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黄昏に還る双龍  作者: 三月 桃
第一章
9/10

光と影の魂

 ヴァルデミアスについていき、大広間の階段を下りると、ユシュミが現れた。


「アウロルさん、ご飯ですよって…ヴァルデミアス兄様!?いらしてたんですか?」


「先ほど来たのだ。私の分もあるかな?」


「ええ、ヴェルミーネお姉ちゃんが多めに作ってって言うので…このことだったんですか?」


「そうかもしれんな。さあ、案内してくれ」


ヴァルデミアスがそう言うと、ユシュミは元気よく二人を食堂へ案内した。


食堂へ入ると、香ばしい匂いとともに焼き魚の定食が用意されていた。

ユシュミが準備してくれたものらしい。


アウロルが席に腰を下ろすと、ヴァルデミアスも向かい合うようにして席につく。

その隣にユシュミが座り、「どうぞお召し上がりください」と微笑んだ。


アウロルは箸をとり、焼き魚をひと口。

ほどよく脂がのった身が口の中に広がり、思わず顔が綻ぶ。


しばらく食べ進めていると、ヴェルミーネが食堂へ入ってきた。

彼女はアウロルににっこりと挨拶をして、その隣に腰を下ろす。


「リオネルさんの分はどうしますか?」

ユシュミが、ヴェルミーネの定食を並べながら問いかけた。


「私がお部屋へ持っていくわ」


そう言って、ヴェルミーネはリオネルの分を手に取り、静かに食堂を後にした。

 

 それにしても西洋風の屋敷に似つかわしくない焼き魚の定食が並んでいた。

和食という意外性に一瞬違和感を覚えたものの、それを忘れるほど滋味深く、箸を進める手が止まらない。


ヴァルデミアスは湯気の立つ緑茶を口に含み、静かに切り出した。


「リオネル殿のことだが――彼を発見したとき、これを手にしていたそうだ」


そう言って袖の奥から取り出したのは、アウロルが作った小型のライトだった。

中に仕込まれたクリスタルは無残に砕け散り、外殻も傷だらけで、もはや灯りとしての役目を果たすことは叶わないだろう。


「これについて、なにか知っているかな?」


ヴァルデミアスが問いかけた。

その声音は責めるでも詰問するでもなく、ただ好奇心から尋ねているようだった。


「……それは、私が作ったものです」


「そうか。では、一体なにに使うものなのか――聞かせてもらえるかな?」


にっこりと微笑むその表情を見た瞬間、アウロルの脳裏に映像がよぎった。


『まったく……今度は何を作ったんだ』

 

扇子を片手にため息をつくヴァルデミアス。

だが次の瞬間には声をあげて笑っていた。


『お主のからくりには、いつも驚かされるわ!』


今のは……いつの記憶だ?

胸の奥に懐かしさが込み上げる。

彼を笑わせたくて、夢中で“おもちゃ”を作っていた日々――だが、それは一体いつのことだったのか。


思索に沈むアウロルを見て、ヴァルデミアスは緑茶を口にしながら促した。


「怒りはせぬ。正直に申してみよ」


「……その、幽霊の肉――アストラル体に、このライトを包み込み、人工的に魂を作り出そうとしたのです」


「魂を作る……? まったく、お主というやつはいつも奇っ怪な……」


言いかけて、ヴァルデミアスはふと口をつぐんだ。

「……いつも?」と小さく首をかしげる。


そのとき、シルフィアの言葉が脳裏をかすめた。

――“前世の記憶を思い出したりしませんか?”


