出会いと試作
次の日の朝、アウロルは研究室で、リオネルの指示通り幽霊の肉に収められる小型ライトの製作に取りかかっていた。
しかし試作機は点灯時間がわずか数秒しか持たず、思うようにいかず苦戦を強いられていた。
――やはり小さすぎると光度に限界があるのか。
現在の科学技術では、魂そのものを直接視認することは不可能とされている。
だが、高次元に属する星系では、肉体と魂の関係は切り離すことのできないものとして捉えられてきた。
各星系で進められた研究や、ソル・アストラを含む太陽系における合同調査で明らかになった事実といえば、聖職者たちが伝承として語り継いできた知識をまとめたものに過ぎない。
魂には二つの光の玉が宿っており、その色合いによって魂の在り方を知ることができる。
それが、これまで多くの聖職者たちの証言をまとめて導き出された結論だった。
現在は、その光の玉を視覚的に捉えられないかという研究が、多くの星系で進められている。
特に、この第五次元帯に属する太陽系において「肉体をもって魂を視認できる」ことは、非常に重要な意味を持つらしい。
次元帯は、今のところ発見されているだけでも十層は確実に存在すると言われている。
第七次元帯以降に到達した文明では、魂の存在はもはや疑う余地のないものとなり、前世の記憶さえも全種族が共有しているという。
だが、ソル・アストラを含む太陽系では、いまだ懐疑的な見解を持つ者も少なくない。
文明の発展段階が低い場合、その進化を補助するのが「銀河連合」と呼ばれる機関の役割とされている。
ただし、それはあくまで手助けにすぎず、「進化のため」と称して無闇に技術を提供することはない。
それは文明自身の成長を妨げることにつながるからだ。
加えて、太陽系においては、その地で自ら開発された技術でなければ、まともに機能しないものがほとんどであった。
太陽系は、肉体を持つ生命体が辛うじて属することのできる次元帯にあり、物理次元帯に分類されていた。
六〜八次元帯には幽体を持つ種族が多く存在し、「半物質帯」と呼ばれている。
そこには肉体を持つ存在もいるが数は少なく、多くは幽体に近い振動数へと変化させた特殊な肉体をまとっていた。
九次元帯以降は「精神帯」と呼ばれ、肉体を持つ存在がとどまることは難しいとされる。
そこでは幽体すら持つ種族は珍しく、魂そのものが姿かたちを成しているのだという。
ゆえに、人々はそこを魂の帰る場所として崇めているのだった。
そんなわけで、精神帯に近いとされる第八次元帯のリラポスでは、種族すべてが前世の記憶を有しているに違いなかった。
彼らの信仰するミルア教では、かつて肉体を重んじる黄金律と、精神を重んじる白銀律の二つの世界が分かたれ、やがて黄昏時に再び一つへと還る――という神話、黄昏神話が伝えられていた。
白銀律が「魂の帰る場所」として語られる以上、それは第九次元帯に存在するのではないか、と考えられている。
もしそうだとすれば、アウロルは幽体離脱してそこまで到達したことになる。
とんでもない大冒険だ。
だが、本当にそんなことが可能なのだろうか?
さらに疑問が残る。
自分が黄金の王の生まれ変わりだというなら、なぜリラポス人としてではなく、この太陽系の――しかも人間として生まれ直したのか。
シルフィアに会いたいのなら、なぜこんな遠回りをしているのか、とすら思えた。
カチャカチャと工具の音が止まった。
アウロルの手が、ライトの製作途中で動きを止めてしまったのだ。
機械の製作は得意なはずだった。
それなのに、どうしてここまで苦戦するのか。
胸の奥で引っかかっているのは、リオネルが口にした「人工魂」という言葉だった。
もし実験が成功したとして──自分たちは神と同じことをしているのではないか?
