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1-3.物理学魔法

 見張り役の狩人は、まだ14歳の少年だった。彼は屋上デッキから一面に広がる草原に目を凝らしていた。

 この辺りの草は背が高く、魔物が潜むにはもってこいだ。中継駅の近くだから危険な魔物は定期的に討伐されているはずだが、油断はできない。特に今日は行き倒れを一人見落としてしまった。失策と言われても仕方ない。もう見逃しは許されない。

 ふと、草の海に生じた不自然な揺らぎが気になった。揺らぎは見る見るうちに草原の奥から街道へと近づいてくる。

「何だ?」と呟いた瞬間、草むらから流線型の影が次々に街道に飛び出してきた。

「グラスランナーだ!」

 狩人が大声で叫ぶ。

 瞬く間に、十数匹の魔物が馬車を取り囲んだ。

 流線型の体は暗緑色の鱗に覆われ、大型犬よりも一回り大きく、黄色く鋭い目が不気味に光っている。獲物に確実な死をもたらすための長く鋭い牙と爪が、見るからに凶悪だった。

「顔を出しちゃだめ! 危ないから!」

 理一郎は様子を見るために窓を開けようとして、アリアに制止された。

 外からは馬のいななきと、護衛の冒険者たちの怒声が聞こえてくる。

「気をつけて! 数が多いよ!」

 狩人が仲間に注意を促している。

 馬車の中は騒然としたが、意外にもパニックにはならなかった。乗客の多くは頭を抱えて身をかがめている。幼い子どもが泣き出したが、母親が抱きしめて安心させていた。

「皆、冷静だな」

「都市間の移動ではたまにあることだから。この規模の駅馬車は頑丈だし、窓ガラスも強化されているから、中にいればまず安心」

「君は博識だな」

「駅馬車に乗るときにも、教わることだよ」

 窓の外には恐ろしい光景が広がっていた。

 十数頭のグラスランナーが、馬車の周りを群れをなして走っている。

「馬を狙ってる」

「なるほど、食料源としては人間以上か」

「それだけじゃない。馬がいなければ、私たちは逃げられない。それが分かる程度の知能ももってるの」

 まず馬を倒して移動力を奪い、それからじっくり人を襲おうとしているということだ。

「この客室は、ああした魔物の襲撃を前提に設計されていると理解していいのか?」

「うん……でもちょっと数が多すぎるかな。統率も取れすぎてる気がする」

 魔物たちの動きは信じられないほど素早く、瞬時に方向転換をしながら、馬車に近づいては離れ、また近づくを繰り返しながら、少しずつ近づいている。

 窓からその様子を見ていた水色髪の少女は、すっと立ち上がると、紅髪と黒紫髪の子たちに宣言した。

「上から叩くわよ!」

「え? グラスランナーなんてムリムリムリムリムリ……」

 紅髪の少女が弱々しく抵抗するも、水色髪の少女に引きずられるように、屋上デッキへの螺旋階段のある最後尾に向かっていく。理一郎の横を通り過ぎざま、水色髪の少女がウインクしていった。黒紫髪の少女が無言で通り過ぎると、マリエルも立ち上がって三人の後に続いた。

「冒険者や巡回修道女には、緊急時に防衛や救護が義務づけられてるの」

 アリアが説明する。

 普通の生活のすぐ隣に、命の危険が当たり前にある。そんな世界なのだと、理一郎は改めて思った。


       *   *   *


 護衛パーティーは奮戦している。

「馬車を止めなさい!」

 屋上デッキで指揮役を務めているのは、護衛パーティーの魔女だった。動くたびに漆黒のロングドレスの深いスリットから、白い脚がなまめかしく覗く。

 馬を急がせても逃げ切れないと判断した彼女は、馬車を止めて応戦することを選んだのだ。御者はすぐさま馬に沈静の魔法をかけた。魔物に怯えて暴れないようにするためだ。

 それから使い魔のカラスを呼び出して空に放ち、上からの視界を共有して全体像を把握する。

 魔女は、馬車の右側に戦士を、左側に武闘家を配置し、狩人には正面から突入してこようとする個体を任せた。自らは風魔法で群れの動きを乱し、スピードを削ぐ。それが魔女の立てた作戦だった。

