すみません、力になれなくて」
セイアが言うと、目を閉じたまま、ゆるゆると首を振った。
「何言ってるの。こっちこそ、ほんとにごめんなさい。セイアだって大変な時なのに、巻き込んで」
「いや、俺は別に」
その時、急に店の扉が開く音がした。二人でそろって入口の方を向くと、一人の壮年男性がそこに立っていた。彼は目をぱちぱちさせると、無遠慮な大声でシルヴィアに向かって、
「なんだ、シルヴィア、いるんじゃねえか。祭りの会議、なかなか来ないからさ。もう商店街のみんな、だいたい集まってんぞ」
「えっ……あ、そっか、しまった」
シルヴィアは慌てたようにとりあえず立ち上がったものの、気遣わしそうに二階の方を見上げた。アリアは寝たのだろうか。今のところ物音はしないが、家を空けるのは心配なのかもしれない。セイアはそんな様子を察して、軽く片手を挙げた。
「行ってきてください。シルヴィアさんが帰ってくるまでの間、ここにいますから」
「……ほんとに?でも、悪いわ」
「いいですって。巻き込まれついでですよ」
わざと冗談めかしてそういうと、彼女は少し迷う素振りを見せたが、
「ありがとう、じゃ、できるだけ早く帰ってくるから」
そう言い置いて、ぱたぱたと急いで男性の後を追いかけて行った。
セイアは、一人になった店内をゆっくりと見回した。奥の方にソファー席がある。あそこで少し眠ろうか。夕飯を食べ損ねていることも思い出したが、なぜかあまり空腹を感じなかった。短い時間にいろいろなことがあり過ぎて、感覚が麻痺しているようだった。
ふと、カタンと小さな物音がした気がして、そちらを見ると、階段を降りた辺りにアリアの姿があった。ぼんやりしていたせいか、足音に気が付かなかった。
「……あれ、シルヴァは?」
アリアは小さな声でセイアに尋ねた。顔色があまり良くない。
「商店街のお祭りの会議だって。忘れてたみたいだけど、さっき呼ばれて慌てて出て行った」
「あー……そういえば、そんな話してたなあ……」
そう呟いて、先ほどシルヴィアが座っていた席にすとんと座った。
「セイア、残っててくれたんだな。帰ってもよかったのに」
「うん……大丈夫か?ひょっとして、気分悪い?」
「いや……泣き過ぎて、頭痛い。シルヴァが、薬とか持ってるかなって思ったんだけど……」
ぱたり、とテーブルの上に突っ伏した。銀の髪がさらさらとテーブルにこぼれる。
「ライアが死んだ時、もう一生分泣いたと思ってたんだけどなぁ……」
セイアはその悲しそうな言葉に、うん、と小さな相槌を打ち、アリアの頭の方へそっと右手を伸ばした。
「……治してみようか?」
「え、治せるの?ケガじゃなくても?」
「いや、基本病気は治せないんだけど、鎮痛作用はあると思うんだよ。ただ、頭だからな、脳にどう作用するか分からないから……」
「別にいいよ、脳とか。どうせ俺バカだし」
そういうことを言うんじゃないよ、と軽くたしなめながら、頭に手を乗せた。
髪に触れたとたん、あ、しまった、と思った。手をかざすだけでいいはずなのに、思わず直接触れてしまった。そのままの姿勢でしばし固まる。アリアが嫌がる素振りを見せたら手を離そうと思ったが、彼女はそのままじっとして動かなかった。
ゆっくり、手のひらに力を込めた。ふわりと、銀の髪に青い光が映える。
「……大丈夫?どんな感じ?」
「うん……大丈夫。ちょっとあったかくて、気持ちいい……」
アリアの声が、柔らかく感じられた。こうしていると、まるで小さな子どものようだ。
そのまま、ヒメアがしたようにそっと髪を撫でながら光を当てていると、アリアが遠慮がちに声を掛けてきた。
「あのさ、セイア。……甘えついでに、もう一つ、いい?」
ちょっと、ドキリとした。甘えられてるのか、これは。
「俺に、できることなら」
「じゃあ、……手とか、握ってもらっても?」
テーブルの上にそろそろと伸ばされたアリアの右手を、ぎこちなく左手で包み込んだ。思ったよりも冷たく、細くて華奢な手だった。そのままの姿勢で、アリアはセイアに向けて静かに話しかけてきた。
「ありがと。……おまえさ、やっぱり北国に、帰っちゃうの?」
「そうだな。もう、ここにいても仕方ないし」
帰りたくない気持ちはあったが、なるべくそれが声に出ないように努めた。
「そうかあ……なんか、ほんとにごめん。俺のことで振り回されてる場合じゃないよな」
「だからさ、何回も言ってるけど、俺のことは別にいいって」
ぽつりぽつりと話す声が、不思議と耳に心地よかった。なのに時折、胸がひりつくように痛んだ。こんな時間も、もうそろそろ終わりだ。
「ありがと、頭痛いの、だいぶ良くなった。……でも、できたら手はそのままにしておいて」
「分かった。じゃあ一旦やめるけど、また痛むようなら言って」
言われた通り、手は頭の上に置いたままにしておいた。アリアは心地よさそうに、そのまま話を続けた。
「北国って、どんなとこ?オーロラとか、見えんの?」
「あー……俺の住んでるところからだと見えないけど、少し上の方に行けば見えるよ。子どもの頃、体験学習で一度見たことがある」