それは許されることなのだろうか。
考えれば考えるほど、不安は消えなかった。
そのとき、研究室の扉が開き、リオネルが入ってきた。
彼の手には銀色のトレーがあり、静かにテーブルへ置くと、アウロルの右斜め前に腰を下ろした。
トレーの上に乗っていたのは「幽霊の肉」と呼ばれるものだった。
太陽系での共同研究の末に生み出されたアストラル体の欠片。
見た目は半透明の雲のようで、端から見ればわたあめにも似ている。
だが触れればほんのりとした温かさがあり、まるで肉体のような感触があった。
その奇妙な性質から、人々はそれを“肉”と呼ぶようになったのだ。
リオネルは専用のメスを手に取り、幽霊の肉を切り分け始めた。
どうやら再び、内部に空洞を作っているらしい。
アストラル体は振動数が物質世界と異なるため、扱うには特別な道具が必要だ。
さらに、意思を強く反映して形を変えるため、集中力を欠けばすぐに崩れてしまう。
普段はおっとりした印象のリオネルも、このときばかりは真剣な表情を浮かべていた。
やがてリオネルは作業の手を止め、アウロルの方を見た。
「そっちはどう?順調?」
「いいや、少し苦戦しててな……」
「大体でいいよ。きっと上手くいくから」
リオネルの確信に満ちた言葉に、アウロルは思わず首をかしげた。
だが、リオネルはすぐに視線を戻し、再び真剣な手つきで作業を始める。
その様子を見て、アウロルはそれ以上何も言えなかった。
――魂には光がある。
聖職者たちの証言をまとめた書物にそう記されていた。
その記述をもとに、アウロルは光の加減を割り出し、ライトの再現を試みていた。
魂に近い輝きを再現するには、クリスタル製の触媒が不可欠だ。
だが、小型の装置に埋め込むとなるとどうしても窮屈になる。
数を減らせば光は弱まり、点灯時間も短くなる。
アウロルは迷った末、その点をリオネルに相談した。
返ってきた答えは簡潔だった。
「じゃあ一瞬でいいから、魂と同じくらい光らせて」
アウロルは、以前リオネルが見せてくれた研究映像を思い出す。
幽霊の肉体の奥に、かすかに灯ったが確かな強い光。
あの光を再現するには、やはり多めのクリスタルが要る。
だが、その分、回路が耐えられるかはわからない。
下手をすれば、電流を流した瞬間にすべて無駄になるかもしれない。
アウロルは再び額に手をやり、悩みながら慎重に作業を続けた。
しばらくしてアウロルは小型のライトをひとまず形にした。
掌に収まるほどの大きさ──およそ五センチほどで、透明なクリスタルが芯として組み込まれている。両端には小さな発光部が二つあり、淡い光を宿す仕組みだ。
作業を続けているリオネルに声をかける。
「できたの?」
「とりあえずは作ってみたが…ライトが付いても三秒くらいだろうな」
「それでいいよ、貸してくれる?入れ込むから」
そう言われ、アウロルは出来上がった小型のライトをリオネルに渡した。
リオネルは、風船のように膨らませた幽霊の肉に、クリスタル製の小型ライトを繊細な手つきで埋め込んでいった。
肉の膜がわずかに震え、二つの光源が透けて見える。
そうして「人工魂」とやらは形を成した。
アウロルとリオネルは、トレーに置かれたそれをじっと見つめる。
「これで上手くいくのか?」
「……まあ、見てて」
リオネルは答え、人工魂を手のひらにのせた。
「僕が息を吹きかけるから、その時にライトを点灯してくれる?」
「……わかった」
アウロルは半信半疑ながらも、スイッチに指をかける。
リオネルが大きく深呼吸して――
「ようこそ、おいでくださいました」
そう言って、ふうっと優しく息を吹きかけた。
その瞬間、アウロルがライトを点灯すると、人工魂は内側から眩く光を放ち、ふわりと浮き上がったのだった。
「……生きてる」
アウロルは驚きのあまり、思わず声を漏らした。
まさか、本当に魂を作り出してしまうなんて。
ふわふわと浮かび上がった「人工魂」は、やがてゆらゆらと揺れながら研究室の扉をすり抜け、外へ飛び出していった。
「待って!」
リオネルが慌てて追いかける。アウロルもすぐにその後を追った。
魂の動きは想像以上に速く、リオネルですら追いつくのがやっとだ。アウロルは見失わぬよう、必死に足を動かした。
魂が導くように昇っていく階段を駆け上がる。普段、階段を使うことのないアウロルにとって、それは息が切れるほど苦しい行程だった。
やがて二人は屋上へと辿り着く。
本来なら青と緑に発光するはずだった魂は、紫がかったピンクと白の光を放ちながら、静かに宙を漂っていた。
「捕まえ――!」
リオネルが飛びついた瞬間、魂はするりとかわし、彼の身体が屋上の縁から宙に投げ出された。
「リオ!!」
アウロルは叫び、反射的に手を伸ばした。だが気づけば、自分自身も一緒に落ちていた。
必死にリオネルへ腕を伸ばしたその時、太陽の光が強くなり、視界は真っ白に染まる。
――そして。
ビルのガラスが水面のように大きく揺らぎ、その中から突如として巨大な龍の顔が突き出した。
目にも留まらぬ速さで口を開いたかと思うと、アウロルとリオネルはその顎の中へと呑み込まれていった。
アウロルは、気がつくと砂浜の上に寝転がっていた。
耳に届くのは穏やかなさざ波の音、目を開ければ陽光が容赦なく照りつけ、視界を白く染める。
「そうだ、リオは!?」
はっとして身を起こし、辺りを見回す。しかしリオネルの姿はどこにも見当たらない。
「……一体どうなってるんだ」
アウロルは額に手を当て、必死に状況を整理しようとする。
人工魂を追っていたはずだ。
気づけば、リオネルと共にビルから飛び降りていて――その直後、巨大な影のようなものが横合いから現れ、二人を丸呑みにした。
ここは、あの生き物の腹の中なのか?