 一般的にグラスランナーは数頭で群れて狩りをするものの、それほど統制の取れた集団ではない。通常なら、その作戦で通用しただろう。だが、今回は様子が違った。

 グラスランナーはぐるぐる回りながら、隙を見て馬に飛びかかろうとする。

 元王国騎士だった戦士は巧みに馬を操って剣で応戦するが、グラスランナーの固い鱗に阻まれ、なかなか致命傷を与えられない。武闘家も確かに打撃は入れているものの、波状攻撃に押され気味だ。魔女と狩人は、素早い機動で前衛をかいくぐって馬に近づく個体を追い払うのに手一杯だった。

 屋上デッキに魔法少女三人組がかけつけた。

 水色髪の少女は、一般的な水魔法使いの癒やし系のイメージとは真逆の、攻撃的な態度で戦いに挑む。

「さぁ、かかっておいで!」

 彼女は挑発するように叫びながら、両手を前に突き出した。

「水よ、裂け!」

 すると、空中から氷の刃が現れ、グラスランナーめがけて飛んでいく。何頭かのグラスランナーが、鋭い水の刃に切り裂かれて悲鳴を上げた。

「ムリムリムリムリムリ……」

 紅髪の少女は震えながら呟いていたが、いざ戦闘が始まると、その攻撃力は凄まじかった。

「いやーっ!」

 腕を振り下ろした方向に炎の渦が突進し、次々とグラスランナーを巻き込んでいく。炎に包まれたグラスランナーは、悲鳴を上げて戦列から離れていった。

 黒紫髪の少女は、静かに詠唱し始める。次第に草原に黒い霧が立ち込めていく。やがて霧の中からいくつもの影が現れ、グラスランナーに襲いかかった。影に触れられたグラスランナーは、まるで力を吸い取られたかのように、その場に崩れ落ちた。

「あなた!」

 黒魔女が水色髪の少女に呼びかける。

「攻撃を任せてもいいかしら?」

「いいよ!」

 少女が答えるのを聞いて、黒魔女は支援魔法をパーティーにかけた。

「力よ、宿れ!」

 戦士の剣の切れ味と武闘家の拳の威力、そして狩人の矢の攻撃力が上がり、ようやく魔物に致命傷を与えられるようになってきた。

 ようやく護衛の冒険者たちも生彩を取り戻したように見えた。だが、グラスランナーはまるで無限に湧き出てくるかのように、草原から飛び出してくる。しかも、その動きはまるで誰かに操られているかのように驚くほど統率が取れ、一つの生き物のように連携して攻撃してくる。

 次第に戦士と武闘家に疲れが見え始めた。

 そして、ついに一頭のグラスランナーが戦士の剣のきっさきを横っ飛びに避け、次の跳躍で騎馬の喉笛を切り裂いた。馬は戦士を乗せたまま土道に倒れ込む。とうとう魔物たちは餌となる馬を手に入れた。

 だが、魔物たちは馬ではなく、起き上がろうとする戦士に襲いかかった。なんとか態勢を立て直そうとする戦士の腕を鋭い爪で裂く。致命傷ではないが、剣を持つのは難しそうだ。

 戦士はベルトケースからポーションを取り出そうとしたが、失敗して取り落としてしまう。魔女と狩人は、戦士に魔物を近づけさせないようにするだけで精一杯だった。

 その時、巡回修道女のマリエルが、馬車の屋上デッキで彼女の神である太陽の女神ソラリアに祈りを捧げた。

「女神様のご慈悲を! あまねく癒やしたまえ!」

 黒い修道女服が金色の光に包まれると、その光が戦士に放たれる。すると、戦士の腕の傷が見る間に塞がっていった。

「遠隔治癒だ! すごいよ、マリエルさん!」

 アリアが感嘆の声を上げた。

「治癒魔法の中でも上級魔法なんだよ!」

 理一郎は、さっきからただただ窓にへばりついて食い入るように状況を観察していた。

 ――これが魔法!?

