第二十二話 二人だけの秘密
コトコ様が、クズのような男を殴り倒した。
本来ならば、外交問題に発展してもおかしくない行為だ。だが――正直、どこか胸のすく思いがあった。
つい、らしくもなく「お見事です」と言ってしまったくらいだ。
コトコ様は不思議な人だ。
ユアロスに舞い降りた異世界人。
そして、いまだに私たちを完全に信用していない――そんな目をする。
疑いと警戒がにじむ視線。
それを向けられるたび、私はなぜか、言葉にできない奇妙な感情に突き動かされる。
どうやら私は、コトコ様には、ずいぶんと甘くなってしまっているようだ。
興奮冷めやらぬまま、肩で息をするコトコ様を見ていると、さきほど、自分が思わず魔術をかけたことを思い出した。
――身体への補助魔術。
男が鞭を振るったとき、助けに入るか迷った。
でも、コトコ様は助けを求めていなかった。
あの目は、自分の力でやり返すと決めている、そんな目だった。
だから私は、その選択を尊重した。
ただ、魔術によって少しだけ背中を押しただけだ。
コトコ様は正しい心を持つ異世界人――そう確信できて、胸の奥がじんわりと熱くなった。
思わず、安堵の吐息が漏れた。
そして私は、周囲を見渡す。
――そこには、異様な光景が広がっていた。
先ほどまで、コトコ様に眉をひそめ、嘲笑を浮かべていた貴族たちの顔が、まるで別人のように変わっている。
唐突に拍手が起こった。
歓声が、どこからともなく湧き上がる。
「素晴らしい!」
「奴隷も人間だ! 物なんかじゃない!」
「今までの私たちはなんて愚かだったんだ」
「なんて気高く美しい方なの……!」
人々のざわめきが、やがて熱狂へと姿を変えていく。
拍手は波紋のように広がり、その場全体を狂気にも似た熱気が包み込んでいく。
つい先ほどまで、暴力を喜んでいた群衆が、今やコトコ様を讃えてやまない。
獣人たちは、ぽかんとした顔で周囲を見渡している。何が起こっているのか理解できていないのだろう。
それでも――誰も、彼らを侮辱しない。
そして、コトコ様が獣人たちに歩み寄る。
涙を流しながらコトコ様にすがる彼ら。それに微笑むコトコ様。
その姿は、まるで――
女神。
いや、それ以上だった。
神々しいという言葉では足りない。
そのとき、先ほど殴られた男が、ふらりと立ち上がった。
コトコ様は険しい表情で歩み寄り、彼の襟首を掴み上げる。威圧的な眼差しに、私は内心で拍手を送る。
だが、男は唐突にこう言った。
「初めてだ……俺を本気で怒ってくれた人は……」
その言葉に、コトコ様はぎょっとした表情を浮かべた。
私はというと、笑みをこらえることができなかった。
これは――
コトコ様の力だ。
コトコ様の力が目覚めたに違いない。
周囲の人々全員が、コトコ様を讃えている。
貴族も、平民も、獣人も。その中心で、コトコ様はただいつも通りに立っているだけだ。
これは、どういう力だ?
私にはまだ、詳細がわからない。
だが少なくとも、コトコ様のような人格者が持ったことは、僥倖と言っていい。
そしてもう一つ。
この力は、あまりにも、恐ろしい。
おそらくコトコ様自身も、まだ気づいていないだろう。
自分の何が、周囲を変えてしまったのか。
何にせよ、悪用されては危険だ。
――力の確証が取れるまでは、誰にも言わないでおこう。
このことは、私とコトコ様だけの秘密にしなくては。




