3-1.総長ラランドランドララ
太古の昔、世界が混沌と秩序の狭間にあった時代、
宇宙の中心に輝く一つの存在があった。
その名は「知」、全ての真理を宿す神なる光。
星々の秘密を紡ぎ、時の流れを読み解く「知」は、
無限の力を持ち、宇宙の法則を自在に操った。
その眼差しは遥か彼方まで届き、その思考は永遠を包み込んだ。
だが、ある日「知」は、自らの姿に映る影を見た。
その影は世界を飲み込む闇となり、
我を失えば、全てを滅ぼす災いとなりかねなかった。
「知」は深く思索した。
「我が力は、両刃の剣。 使い方を誤れば、世界を滅ぼす業火となろう。
されど、我が光を消せば、世界は二度と明けぬ闇に閉ざされん」
長き沈黙の後、「知」は決断を下した。
自らを二つに分かつと言う決断を。
眩い光の中、「知」は二つの存在となった。
一つは、全ての事実を集める者、サイエンティウス。
もう一つは、真理の意味を紡ぐ者、サピエンティオス。
サイエンティウスは星の数ほどの知識を集め、
永遠の書庫に収めた。
手には、その全てを読み出せる書物があった。
サピエンティスは知識の海から真珠を探し出し、
その意味を紡ぎだした。
手には、知恵の糸を紡ぐ三叉の杖があった。
二柱の神は互いに寄り添い、言葉を交わした。
「我らは一にして二、二にして一。
知識なき知恵は空虚な器、知恵なき知識は暴走する馬車。
共に手を取り、世界の均衡を守らん」
かくして、サイエンティウスとサピエンティオスは
世界に知識と知恵をもたらす双子の神となった。
その教えは、王立アカデミアの礎となり、
学びを求める者たちの道標となったのである。
今もなお、二柱の神の光は世界を照らし続ける。
知識の月と知恵の月が夜空に輝く限り、
世界は調和を保ち続けるだろう。
* * *
「――つまり、知識と知恵のバランスなくして知の発展はないって言い伝えられているの」
アリアが、理一郎に〝知の双神〟の神話を説明した。
その理一郎は、王立アカデミアの教授棟の入口の門に彫られた二柱の神像を見上げている。
「興味深いな。この世界では知をそのようにモデル化しているのか」
「学都に入ったときの西門にはもっと大きいのがあったでしょ」
「像が建っていたのは記憶しているが、知の双神だと認識はしていなかった」
「この門の上に刻まれている天秤の図形が、王立アカデミアの校章だよ。右の皿が知識、左の皿が知恵を表してて、釣り合っている状態を表してるの」
「知識の神が持っている書物をぜひ読んでみたいものだ」
この日の午前、理一郎とアリアは、王立アカデミアの総長であるラランドランドララ大博士に会いに来た。
その大博士について理一郎が尋ねても、アリアは「千年以上生きている、とても賢い人。そしてアカデミアと学都ミレトスの頂点に立つ、とても偉い人」としか教えてくれなかった。「会った時の楽しみが減っちゃうもん」と言うのだ。
教授棟は青みがかった石で造られ、何本もの尖塔が空を突き刺すように林立している。荘厳なゴシック建築だった。広大なキャンパスに立ち並ぶたくさんの建築物の中でも、ひときわ偉容を誇っている。建物正面にも平衡状態の天秤を象った黄金の紋章が輝いていた。その下には古代文字でアカデミアの銘が刻まれていた。
玄関ホールに入ると、大理石の床に足音が響いた。巨大な螺旋階段や回廊が幾重にも重なり、建物の中はまるで迷宮のようだ。
ロビーでは、若い女性が二人を待っていた。黒のタートルネックに黒のレギンスという動きやすい身なりで、編んだ茶色の髪を片側に垂らしている。広い額と薄い唇が理知的な雰囲気を漂わせているが、身体能力も高そうだ。
「総長付秘書のソフィアです」
簡潔に自己紹介すると、ソフィアは無駄のない動作で二人を案内し始めた。
「ソフィアさん、お久しぶりです。今日はよろしくお願いします」