「ヴァルデミアス……あなたは、前世の記憶を思い出すことはありませんか?」


問いかけると、彼は大笑いした。

ユシュミは珍しいものでも見るように目をぱちくりさせている。


「ははは! すまぬ。われらは転生とは無縁の存在なのだ。だが……確かに、お主とはどこかで会った気がしてならぬ」


「……転生とは無縁? 死なない、ということですか?」


「いかにも。この地では人は死なん」


「……人が、死なない?」


耳を疑う言葉だった。

そんな天国めいた楽園が、この世に存在するというのか――。 


「あなたがアストラル体の人種には見えないのですが……特殊な肉体なのですか?」


 アストラル体で暮らす星系には死の概念がないと聞いた事がある。

だが、もしヴァルデミアスが完全なアストラル体で存在しているのだとすれば、霊感を持たないアウロルにはその姿を認識できない。

高次元の種族の中には、普段はアストラル体で過ごし、低次元帯へ赴くときだけ肉体をまとう者もいる。

だが、それはきわめて稀なケースだった。

 

「アストラル? それは幽霊のことかね。――まあ、この地に住む民は皆、白銀律の姫が与えた身体を持っている。我らは少し特別でな……テレフと呼ばれる光の龍種の末裔なのだ」


「白銀律の姫……それはシルフィアのことですか? 彼女がこの地やあなた方を管理していると? それにテレフという名は、聞いたことがありません」


「そうだ。シルフィアはこの世界の中心といってもいい存在だ。だが“管理”されているわけではない。我々は家族だからな、互いに助け合って生きているだけだ」


ヴァルデミアスはそう言って湯飲みに口をつけた。

彼の膳にはもう食べ終えた跡しか残っていない。


アウロルは胸中で情報を整理した。

白銀律の姫はやはりシルフィアのことらしい。

だが、彼女がこの世界を絶対的に支配しているわけではない。

そして――白銀の髪を持つこの兄弟たちは、テレフと呼ばれる光の龍の末裔……。


思索に沈んでいたところへ、リオネルに食事を届けていたヴェルミーネが戻ってきた。

彼女はアウロルの隣に腰を下ろし、軽やかに問いかける。


「さあて……どこまでお話ししたのかしら?」


「我々がテレフであることを説明したくらいだ」


「ふふ……そうね。それ以上、私たちの説明なんて特にないわ」


 ヴェルミーネは箸をすっと手に取り、優雅に魚を口へ運んだ。

その所作には一切の無駄がなく、まるで舞の一部のように美しい。


アウロルは食事を終えると、リオネルのことを切り出した。


「リオネルのことなのですが……彼は“魂が混ざった”と言っていました。どういう意味なのですか?」


「そのままの意味だ。君たちの作った人工魂と、彼本来の魂が混ざり合ったのだ」


「そんな現象、見たことも聞いたこともありません」


「私も数度しか目にしたことがない。厄介なのは、そうなると互いに肉体を奪い合うようになることだ」


ヴァルデミアスが苦い顔をする。


「いきなり激しい転移をすると、そうなっちゃうことがあるのよね~。直せないわけじゃないけど……」


ヴェルミーネが軽く肩をすくめ、箸を滑らかに動かして魚を口に運ぶ。

それを見ていたユシュミが、不安げに問いかけた。


「なにか……良くないことでも?」


「魂が、意思を持っていないのよ~。このままだと自然消滅しちゃうかもね」


「自然消滅すれば、本来のリオに戻るのですか?」


「そうだけど~」


ヴェルミーネは箸を置き、静かにヴァルデミアスの方を見やる。

彼は真剣な眼差しでアウロルを見据えた。


「お主らは……それで良いと思っているのか?」


その瞳はまるで、魂を創り出した者としての責任を問うているかのようだった。


 食事を終えると、ユシュミが片付けを引き受けてくれた。

アウロルはヴァルデミアスに伴われ、リオネルの部屋へ向かう。


部屋に入ると、リオネルは窓の外に視線を投げていた。

テーブルの上には運ばれた食事が残されており、半分ほどしか箸がつけられていない。


「……食べられなかったのか?」


アウロルが心配そうに声をかける。


「いや、ちょっとお腹がいっぱいでさ」

リオネルは笑みを作り、気遣わせまいとする。


ヴァルデミアスは扇子をゆるりと広げ、口元を隠しながら低く口を開いた。


「先ほどの話の続きだが……お主らは人工魂とやらが、このまま消え去るのをただ待つつもりなのか?」


「そんな……困ります。取り出して、保存しなければ」


リオネルが慌てて答える。

