第三話 帰りたい、だけど
異世界。
どうして私は、こんな世界に迷い込んでしまったのだろう。
異世界転生って、普通はトラックに轢かれて死んだあとにするものでしょう。
私は轢かれていないし、死んだ記憶もない。
確かにちょっと過労気味だったけれど、死ぬほどではなかった……ような気がする。
(どうやったら元の世界に帰れるんだろう)
そんなことを考えていた時だった。
甘い香りがふわりと漂ったかと思うと、ペルがすぐ近くまでやってきていた。
「コトコお姉さん……顔色が悪いよ。いっぱい寝てたのに、目の下のクマが取れてない……」
心配そうな瞳で、私の顔をじっと覗き込むペル。
鏡を見なくてもわかるくらい、目の下のクマはくっきり。でもこれは、社畜として立派に積み上げた勲章である。
「心配だよ……どうしよう。お姉さんに何かあったら、私……私……」
今にも泣き出しそうな声だった。
宝石みたいに澄んだ緑の瞳が、涙でにじんでいる。
――いくらなんでも、顔面偏差値が高すぎないか。
隣に並びたくないとさえ思えた。
とはいえ、こうして心配してくれるのはありがたい。
ペルはまだ幼い子供で、見た目通りに精神もそこまで強くなさそうだ。
彼女には恩がある。
もし森の中で誰にも見つけられなければ、私はヒグマ……もとい、異世界版の猛獣に食べられていたかもしれないのだから。
「大丈夫だよ、ペル。心配してくれてありがとう。
ペルが見つけてくれたから、こんなにも元気になれたんだよ」
私は笑ってそう言うと、できるだけ元気そうに振る舞った。
お腹は減っているし、スマホも見つからないし、心細さMAXだけど、そんなことは言えない。
「で、でも……」
「ほんとに大丈夫。私は大人だからね、自分の体調くらい自分でわかるんだよ」
そう言って、ペルの頭をそっと撫でた。
ふわふわの髪の感触に、なんだか不思議な気持ちになる。
私は独身だし、子どもを持つ予定も今のところないけど、もしかしたら――こんなふうなのかもしれない、なんて。
ペルが少し落ち着いてきたところで、ずっと気になっていたことを尋ねることにした。
「ペル、ご両親はいるの? お礼がしたくて」
まさか、こんな幼い子が一人でこの家に住んでるなんてことは、ないだろう。
きっと、誰か大人の助けがあるはずだ。
ペルには悪いが、私はそういう“ちゃんと話が通じる存在”を、ずっと求めていた。
だが、返ってきたのは思いもしない答えだった。
「い、いないよ。ここは、私だけが住んでるの……」
「えっ、そうなの? 危なくない?」
思わず本音が漏れた。
こんな小さな子が、一人で暮らしているなんて信じられない。
ペルは少し目を逸らしながら、ぽつりと呟いた。
「……一人のほうが、好きだったから」
その横顔は寂しそうで、でも、どこか突き放すような決意がにじんでいた。
私の胸に、ちくりと小さな棘が刺さる。
(……本当に一人で大丈夫なの?)
大人と話をしたい。状況を整理したい。元の世界に戻る方法を探りたい。
それでも――
この子を一人置いて出ていくのは、なんだか危険な気がする。
それは、ペルが何かを隠していそうだからという意味じゃない。
ただ、あんなふうに泣きそうな目で私を見る子供を、一人にしてはいけない気がしてならなかった。
私はまだ、この世界のことを何も知らない。
でも、とりあえず。
「ごめん……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
どのみち、帰る場所なんてない。
そう伝えると、ペルはパッと笑って、まるで花が咲くように頬を紅く染めた。