龍の口喧嘩
朝の光が差し込み、アウロルは目を覚ました。
隣ではユーディアスとリオネルがまだ静かに眠っている。
アウロルはそっと布団を抜け出し、朝日を浴びようと中庭に面した長い廊下へと向かった。
中庭は黄金の光に包まれ、竹林はさらさらと風に揺れていた。
その景色を眺めていると、アウロルはふと、ここでシルフィアに霊力の使い方を習った日のことを思い出す。
霊感のない自分は、いつも発明品で不足を補おうとしていた。
だが「物でごまかすな」と叱られることばかりだった。
そんな自分に、彼女は優しく声をかけてくれたのだ。
――「あなたにもできますよ」
その言葉とともに差し出された微笑みは、どんな光よりも温かかった。
シルフィアの教え方は丁寧で、できないと思っていたことが少しずつできるようになった。
霊力を扱えるようになると、また新しい発明を作ることができ、そのたびに彼女は誰よりも喜んでくれた。
「あなたと同じように扱うの」
花を撫でるような笑顔でそう言ってくれた瞬間を、アウロルは今でも鮮明に覚えている。
あの頃は何もかもが輝いていて、まるで自分にできないことなどないように思えた。
だからこそ、自分は傲慢になってしまったのだろう。
――「俺とお前なら世界だって手に入る!」
そう口にしたとき、シルフィアの顔から天女のような微笑みは消えていた。
どこで間違えたのか。
どの言葉が彼女を遠ざけてしまったのか。
悔恨を胸に抱きながら朝日を浴びていると、左側からゆったりとした声が響いた。
「おや、早起きですなあ。感心、感心」
声のする方を向くと、長い髭を撫でながら歩み寄るカシンの姿があった。
「おはようございます…いい朝ですね」
アウロルはいまだにカシンとの距離感をつかみかねていた。
というのも、カシンは自分のことをよく知っているようなのに、アウロルの方は彼との思い出を完全には思い出せていないからだ。
カシンはアウロルに敬語を使われるのをどうにも苦手としていた。
「昔はあんなに反抗的だったのに、頭でも打ったのですかな?」と散々言われたほどだ。
「そうですな……なにか思い出しましたかな?」
「シルフィアとのことを……少しだけ」
この世界に来てからというもの、不意に前世の記憶が蘇ることが増えてきた気がする。
だが、それでも自分が本当に“黄金の王”だったという確信はまだ持てなかった。
――それに、もし記憶が正しければ、黄昏神話に語られる黄金の王は人々に嫌われていたはずではなかったか?
「いずれ、すべて思い出す日が来るでしょうな……さて、他の者たちを起こしに行きますかな」
カシンはそう言って長い廊下をゆっくり歩き、リオネルたちが眠る部屋へと入っていった。
だが次の瞬間、大きな声が屋敷に響きわたった。
「なんですかな、これは!?」
――そうだった。
あの部屋には、昨日ユーディアスと一緒に持ち帰った発明品がずらりと並べてあったのだ。
アウロルははっとして、慌てて走って様子を見に行った。
部屋に入ると、カシンが発明品を手に取り、不思議そうに眺めていた。
奥の布団ではリオネルが眠そうに目をこすりながら身を起こす。
「もう……何なの、大きな声出して……」
ユーディアスはというと、相変わらず気にする様子もなく寝息を立てている。
「カシン、むやみに触るとどうなるかわからない。気をつけてくれ……」
「これは! 妖精の粉で作った灯りですな。――おお、こちらは美人に映る置き鏡ではありませぬか! いやあ、懐かしいものばかりですなあ」
カシンは置き鏡の前で身をひねったり角度を変えたりして、自分の姿を確かめながら楽しそうに笑っている。
修行のときはあれほど厳しかったのに、発明品を前にすると子どものように無邪気になる――その姿にアウロルはふと懐かしさを覚えた。
「ふぁー……おはよう、アウロル」
大きなあくびをしながらリオネルがこちらへ近づいてくる。
「おはよう、リオネル。調子はどうだ?」
「んー? 大丈夫だよ」
普段と変わらない口ぶりにアウロルは少し安心した。
けれど、肉体を奪おうとする魂の影響が彼の中で着実に進んでいるのを、目の当たりにして油断はできない。
「おお……これはまた! 水晶の靴とは懐かしい!」
