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黄昏に還る双龍  作者: 三月 桃
第一章
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水面の囁き

 家に帰ったアウロルが玄関のロックを解除すると、自動で扉が開いた。


「お帰りなさいませ、アウロル様」


 出迎えたのは、最新型の家政婦ロボット〈メル〉だった。

卵形の丸い胴体がふわりと宙に浮き、宙を滑るように動く。

胴体そのものが柔らかく光るディスプレイになっており、顔は絵文字のような表情が映し出される。

大きなうさぎの耳型ホログラムが頭部から伸び、ぴょこんと揺れるたびに愛らしさが増す。

腕は二本、精密に可動し、アウロルのコートをそっと受け取り、所定の位置に掛ける動作も無駄がない。


「今日はお疲れのようですね。お食事になさいますか? それとも…」


「お風呂にするよ。湯温は少し高めで」


「かしこまりました。ハーブエキスを加えておきますね」


 メルが静かに浴室の準備を始める間、アウロルはリビングのソファに腰を下ろし、窓の外を見やった。

夜の空気は、5月らしい穏やかさを含みつつも、まだどこか冷たく、疲れた体に沁みる。

浴室から湯気が漏れ出し始めると同時に、メルの声が聞こえた。


「ご準備が整いました」


 アウロルは立ち上がり、静かな廊下を歩き始める。


 浴室に足を踏み入れると、湯気がふわりと立ち上り、柔らかな光が水面を照らしていた。

アウロルはそっと浴槽の縁に腰を下ろし、ゆっくりと体を沈める。

お湯は少し熱めで、じんわりと疲れを溶かしてくれる。


目を閉じると、研究室で聞いたあの少女の声が、ふと耳の奥に蘇った。


——どこにいるの?


