第十三話 幸せの青い鳥
あれから少しして、場の空気もだいぶ落ち着いた。
そんな流れで、自然と「そろそろ休みましょうか」という話になった。
けれど私は、どこか曖昧に頷くしかなかった。
ある懸念が脳裏に湧き上がっていたからだ。
(さすがに……歯を磨きたい。あとお風呂。しばらくお風呂入ってない……)
何日もまともに身体を洗っていない現実に、思わず顔をしかめる。明日は王様とやらに会うかもしれないのだ。
異世界とはいえ、人として最低限の清潔感くらいは保ちたい。
「その、お風呂とかってあったりする?」
遠慮がちに尋ねると、ノクスは目を細め、微かに微笑んだ。
「小さな泉なら近くにありますよ。案内します。
誰も立ち入らないよう、私が見張っておりますので、安心してお使いください」
そう促され、二人で静かな夜道を歩く。
闇の中、木々のざわめきと足音だけが響いていた。
――たどり着いた先には、たしかに泉があった。
月明かりに照らされた水面はなめらかに揺れている。透明度も高く、一見して清潔そうだったが……
「寄生虫とか、変なものいないよね?」
警戒して尋ねると、ノクスは吹き出しそうな表情をこらえて言った。
「いません。私が保証します」
その言葉を信じ、私は泉に入ることにした。
いざとなったら魔術か何かで助けてくれるだろうと信じて。
(ほんとは熱いお湯に浸かりたいんだけどなあ……)
ため息ひとつ。
そして社畜時代に染みついた“烏の行水”で、手早く体を流す。
ひととおり洗い終え、泉のほとりで衣服を整えると、ノクスが少し驚いた顔で迎えた。
「早いですね」
「まあ、はい……。早く戻りましょう」
――二人は無言で小屋に戻った。
小屋に戻ると、先ほどはなかった簡素な寝袋が一つ置かれていた。きっと私のために用意してくれたものだろう。
「貴方の分は?」
「私はコトコ様をお守りする命があるので、見張り役として起きておきます」
(ふうん、この人も案外社畜なのかもしれないな)
誇らしげな表情のノクスに思わず同情が込み上げつつも、私は寝袋に潜り込んだ。
だが――
「……あの、そんなにこっち見ないでもらえますか」
目を閉じかけたところで、じっとした視線に気づいた。
ノクスがまるで観察するように、こちらを見つめている。
私は見世物じゃない。
「申し訳ありません」
私の抗議に、ノクスは困ったように笑って素直に頭を下げた。
待ち望んだ異世界人に興味があるのだろう。
まあ、この世界での私は“幸せの青い鳥”のような存在だろうし、仕方ないのかもしれない。
でも、じっと見られるのはやっぱり苦手だ。
恥ずかしいに決まってる。
小さくため息を吐いて、私は寝袋に潜り込む。顔が隠れるくらいまで深く。
ゆっくりと目を閉じると、静かな小屋の気配が意識を包み込んでいった。
いつのまにか、私は眠っていた。
――そして、夢を見た。
夢の中で、私は何かに追われていた。
何が起きているのかは分からない。ただ、絶対に捕まってはいけないという直感だけが鮮烈にあった。
なのに体が動かない。足が鉛のように重く、地面に縫い付けられているかのようだった。
それでも必死に走る。ようやく遠くに、小さな光が見えた。
「出口だ!」
手を伸ばした、その瞬間――
光の中から、ドス黒い手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。そして、
『……スミ……セ……ミ……ス』
しわがれた、けれどどこか機械的で、感情のこもっていない声だった。
「うわっ!」
小さく叫んで跳ね起きる。
背中にはびっしょり汗がにじんでいた。息も荒い。
(……夢?)
小屋の中は真っ暗だった。ノクスの姿はない。気配すらない――見張りにでも出ているのだろうか。
(さっきの夢……もしかして、何かの啓示?)
青山琴子という女は、占いやスピリチュアルな話に、つい心を持っていかれがちなタイプであった。
逃げる夢――夢占い的には、あまりいい意味じゃない。
実際、捕まりかけたあの感覚は、今思い出してもゾッとする。
(……やっぱり、ここから逃げた方がいいってことなのかもしれない)
目を伏せたまま、ノクスの笑顔を思い出す。
牢屋の鍵を開けてくれた――それはたしかにそうなんだけど、そもそも牢屋に入れられるきっかけを作ったのはあの男だ。
(普通に考えると怪しすぎる……どうして私はこんな不審者に着いてきたんだ! 異世界人が幸せをもたらすとかいう話は全部嘘で、もっと別の目的があるかもしれないのに)
不安が、妄想じみた疑念に姿を変えていく。
(そうだ。この世界、奴隷制度があるんだっけ。
……まさかとは思うけど、私を売るために――)
思考がそこまで行った瞬間、自分でも気づいた。
私、ちょっと取り乱してる。
だが、そう気づいたからといって、完全に安心できるわけではない。
不安の余韻が、体のどこかに残っている。
じっとしていられなくなって、私はそっと寝袋から這い出した。
足を床につけた瞬間、妙な違和感を覚える。
月明かりが差すはずの窓が――ない。光そのものが閉ざされてしまったように、闇が不自然なほど深く感じられた。
テーブルを手探りで避け、壁づたいにドアを探す。けれど、あるはずのドアノブも見当たらない。
あたりをさらに探ると、布のような感触が指先に触れる。何かが引っかかっているようだ。
それが何なのか確かめようと手繰り寄せた瞬間――
「――ッ!」
強い力で、腕を掴まれた。
「ひっ……!」
恐怖と驚きが喉を突き上げたとき、突然ランプに火が灯った。
光の中に浮かび上がったのは、ノクスだった。
「……どこへ行こうとしていたんですか」
静かだが、感情の読めない声音だった。
その目は夜風のように冷たい。
(やばい。逃げようとしたの、バレた……?)
私は精一杯、笑顔を作る。
逃げられたくないのは分かる。ようやくこの国に現れた幸せの青い鳥を、みすみす逃がすわけにはいかないのだろう。
「お、お手洗いに行こうと思って……」
一瞬の沈黙のあと、ノクスの表情が和らいだ。
「そうでしたか。術を張っているので一度解きますね。少々お待ちください。
お手洗いは外にあるのでご案内します」
* * *
小屋に戻り、寝袋に入ってからも、私はしばらく寝付けなかった。
(さっきの目……カタギじゃない)
思い出した瞬間、ぶるっと肩が震える。
掴まれた腕が、まだじんわりと熱を持っている気がした。
今晩は――逃げるのをやめておくことにした。