カシンは透明に輝く靴を取り出し、光にかざして目を細めた。
その靴は透明でありながら、ひんやりとした硬質な輝きを秘めていて、まるで氷の欠片をそのまま形にしたようだった。
「この靴はたしか……シルフィア様に差し上げたはずでは? なぜここに?」
カシンは首をかしげながらも、美しい靴から目を離せずにいた。
「騒がしいなあ……眠いだろうが」
奥の部屋から不機嫌そうにユーディアスが現れた。
髪を掻き上げ、ちらりと靴を見て「ああ、それ」と指差す。
「シルフィアの靴じゃないか。あいつ水晶が好きだからな……でもヴァルの奴が取り上げたんだ」
「ヴァル……ヴァルデミアスのことか? なぜ取り上げたんだ?」
「なんでって……そりゃあ……」
ユーディアスは言いにくそうに頭をかき、しばらく黙ったあと、ため息をひとつ吐いた。
「シルフィアはな、お前から貰ったものを見るたびに取り乱したんだよ。喜んだり怒ったり……手がつけられなくなるくらいに」
「もったいないことですなあ……これをアウロル様がいつも以上に丁寧に作っていたのを、わしは知っておりますぞ」
「そうさ。履けば光が舞って、蝶まで飛び出すんだ。世界に一つだけの、シルフィア専用の靴だーって、散々自慢してたからな」
「アウロルって、やっぱりシルフィアにベタ惚れだよね」
リオネルがニヤリと笑い、アウロルを覗き込む。
アウロルは隠していた気持ちを暴かれたようで、顔を赤らめた。
「さて……このあたりにして、朝食にいたしますかな」
カシンの言葉に異論は出なかった。
身支度を整えて、朝食を食べる為に大広間へ向かった。
大広間の卓には卵焼きやおにぎり、漬物が並び、香ばしい湯気が漂っている。
普段はどこに潜んでいるのかわからない仙人たちも顔を揃え、すでに箸を進めていた。
「あれ、こんなに人いたんだ」
リオネルが腰を下ろしながら不思議そうに周囲を見回す。
「普段は動物の姿をとってる奴が多いからな」
ユーディアスが答える。
仙人たちは鳥や獣の姿に自在に変わり、思い思いの場所で過ごしているらしい。
人間も霊力を極めれば同じことができるのだろうか――それとも、ここ白銀律だからこそ可能な術なのか。
アウロルは調べたい衝動を必死に押さえた。
「そういえばユーディアスも龍になれるよね? 遺伝子が違うのかな?」
柔らかい卵焼きを味わいながら、リオネルが疑問を口にする。
ユーディアスはおにぎりを頬張ったまま、怪訝そうにリオネルを見返した。
「いでんし……? なんだそれ。食いもんの違いとか、そういう話か?」
「いや、まあ……食べ物も関係するかもしれないけど……生まれつき持ってる性質とか、そういうの」
「ふん。生まれつきなんて、誰だって違うだろ」
ユーディアスはあっけらかんと言い捨てた。
その声音には、「そんなこと気にするだけ無駄だ」という、彼らしい豪快さがにじんでいた。
朝食を終えると、アウロル達は再び心眼の稽古に打ち込んだ。
ユーディアスは暇を持て余したように、廊下にごろりと横になっている。
「ねえ、アウロル。昨日のメガネでなんとかできないの?」
水晶玉をにらみ続けるのに飽きたリオネルが、うんざりした声を漏らした。
「改造して作り直したいのは山々なんだが……道具がない」
昨夜、魂だけを映せるようにメガネを調整しようと試みたが、必要な工具は研究所に置いてきてしまった。
どうにも手の打ちようがない。
「幽霊さえ我慢できれば、なんでも見えるぞ」
アウロルが軽口を叩くと、リオネルは顔をしかめ、激しく首を横に振った。
「ぜっっったいに嫌だ!」
そうしていると、不意に中庭の竹林がざわめき立った。
次の瞬間、轟音とともに稲妻が地を裂いた。
「うわっ、なに!?」
リオネルの悲鳴が響く。
稲光の中に、ヴァルデミアスが立っていた。鋭い眼差しでアウロルを射抜いている。
「アウロル!話がある!」
低く響く声には、抑えきれぬ怒気がにじんでいた。
「ど、どうするのアウロル…?」
リオネルが神妙な顔で小声を落とす。
「今行ったら…食べられちゃうんじゃない?」
確かに相手は龍の一族。
しかもユーディアスの兄だ。龍に姿を変えて噛み砕かれてもおかしくはない。
――けれど、なぜそこまで怒っているのか。
昨日の出来事がそんなに不味かったのか?