「そうなんだ。いいな、見てみたい。……あのさ、友達に『辛いことが合った時は、何か楽しいこととかやりたいこととか、いろいろ思い浮かべるといい』って言われてさ」
アリアに言われ、頷いた。ありきたりかもしれないが、それなりに効果はあるだろう。
「でもさ、あんまり浮かばないんだよな。オーロラは見てみたいけど、あとやりたいこととか、何があるだろ」
「そうだなあ……最初は何か小さいことの方がいいかもな。すぐに実現できそうな」
うーん、と言いながら、アリアが右手をもぞもぞと動かした。手を離すのかと思ったがそうではなく、細い指を絡めるように握りなおしてきた。少しだけ、その手が温かくなってきた気がする。
「小さいことかあ。ピアスはずっと開けたいと思ってるんだけど」
「いいんじゃない。似合うよ、きっと」
「もう少し余裕ができてからと思ってたけど、開けようかな、思い切って」
それ以外は?と聞くと、しばらく考えてから、あ、と何か思いついたように言った。
「何?何か、ひらめいた?」
「いやー……、でも、やっぱりいいや、これは」
「なんだよ、言ってみなよ。どうせ俺しか聞いてないんだし」
そう促すと、しばらくためらうようにしていたが、やがて、小さな声が返ってきた。
「……笑うなよ」
「笑わないよ」
「……もう一回だけでもいいから、女の子らしい恰好、してみたい」
一瞬、胸が詰まった。……そんな当たり前のことを願うことすら難しいのか、この子は。
内心、ひどく揺れたが、それを悟られないようにできるだけ早く言葉を返した。
「何それ。そんなの絶対、見たいんだけど」
勢い込んで、少し言葉遣いがおかしくなった。アリアはわずかに目を上げてこちらを見たが、またすぐに顔を伏せてしまった。
「似合わないよ、どうせ」
「そんなことないって。ヒメアも言ってただろ、すぐに女の子に戻れるって。こんなに美人さんなんだからって」
「……そんな簡単じゃないよ」
言いながら、ぎゅうっと強めに手を握ってきた。さっきよりもその手が温かい。アリアは少し身じろぎをして、小さなあくびをした。
「アリア、眠かったら上に行って寝たら」
「やだ、このままがいい。……おまえの手、あったかくてすごく落ち着く」
またコメントに困るようなことを、と思いながら、何も言えずに固まっていると、しばらくして安らかな寝息が聞こえてきた。本当に眠ってしまったのか、この状況で。
(俺は結構、緊張してるんだけどなあ)
だが、アリアが眠ってしまうと緊張も解けて、セイア自身もなんだかだんだん眠くなってきた。そのままの姿勢でうとうとしていると、不意にカタンと物音がして、一気に目が覚めた。驚いてアリアに触れていた両手をパッと離し、思わず立ち上がってしまう。
「……ただいま。ごめんね、こっち任せちゃって」
入口の扉を開け、シルヴィアが入ってきた。そしてアリアがテーブルに伏せているのを見て、少し目を丸くし、困ったように苦笑いをした。
「アリア、寝ちゃったのね、こんなところで」
囁くような声でそう言うと、アリアの髪に少し触れ、「だいぶ気に入られちゃったわね」とセイアに向けていたずらっぽく笑いかけた。
「……そんなこともないと思いますけど」
「そんなことあるわよ。セイアがどう思ってるか分からないけど、こんな風に会ったばかりの人に寝顔を晒す子じゃないわよ、この子は。結構、面倒くさいんだから」
そんなことを言いながら、奥の方から大きめのブランケットを持ち出してきて、眠るアリアの背中にかけた。
「俺、二階まで運びましょうか」
「ううん、大丈夫。もう少しここでこのまま寝かせたら、一度起こして上に連れて行くから」
二人でテーブルの脇に立って、静かに眠るアリアの姿を見つめた。できるならもう一度その手を握りたかった。でももう、タイムリミットだ。
「……すみません、シルヴィアさん。俺、明日の朝、なるべく早くにここを発ちます。一緒に警察に付き添えなくてごめんって、アリアに伝えてください。あと、できたらケネイア……迎えに来る警官にも、よろしく伝えてください」
シルヴィアは驚いたようにセイアの顔を見た。
「どうしてそんな、急過ぎない?何も、もう少しゆっくりしてからだって」
引き留めようとするシルヴィアに、早く出発する理由も言い訳も思いつかず、ただ「すみません」と繰り返した。
こんな風に、落ちてしまうものなのか。こんなにも欲が出て、離れられない気持ちになってしまうものなのか。これ以上は無理だ、と思った。きっと、今ならまだ間に合うだろう。でも、心の奥底では、なんだかもう手遅れな気もしていた。
「本当に、お世話になりました。……ありがとうございました」
眠るアリアの姿すらもうまともには見られなかった。しっかりとシルヴィアの目を見て、お礼の言葉を告げることだけが、今のセイアにできる精一杯だった。
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