第十七話 異世界観光へ
「……コトコ様は、何に心を動かされますか?」
唐突な問いに、私はまばたきを返すしかなかった。
「……え?」
ノクスはテーブル越しに、相変わらず穏やかな表情を浮かべていた。けれどその声音には、私の内側を探るような静かな圧が滲んでいて――ふいに言葉が詰まる。
「うーん……」
私は唸りながら、背もたれに身を預ける。
だけど、何も浮かんでこなかった。
泣いたり笑ったりはしてきたはずなのに、心が揺れた瞬間と問われると――自分の人生が、驚くほど平坦だったように思えた。
「元の世界では、何をされていたんですか?」
ノクスが、静かに問いかけてきた。
「会社員だよ。それなりに大きな会社。給料は良かったけど、休みはほぼなかったね」
口にしてみて、改めて思う。
私の毎日は、労働で埋め尽くされていた。
「そうですか。それは……お疲れ様でした」
ノクスの声は、静かに、でも確かに心を労わってくれていた。その真っ直ぐな優しさに、なんだか少し気まずくなる。
「では、この国では、目一杯休んでくださいね」
「……それはありがたいけど、私は元の世界に帰るからね」
「ええ。もちろん。……せめて、それまでは」
言葉を選ぶように一拍置いて、ノクスが続けた。
「そうだ。休むといえば……観光など、いかがですか?」
「観光? 何かこの国ならではの、面白い場所とかあるの?」
思わず聞き返すと、ノクスはゆっくり頷いた。
「はい。例えば、今の季節なら《浮遊庭園フローレラス》などが最適です。空に浮かぶ庭園群で、魔術によって浮遊する島々に、無数の花が咲き誇ります」
「なにそれ……ちょっと気になるかも」
思わず身を乗り出した私を見て、ノクスは口元をわずかに緩めた。
「花の蜜を吸いに来た魔蝶や、小さな羽獣など、珍しい生き物も多く見られるでしょう」
「え、見たいな……」
――青山琴子は生き物全般が好きだった。
だからだろうか。胸の奥から、久しぶりに“ワクワク”が顔を出すのを感じた。
まるで長く閉じていた窓が、ふと開いたような感覚。心が、ほんの少しだけ軽くなる。
ああ、そういえば――
心が弾むって、こんな感じだった。
「ちなみに、近くには貴族向けの高級宿もあります。景観もよく、料理も絶品ですので、ご希望があれば宿泊も手配いたしますよ」
「くっ……。……行く!」
即答した私を見て、ノクスはわずかに目元を細めた。その微笑みには、どこか読み取れない意図がにじんでいる。
「……感情の揺らぎは、力を引き出す鍵かもしれませんからね」
その瞳の奥で、何かを測るような光がちらりと揺れた。
「そんな目で、見るなっ」
軽く睨むと、ノクスは肩をすくめるように、冗談めかして視線をそらした。
「では、明日お迎えにまいりますので」
ノクスが、いつものように丁寧に告げる。
「えっ、明日? 急じゃない?」
「浮遊庭園は、午前の光が差し込む時間帯が最も美しいのです。せっかくですので、一番いい状態でご覧いただきたく」
「……それは、たしかに見てみたいかも」
ちょっと戸惑ったけど、なんだかんだで観光という響きに心が揺れる。
「なにか準備したほうがいい? 服とか、持ち物とか……」
「こちらで手配いたしますので、お気になさらず」
ぬかりない対応。なんだか、役員になった気分だ。
――観光なんて、いつぶりだろう。
元の世界では、そんな余裕なんてほとんどなかった。
仕事に追われて、休むためにもスケジュールを調整して、ようやく取れた休みでも、翌日のメールの山が頭をよぎる。
心から休むなんて、できたことがあっただろうか。
だからこそ、今こうして何も考えずに観光に行けることが――ちょっとだけ嬉しい。
「……とはいえ、ダメだダメだ」
自分に言い聞かせるように、頭を軽く振る。
私は、帰るんだ。元の世界に。
この世界に馴染んじゃいけない。
……でもまあ、帰り方がわかるまでは。
(部長、課長、あと、部下たちも。勝手に長期休暇入ってごめん……!)
心の中で深々と謝罪する。
* * *
その後は、ノクスに案内されて、城下の街をあちこち歩き回った。
広場では大道芸人が陽気に踊り、焼きたてのパンや香辛料のいい匂いが漂ってくる。
道ばたの露店には、見慣れない果物や小さな魔道具、光る鉱石なんかが並んでいて――歩くだけでも飽きなかった。
そんな中、ノクスは相変わらず、丁寧に私をエスコートしてくれる。
通りすがりの女性たちは、彼を見るたび頬を染め、視線を送っていく。
(……やっぱ顔はいいよね、この人)
王宮付きの術士というだけでも、十分スペックが高そうなのに、所作もスマート。服装のセンスも良く、雰囲気まで気品がある。
(でもな〜……たぶん私より年下っぽいんだよな〜)
私は、年下を恋愛対象として見られない派だ。
なんというか、どうしても構えてしまう。
年下にリードされるのって、ちょっと想像できないんだよね。
というわけで、ノクスは心の中で無し判定。
勝手に査定してごめん、とか思いながら。
街をひと通り見てまわったあと、ノクスはおすすめの食堂へ案内してくれた。
野菜たっぷりのスープに、香ばしい肉料理。
それに、キラキラした果実のデザートまで。
完璧な“当たり”だった。お世辞抜きで、ちゃんと美味しい。
――満足した私たちは、夕方ごろ部屋へと戻った。
「では、明日。朝に迎えにあがりますので」
「うん、ありがと。おやすみ〜」
部屋の前で軽く手を振って別れ、私は中へ入る。
中では、すでに侍女たちが待機していて、着替えや入浴の準備、髪の手入れなど――至れり尽くせりのお世話が始まった。
(……成人になってから、こんなにお世話されるなんて)
くすぐったいような、不思議な気分だった。
しかも、この侍女たちがまた、そろいもそろって美女ばかり。
(これ、王様の趣味だったら笑うな……)
くだらない妄想を浮かべつつ、ふと考える。
(……異世界人が私で良かったな)
もしも、この国に来たのが邪な人間だったら、この美しい侍女たちは、どうなっていただろう。
恭しくもてなされるこの待遇だって、悪用されていたかもしれない。
ノクスだって、変な命令を押しつけられていたかも。
そう思うと、少しぞっとする。
まあ、考えすぎかもしれないけど。
私はベッドに入った。
明日は、朝から観光。
まるで修学旅行の前夜みたいな、ちょっとしたワクワク感。
楽しみにして、眠りについた。
* * *
夢の中。
また、追われている。
以前と同じ、恐ろしい何かが暗闇の中から這い寄ってくる。
――助けて。助けて。
何もない空間で、助けを求めて走る。
足音。心音。呼吸音。全部が重なって、やがてノイズに変わっていく。
そして――また、あの声。
「……ス……セ……ミ……デ……」
何を言っているのかは分からない。
けれど確かに、それは私に向けて語りかけていた。
「……っ!」
私は跳ね起きた。
心臓が、どくどくと脈打っている。
夢――なのに、やけにリアルな恐怖だった。
「……あの声……私に、何かを伝えようとしてる?」
ぽつりと漏らした言葉は、静かな部屋に吸い込まれていく。
けれど、確かに“何か”が始まっている――そんな気がした。