 あり得ない現象が、いま起きている。

「まったく不可解な現象だ。だが、魔法は、実に興味深い」

「でも、魔力は無限じゃないの。マリエルさんやみんなの魔力が、どこまでもつかな……」

 アリアはじっと考え込む。

「いちばんの問題は、魔物の素早さよね。あんなに急に方向を変えられるのは、長いかぎ爪で地面をしっかり捉えているから……。あ、そうか!」

 アリアがなにか思いついて立ち上がった。

「これなら私の防護魔法と組み合わせれば、もっと効率よく倒していけるかも……」

 それから「ここにいてね」と言い残し、屋上デッキに向かっていった。

 だが理一郎は、外の様子を観察するのに夢中で、アリアの言葉を聞いていなかった。もっと間近で観察したくて、客室から御者席に出た。

 外は、異様な臭いがした。グラスランナーの臭いのようだ。

「兄ちゃんも戦えるのか?」

 手綱を握ったままの御者に尋ねられたが、ただ首を横に振り、戦闘に見入った。


       *   *   *


「聞いて! 魔物の動きを鈍らせる方法があるの!」

 アリアは屋上デッキにいるみんなに告げた。

「あまり知られてないけど、グラスランナーは湿った地形が苦手なの。滑りやすくなって、機敏に動けなくなるから」

 それから水色髪の少女の方を向いた。

「私が馬車の回りに対魔物の物理結界を張るから、地面にぬかるみを作れる?」

「もちろんよ、任せなさい!」

「魔女さん、グラスランナーだけを阻む結界を張るよ。馬車ギリギリの大きさでいいよね?」

 戦士と武闘家はいざとなれば、結界の中に非難できる。だから魔女と狩人は二人を掩護する必要がなくなり、グラスランナーへの攻撃に集中できる。魔女は片手でOKのサインを出した。

「対象を指定できるなんて、お嬢さんもなかなかやりますわね」

「じゃ、いくよ! 私は、拒む!」

 アリアの結界が馬車の回りに広がった。境界面がわずかに輝くが、見た目はほとんど分からない。

 続いて水色髪の少女が、目を閉じて両腕を広げた。

「水よ、湧き出せ!」

 馬車の周囲の地面から水が湧き出す。同時に、空気中の水蒸気が凝結して水滴となって落ちてくる。瞬く間に馬車の周囲一帯が水浸しになった。

 効果は絶大だった。グラスランナーたちはぬかるみに足を取られ、その驚異的な機動力を失った。思うように動けないので、自然と統制も乱れる。

「よーし! これでアンタたちの脚は封じたよ!」

 水色髪の少女が勝ち誇ったように叫んだ。

 戦士と武闘家は、この好機を逃さず反撃に出た。鱗が硬いとは言え、しっかり捉えられれば斬ることも貫くこともできる。打撃も通る。狩人の矢も当たるので、倒すまでいかなくとも牽制の役は十分に果たせた。もちろん魔法だって、当たればダメージは大きい。つまり、当てることが重要だったのだ。

 みんなの奮戦で、さすがのグラスランナーも徐々に数が減っていく。


       *   *   *


 理一郎は、目の前で魔法の飛び交う光景を、まだ現実だと認識できていなかった。どこか映画でも見ているような気分があった。もっと近くで観察したいという衝動が抑えきれない。

「なんとか切り抜けられそうだな。兄ちゃんを助けた女の子のおかげだ」

 御者が少し緊張を緩める。状況が落ち着きつつある空気を、理一郎も感じた。

 ついに我慢できず、理一郎は「観測精度を上げたい。もう少し接近する」と言いながら、馬車を飛び降りた。背中に御者の怒鳴り声が聞こえたが、気にならなかった。

 結界の境界に近づいた。結界の先は地面が水浸しなので、簡単にわかる。だが、境界面は不可視で、手で触ることもできない。

 ――いったい、この〝結界〟とやらはなんなのだ。

 水や魔物を弾くので物理的な障壁であることは間違いないが、選択的にヒトは通すという。境界面ではどんな現象が起きているのか、何らかの物質で構成されているのか、それとも未知のエネルギーによる場のようなものが形成されているのか。今の段階では見当もつかなかった。

 その結界ギリギリから、魔女や少女たちの放つ魔法を食い入るように観察した。目の前で見ていても信じられない。

 魔女の風の刃が魔物を裂き、紅髪少女の紅蓮の火焔が魔物を包み、水色髪少女の氷の槍が魔物を貫き、黒紫髪少女の操る影が魔物を消し去っていく。

 ――あの風や炎はどうやって生じている? エネルギー保存則はどこへいった? 炎が赤橙だから温度は千度前後だろうか? あの氷の硬度は? どんな構造ならあんな硬い氷になる? 黒紫髪少女の魔法にいたっては、なぜ影が触れると魔物が消失するのか、その現象を説明する理屈すら見当たらない。