成功した実験の成果を失うのは、彼にとって耐えがたいことだった。


だがヴァルデミアスは、その言葉を聞くやいなや目を細め、扇子をぱたりと閉じた。


「保存だと? 魂を、遊び道具のように扱う気か!」


怒声が響き、アウロルもリオネルも思わず身をすくめる。

それでもリオネルは、少し不満げに唇を尖らせた。


「遊び道具なんかじゃない……僕たちは真剣にやってるんです!」


ヴァルデミアスはその姿をしばし見つめ、やがて眉をわずかに緩めた。

言葉の鋭さを悔いたのか、軽く咳払いをして落ち着きを取り戻す。


「……ならば、その“真剣さ”を示してみせよ」


「示す……? 一体どうすればいいんですか」


アウロルが小さく、だが決意を含んだ声で尋ねた。


「この地には、鍛錬を積んで入り込み、住み着いた者たちがいる。……その仙人たちから“眼”をもらえ」


「え、眼ですか? そんなもの、くださいって言えば貰えるんですか?」


リオネルが戸惑いを隠せずに問い返す。


「眼といっても、霊的なものを見通す力のことだ。心眼、と呼ぶこともあるな。とにかく、それを身につけるのだ」


「でも、僕たちには霊感なんてないのに……そんなもの、本当に手に入るんでしょうか」


リオネルは肩を落とし、アウロルもまた同じように戸惑いを覚えていた。


「とにかく!明日出発しなさい!」


ヴァルデミアスは言い切ると、すたすたと部屋を出ていった。

残されたアウロルとリオネルは顔を見合わせる。


「……ははは」


リオネルが力なく笑った。

だが、その笑顔を見ていると、アウロルの心の疲れが少し和らいでいくのを感じた。


「こうなったら仕方ないね……」


リオネルがぽりぽりと頭をかいた。


「そうだな。それに仙人と言ったか? 本当にそんな存在がいるなら、会ってみたいものだ」


「確かに。魂のこと、もっと知れるかもしれない」


見えないものを見る力――それは幽霊を見る力と似た類なのだろうか。

だが、仙人に教えを受けただけで手に入るものとは、到底思えなかった。


考えても仕方がない。

リオネルの言う通り、こうなった以上はやるしかないのだ。


アウロルはリオネルと別れ、自分の部屋へと戻った。


ベッドの上には柔らかなパジャマが置かれていた。

その上に一枚の紙があり、「これを着てください!」と大きな字で書かれている。


思わず苦笑しながら、アウロルはそのパジャマに袖を通した。着心地は想像以上にやさしい。

やがてベッドに横たわると、自然とシルフィアのことが頭に浮かんできた。


 もう一度、彼女に会いたかった。

だが今のままでは、ヴァルデミアスを説得するのは難しい。

ヴェルミーネやユシュミを頼ることもできるが――彼女たちも、自分がシルフィアに執心していることを快く思ってはいないだろう。


目を閉じると、決まって浮かぶのは彼女の泣き顔だった。

どうして、あんなにも悲しそうなのだろう。

私が、何かをしてしまったのだろうか。

答えは、いまだ霧の中にある。


アウロルは思考を振り払うように横たわり、明日へ備えて眠りについた。


 朝はユシュミの大きな声で目が覚めた。


「みなさーん! おはようございまーす! ご飯の時間ですよー!」


屋敷中に響き渡るような明るい声だ。

アウロルは手早く着替え、いつものように髪をハーフアップにまとめる。階段を降りようとしたとき、眠そうにあくびをしているリオネルと鉢合わせた。


「おはよう、リオ――って、その髪どうしたんだ?」


アウロルが挨拶よりも先に声をあげる。

リオネルの右前髪が、瞳と同じ紫色に染まっていたのだ。


「え、髪? どうしたって……わ、なにこれ」


リオネル自身も気づいていなかったらしく、手に取った髪をまじまじと見つめる。

昨日、魂が混ざり合ったときには意思はないはずだと説明を受けた。

だがアウロルには、それがリオネルを少しずつ侵食し、まだこの世に留まろうと訴えているように思えてならなかった。


そのとき、ヴェルミーネがやってくる。

彼女は一瞬だけ表情を曇らせ、リオネルを観察するように視線を止めたが、すぐに口元をほころばせた。


「おはよう。……さあ、朝ご飯にしましょう?」


 食堂に入ると、テーブルにはもう朝食が並んでいた。

 白い陶器の皿にこんがり焼けたベーコンと半熟の目玉焼き。

つややかな黄身が中央でぷっくりと盛り上がり、ナイフを入れればとろりと流れそうだ。

隣にはこんがりと焼き色のついたトーストが二枚。

湯気の立つカップには香り高いコーヒー。

爽やかな香りが鼻をくすぐる。

 