アリアの挨拶にソフィアは小さく頷いた。
三人は螺旋階段を上っていく。理一郎は、ソフィアにラランドランドララについて質問しようとしたが、その凛とした雰囲気に圧倒され、言葉を飲み込んでしまった。
最上階の総長室の前で、ソフィアは立ち止まり、扉をノックする。
「ラランドランドララ総長、物部理一郎様とアリア・アルタイル様がお見えです」
中から「どうぞ」という声が聞こえた。予想以上に若々しい、少女のような声だった。
中にも別の秘書がいるのだろうかと、理一郎は考える。
扉が開くと、そこは驚くほど広い執務室だった。
天井まで達する重厚な木製の書棚が壁一面を覆い、古い羊皮紙の匂いが漂う。暖炉の上には歴代の総長の肖像画が金色の額縁に収められ、アーチ型の大きな窓からは学都の街並みが一望できた。
室内は落ち着いた茶色のトーンで統一され、厚手のカーペットが足音を吸い収む。暖炉の前には深い赤のビロード張りのソファセットが置かれ、その傍らには真鍮の燭台が静かな明かりを灯していた。
部屋の中央には、繊細な装飾が施された大きな木製の執務机。その周りには不思議な形をした魔法の器具が幾つも並び、青く淡い光を放っている。机の上には整然と書類が積まれ、羽ペンと魔法のインクが備えられていた。
その机の向こうに、長い銀髪をツインテールに結った色白の少女が座っていた。
アリアが小声で囁いた。
「彼女が私の指導教官、ラランドランドララ大博士よ」
理一郎は思わず「え!?」と声を上げてしまった。
アリアはいたずらっぽい笑みを浮かべて、理一郎の驚いた顔をのぞき込む。
半信半疑のまま、理一郎はとりあえず頭を下げた。礼儀を知らないわけではないのだ。
「アリア君、彼が理一郎君かい?」
アリアはスカートの袖をつまんで一礼する。幼い頃から知る大博士への親しみと畏敬が、その仕草に混ざっていた。
「そうです、先生」
ラランドランドララ大博士が静かに立ち上がった。
「やあ、理一郎君。私がアリア君の指導教官のラランドランドララ・シルヴァニウスだよ。長い名前で覚えにくいよね。でもね、本当はもっといろいろくっついててとても長いんだよ。これでも簡略化してるんだ」
ダークブラウンを基調とした長いガウンのような総長の制服が、ツインテールの銀髪と美しいコントラストを描いている。その姿は少女そのものだ。しかし、彼女の瑠璃の瞳の奥には、千年の時を超えた叡智が静かに輝いている。
「物部理一郎だ。物部が姓だ」
その言い方に、アリアが慌てる。
「理一郎くん、先生には敬意を払って。学都の伝説的な人物なの」
「いいよ、アリア君。理一郎君には自然に接してほしいからね」
ラランドランドララは机から離れ、ゆっくりとした足取りで理一郎の方へ向かった。軽やかに歩いてくるが、一歩一歩に得も言われぬ重みがある。それは、まるで時の流れそのものを体現しているかのような動作だった。長いツインテールが、彼女の動きに合わせてゆるやかに揺れる。
「どうやら、アリア君にからかわれたようだね。いかにも賢者然とした老人でも想像していたのだろう?」
どこからどう見ても中学生ぐらいの少女にしか見えない。
「あんた、いや、あなたが王立アカデミアの総長なのか」
理一郎もラランドランドララから、ただならぬオーラを感じる。珍しく敬称を使った。
「そうだね。いろいろ便利だから、ずいぶん前から引き受けてるんだよ」
「この街の行政トップでもあると?」
「うん。ミレトス総督という面倒な役目も押し付けられてる」
「千年生きているというのは、本当なのか?」
「もうよく覚えていないんだよね。面倒だから切りのいい数字にしているんだ」
「先生はエルダーエルフなの。神話時代から続く種属で、寿命がないとも言われてるの」
「そんな長い人生を生きるのであれば、時間の感覚もヒューマンとも違いそうだな」