 元の世界の(ことわり)が、この世界では通用しない。理一郎は、物理学者としての自分の足元が、ガラガラと崩れていく感覚に陥った。同時に、この世界の不思議な理を追求することに、強く惹かれた。


       *   *   *


 グラスランナーが残り数匹になり、討伐も時間の問題と思われた時、突如、巨大な影が草原から街道に飛び出してきた。

「気をつけて! 新手だ! でかい!」

 狩人の少年が大声で注意を促した。

 ツキノワグマぐらいだろうか。他のグラスランナーよりも、ひときわ大きい。群れを率いる特殊個体だ。

 湿った地形の不利をものともせず、巨大な足爪でぬかるんだ大地もしっかりと捉え、巨体に似合わぬ俊敏さで左右に跳躍しながら、向かってきた。

「ムリムリムリムリムリ……あんなの絶対ムリよぉ!」

 紅髪少女が泣きじゃくりながらも、高出力の火焔を当てた。だが、他のグラスランナーよりもさらに強靭な鱗は、その業火の直撃にも耐えた。

 水色髪の少女は何度も水の刃や氷の槍を放つが、特殊個体の硬い鱗に阻まれて効果がない。

 黒紫髪の少女の影による攻撃は、ことごとくかわされている。

 正面に躍り出て迎え撃とうとした戦士は、剣を弾かれ、腕を折られた。

 武闘家は気を溜めた蹴りを横っ飛びに入れようとしたが、鋭い爪でなぎ払われ、脚を裂かれてしまった。

 二人を弾き飛ばすと、特殊個体は一直線に馬車に向かってきた。

 マリエルのリモートヒールで回復した戦士と武闘家が後を追う。

 射程に入った狩人が矢を放つが、すべてはねられた。

 アリアは学んだ知識を思い出し、黒魔女に伝える。

「特殊個体だろうけど弱点は同じはず。喉とお腹には鱗がないの。そこを狙えば――」

「ああ、そうだったわね。なら、ひっくり返してみましょうか」

 黒魔女が特殊個体の足元につむじ風を巻き起こす。だが、ボスの巨躯を持ち上げるには、魔力が足りなかった。


       *   *   *


 そんな状況にもかかわらず、理一郎は結界を観察していた。

 外に出て、小石を投げてみる。小石は結界境界面に光の粒子を弾けさせ、それから固い壁にぶつかったときのように勢いよく跳ね返される。角度を変えて何度も繰り返すうちに、小石は境界面に当たる寸前で跳ね返されていることがわかった。

 ――何らかの斥力が働いている。

 物質の種類を問わず働く斥力。真空の量子効果を利用すれば不可能ではない。

 例えば、宇宙定数Λだ。

 静的宇宙を成立させるためにアインシュタインが導入した定数だが、のちに宇宙が加速膨張していることが明らかになる。アインシュタインは〝最大の失敗〟と嘆いたと言うが、現代では加速膨張を説明するために利用されている定数だ。それは〝真空のエネルギー密度〟と関連付けられ、空間自身が持つエネルギーが膨張を加速させる要因だと考えられている。いわゆるダークエネルギーだ。だがダークエネルギーは密度が低すぎて、銀河系スケールででもなければ影響を及ぼすことはない。

 もう一つ考えられるのは、反カシミール効果だ。

 通常のカシミール効果では、二枚の平行金属板を非常に近付けた際、量子真空の揺らぎが制限されて両板が引き合う。しかし理論的研究では、形状や材料によっては、カシミール力を斥力に反転させられる場合があると予測されていた。だが、実験では超局所的かつナノからマイクロメートル領域の超短距離でしか発揮されていない。マクロスケールでは例がないのだ。

 ――まったくわからない。だが、実に興味深い。

 結界を調べるのに夢中で、特殊個体の出現にはまったく気づいていなかった。ボスが迫ってきているというのに、すっかり避難が遅れてしまった。

「理一郎くん! 危ない!」

 アリアにそう叫ばれて、結界の中になんとか転がり込む。

 同時に特殊個体が目の前で結界に激突し、眩しいほど境界面を煌らめかせ、跳ね返される。かなりの衝撃だが、特殊個体にダメージはないようだった。後に下がって助走距離を取ると、また突進してくる。それを何度も繰り返した。