湯面に指先を触れると、水面がかすかに波打った。

空耳だと自分に言い聞かせながらも、どこか現実味を帯びて響くその声に、アウロルの胸は微かにざわついた。


目を閉じ、湯面に手を浸したまま、アウロルはそっとつぶやいた。


「ここにいる…とでも言えばいいか…?」


 すると、水面がひときわゆらめき、湯気の中に淡い光が差し込む。

まるで答えを待っていたかのように、水面の波紋が静かに広がった。

声はもう聞こえない。


 しばらく、浴室には湯の音だけが静かに響いていた。

アウロルは目を閉じたまま呼吸を整える。

静寂の中、昼間の研究室で聞いた声が、頭の奥でかすかに反響しているようだった。


 浴室にしんと静まり返った後、湯気の向こうからかすれた少女の声が再び響いた。


「…いるの?…どこなの?」


その声に、アウロルの心臓が小さく跳ねる。

水面に映る自分の顔が、微かに揺れている。

——確かに、ただの幻ではない。


アウロルはゆっくりと湯から顔を上げ、声を絞り出すようにしてつぶやいた。


「お前は誰なんだ? もしかして、魂の声とやらか…?」


 瞬間、浴室の空気が微かに震えた。

未知との遭遇に心がざわつく。

研究が進展するかもしれない――そう思うと、胸は高鳴った。

恐怖と興奮が、微かに混ざり合った感覚だ。


 しばらくの沈黙の後、静かなノックの音が浴室の扉から響いた。


「アウロル様、大丈夫ですか? お湯の温度は適温ですが、長く入っていると体が冷えてしまいます」


家政婦ロボット・メルの声は、普段の人工音声とは思えない柔らかさを帯びていた。

アウロルは少し微笑みながら、湯に手を浸したまま答える。


「大丈夫だ、ありがとう…少し考え事をしていただけだ」


メルは納得したように小さく頷き、静かに廊下に戻っていく。

アウロルは湯面に手を置いたまま、ため息をついた。


「まったく…風呂場で何をやっているんだ、俺は」


肩をすくめ、少し微笑む。

自分の心のざわつきに呆れていた。


「さっさと上がろう」


 そう言い聞かせるようにして、アウロルはゆっくりと体を湯から引き上げた。

ふわふわとしたタオル地のローブに包まれ、体の芯まで温もりが残る。

着替えを終えると、彼はリビングのソファに腰を下ろし、窓の外を見やった。

窓の向こうには、夜の近未来都市が広がっていた。

空を縫うように光る空飛ぶ車の軌跡、ビルの谷間に反射するネオンの光、ホログラム広告が夜空を彩る。

街全体が光の海のように輝き、遠くには人工の月灯りがふんわりと都市を包み込んでいる。

アウロルはソファにもたれ、窓越しに光の波を見つめながら、小さくつぶやいた。


「どこかと言われてもな…」


 その瞬間、背後で小さな浮遊音がした。

銀色に光る小型ロボット〈メル〉が、ふわりと宙に現れる。

卵形の丸いボディの前面には絵文字の表情が映し出され、今は心配そうに眉をひそめているように見えた。

大きなうさぎの耳型ホログラムも、わずかに揺れている。


「アウロル様……なんだかおかしい様子ですが、ご無事ですか?」


アウロルは肩をすくめ、少し照れくさそうに視線を逸らす。


「いや…別に、少し考え事をしていただけだ」


 メルはふわりと浮かびながら、丸いボディの前面ににっこりと微笑む表情を映し出す。

 

「そうですか、何かあればなんなりとお申し付けください」


大きなうさぎ型ホログラムの耳が、わずかに揺れる。

そのままメルは宙を滑るようにリビングを離れ、キッチンへ向かう。

光沢のある銀色のボディが柔らかく反射し、最新型らしい滑らかな動きで食事の準備を始めるのだろう。


アウロルはソファに体を沈め、窓の外に広がる夜景をぼんやりと眺める。

光の海のように輝く都市の軌跡を目にしながらも、心の片隅には先ほどの少女の声がまだ微かに残っていた。


 なぜ、あの声の少女はいつも自分の居場所を問いかけてくるのだろう?

そもそも、彼女が探している相手は――本当に自分なのだろうか。


アウロルはソファにゆっくりと横になり、目を閉じた。

タオル地のローブに包まれた体は温もりに満ち、リビングの光が柔らかく差し込む。

呼吸を整え、意識を内側へと向ける。


心の中のざわめきを静め、五感を研ぎ澄ます。

湯上がりの温もり、ソファの沈み込み、遠くで光る都市の軌跡――

それらすべてを頼りに、少女の声の存在を探ろうと、アウロルは集中した。


微かに、耳の奥で、再びあのかすれた声が響く気がした。

——今度こそ、確かめられるかもしれない。


 アウロルがソファに横たわり、瞑想するように呼吸を整えていると、微かに耳の奥で、あのかすれた声が響いた。


「…どこにいるの?」


その声は、昼間の研究室や浴室で聞いたときよりも、さらに近く、そしてはっきりと心に届くようだった。

アウロルは目を閉じたまま、身体の感覚を頼りに声の方向を探る。

胸の奥に小さなざわめきが生まれ、理性と好奇心が交錯する。


——確かに、これは幻ではない。

声は現実の何かに繋がっている。そう直感し、アウロルの心臓は小さく跳ねた。


目を閉じたまま、アウロルはそっとつぶやく。


「…お前は一体、誰なんだ?」


 その声を胸に響かせた瞬間、意識の奥で何かが大きく揺れた。

瞼の裏に銀色の光が走り、轟音が周囲を包む。

目を閉じているはずのアウロルの全身に、強烈な気配が押し寄せた。


次の瞬間、巨大な銀色の龍が、意識の空間――いや、現実か夢かもわからない世界を裂いて、こちらへ向かってくるのを感じる。

光を反射する鱗、切り裂く風、そして広がる圧倒的な存在感。

龍の大きな口がゆっくりと開き、アウロルの視界はほとんどその銀色の闇で満たされる。


まるで自分が、その大きな口の中に吸い込まれていくような感覚。

重力も空間も関係なく、体がふわりと宙に浮く。

全身を包む冷たさと、光の圧迫感。逃げようとしても、力は全く届かない。


——これは…飲み込まれる…!