そう思うには、あまりに普通の海辺の光景だった。
アウロルはよろめきながら立ち上がり、歩き出そうとした。
しかし次の瞬間、激しい吐き気と頭痛に襲われ、その場に膝をついてしまう。
――この感覚…覚えがある。
不快感は、かつて次元を越えて移動した時に味わったものと酷似していた。
ソル・アストラが属する太陽系は五次元帯に存在している。そこから別の次元帯へ渡るには、振動数を変化させる専用のスーツや媒体が不可欠だった。
それは肉体と幽体が分離してしまうのを防ぐためのもの。
だが、今アウロルが身につけているスーツにはそんな機能はない。
このままでは命に関わる――。
途方に暮れる彼の耳に、不意に声が飛び込んできた。
「見つけました! 大丈夫ですか? お怪我は?」
見上げると、ツインテールの少女が心配そうに顔を覗き込んでいた。
少女の年齢は十四歳ほどだろうか。
白銀の髪をツインテールに結び、肩にかかるくらいの長さだった。
服装は、桜の刺繍が施された白い半袖ブラウスに、薄桃色のキャミソールワンピース。
「白銀の…髪…シルフィアなのか?」
「え?お姉ちゃんを知ってるんですか?」
少女は興味深そうに問いかけてきたが、いや、そんなことより――と言わんばかりに首をぶんぶんと横に振った。
「お兄さん、顔色が悪いです!これを飲んでください!」
そう言って手渡されたのは竹筒だった。中には液体が入っているようだ。
「これは…水か?」
「そうです!ちょっと特別ですけど、それは置いといて、とにかく飲んでください!」
人からもらったものをむやみに口にするのは気が引けたが――
今はそんなことを言っていられる状況ではなかった。
アウロルは竹筒の水を一口含む。
するとたちまち、吐き気や不快感がすっと消えていった。
「助かった…一体何なんだこれは?」
アウロルは竹筒の水筒を少女に返した。
少女はそれを受け取ると、胸を張って言う。
「とりあえずは大丈夫そうですね。これはヴェルミーネお姉ちゃんの加護が付いてるので、特別製なんです!」
誇らしげに水筒を掲げるその姿から、どうやらシルフィアのほかにヴェルミーネという姉もいるらしいと分かる。
アウロルはゆっくりと立ち上がり、少女へと向き直った。
「私の名前はアウロル・イルリアだ。助けてくれてありがとう。君は誰なんだ? シルフィアの妹なのか?」
「えっと……わたしは、ユシュミ・エリシアです。シルフィアは確かにお姉ちゃんの名前ですけど……」
ユシュミはアウロルをじろりと見て、怪訝そうに首をかしげた。
「アウロルさんは、お姉ちゃんのお知り合いですか?」
「ああ、その……一度だけ会ったことがある」
「はあ……それで、なにかご用でも?」
「会わせてくれないか」
アウロルは真剣な表情で頼み込んだ。
また会えるのなら、どんな形でもチャンスを掴むべきだ。
もう一度でいい、彼女に会いたい――。
その熱意に、ユシュミは少し考え込む。
「うーん……ここからだと遠いし。まずは屋敷に来ませんか? そこでお話を聞かせてください」
「わかった……そうしてくれ」
言った途端、アウロルの体がふらりと揺れた。
ユシュミが心配そうに覗き込んだが、「なんでもない」と誤魔化して立て直す。
するとユシュミは口笛を「ピーッ」と吹いた。
その合図に応えるように、空から淡いピンク色のペガサスが舞い降り、砂浜に優雅に着地した。
アウロルは夢でも見ているのかと目を瞬かせた。
太陽系にはペガサスなど存在しない。
他の星系にいると噂では聞いたことがあったが、本物を見るのは初めてだ。
そもそも動物や生物を星系間で持ち込むのは禁止されている。
つまり、現地に来なければ出会えない存在――。
「白銀律にはペガサスがいるのか……」
アウロルが感心して見つめていると、ペガサスが深々とお辞儀し、口を開いた。