「若い頃はね、時間の使い方が短命種族とは合わずにすれ違うこともあったけど、さすがにこれだけ長く生きているとね、相手の時間感覚に合わせることもできるようになるよ」
「記憶はどう整理してるんだ。すべて覚えているのか?」
「まさかね。そんなことは不可能だよ。君たちだって、すべては覚えてないだろう。肝心なのは何を忘れるか。若く見える秘訣はね、歳を取るのも忘れちゃうことなんだ」
本当かという顔で自分を見つめる理一郎に、ラランドランドララはすました顔で言う。
「エルフジョークだよ。昔は受けたんだけどな。それにしても――」
ラランドランドララは理一郎の前まで来ると、じっと目をのぞき込む。
芸術品のように整った小さな顔を目の前にして、理一郎は息を止めて固まってしまう。緊張するなど、ここ何年もなかったことだ。
「ふーん……」
ラランドランドララは、首をかしげる。
「何だろうね、これは……」
「何だ?」と理一郎。
「まあ、いいよ。とりあえず座って」
何事もなかったように、ラランドランドララがソファを勧めた。
みんなが座ると、ソフィアが音もなく紅茶をテーブルに用意し、同じように静かに控え室に戻って行った。
大博士がカップを持ち上げ、香りを楽しむように目を細める。そのどうと言うことのない、だが流れるように自然な仕草が、理一郎の目にはとても優雅に見えた。何百年もの習慣が染み付いているようだった。理一郎は、彼女の外見とは対極にあるほどの風格を肌で感じていた。
アリアは理一郎の横で、背筋をぴんと伸ばして座っている。時折、無作法があればすぐに止められるよう、横目で理一郎の様子をうかがっていた。
「理一郎君は面白い魔法を使うそうだね。アリア君から聞いているよ」
ラランドランドララはゆっくりとカップを置き、理一郎をじっと見つめた。その視線は、まるで細胞を観察する研究者のようだった。
「君にはいろいろ秘密がありそうだね」
ここに来る前に、アリアと話し合って、ラランドランドララには異世界人であることを打ち明けることに決めていた。そして実際に会ってみて、とてもこの人物に秘密など持てないこともわかった。理一郎は、自分が異世界人であることを打ち明け、物理学魔法が使えるようになったこと、その物理学魔法がどんなものであるかを話した。
理一郎が説明し終えると、ラランドランドララは表情を変えることなく、ただ目を細めた。何か珍しい実験結果を目にした時の研究者のようにも見える。
「なるほどね、異世界からね。……私も長生きしているけど初めて見たよ、異世界人。うん。だから君には魔力がないんだな。その代わり、私も知らない別の力を持っているようだね。それが君のユニークな魔法の源になっているんだね」
「魔力を使わないのに魔法と言えるのだろうか」
「うん。それはぜひ調べみたいことの一つだね。だけど今は、君のもう一つの秘密が気になるな」
理一郎は息を飲んだ。
――もう一つの秘密? まさか、歳のことか?
だが、ラランドランドララが口にしたのは、別のことだった。
「君、呪われてるよ」
「そうなのか? 特に不調は感じないが……」
「本当なんですか?」とアリアも驚いている。
「記憶の一部が封印されてるね。宗教の連中が得意な呪いだよ。解いてあげようか?」
理一郎はアリアと顔を見合わせる。
「確かに、何か思い出せないことがあるような気がしていた。何があったかは知りたいが、頭の中をいじるのだろう? 危険はないのか?」
「解呪術の中でも簡単な方だよ」
ラランドランドララはこともなげに言う。
「先生に解いてもらえるなんて、すごいことなんだよ」
アリアにも言われて、理一郎はうなずいた。
「理解した。お願いしたい」
「なら、ここにおいで」
大博士は理一郎をひざまづかせると、触ると折れてしまいそうな美しい指で、理一郎の額に小さな魔法陣を書いた。
――っ!