アウロルの背筋に冷たい汗が流れる。
恐る恐る廊下へ歩みを進めると、ユーディアスが立ち上がり、アウロルの前に出た。背を庇い、兄を真っ向から睨みつける。
「何の用だよ」
「とぼけるな」
ヴァルデミアスの声がさらに低く落ちる。
「シルフィアと会ったのは知っているぞ」
その瞬間、空が曇り始め、屋敷全体が不穏な気配に包まれた。
「シルフィアはどうなったんです?……できれば、謝りたい」
「謝る? それで済むと思っているのか!!」
ヴァルデミアスの声は怒りで震え、空間全体を揺るがした。
閃光が辺りに弾け、嵐のごとき風が吹き荒れる。
「どうせシルフィアは許さねえだろうが!!」
ユーディアスの低く鋭い声が、空気を切り裂く。
「ああ――だがその前に、この私が許さん!!」
ヴァルデミアスの怒声が轟き渡る。
次の瞬間、ユーディアスが彼の胸ぐらをつかみ上げ、その姿は一気に龍へと変じた。
大気を裂くように翼を広げ、怒りのまま天へと飛び上がっていく。
走って庭に飛び出すと、曇天の空に二頭の龍が激しくぶつかり合っていた。
白く長い首をもつ龍――おそらくヴァルデミアスだろう。その体からは青白い閃光がほとばしり、対するのは漆黒の筋肉質な龍だった。
「な、何事ですかな!?」
慌てて駆けつけたカシンが空を仰ぎ、すぐに両手を掲げて防御の幕を張る。
たちまち屋敷を取り巻いていた荒れ狂う風が収まり、辺りは不気味なほどの静寂に包まれた。
「兄弟喧嘩ってやつ?」
リオネルが冗談めかして呟くが、目は真剣に空を追っている。
「冗談を言っている場合ではありませんぞ! あの二頭が本気でぶつかれば、この防御も長くはもちませぬ!」
カシンの声は震えていた。
アウロルはその言葉に胸を突かれ、ふとひらめく。
――屋敷の発明品の中に、打開の手立てになるものがあるかもしれない。
そう考えるや否や、アウロルは踵を返し、屋敷の中へと駆け込んだ。
ユーディアスは、閃光が走り視界を奪う濃い雲の中を飛んでいた。
龍へと姿を変えたヴァルデミアスの体躯は、自分よりもはるかに大きい。
その巨体は脅威である反面、動きはどうしても鈍る。
今のヴァルデミアスにできるのは、この視界の悪さを頼りに、不意を突くことくらいのはずだ。
稲光が走った瞬間、右手から影が迫る。
ヴァルデミアスが巨口を開き、鋭い牙をむき出しにして噛みついてきたのだ。
ユーディアスは素早く身を翻し、逆に長い首へ鋭い爪を走らせた。
しかし手応えは浅い。
硬い鱗に阻まれ、傷は表面をかすめただけだった。
「なぜアウロルを庇う?」
閃光を伴い、ヴァルデミアスの問いが雲間を裂いた。
「お前こそ、絶対にシルフィアが正しいのかよ!」
ユーディアスは灼熱の炎を吐き出す。
逃げ遅れたヴァルデミアスの翼を焦がし、黒煙が立ち上った。
だが、次の瞬間――ヴァルデミアスは正面に位置を定め、口を大きく開く。
「くっ…まずい!!」
光の砲撃が、轟音とともにユーディアスめがけて放たれた。
「こんなところ、飛ぶなんて無茶だよ!!」
リオネルの叫びが雲間に響く。
アウロルは薬品を丸いカプセルに入れ替え、一つをリオネルに手渡した。
二人は空飛ぶ絨毯に乗り、龍たちの元へ向かう。
視界を遮る濃い雲の中を、閃光を避けながら必死に飛び続けた。
やがて白い龍の姿が視界に入った。アウロルは必死に近づき、カプセルを投げた。
すると背後から、口を大きく開けた黒い龍が顔をのぞかせる。
「今だ、リオネル!」
呆然としていたリオネルに声をかける。