「理一郎くん! 逃げて! 結界が保ちそうもないの!」

 アリアは結界を維持するために魔力を消費し続ける。そして、加えられた衝撃の大きさに比例して結界は損耗し、それを修復するために追加の魔力も必要とする。

 アリアは必死に結界魔法の強度を維持しようと頑張るが、もう魔力が尽きかけていた。

「もうだめ! 次の一撃で破られちゃう!」

 アリアが叫ぶ。

「逃げて!」

 だが、動けない。情けないことに腰が抜けてしまったのだ。

 特殊個体がぐんぐん迫ってくる。

 このままでは、あの禍々しいかぎ爪で引き裂かれるか、凶悪な牙に噛みちぎられるか、どちらにしてもデッドエンドだ。

 特殊個体は、結界を破るための最後の一撃を加えようと、数メートル手前で跳躍した。

 まさに絶体絶命。

 ――止まれ! 止まってくれ!

 強く願ったまさにその時、理一郎の中で何かが目覚めた。

 まるでスイッチが入ったかのように、突然、脳の処理能力が異常なレベルにまで跳ね上がる。

 脳が凄まじい速さで情報処理を始め、時間分解能が飛躍的に高まる。

 宙を跳ぶ特殊個体がスローモーションのように見える。

 さらに、その放物運動を構成する要素――初速度、角度、質量などのすべてを数値として把握できた。

 理一郎は状況を冷静に分析する。

 ――魔物は放物運動の頂点付近にいる。ということは、垂直方向の速度はほぼゼロ。重力の影響を除けば、水平方向は等速直線運動と見なせる。

 すると、そこに一つの数式がオーバーラップした。

 x(t)=x0+vt

 等速直線運動の式だ。

 式においてx(t)は時刻tにおける位置、x0は初期位置、そしてvtが時刻tにおける速度。そのvが明滅している。

 ――そのパラメータを操作できる!

 まったく非科学的かつ非論理的なことだが、理一郎はそう直観した。

 躊躇している時間はない。理一郎は頭の中でvの値をゼロに書き換える。

 ほぼ同時に、無意識に言葉がこぼれた。

「その理《ことわり》に、従え!」

 次の瞬間、現実が書き換わった。

 驚くべきことに、特殊個体はジャンプした姿勢のまま宙に静止したのだ。

 特殊個体は突然の急停止の衝撃で全身にダメージを受け、悲鳴のような咆哮を上げつつ、その場で落下する。

 ――動きを封じなければ!

 そう考えると、今度は別の方程式が視野に浮かんだ。

 F=ma

 ニュートンの第二法則、物体に働く合計の力Fは質量mと加速度aの積に等しいことを表す、古典力学の基礎方程式だ。

 今度は加速度aが明滅している。これをゼロにすれば、静止状態を維持できる。

 理一郎はパラメータを書き換え、再び叫んだ。

「その(ことわり)に従え!」 

 するとボスは完全に動けなくなった。その状態から脱しようともがくが、脚や顔は動くものの、前にも後にも進めない。

「な、何!?」

 アリアが驚きの声を上げた。

「やるじゃないの!」

 水色髪の少女が理一郎を称賛した。

「ええ? えぇぇぇ?」

 紅髪の少女は目を見開いて状況を見つめている。

 黒紫髪の少女は無言だったが、その瞳には驚きの色が浮かんでいた。

 マリエルもその光景に目を奪われたが、同時にそれが魔法なのかどうか疑問に思った。

 そんな中、これをチャンスと見た魔女が武闘家に指示を飛ばし、攻撃力アップのバフをかけた。

「今よ! なんとかして転がしなさい!」

「おうよ!」

 武闘家が、ボスの胴体に強力な跳び蹴りを入れた。

 ボスは水しぶきを上げて横倒しになる。

 喉も腹もむき出しになった。

「とどめを!」と魔女が戦士に指示し、やはり攻撃力アップのバフをかけた。

 戦士はボスの喉元に剣を突き立てると、一気に切り裂く。

 暗緑色の体液が噴き出した。

 ボスは悲鳴を上げようとするが、喉をやられているので声にならない、

「どいて!」

 水色髪の少女が前衛の二人を下がらせると、「氷よ、貫け!」と叫びながら、両腕をボスの方に振り下ろす。

 数本の氷の槍が放たれ、すべて腹部に深々と突き刺さった。大量の体液が流れ出し、鼻をつく嫌な臭いが辺りに漂う。

 ボスは最後に四肢を激しく痙攣させると、それきり動かなくなった。


       *   *   *


 まだ尻餅をついている理一郎の元に、みんなが集まってきた。

 真っ先に駆け寄ってきたのはアリアだった。怖いぐらい真剣な顔をしている。

 すでに脳の情報処理速度は元に戻っている。だが、身体に力が入らない。頭も三日間の徹夜明けの時のようにまったく回らない。脳が極限まで稼働したため体内のグルコースを使い切ってしまい、いわゆる〝ハンガーノック〟の状態になっていたのだ。