「はじめまして、お兄さん。わたしはサリュクス。よろしくどうぞ」
爽やかな青年の声だった。
動物に話しかけられた経験など一度もないアウロルは、目を見開いて驚いた。
「えっと……アウロル・イルリアだ。よろしく……」
聖職者の中には動物と心を通わせる者がいると聞いていたが、それには生まれつきの才が必要だと思っていた。
まさか自分にそんな機会が訪れるとは――。
アウロルは歓喜のあまり跳びはねたい気持ちを必死に抑え込んだ。
そうしていると、ユシュミがサリュクスの背に軽やかに跨り、こちらへと手を差し伸べてきた。
「さあ、乗ってください!」
――うそだろ。ペガサスの背に乗れるなんて。
絵本の中でしか見たことのない光景に、アウロルの心臓が高鳴る。
彼はユシュミの手を取り、恐る恐るサリュクスの背へ身を預けた。
「わたしにつかまっていてください!」
ユシュミの声とともに、サリュクスは大きな翼を広げ、優雅に空へと舞い上がった。
突然の浮遊感にアウロルは体勢を崩しかけ、思わずユシュミの腰へと手を伸ばす。
少女に触れてしまうのは気が引けたが、それどころではない。
やがて風が頬を切り、眼前には雄大な山々が連なった。
振り返れば、さきほどまでいた海辺は豆粒のように遠ざかっている。
――ペガサスに出会えただけでなく、その背で空を翔けるなんて。
夢のような出来事に、アウロルの胸は抑えきれぬほど高鳴っていた。
ほどなくしてサリュクスは山間の一角へと舞い降りた。
そこには西洋風の荘厳な屋敷がそびえ立ち、その玄関前に静かに翼を畳んだ。
ユシュミとアウロルは、サリュクスの背から降り立った。
「ありがとう、サリュクス!――さあ、こちらです、アウロルさん!」
ユシュミが明るい声で呼びかける。
アウロルもサリュクスに礼を告げると、ユシュミのもとへ歩みを進めた。
ユシュミに案内され、アウロルは来客用の部屋へと通された。
彼女は「具合が悪そうですから、ベッドで横になっていてください」と言い残し、部屋を出ていった。
アウロルは改めて室内を見回し、その豪華さに息を呑む。
ソル・アストラでも、これほど贅を尽くした屋敷はめったに目にすることはないだろう。
とりわけ青い天蓋つきのベッドは、カーテンに繊細な刺繍が施され、頭上のシャンデリアも高価そうに輝いていた。
さらに驚かされたのは、それらすべてがホログラムではなく、本物であるということだった。
サリュクスの背に揺られ、少し酔いを覚えていたアウロルは、そっとそのベッドに身を横たえることにした。
「具合はいかがですか、アウロルさん?」
眠ってからしばらくして、ユシュミが様子を見に来た。
窓の外を覗けば、すでに夕方の色に染まっている。
「一眠りしたら、ずいぶん楽になったよ。ありがとう」
「うん、顔色もいいですね!それじゃあ――お風呂にしましょう!」
「……風呂か。そうだな、汗もかいたし……」
「ええ、それに砂まみれのまま眠らせてしまって、ごめんなさい!お掃除もお洗濯も、私が全部やりますから!」
「そうか……悪いな……」
「大丈夫です、任せてください!」
元気よく言うと、ユシュミは桶に道具を詰め込み、
「お風呂セットです!」と笑顔で手渡してきた。
そのまま部屋を追い出され、桶の中を覗くと――
小さな紙切れが入っており、そこには浴場までの簡易な地図が描かれていた。
アウロルはそれを頼りに歩き出した。
浴場にたどり着くと、入り口には女性の彫刻が立っており、その両手には「男性はこちら」「女性はこちら」と書かれた札が掲げられていた。
西洋風の内装に比べて、その札だけがどこか場違いに思える。
アウロルは気に留めず、男性用の入口へと足を踏み入れた。