頭の中で何かが弾けた。そして、神殿での記憶が洪水のように溢れだしてきた。
「俺は……、そうか、思い出した。俺は神殿に召喚された」
理一郎はソファに戻ると、エクリプス神殿での出来事を話し始めた。
アリアは息を詰めて話に聞き入る。彼女の指先は、制服のローブの端を無意識に握りしめていた。
理一郎は思い出したことのすべてを話した。千年の歳月が神殿に蓄積した魔力。その魔力を千年に一度の天文現象で解放した非公式の召喚儀式。執り行ったのはイグナティウス大司教とモンフォール軍務卿。理一郎の話は整理されていて理解しやすかった。
「三星蝕の日に起きた魔力異変は、そういうことだったんだね」
ラランドランドララは立ち上がり、窓際まで歩いた。
「イグナティウスは星教派の教主だね。統一教団は自然解放だと説明していたけど、イグナティウスが事実を隠蔽したのかな。勇者召喚は禁忌として封印されて久しいんだ。いったい誰が破ったんだろう。宮廷に無断でとなると、かなりの大事だよ」
大博士の声には、珍しく僅かな感情の揺らぎが混じっていた。
しばらくの沈黙が流れた。窓から差し込む光が、ラランドランドララの銀髪を淡く照らしている。どう対処すべきか考えているようだった。
やがて考えが決まったのか、振り返って理一郎に言う。
「災難だったね」
「まったくだ」
ラランドランドララは理一郎が召喚された理由を思い出して、表情を少し緩めた。
「それにしても、物理最強の勇者として呼んだのが物理学の賢者だったとはね。星教派の魔道士たちのレベルが知れるよ。ところで――」
ラランドランドララが試すような口調で言う。
「――君の秘密はそれで全部かい?」
ラランドランドララの視線は全てを見透かすように透徹で、理一郎には魂の底まで除かれているように感じられた。
――今度こそ歳のことだろう。俺が実は四十過ぎの中年男だと、このエルダーエルフは見抜いているのだろうか。
まだアリアにも話していない。いつかは話さなければいけないが、もう少しここでの暮らしに馴染んでからにしたい。気持ち悪いから出ていってほしいと言われても、今すぐには対応できないからだ。アリアがいないところであれば打ち明けてもいいのだが……。
躊躇している理一郎を見て、ラランドランドララの口元がほんの少し緩んだ。
「まあ、今はいいかな。君は悪い人ではなさそうだ。タイミングは自分で決めたいよね」
理一郎には返す言葉がない。そんな二人を見て、アリアが首をかしげる。
そこにソフィアがやってきた。無駄のない動作でてきぱきと紅茶を替える。
ラランドランドララはきらめく瑠璃の瞳で理一郎を見つめて言った。
「君のこと、気に入ったよ。だから私のことは、ララと呼んでいいよ。特別だよ」
それを聞いた瞬間、ソフィアの手の中のティーカップがカタカタと音を立てた。
「二文字ですか!?」とソフィアが驚いてラランドランドララを見る。「いけません、先生! お立場を考えてください!」
「いいんだよ、ソフィア君。彼はいいんだ」
「ですが――」
「みんなの前ではちゃんと呼んでくれるよ。ね、理一郎君?」
「俺はどっちでもいいんだが……」
「何言ってるの、二文字略称なんて、ほんとにすっごく特別な事なんだよ。それを許されてる人なんて、王族だって第四王女様ぐらいなんだから」とアリア。
ソフィアは理一郎を横目で睨んでいる。
場の空気が微妙に張り詰めるが、ラランドランドララはいっこうに気にしていない。
「それで、君は何が知りたいんだい?」
ラランドランドララもソファに戻り、紅茶を口に運んだ。
ようやく本題に入れて、理一郎の気が逸る。
「アリアから、この世界には『理の書』というものがあると聞いた」
「うん」
「俺は理論物理学者で、元の世界では〝統一理論〟を探っていた」
「〝統一理論〟とはなんだい?」
「自然法則のすべてを一つの式で記述し、説明する理論だ」
「自然法則のすべてとはね。ずいぶん欲張りだよね」
ラランドランドララの口元がまた緩む。
「ほぼ完成に至ったと考えていた。だが、あの理論では魔法という現象が存在する、この世界を記述できない。結果的に、未完成だったということだ。理論を完成させるには、この世界の理について知る必要がある」
「その手がかりの一つが『理の書』だと考えたんだね」
理一郎はうなずいた。
「その書にはこの世界を支配する理が記されていると聞いた。それがこの世界の基本構造に関する知見であるならば、ぜひ読んでみたい」
ラランドランドララはゆっくりと顔を上げて、理一郎を正面から見た。
「理一郎君、君はどうしてそんなことに興味があるんだい? 『知』は時に世界を滅ぼしかねない。だから『知識』と『知恵』の二神が司り、互いを監視しているんだよ。理一郎君が追い求めているものは、ヒトには過ぎた『知』ではないのかな」