 ユシュミは「どうぞ召し上がれ!」と嬉しそうに手を広げ、テーブルの中央にはサラダボウルまで用意されていた。

レタスの緑とトマトの赤が鮮やかで、オリーブオイルがきらりと光っている。


「美味しそう!いただきまーす!」


リオネルは六人用のテーブルに腰を下ろした。アウロルも彼の横に座る。向かいにはユシュミとヴェルミーネが座り、四人で朝食をとった。


「ヴァルデミアスさんはどうしたんです?」

リオネルが目玉焼きを乗せたトーストを頬張るのを横目に、アウロルが問いかける。


ヴェルミーネはふふふと笑い、コーヒーを口に運んだ。

 

「昔使っていたものを引っ張り出しているだけよ」


アウロルとリオネルはきょとんとしたが、ヴェルミーネに「今はご飯に集中しなさい」と言われ、そのまま朝食に集中することにした。


食事を終え、ユシュミに礼を言ったあと、ヴェルミーネに連れられアウロルは玄関前の庭に出た。


庭に植えられた植物を見て、アウロルは懐かしさが込み上げるのを感じた。

そしてなぜか、ひとつひとつの植物の名前を覚えている自分に気づいた。


そっと花に触れると、淡い水色の五枚花があった。

「スターリア…昔、シルフィアに贈ったら喜んでくれたな…」


記憶にないはずの思い出が甦り、アウロルは戸惑った。


「その花…シルフィアが捨てようとしていたのを、ユシュミがもらったのよ」


横に立っていたヴェルミーネが花を見つめながらそう言った。


やがて空から声が響いた。

見上げると、ヴァルデミアスが絨毯に乗って優雅に降りてくる。


「え、なにこれ…魔法の絨毯?」

 

リオネルが興味深そうに声をあげる。


ヴァルデミアスは扇子を広げ、軽やかに絨毯を操りながら話した。

 

「まったく…これを引っ張り出すのに苦労したぞ。お主から貰ったものが多すぎて置き場に困る」


首をかしげ、アウロルを見つめてさらに困惑した表情を浮かべる。

 

「お主に試作品だの何だの、たくさん貰った気がするのだが…いつの事だったかな?」


「さあ…私には記憶がないです。でもここにいると、少しずつ思い出す気がします…」

 

アウロルも、よくわからないといった表情で答えた。


「まあよい…仙人の場所へはこれに乗っていくぞ」


ヴァルデミアスが扇子で赤い絨毯を指差す。

絨毯には金と銀の龍が鮮やかに刺繍されており、少し派手すぎる気もしたが、突っ込まなかった。


リオネルが絨毯に乗ると、子供のように目を輝かせた。

 

「すごい!エンジンもなにもないのに浮いてるよ、アウロル!」


「なに、これくらい念を込めたら浮くだろう」

 

ヴァルデミアスの言葉に、リオネルは不思議そうに見つめる。

 

「念?聖職者の祈りの力みたいなものかな…もう!研究所の道具さえあれば調べられるのに!」


リオネルの言う通り、研究所の道具があればどれだけ便利か。

アウロルも絨毯の上に身を乗せた。


ヴェルミーネは「ここでお別れね」と優雅に手を振る。

アウロルとリオネルが礼を言うと、絨毯はふわりと宙に浮いた。


「あ、行っちゃいましたか?」

 

