第二十一話 勃発
私はただ、顔を顰めたまま、歪んだ楽園の風景を黙って見つめていた。
――その沈黙を、突然の音が破った。
バチンッ、と乾いた音が空気を裂く。
思わず顔を上げると、視線の先で、虎の獣人が地面に倒れていた。
主人らしき若い男が、笑いながら鞭を振りかざしている。
「笑えっつってんだろ! なんだその死にそうなツラ!笑えよ、場の空気読めねえのか!」
虎の獣人は怯えきった表情で、地面に額を擦りつけていた。
「申し訳ありません、申し訳ありません」と、何度も何度も繰り返しながら。
その姿を、周囲の人間たちは面白がるように見下ろしている。
嘲笑、侮蔑、好奇心。それらが混じり合って、場の空気はひどく冷たい。
(やめてくれ……)
胸の奥が、怒りでぐつぐつと煮え立つ。
こんな状況、現代で生きてきた私に、我慢できるはずがない。
わなわなと手を震わせながら、一歩、前へ出ようとした――
だがそのとき、ノクスが腕を伸ばして私を静止した。
「彼は外国の貴族です。下手に関わると、外交問題に発展しかねません。……ここはどうか、耐えてください」
静かに、けれど明確な意思をもって、私の行動を制する声だった。
「………………そうね」
なんとか、理性が勝った。
でも――鞭は止まらない。
「動物のくせに生意気だ」「家畜以下」「気持ち悪い」「物の分際で」
嘲るような声が、あちこちから聞こえてくる。
笑っている人間もいれば、無関心に通り過ぎる人もいる。
――誰も、止めようとはしない。
「そういえば、こいつの子ども、昨日の宴会で煮て食ったんだよ。不味かったから、ほとんど残してやった」
男はニチャリと気色悪く笑いながら、馬の獣人に蹴りを入れる。
あまりにも当然のように放たれたその言葉に、頭の中が真っ白になった。
「なんだぁ? お前。ずいぶん反抗的な目をしてるな。――潰しとくか。どうせ、奴隷の目なんかいらねぇし」
獣人に唾を吐きかけると、男がおもむろにナイフを取り出す。
それを合図に、周囲がどっと湧いた。
「ヒュー! 奴隷の調教ショーが始まるぞ〜!」
「潰せ潰せー!」「歯を抜こう歯を」「躾ってのはね、骨が折れる音が一番効くのよ」「商品価値が下がるじゃないの」「痛がる声が可愛いんだよな」
──やはり、止める者はいなかった。
まるで祭りのように、興奮と快楽に満ちた声が響く。
この世界の異常さが、これ以上ないほど、目の前に突きつけられる。
大きな笑い声。拍手。嘲りを浮かべる人間たちの中で、私は震えながら拳を握りしめた。
もう、我慢なんてできなかった。
「……やめなさいよ」
男がナイフを高く振りかぶるのが見えた。
それと同時に、私の中で、何かがぷつりと切れた。
「やめろっつってんだろ、クソ野郎!」
怒鳴り声が空気を裂いた。
一瞬、あたりが静まり返る。
そして、周囲の視線が一斉に私に集まった。
男が、私を見て嘲笑を浮かべる。
「なんだ? 誰に向かって口を聞いてるんだ女ァ? 俺が誰だか分かってんのか?」
男の口はまだ動いていた。何かごちゃごちゃと叫んでいるらしい。
でも、その音はもう、私の耳には届かなかった。
「お前は、最低だ」
私は静かに言った。
「その人たちは、物なんかじゃない」
その言葉に、場がどっと沸いた。
「奴隷は物よね?」「冗談も大概にしてよ」「汚らわしい女ね」
貴族たちの嘲笑が、矢のように私の胸を射抜いた。
男が、獣人の頭に足を乗せ、ぐりぐりと踏みつけた。
「お前、バカだなあ。そんなこと言って、コイツらの立場が余計に悪くなるってわからないのかよ?」
うずくまる獣人の顔には、あきらめと無力感が貼りついていた。
(ダメだこの人。……腐ってる)
ノクスがどんな顔をしているのか、振り返る勇気はなかった。
私の行動が、どんな問題を引き起こすのか――それも、わかってるつもりだ。
だけど。
これを黙って見過ごせるほど、私は落ちぶれてはいない。
(…………私が、正さなきゃ)
黙って睨み続ける私に、男は不快そうに顔を歪めて言った。
「なんだその目はァ。お前も奴隷になりたいのか?
嫌なら頭を下げろ。地面に額を擦りつけて、許してくださいって哀れに懇願しろ」
私は視線を逸らさず、ゆっくりと前へ出た。
一歩も、退かない。
「そんなこと、私がするわけないだろ。謝罪するのはお前だ!」
まっすぐ、相手を見据えた。
私の発言に男の顔が強張る。そして震えながら叫ぶ。
「俺はなァ……生意気な女が、この世で一番ムカつくんだよ! 決めた。お前は今日から俺の奴隷だ!
こいつら以下のクソみてぇな生活をさせてやる。
――殺してくださいって泣くまでなァ!!」
男はナイフを振りかざし、そのまま――獣人に向かって、投げつけた。
「やめろ!」
鋭い音とともに、刃が獣人の腕を裂いた。
痛いはずなのに、声すら上げなかった。
その姿に、余計怒りが膨れ上がった。
そして男は、怒りに任せて鞭を大きく振りかぶった。
今度は、私を痛めつけるつもりだ。
(こんな奴に、絶対、負けてたまるか)
風を裂く音が目前に迫る。
肉が裂ける感触を想像したが、私は身をすくめることもなく、それを真正面から見つめた。
そして――反射的に、腕が動いた。
気づけば、私はその鞭を、まるで吸い寄せられるように、掴んでいた。
「……は?」
男が驚いた隙を突いて、一気に距離を詰める。
頭は空っぽだった。体もやけに軽かった。
拳を固めて、大きく振りかぶって――
「……っっっらあぁ!」
思いっきり殴った。
男は唾を飛ばして吹っ飛び、地面に転がった。
辺りは、しんと静まり返る。
先に手を出したのは、あっちだ。
これは歴とした正当防衛、と心の中でつぶやいた。
元の世界じゃ、毎日の仕事に追われて、正義感なんて置き去りになっていた。
でも、今の私は違う。
――言いたいことは、ちゃんと言う。やられたら、やりかえしてやるのだ。
「コトコ様……」
背後から、ノクスの静かな声が届く。
恐る恐る振り返ると、彼はいつものように微笑んでいた。
「お見事です」




