第二話 異世界?はやく会社に戻らねば
——甘い香りがした。
バニラと花蜜を混ぜたような、どこか夢の中にいるような匂い。
(香水……?)
いや、違う。
私はもちろん、部下も、今は香水なんてつけない。
入社したての頃はバッチリメイクに香水も当たり前だったけれど、今はそんな余裕などないようだ。
私もそうだったので、部下の落差を見て笑った記憶がある。
部下じゃないとすると、は部長か課長が出勤したのだろうか。優しい人たちだから、私たちのことを心配してオフィスに来てくれたのかもしれない。
でも――あの二人は、忙殺されかけのおじさんだ。こんな甘い香水をつけるタイプじゃない。
――だとすれば、何だ?
意を決して目を開けると、知らない天井が視界に広がった。天蓋付きのベッド。シルクのような手触りのシーツ。レースのカーテンがひらりと揺れている。
完全に、オフィスじゃない。
私は慌てて上体を起こし、周囲を見回した。
「私が寝てる間に、部下が運んでくれた……のかな?」
ありえなくはない。だとしたらずいぶん有難いことだ。
だが、身体が妙に軽い。視界も、思考もやけにクリアだ。
「やばい。相当熟睡してたみたいだ」
ポケットを探るも、スマホがない。
私の荷物すら見当たらず、周囲は見慣れない家具だらけ。とりあえず立ち上がって、軽く伸びをする。
「今日は朝イチで資料提出しないとダメだったんだけどなあ……」
虚しく呟きつつ、部屋を出ようとドアに手を伸ばした瞬間——
ゴン、と額に鈍い衝撃が走った。
「っ……痛っ」
ドアの向こうからも、同時に開けようとしたのだろう。思わず後ずさると、敷かれたカーペットがふわりと柔らかかった。
「あっ、だっ大丈夫ですか!?」
――部下の声じゃない。
そうわかった途端、一気に身体中の血の気が引いた。
私は一体、誰の家で寝ていたんだ?
「あのっ、大丈夫……?」
鈴の音のような少女の声。
見上げた先にいたのは、赤毛の美しい少女だった。
くるんとした癖毛に、何よりも、人形のように大きな、緑色の瞳
今まで見たこともない、吸い込まれそうなほど、美しい緑だった。
「……え」
何も言えなかった。
理解が追いつかない。
この子は誰? ここはどこ? 一体何が起きてるの?
「大丈夫……ですか? お姉さん、森で倒れていたんです。それで、心配で……私の部屋まで連れてきたの」
「も、森で……?」
頭の中に大量のハテナが浮かぶ。
私の会社は都心のど真ん中。オフィスの周囲に、森なんて存在しない。いや、木々が生い茂っている場所なら一箇所あるが、あそこは一般人が入って良い場所ではない。
よって、この少女の言っていることは明らかにおかしいのである。
「お姉さん、顔色悪いですよ。まだ休んだ方が……」
「……ここはどこ? あなた、誰?」
私は少女の肩を掴み、ぐっと目を見た。
急に掴まれて、たぶん、ちょっと怖かったと思う。でもそんなこと気にしていられない。
少女は驚いたように目を見開いたが、すぐに答えた。
「こっ、ここは、ユアロス王国。私の名前は、ペル……っていいます」
恥ずかしげな様子の少女――ペルだが、そんなことより。
「ユ、ユアロス王国――!?」
どこだよ!! 頭の中で最大音量のツッコミが響いたけれど、少女は嘘を言っているようには見えなかった。
(ユアロス王国!? 聞いたことがない。というか、“ユ”から始まる国なんてないでしょう)
そんな国、全く知らなかった。
「えーっと、ここは日本じゃなくてユアロス王国で、君はペル……」
「う、うんっ! そうだよ! お姉さんのことも、知りたいな……?」
名前を呼ぶと嬉しそうに、顔をパッと明るくするペル。
このわかりやすい反応を見て、部下を思い出した。
――部下は今、何をしているのだろうか。
作りかけの資料、終わらない業務。私がこんなよくわからない国にいるんだ。途方に暮れ、泣いているかもしれない。
思えばあの子も、思っていることがよく顔に出る、わかりやすい子だった。
――絶対に帰らなければ。
私がいないと、部署がまわらない。圧倒的リソース不足。誰か一人でも欠けると、即ジエンドなんだから。
そのためにもまずは、状況をしっかりと確かめないと。
「私は、青山琴子。ペル、日本って国、知ってるかな?」
「……アオヤマコトコ。長いお名前……アオヤマコトコ、アオヤマコトコ……」
少女は小さく呟くように、何度も私の名前を繰り返す。その姿に、ほんの少しだけ、不気味さを感じた。
「琴子が名前。青山が苗字――それでペル、日本って国、聞いたことあるかな?」
「コトコがお名前……コトコアオヤマ……お姉さんのお名前はコトコ……コトコ……」
こんなにも名前を連呼されたことは、今までなかった。
だが、今はそれより――
「ペル? 日本って知ってるかな?」
私はふたたび念を押すように肩を掴むと、ペルは小さく震えて答えた。
「し、知らない……」
「知ら、ない……? 日本を?」
「うん、この世界にはそんなお名前の国はない……。
お姉さんは、そこから来たの……?」
――思考が止まった。
どうやら私は、異世界とやらに来てしまったらしい。