ユシュミが玄関の扉を開けて呟く。

ヴェルミーネは絨毯の飛び立った方を見つめ続けていた。


「あの二人を見ていると、なんだかすごく懐かしい気がする」


「私もです、お姉ちゃん。特にアウロルさん…一体何者なんですか?」


「さあね…思い出すべきなのかしら。でもそれは、なんだかシルフィに申し訳ない気がするの」


ユシュミも隣に立ち、空を見上げる。

ヴェルミーネはふと、何かを思い出したかのように微笑んだ。

 

「そうだ、ユシュミ…この花、覚えてる?」


そう言って、アウロルが見ていた青い五枚花を指差す。


「ああ、その花…確かシルフィアお姉ちゃんが捨てようとしていた子ですよね?こんなに可愛いのに」


ユシュミは花に近づき、しゃがんでそっとつついた。

あの頃のシルフィアは、まるで全てを失ったかのような暗い目をしていた。

兄弟たちは慌てふためき、どうにかしようと必死だった。

しかし、やがて彼女は何事もなかったかのようにその記憶を忘れた。

兄弟たちも深くは問いただせなかった。


それでもヴェルミーネの胸には、どこか納得のいかない思いが残っていた。

もう一人、お騒がせな弟がいたような気がしてならない。

ユーディアスやミリアスとは違う、弟が――。


「ヴェルミーネお姉ちゃん?」


ユシュミの呼ぶ声に、ヴェルミーネは顔を下ろし、柔らかく微笑んだ。


「さあ、中に入りましょうか」


そう言うと、二人はゆっくりと屋敷の中へと歩みを進めた。


 アウロルとリオネルは、空飛ぶ絨毯の上から広がる絶景に胸を躍らせていた。


「お主ら、はしゃぎすぎて落ちるなよ」


ヴァルデミアスが冷ややかな視線を投げかける。だが、こんなおとぎ話でしか見たことのない絨毯に乗り、高山を越えて眼下に広がる雄大な景色を目にすれば、心が浮き立たないはずもなかった。


やがて、真っ白な雲を突き抜けた先に、淡い桃色の花々が一面に咲き誇る山が姿を現した。


「……桃源郷みたいだ」


リオネルが洩らしたその言葉のとおり、そこは絵本の中で夢見た理想郷のような光景だった。


 絨毯はふわりと舞い降り、二人の足はやがて桃源郷の柔らかな大地に触れた。

辺り一面には桃色の花が咲き乱れ、甘やかな香りが漂っている。風が吹くたび花びらが舞い、光の粒のように宙を漂った。


少し先には岩肌から湧き出す湯けむりが立ちのぼり、静かな温泉が広がっていた。湯はほんのり乳白色で、縁には苔むした石や藤の花が絡まり、自然そのままの姿で湯船を形作っている。湯面は桃の花びらを浮かべ、かすかな温もりが漂っていた。


鳥のさえずりとせせらぎの音に溶け込むように、温泉の水音が響き、まるで楽園の隠れ家のようだった。


 二人の後に続いてヴァルデミアスが絨毯から足を下ろす。

そのとき、屋敷の中からゆるりと老人が現れた。


長い白髭と眉毛が顔の大半を覆い隠し、深い皺が幾重にも刻まれている。まさに“仙人”と呼ぶにふさわしい風貌だった。


「仙人って……ほんとにいたんだ」

リオネルは思わず、アウロルの胸中を代弁するように呟いた。


「おや……ヴァルデミアス様ではありませんか。どうなさいました」

仙人は髭を撫でながら、ゆっくりとよろめくようにこちらへ歩いて来た。


ヴァルデミアスは、いつものように扇子を広げて口元を隠しながら答える。

「いやなに、この者らに“心眼”とやらを授けてもらいたいのだ」


「……それは構いませんが」

仙人は片眉をわずかに上げ、アウロルたちを一瞥した。


その目は爬虫類のような、冷ややかに光を反射する青い瞳だった。

――リラポス人のサルファを思い出させる目だ。

いや、彼自身がリラポス人なのだろうか。

背丈や体つきも人の形を保ちながら、どこか龍を思わせる細長さがあった。


「できるか?」とヴァルデミアスが問う。


「……やるだけやってみましょう」

 

仙人は静かにそう告げると、手を軽く振って二人に合図した。


ヴァルデミアスは再び絨毯に乗り込む。

 