更衣室へ入ると、まず目に飛び込んでくるのはアーチを描く天井と、壁を飾る繊細な漆喰模様だった。大理石の床は磨き上げられて光を反射し、歩くたびにかすかな響きを返す。
壁際には重厚な木製のロッカーが整然と並び、真鍮の取っ手が鈍く輝いていた。
中央には大きな姿見と、彫刻を施したベンチが置かれ、衣服を整える人々のための空間を優雅に演出している。
ランプの柔らかな光が淡く室内を照らし、ほのかにラベンダーの香りが漂っていた。
まるで浴場というより、貴族の館の一室に迷い込んだかのような雰囲気を醸し出している。
アウロルが白衣を脱ぐと、さらさらと砂がこぼれ落ちた。
先ほどは気分の悪さに気を取られて気づかなかったが、こんなにも汚れたまま眠ってしまっていたのかと思うと、ユシュミに申し訳なく感じる。
ため息をつきながらスーツも脱ぎ、ひとまずロッカーへと収める。
お風呂セットを手に取り、浴室へと足を向けた。
浴室へ足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのは白い大理石で造られた高い柱と、柔らかく灯るランプの光だった。
天井はドーム状に造られており、青と金のモザイクが星空のようにきらめいている。
床は滑らかに磨かれた石で、湯気を受けて淡く光を帯びていた。
中央には大きな円形の湯船があり、温かな蒸気がふわりと立ちのぼっている。
湯面は静かに揺れ、硫黄ではなくローズマリーやラベンダーの香りが漂い、心を落ち着かせた。
壁際には小さな浴槽や打たせ湯が並び、黄金色の蛇口から絶えず水が流れ落ちている。
湯気に包まれた空間は、まるで異国の神殿のような神秘的な雰囲気を醸し出していた。
アウロルは湯船に身を沈めた。
じんわりと疲れがほどけていき、心地よい温もりが体を包み込む。
湯面から漂うラベンダーの香りが鼻をくすぐり、心まで穏やかにしてくれた。
しばらく湯に浸かった後、アウロルは持参した道具で体と髪を丁寧に洗った。
石鹸からもラベンダーの香りが立ちのぼり、思わず「ユシュミはこの香りが好きなのだろうか」と考える。
浴場を出て更衣室に戻ったアウロルは、ふと着替えを持ってきていなかったことに気づいた。
仕方なく白衣とスーツを取り出そうとロッカーを開けると、そこには新しいスーツにベスト、ループタイがきちんと畳まれて置かれていた。
一番上には「これを着てください」と書かれた紙切れが添えられている。
浴室にいる間にユシュミが入れ替えてくれたのだろうか。
しかし、物音ひとつ聞こえなかったはずだ。
アウロルは不思議に思いながらも、用意してもらった服に袖を通した。
客室へ戻ると、ユシュミが部屋の中から顔を出した。
「どうでしたか…って、髪が濡れてるじゃないですか!」
ユシュミは慌ててアウロルの前に立ち、手をかざすと――髪がふわっと軽くなったような感覚がした。
触ってみると、髪はすっかり乾いていて、一つ結びになっている。
服の肩も少し濡れていたのだが、こちらも乾いていた。
「あははっ、なんだかヴァルデミアス兄様みたいです」
ユシュミはアウロルの姿を見て、少女らしく笑った。
確かにヴァルデミアスは髪を一つに結んでいたが、そこまで似ているだろうか。
「もう、後ろを向かれるといつも間違えちゃうんですよね…って、あれ?」
ユシュミは不思議そうにアウロルを見つめる。
「どこかでお会いしましたっけ?いや、もっと…知り合い…?」
腕を組み、うーんと考え込んだユシュミだったが、やがて「まあいいか」と思ったのか、深く考えるのをやめた。
「とりあえず、お掃除終わりましたので、ご飯の準備しますね!」
そう言うとユシュミは部屋を出ていった。
アウロルは彼女の元気さに少し感心しながら、ベッドの上に座った。
窓の外を見ると、すっかり夜の気配が漂っていた。
ぼうっと部屋を眺めていると、アウロルは少しずつ記憶を思い出した。