はっと我に返ったリオネルは、力いっぱいカプセルを投げつけた。
薬液が二匹の龍にかかると、みるみる小さくなり、地面へと落ちていく。
小さくなった龍たちを慌てて抱き止め、空飛ぶ絨毯は竹林の中庭に着地した。
「大丈夫ですか!?」
カシンが慌てて駆け寄る。
リオネルは大冒険の疲れから、絨毯の上でそのまま座り込んでしまった。
腕の中の龍たちを下ろすと、二匹はまたもや小さく喧嘩を始めた。
ただし、稲妻も炎も出せず、二人とも少し困惑しているようだった。
「おい、なんなんだよこれ!?」
「お前たち、いつから巨人になったんだ?」
ヴァルデミアスがこちらを見据え、問いかけてくる。
「バカか、俺たちが小さくなってんだよ!」
ユーディアスがコツンとヴァルデミアスの頭を突いた。
「バカとはなんだ!」
ヴァルデミアスは翼をバタつかせ、怒りをあらわにする。
こうして見ると、兄弟ではあるが龍の姿には違いがあるようだった。
ユーディアスは黒く筋肉質で、とげとげした翼を持ち、四肢でしっかりと立っている。
一方ヴァルデミアスは首が長く、二本足で立つ姿が基本で、翼は優雅で天使のようだった。
観察していると、ユーディアスに鋭く睨まれた。
「じろじろ見るんじゃねえ!」
どうにか龍たちをなだめ、少し焦げた絨毯を抱えて発明品のある居間へ向かう。
ユーディアスは卓の上に転がる薬品のラベルを見つめた。
「縮小の薬だと?おい、元に戻るんだろうな!?」
翼をはためかせながら、ユーディアスはアウロルに詰め寄る。
「そんな薬が作れたのか?しかも俺たちに効くとは…」
ヴァルデミアスは、アウロルの発明品に感心した様子だった。
「時間が経てば元に戻るんじゃないか?」
アウロルには薬品の効力がどういったものなのかわからなかった。
「今すぐ戻せ!!」
勢いよく頭突きされたアウロルは、思わずよろめく。
「わかった…元に戻る薬を考えよう」
「そんなことできるの、アウロル?」
リオネルが不思議そうに尋ねる。
確かに、アウロルに薬学の専門知識があるわけではないのだが…
アウロルは「植物図鑑」と書かれた本を手に取った。
そこには植物のスケッチと効果がびっしりと書かれている。
数ページめくると、ある薬草を見つけた。
「タルジヤの花のところに、“効果を打ち消す万能薬草”って書いてある」
「それを飲めば元に戻るってこと?」
龍たちは目を輝かせ、思わず歓声を上げた。
「なら、早速摘みに行くか!」
「仕方ない…私の背に乗れ…」
龍たちは意気揚々と飛び立とうとしたが、そこで自分たちが小さくなっていることに気づいた。
普段なら一瞬で行ける距離も、小さくなった今では翼を何度も動かさねばならない。
結局二人は、卓の上にへたり込んだ。
「絨毯に乗っていくしかないね」
「そうだな。だが、どこに咲いているかがわからない」
「それなら、心当たりはある」
「おれも、ないわけじゃないな…」
龍たちはアウロルを見つめ、タルジヤの花のスケッチを見せてもらった。
「この花、どこかで見た気がするな…」
ユーディアスは必死に思い出そうとする。
「ははっ…この花なら、いつも見に行ってたではないか…」
ヴァルデミアスは、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。
「シルフィアと花畑を回って、お前たちはいつも幸せそうだった…はずだ…」
言いかけて、ヴァルデミアスはうーんと首を捻る。
「なんだか、あるはずのない記憶が甦ってくる気がしてならん」
