第八話 静かなる脱獄劇
カツ、カツ、カツ――。
石の上を誰かが歩く音で、私は目を覚ました。
(……あれ、いつの間に寝てたんだっけ)
天井をぼんやり見つめていたはずが、いつの間にか眠っていたらしい。
辺りは薄暗く、牢の外はもう夜のようだ。
カツ、カツ――。
音は近づいてくる。
ゆっくりと、でも確かに、こちらへ。
(誰か来る……?)
私は布団から起き上がり、鉄格子の隙間から廊下を覗いた。
現れたのは、一人の人影。
衛兵とは違う。もっと背が高く、マントのような布をまとっている。
顔はよく見えない。フードを深く被っているせいだ。
(なにこの雰囲気……絶対まともな人じゃない気がする……)
私は無意識に身を引いた。だが、相手はぴたりと私の牢の前で立ち止まると、低く呟いた。
「今なら、逃げられます」
「……え?」
言い終えるや否や、男は鍵穴に手をかかげる。
一瞬淡く光ったかと思うとカチャリ、と信じられないほど軽い音がして、牢屋の扉が開いた。
「……あなた何者? どうして助けて――」
質問を浴びせかけたものの、男はくるりと背を向けた。
「……急いでください」
それだけ言って、闇の中へと姿を消した。
私は呆然と立ち尽くしたまま、開いた扉を見つめる。
(えっ……本当に逃げてもいいの?)
戸惑いと警戒、でもその奥にわき上がるのは、間違いなく希望だった。
「よし。逃げよう」
脱出のチャンスをくれた謎の人物に感謝しつつ、私は扉をそっと牢屋の外へ出た。なるべく、音を立てずに。
廊下の空気はひんやりとしていて、夜の気配が肌を刺す。
(……私、今すごく映画の主人公っぽい。見つかったら一巻の終わりだよね。やばい、なんかドキドキしてきた)
足音を殺して、廊下へ一歩踏み出す。
何の気配もしない。向かいの罪人たちもぐっすり寝ているようだ。
(ここから出たら、きっといろいろ大変だけど……)
でも、私は進む。元の世界に帰らないといけないし――
「それに、ペルも心配だな、大丈夫かな……」
心の中でつぶやいて、私は暗い廊下をそっと駆け出した。
* * *
――静まり返った廊下で、足音を立てないよう、私はそろりそろりと歩を進める。
(地図とか欲しいんだけどなあ……)
だが、そんなものがあるはずもない。
頼りになるのは来た時の記憶。それと己の勘と、社会人生活で鍛えた方向感覚だけだ。
(来たときは……うーん、左に曲がって階段を上がった気がするけど)
曲がり角へ差しかかる。
勘を頼りに道を進もうとした――そのときだった。
カツン
小さな物音が、すぐ近くから聞こえた。
(誰か、いる!?)
慌てて死角に身を隠す。胸の鼓動がうるさいほどに高鳴った。
――やがて現れたのは、巡回中と思しき衛兵だった。
眠そうな目をこすりながら、発光しているステッキを片手にとぼとぼ歩いている。
(……夜勤の衛兵か。ずいぶん眠そうだけど、そんなのでちゃんとした仕事は務まらないよ)
こちらに気づいている様子は全くない。
けれど、あと数歩進めば、私は完全に視界に入ってしまう。
(どうしようか……)
私はそっとポケットを探る。何か武器になるようなもの――といっても、胸ポケットに入っているのは名刺入れと、眠気覚ましのタブレット菓子ぐらいだ。
(……いっそ、タブレットを投げて音をそらす?)
人生初の囮菓子を試すかどうか、悩んでいると――
「ん〜〜……トイレ〜っと……」
衛兵が向きを変え、反対側の通路へ歩き去っていった。
(……ラッキー!!)
私は安堵の息を吐いた。
まだ天に見放されていないようだ。
今のうちに、出口を探し出さなければ。
(逃げきって、ぜったいに証明してやる……。
私は怪しい術士なんかじゃない。ただの、普通のOLだってことを!)
決意を胸に、私は再び静かに歩き出した。