「そうだ…リオネルはどうなったんだ?」
慌てて立ち上がり、部屋を飛び出す。ユシュミに話を聞かないと。
リオネルが危険な目に遭っていたら大変だ。
廊下を歩いていると、
「あら、どうしたの?」
と声がかかった。
声のする方を見ると、背の高い貴婦人が立っていた。
白銀の髪に薄紫色の瞳。髪はシニヨンにまとめ、マーメイドスカートのワンピースを着ている。
身なりからして高級そうで、ここを仕切る主のように見えた。
「えっと…その、ユシュミさんを探してて…」
「うふふ、怯えなくても良いわ。あなた、アウロルさんでしょ?」
貴婦人はゆっくりとした口調で話す。
アウロルの名前を知っているということは、ユシュミから聞いたのだろうか。
「ええ、私はアウロル•イルリアと言います…その…あなたは…」
「ヴェルミーネよ。ヴェルミーネ•エリシア。よろしくね」
そういえば、ユシュミが水を渡してくれたとき、「ヴェルミーネお姉ちゃんの特製」と言っていた。彼女が作った栄養ドリンクだったのだろう。
「そうだ…あの水をいただきまして…ありがとうございました」
「あー、あれね。効き目があって良かったわ~。あなた、飛んできたんでしょ?」
「飛ぶ?…わかりません。その…リオネル……同僚となにかに飲み込まれたというか…」
「あら?飲み込まれたの?珍しいわね…」
ヴェルミーネは少し考え込んでから、アウロルの方を見て微笑んだ。
「リオネルさんなら、いらっしゃいますよ」
ヴェルミーネの笑みは、アウロルの緊張をすっと和らげた。
「本当ですか?今どこに?」
アウロルは慌ててヴェルミーネに問いかけた。
ヴェルミーネはふふふと笑い、ついてくるように手で合図する。
ヴェルミーネの高いヒールの音が、広い廊下に軽やかに響いた。
こんなに広い屋敷なのに使用人の姿はなく、アウロルは少し不思議に思う。
「うふふ、ここは私とユシュミ二人で住んでるのよ~」
「えっと…きれいなお屋敷ですね」
「ええ、ユシュミはきれい好きだもの…ごめんなさい、心の声が聞こえちゃった」
心の声が聞こえた…?
使用人がいないことを不思議がっていたのがわかったということか。
顔に出ていたのだろうか。
それでも思考が読めるなんて…彼女は魔術師なのだろうか。
やがて二人は一つの部屋にたどり着き、ヴェルミーネが軽くドアをノックした。
「どうぞ」と声がして、ヴェルミーネが扉を開くと、アウロルと同じようなスーツ姿のリオネルがベッドに腰かけていた。
彼はなぜか電気もつけず、右目を手で覆っている。
やがてこちらを見て、アウロルに気づいたようだった。
「アウロル!いたんだね!よかった…」
リオネルは立ち上がろうとしたが、ふらふらと力が抜けたように再び座り込む。
アウロルは慌てて彼に駆け寄った。
それは一瞬だけで暗がりに包まれていたが、アウロルは彼の異常にすぐ気づいたのだ。
ヴェルミーネが部屋の電気をつけると、リオネルは眩しそうに目を細めた。
「その瞳…どうしたんだ?」
アウロルは心配そうにリオネルを見つめる。
彼の緑の瞳は、右目だけが紫色に変わっていた。
「それが…あの人工魂と混ざり合ったっぽくて…」
「混ざり合った?どういうことだ?」
「それは私が説明しよう」
背後から聞き覚えのある男性の声がして、アウロルは振り返った。
扇子を広げたヴァルデミアスが、落ち着いた表情で立っていた。
「リオネル殿は危険な状態だ。安静にした方がいい」
「…どう言うことです?リオになにが?」
「ついてこい。彼はヴェルミーネが診てくれる」
アウロルは再びリオネルを見ると、リオネルは元気づけるようににっこりと微笑んだ。
「僕は大丈夫。行ってきて」
「わかった…後でゆっくり話そう」
アウロルはそう言って、ヴァルデミアスについていった。