「危険性を内包している点では魔法も同様だ。むしろ現象発現の自由度は魔法の方が高いのではないか」
「魔法はあるがままを受け入れているよ。物事はあるがままにある。それではいけないのかな?」
理一郎はラランドランドララの視線をまっすぐに受け止めた。エルダーエルフの瑠璃の瞳は、吸い込まれてしまいそうな深淵をたたえていた。
「どうしても知りたいから、としか答えられない」
理一郎は深呼吸した。
「リンゴが木から落ちる。月がこの惑星の周囲を公転する。太陽が百億年輝き続ける――そういった現象の背後には、必ず法則が存在する。しかも、それらの法則は個別に孤立しているのではなく、より上位の理によって統合されているはずだ。言い換えれば、世界とは理によって構成・維持されている構造体だ。しかし、元の世界ではその根源に到達した者はいなかった。だからこそ、俺は探究したい。この世界のすべてを記述可能な理を。そして、究極の方程式として、それを一つの形に収束させたい」
理一郎を見るラランドランドララの瞳が輝きを増す。
「あの――」と、アリアが遠慮がちに小さく手を挙げた。「質問してもいいですか?」
ラランドランドララと理一郎がうなずく。
「方程式って、一般教養の数学で習ったものと同じですか?」
「基本的には同じだけどね、アリア君が学んだのは、未知の量を見つけるための〝数学の道具〟としての方程式。理一郎君が言っているのは、自然現象や物理法則などを数式として整理し、表現するための方程式。現象や状態を正確に説明するための言語だとも考えられるのかな。ねえ、理一郎君」
「その通りだ。現象の構造と因果を数学的に記述するための形式だ。人の話す言語とは異なり、そこには虚飾も曖昧さも存在しない――」
そこまで言って、理一郎はふとシュレディンガー方程式を思い出した。
それは量子力学で系の状態を記述する波動関数Ψが、時間とともにどう変化するかを示す方程式だ。左右の式が等しいことを数学的に明確な主張していて、曖昧さはない。だが、波動関数Ψの物理的な意味については、コペンハーゲン解釈や多世界解釈など複数の解釈が存在する。それを曖昧さと呼ぶことはできるかもしれない。
ただ、今はそこまで話を広げる必要はないだろう。
「たとえば――」
理一郎は立ち上がり、本棚の脇に置かれた黒板のところまで歩くと、チョークで一つの方程式を書いてみせた。
E=mc^2
「これは、質量とエネルギーが等しいことを表した方程式だ。実に美しい。だが、ここには世界を滅ぼしうる理も記されている」
アリアもソフィアも首をかしげている。ラランドランドララは興味深げに目を細めた。
「君の方程式もそんな簡単な式に収まるのかい?」
「いや。残念ながらもっと複雑だ。だが、それは唯一の〝世界方程式〟になるはずだ。俺はそれを完成させたい」
「うん」ラランドランドララは、ただ相づちを打った。
「俺はこの世界で、既存の物理法則を書き換え、通常では観測され得ない現象を引き起こした。そのような特異現象を可能にする力が〝魔法〟と呼ばれるなら、逆説的だが、それはすなわち、この世界には〝魔法〟を許容する物理法則体系が存在するということだ。俺はそれを知りたい」
「うん。いいね」
表情に乏しいラランドランドララの顔が、数百年ぶりの知的興奮でわずかに上気した。
「君は物理学者だから、方程式で魔法を発動しているということになるのかな。魔法はね、魔力で自然法則を改変する現象とも言えるんだよ。でも、魔法使いは君のように物理学の方程式を知らないから、イメージとそれを記述する魔法陣の力で発動させる。魔法陣は実際に書いてもいいし、頭の中に思い浮かべてもいい。その意味では、ある現象を改変するために、何をどう変更すればいいか正確に方程式でイメージできる君には、魔法の才能があると言えそうだね」
「俺の視界に浮かぶ方程式は、魔法陣と同様に魔法発動の媒体になっている。そう仮定できるということか……」
「方程式と魔法陣の類似性は、面白そうなテーマになりそうだね。共同研究しようよ」
「え! 先生との共同研究? すごいじゃない、理一郎くん!」アリアが驚く。
だが、理一郎はラランドランドララの誘いに首を振った。
「ありがたい提案だが、今はまず『理の書』を読んでみたい」
「そうだね。話を戻そうか。『理の書』はね、大昔の大賢者が遺したとされる古書なんだ。分厚い革表紙には神秘的な装飾が施されていて、魔術的な錠がかけられている」
「魔術的な錠? 魔法とは違うのか?」
「魔術には魔力はいらないんだよ。儀式や呪文を知っていたり、道具があったすればいい。今では廃れてしまったけど、あえて言えば魔女たちが使う呪いが近いといえば近いかな」
本を優しく開くような仕草をして、ラランドランドララは続けた。