「あったけど、急に忘れたんだろうが…どいつもこいつも」
ユーディアスが不機嫌そうに呟いた。
竹でできた水筒と、カシンが持たせてくれた小さな桃を手に、四人は絨毯に乗った。
ヴァルデミアスの記憶を頼りに、絨毯は静かに進んでいく。
「二人とも、薬草を見たことがあるの?」
リオネルがヴァルデミアスとユーディアスに問いかけた。
「植物はいちいち覚えていないが、花畑といったら向かう場所はだいたい決まってた」
「こやつとシルフィアは植物が大好きでな。よく連れて行かされたものだ」
龍たちはくすくすと楽しそうに笑った。だが、ユーディアスは真剣な顔をして問いかける。
「思い出したのかよ?」
「いや…どうやら封じられているようだ…」
ヴァルデミアスが首を横に振った。
「誰に封じられているんだよ。物忘れがひどくなっただけじゃないのか?」
「…まったく口の悪い弟だ……シルフィアに封じられているのかもしれん」
「なんでそんなことするんだよ?」
「わからん…最後に見た時、こやつらは…仲が悪そうだった」
「…そうだったな」
ヴァルデミアスたちは暗い表情を浮かべ、黙り込んでしまった。
「アウロルとシルフィアに、何があったんです?」
「私にはよくわからんが…急に、いつも喧嘩ばかりになった」
「急にじゃないだろ!おれらが悪いんだ…」
「…そうなのか?よく思い出せん…」
ヴァルデミアスはアウロルのことを完全には思い出せていないようだった。
対照的にユーディアスは、何かを知っているような雰囲気を漂わせている。
しかし、それを口にすることはなかった。
「見えてきたぞ、あそこだ」
ヴァルデミアスが指し示す先には、色とりどりの花々が咲き乱れる花畑が広がっていた。
やがて絨毯はふわりと速度を落とし、柔らかな花の香りに包まれながら、四人をそっと大地へ降ろした。
眼前に広がる花畑は、まるで大地そのものが色彩の絨毯に姿を変えたかのようだった。
白や黄色の小花が風に揺れ、濃紅や紫の花弁が陽の光を受けて宝石のようにきらめく。
花々の間には、淡い青色の花が小川の流れのように帯をつくり、全体をやわらかく結んでいた。
甘やかな香りが空気を満たし、時折吹く風が花粉とともに光を散らす。
蜜を求める小さな蝶や蜂が飛び交い、羽音すらこの光景を彩る音楽のように響いていた。
足元に咲く草花は踏んでもなお柔らかく弾み、歩くたびに微かな露がきらりと弾ける。
その一面の光景は、自然が紡いだ壮麗な楽園のようだった。
「ここもお気に入りだったな」
ユーディアスがぽつりと呟く。
「いつも花の名前を教えたり、くるくる回って踊ったりして、忙しそうだったな」
ヴァルデミアスが隣に立ち、花畑を眺めながら懐かしむように言った。
二人はどうやら、同じ思い出に浸っているらしい。
「桃、食べる?美味しいよ」
そんな空気をよそに、リオネルが桃を差し出す。
アウロルは受け取り、かぷりと齧りついた。
果汁がじゅわっと口いっぱいに広がり、花の蜜を思わせるような甘さが舌に絡みつく。やわらかな果肉は歯を立てた瞬間にほろりとほどけ、喉を潤す清らかな水気がした。
アウロルはふとリオネルの様子が気になり、声をかけた。
「魂が混ざり合ってから、体の調子はどうだ? 見た目は少し変わってきてるが……感情や思考に乱れはないか?」
「うーん、特にないかなぁ。魂同士が喧嘩してる感じもないし」
「それでも……取り出さなきゃまずい気がする。嫌な予感がしてならないんだ」