 そう思った瞬間、アウロルははっと目を開けた。


そこに広がっていたのは、まったく別の世界。

眼前には一本の美しいクリスタルの桜の木が咲き誇っていた。

花びらは透明感のある氷のように輝き、光の粒を反射して淡く煌めく。

枝先から零れ落ちる光の粉は、まるで春の雪のようにふわりと舞い、空気全体に柔らかい光を漂わせていた。


銀色の龍の気配は消え、代わりに静寂と柔らかな光が、アウロルを包み込む。

胸のざわめきはまだ残っているものの、恐怖は少しずつ、好奇心へと変わっていった。


——ここは…一体、どこなのだろう。


アウロルはゆっくりと立ち上がり、クリスタルの桜の木に近づく。

手を伸ばせば、花びらに触れられそうなほど、世界は繊細で、現実感と幻想の境目が曖昧だった。

アウロルはそっとクリスタルの花びらに触れた。

ひんやりとした感触が指先から全身に広がる。


すると――まるで水面に映る映像のように、意識の奥で光景がゆらりと揺れ始めた。

色彩と光が溶け合い、やがて一人の女性の姿が浮かび上がる。


 白銀の髪を風になびかせ、青い瞳でこちらを見つめる少女。

年は22歳ほどだろうか――まだどことなく無邪気さの残る、柔らかな顔立ち。


その表情は、見覚えのある懐かしさをアウロルの胸に呼び起こした。

胸の奥がぎゅっと締め付けられるようで、同時に温かい感覚がじんわりと広がる。


——なぜ、こんな感覚になるのだろうか。

知っているはずのない顔に、どうしてこんなに懐かしさを感じるのか。


 どうしてこんな懐かしさを感じるのだろうか――

そう思っていると、ふと顔に何か柔らかなものが触れた。


目を開けると、脳裏に浮かんだ映像と同じ女性が、ほほに手を添えて微笑んでいる。


「もう…どこにも行かないで」


その言葉とともに、彼女の瞳から涙があふれ出す。

アウロルは思わず抱き締めようと手を伸ばすが、気がつけば自分の頬も涙で濡れていた。

胸の奥がぎゅっと締め付けられ、感情があふれ出す――自分がこんなにも泣いていることに、初めて気がついた。


やがて意識がゆっくりと覚醒する。

目を開けると、明るく照らされたリビングのソファに寝転がったまま、頬を濡らした自分の手を見つめていた。

夢だったのか現実だったのか――まだ答えはわからない。

ただ、胸のざわめきと温かさだけは、確かに残っていた。


 心のざわめきが少し落ち着いた頃、ふわりと浮かぶ小型ロボット〈メル〉の声が響いた。


「アウロル様、お食事のご準備が整いました。お召し上がりいただけます」


メルは丸いボディの前面に、にっこりとした表情を映し出して浮かび上がる。

大きなうさぎ型ホログラムの耳がわずかに揺れ、愛らしさを漂わせながら、リビングのソファへと近づく。


アウロルはソファに寝転がったまま、少しだけ体を起こして答える。

「わかった、ありがとう。すぐ行くよ」


 アウロルはソファからゆっくりと立ち上がり、ダイニングへ向かう。

テーブルの上には、メルが用意した食事が並んでいた。香ばしく焼き上げられたチキンの隣には、色とりどりのグリル野菜が整然と並べられている。

パプリカやズッキーニ、ナスの鮮やかな色が食欲をそそる。

小皿には蒸し野菜が控えめに盛られ、ハーブの香りがふんわりと漂った。


メルは、アウロルの席の隣でふわりと浮かび、丸い胴体の前面ににっこりと微笑む表情を映し出す。

大きなうさぎ型ホログラムの耳がわずかに揺れ、柔らかな光を放つ。


アウロルはナイフとフォークを手に取り、チキンを一口。

香ばしい皮の下のジューシーな身が口の中に広がり、グリル野菜の甘みと絡んで、ゆっくりと咀嚼するたびに体に力が戻るようだった。


 夕食を終えたアウロルは、軽く髪を雑に乾かすと、そのまま明日の準備に取りかかった。

ホログラム式のパソコンを起動させると、空中に浮かぶ光のスクリーンに今日の実験の概要を入力していく。指先で光の文字をなぞり、データを整理しながら、明日の予定もざっくりと組み上げた。


しかし、手を動かしていても頭の片隅にはあの少女のことがちらつき、どうしても集中できない。


ため息をひとつ、ふうっとつきながらアウロルはベッドに横たわる。

窓の外に広がる夜景の光が、部屋の中まで淡く差し込み、静かな時間がゆっくりと流れていく。


 どうしてあんなにも、心を揺さぶられるほどに泣いてしまったのだろう。

あの女性の声も、映像も、まるで遠い記憶の欠片を掘り起こすかのようで、理性では説明できない懐かしさが胸を満たしていた。


ベッドに横たわり、まどろみの中で目を閉じる。

青い瞳の残像が、意識の端にかすかに揺れながら、ゆっくりと心を満たしていく。

体の力が抜けていき、呼吸が穏やかになり、やがてアウロルはそのまま眠りに落ちた。


 

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