「確かに『理の書』には、この世を統べる理が記されていると言われている」
「言われている? 伝聞情報か。実際に見たことはないんだな?」
ラランドランドララが言い訳がましく言う。
「興味はあったんだよ。そのうち読もうと思っていたんだけどね」
千年以上生きている者の〝そのうち〟とはいつになるのだろうと、理一郎は思う。
「本は実在するのか?」
「それは間違いないよ」
「どこにあるんだ?」
「それはね、私の教え子になってからだね」
理一郎は顔をしかめた。
「今さら、学生などやってる暇はないんだがな」
「『理の書』は未発見ではあるけど、王国宝指定されている重要文献でね、閲覧には王室文書館の許可が必要なんだよ。でも、私は王国内のすべての文物への無制限接近権を持っている。その私の管轄下にある者であれば、閲覧が可能になるというわけなんだけどね」
「つまり、あなたに管理されないと、『理の書』は読めないということか」
「他にも方法はあるよ。宮廷史料官や古史研究者を頼れば道はあるかもしれないね。でも私と組むのが最短だと思うよ」
「それは……そうなのだろうな」
理一郎は考え込んだ。
「何も講義に出席しろって言っているわけではないよ。研究生の身分と専用の研究室をあげる。そこでどんな研究をしても構わない。時々、私たちに君の魔法を研究させてほしいんだ。できれば私との共同研究も」
ラランドランドララは穏やかに続けた。机の上の魔法器具が、彼女の言葉に呼応するように青い光を強めた。
「それに、君も魔法の研究をしたいのだろ? アカデミアはそのためには最適な環境だよ。王国一の蔵書もある。実験のための施設や設備も整っている。それに――」
ラランドランドララが一瞬いたずらっこのような表情を浮かべながら、自分を指さした。
「なにより最高の先生がいるんだよ?」
そんな茶目っ気のある大博士を初めて見たアリアが目を丸くする。
「そして、その先生なら科学院にも話を通せる。どうだい?」
確かに、研究環境としては申し分ない。だが……。
前の世界で信頼していた人間に裏切られ、研究を奪われ、大学を追放されたことは、理一郎のトラウマだった。嫌な記憶が、その時に味わった感情を伴って蘇ってくる。
――今回は信じて良いのだろうか? また同じ目に合うのではないだろうか?
理一郎は黙り込んでしまった。頭では受けた方が良いことは分かっている。だが、心が付いてこない。
「少し、学内を見学していかないかい? 答えはそれからでもいいよ」
理一郎の葛藤を察したのか、ラランドランドララは立ち上がると窓辺から離れ、執務机の前で足を止めた。魔法器具の青い光が、彼女の横顔を幻想的に照らしている。
「今、ちょうど召喚と従魔契約の実技をやってるんだ。魔法陣で従魔を召喚するんだよ。君が経験した異世界召喚には途方もない魔力が必要だけど、この世界の中でなら工夫次第で可能になるんだよね。珍しい魔物が見られるかもしれないし、君をこの世界に呼んだ魔法の一端に触れられるかもしれないよ」
召喚と聞いて、理一郎の心が興味の方に振れた。
神殿での記憶が戻った今、あの時自分が立っていた魔法陣のことも思い出した。何重もの同心円と何本もの線、それらの中に複雑に散りばめられたこの世界の古代文字とさまざまな象形。はたして、あの魔法陣との類似点はあるんだろうか。今さら元の世界に戻りたいとも思わないが、召喚陣には興味があった。それに魔法の授業や学内の施設は見てみたい。
「……まあ、見るだけなら」
そう言って、理一郎が立ち上がった。
* * *
一行が総長室から出ようと扉を開けると、偶然なのか魔法院の院長であるギデオンがいた。
「おや、お出かけですか?」
銀灰色の髪を後ろに撫でつけ、紺と灰色の二重襟のコートに身を包んだ初老の男性だ。整った顔立ちには威厳があるはずなのだが、今はどこかあわてた様子で、襟元の紋章が示す魔法院院長の威光も、どこか空回りしているように見えた。
「うん。少し学内をね」
「ほう、総長殿直々にですか――」
ギデオンは、理一郎を値踏みするように上から下までじろりと眺めた。
「そう言えばギデオン院長は、召喚科の主管でもあったね。これから召喚実験を見学するんだけど、案内を頼めるかな?」
「申し訳ありませんが、急いでおりますので」
ギデオンがどこか落ち着かない様子で目をそらす。
「ところで部屋の前にいたようだけど、何か用があったんじゃないのかい?」
「いいえ、通りかかっただけです。――では失礼」
そう言い残して、ギデオンが立ち去っていく。
その後ろ姿を一瞥し、ラランドランドララが反対方向に歩き始めた。
「では行こうか」
ソフィアがあわててラランドランドララの先に立ち、一行は召喚実験室に向かった。