アウロルの胸には不安が渦巻いていた。このままではリオネルが人工魂に飲み込まれてしまうかもしれない。今は意思を持たないように見えても、後になって突如人格を宿し、リオネルを支配する可能性だってある。
「おい!見つけたぞ!」
ユーディアスの声に振り返ると、花畑の奥で彼が手を振っていた。アウロルは急いで駆け寄る。そこには黄色い小さな花が揺れており、図鑑で見たタルジヤの花にそっくりだった。
「これなのか?効き目があるんだろうな?」
ユーディアスは期待に満ちた眼差しを向ける。だが、アウロルには植物の知識はほとんどない。まして白銀律に咲く花など、見分けがつくはずもなかった。
「……食べてみればいいんじゃないか?」
「はぁ!?毒だったらどうすんだよ!」
ユーディアスが声を荒げる横で、ヴァルデミアスはためらいなく花を摘み、そのまま口に放り込んだ。
「おい待てヴァル——」
次の瞬間、彼の体は白い光に包まれる。眩い輝きが消えたとき、そこに立っていたのは人間の姿を取り戻したヴァルデミアスだった。
「も、戻った……のか!?」
驚きの声をあげながら、ヴァルデミアスは自分の両手や衣を確かめていた。
その様子を見て、ユーディアスも花を口にした。
次の瞬間、その姿が闇に包まれる。
黒い霧の中から現れたのは――人間の姿の彼だった。
「おおっ!元に戻った!」
歓喜の声をあげかけたユーディアスだったが、すぐに顔をしかめ、喉の奥からえずくような声をもらす。
「……げほっ!なんだこれ、すっげえ苦ぇ!」
「これくらい……耐えられるだろう」
ヴァルデミアスは扇子で口もとを隠し、平静を装ってつぶやいた。
しかしその声音には、彼も苦さに耐えている気配がにじんでいる。
「はっ、バレバレだぞ。扇子で隠したって顔、歪んでんじゃねえか!」
ユーディアスは笑いながらヴァルデミアスに飛びかかり、扇子を奪おうとする。
だがヴァルデミアスは、優雅な舞のような動きでひらりと身をかわした。
「桃でも食べてみれば?」
リオネルはユーディアスとヴァルデミアスに桃を差し出した。
二人は揃って桃にかじりつく。
「うまいな!苦味も薄れたわ」
「美味しいな……カシンはやはり仕事が丁寧だ」
ユーディアスは豪快にむしゃむしゃと桃を食べ進め、
ヴァルデミアスは一口ごとに味わうように静かに噛みしめていた。
やがて桃を食べ終えると、一行は花畑を楽しんだのち、絨毯に乗ってカシンの屋敷へ戻った。
ユーディアスとヴァルデミアスは「四人で乗れば狭かろう」と言って龍の姿に戻り、空を舞って屋敷へ先導する。
中庭に降り立ったとき、二頭の龍も着地して人の姿をとった。
長い廊下の奥からカシンがこちらを見ていた。
長い髭を撫でながら、どこか嬉しそうに微笑んでいる。
「皆様、お帰りなさいませ……おお、姿が戻られたのですな」
「なんとか、な」
ユーディアスが頭をかきながら答える。
「そろそろ夕餉の時刻ですぞ。温泉に浸かってはいかがかな?」
「そうだね、汗もかいたし。入ろっかな」
リオネルは屋敷の奥へと足を向け、露天風呂へ向かう。
アウロルも彼の後に続いた。
ユーディアスがヴァルデミアスを振り返る。
「お前はどうする? 帰るのか」
「いや、ここの湯は体に効くからな……」
ヴァルデミアスは肩をとんとんと叩き、二人の後を追った。
「老いたのか、ヴァル」
「やかましいわ」
短いやり取りに笑みがこぼれる。
戻らないと思っていた日常が、再び目の前に広がっている――ユーディアスは胸の奥に喜びを感じていた。
にやけそうになる顔を必死に抑えつつ、彼もまた露天風呂へと向かっていった。