「では、また迎えに来る」

 

そう言い残し、絨毯はふわりと浮かび上がり、やがて雲の中に消えていった。


残されたアウロルとリオネルは顔を見合わせる。

 

「……まあ、行ってみようか」

 

「そうだな」


二人は仙人の後を追う。


屋敷に入ると、そこは長い廊下が続く和風建築だった。

柱は年季を帯び、床板は磨かれてしっとりと光を放っている。

左手には竹林に囲まれた庭が広がり、風が吹くたび竹の葉がさらさらと揺れた。


「まったく……今度は何をしでかしたのですかな、アウロル様」

 

仙人が髭を撫でながらそう問いかけた。


二人は思わず足を止める。

――まだ、自分の名前は名乗っていないはずなのに。


「どこかでお会いしましたか?」

 

アウロルが恐る恐る問いかけると、仙人は立ち止まり、ゆっくり振り返った。


「おや?またお忘れになりましたかな。私はカシン――カシン・オウハクと申しますぞ」


名乗られても、アウロルには一向に覚えがなかった。


「お友達の方は知りませぬが……あなたのことです、どうせまた旅先でお友達になって、ここへ連れてきたのでしょう?」


「いったい何を――」

 

アウロルが言いかけると、カシンは片手を軽く振り、はいはい、と遮るように歩き出した。


「あなたのことだ……どうせまた、無茶な飛び方をなさったに違いない」


「アウロルが何者か、知っているんですか?」

 

リオネルは興味津々といった様子でカシンの後に続く。


「知っているも何も――この方は私の教え子ですぞ。もっとも、ご本人が忘れてしまっているようですがな」


そう言うとカシンは右手の襖を開け、中へと入っていった。慌ててアウロルも後を追う。


部屋は広い和室で、中央には低く大きな卓が据えられていた。

その瞬間、アウロルの頭に鮮明な記憶が流れ込んだ。


――ここには幼いころから出入りしていた。

――走り回っては、いつもカシンに叱られていた。


だが、いつのことだ?

存在するはずのない「幼い自分」の記憶……。


そして気付けば、口が勝手に動いていた。


「ユーディアスは……?」


自分でも聞いたことのない名を口にしたアウロルに、困惑が走る。

その様子を見て、カシンは「ふぉふぉ」と愉快そうに笑った。


「こりゃあ、重症ですなあ」


 その頃、シルフィアは屋敷の庭園で池の鯉を眺めていた。

金色の鯉がゆるやかに泳ぐ姿を見つめながら、彼女は小さくため息をつく。


――ここ最近、眠りが浅い。

思い当たる理由は一つしかなかった。


あの金の髪の男性。

「やっと会えた」と泣いていた姿が、どうしても心から離れない。

まるで遠い昔に、彼を置いてきてしまったような……そんな気がしてならなかった。


「アウロル・イルリア……」


その名を口にした瞬間――


「居るのかよ、アウロル」


低く鋭い声が、庭の静けさを切り裂いた。


シルフィアは驚いて顔を向ける。そこに立っていたのは、兄弟の中でただ一人、漆黒を纏う男。

何者も寄せつけない鋭さを持つ兄――ユーディアスだった。


「驚かせないでください、ユディ……」

むすっと顔をしかめるシルフィアに、ユーディアスは取り合わず問いかける。


「思い出したのかよ」


元より鋭い彼の眼差しは、今はさらに冷たく研ぎ澄まされているように見えた。

だが――「思い出した」とはどういう意味だろう?


「お前が追い出したのかと思ったぜ」


「……なんの話です?」


「まだ知らないふりか。どうあっても許す気はないんだな」


「だから、本当にわからないんです、ユディ……」


苛立ちを隠さぬまま、ユーディアスは舌打ちをする。赤い瞳がぎらりと輝いた。

次の瞬間、その姿は黒き大龍へと変じ、烈風を巻き上げながら空へと舞い上がる。


「……なんなんですか」


残されたシルフィアは呟き、再び池に視線を落とした。

金色の鯉は、先ほどと変わらず優雅に水を泳いでいる。

シルフィアは深く、重い吐息を落とした。

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