 たった今起きたこと、しかも自分で起こしたことについて考察しようとしたが、まったく無理だった。今すぐにでも寝落ちしてしまいそうだった。

「大丈夫? 頭を打ったりしたの?」

 アリアの問いかけも聞こえていない。

 遅れて駆けつけた水色髪の少女が理一郎の肩を両手で揺すりながら訊く。

「キミ、すごいじゃない! いったい何したの?」

 体を揺すられて、意識レベルが少し上がった。

「あ、ああ……いま推論を組み立てようとしていたところだ」

 ふいに頭の中に一つの言葉が浮かんだ。

「……物理学魔法」

「聞いたことのない系統ね。どんな魔法なの?」と水色髪少女。

「方程式が浮かんで、パラメーターを操作したら、現象を改変できた――」

 頭に浮かんだことをそのまま口走った。自分でもまったく理解できないことだった。

「ムリムリムリムリムリ……信じられない……」

 紅髪の少女は、水色髪少女の後に隠れてのぞき込みながらつぶやいた。

 黒紫髪の少女は無言だったが、その瞳には明らかな興味の色がにじんでいる。

 アリアは「ごめんね」と水色髪少女を押しのけると、座り込んだままの理一郎の手を取って立ち上がらせた。水色髪少女は少しムッとしているが、アリアは理一郎の状態が気になって、それどころではなかった。。

「ケガはなさそうだけど……。マリエルさん、念のため診てもらえない?」

 マリエルはうなずくと、右手を広げて理一郎に向けた。

 手を上下に動かしながら。回りを一周して身体の状態を走査する。。

「大丈夫です。どこも問題ありません。でもだいぶお疲れのようです」

 ようやくアリアが緊張を解いた。改めて理一郎の目を捉えると、フッと息を吐く。それから大きく息を吸い込んで、一気にまくし立てた。

「ダメじゃない、馬車の外に出るなんて! 何を考えてるの! 無茶にも程があるよ! 何かあったらどうするつもりなの!」

 あまりの剣幕に、ただ「悪かった」と誤るしかなかった。とても「近くで観察したかった」と言える雰囲気ではない。

「もう、びっくりしちゃったんだからね。ほんとに無事でよかった……」

 感情を爆発させて気が抜けたのか、あるいは結界の維持で疲れ果てたのか、今度はアリアの膝が抜けそうになる。理一郎があわてて助けようとしたが、まだ立ち上がれない。少年狩人がアリアを支えた。

「まあまあお嬢ちゃん、そんなに怒りなさんな」とスキンヘッドの武闘家。「結果的に、兄ちゃんのおかげで、あのでかいのを倒せたんだ」

「お兄さんの魔法もすごかったけど――」

 黒魔女がロングドレスのスリットから魅惑的な脚を見せつけるようなポーズで言う。

「お嬢さんの作戦もよかったわよ。ボスが出てこなければ、あれで終わってたはずだわ」

 理一郎は武闘家に肩を貸してもらい、場所に戻った。

 席に座ると、さっきの現象をぼんやり反芻する。

 ――あれは本当にあったことなのだろうか。

 試しに今周りを見回しても、方程式は浮かんでこない。いったいどんな条件で発動するのか。どんな理があれを可能にしているのか。この世界で新たに目覚めた力に驚きつつも、この異世界の理をもっと知りたいと思った。

 同時に、無性に甘い物が欲しくなった。

「糖分を摂りたい。何か持ってないか?」

 心配そうに隣に座ったアリアに尋ねると、小さな氷砂糖を渡された。

 口に入れると脳を痺れさせるような甘さが広がった。目をつぶって、甘さを堪能する。氷砂糖はすぐに溶けてなくなってしまったが、理一郎はそのまま寝入ってしまった。


物理学についての講釈は、間違いのないよう極力心掛けてはいますが、正直怪しいです……。間違ってても、どうかご寛容に。ご指摘はできるだけお手柔らかに。どうぞよろしくお願いします。

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