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1-1.エクリプス神殿

 目の前に、死が迫っていた。

 巨大な暗緑色の魔物が宙を舞い、鋭い爪を振り下ろそうとしていた。

 逃げ場はない。あと一瞬で、理一郎の命は潰え去る。

 だが、その刹那――。

 世界が、変わった。

 理一郎の脳内の情報処理速度が爆発的に加速し、主観時間が飛躍的に引き延ばされる。

 魔物の動きがスローモーションのようになったと思うと同時に、視界に光る文字が突然現れ、魔物の姿に重なった。

 x(t)=x0+vt

 等速直線運動の式。

 物体が一定の速度で直線上を運動する場合の時間と移動距離の関係を表す数式モデルだ。

 速度を表すパラメーターvが明滅している。まるで、操作を促すかのように。

 理一郎は直感した。理由はない。ただ、そのパラメーターを書き換えられると確信した。

 vをゼロに変更する。

 同時に、無意識に言葉が口を突いた。

「その理に、従え!」

 次の瞬間――。

 奇跡が起きた。

 何の障害物もないのに、魔物は空中で完全に静止した。慣性の法則を無視して、まるで見えない壁にぶつかったかのように。

 今度は違う数式が現れた。

 F=ma

 ニュートンの第二法則。物体に働く力と質量、加速度の関係を表す物理学の基礎方程式だ。

 今度は加速度aが明滅していた。

 それをゼロに書き換え、再び唱えた。

「その理に、従え!」

 魔物は完全に動けなくなった。

 もがいているのだろうが、物理法則そのものが書き換えられた空間では、いかなる運動も不可能だった。

 周囲から驚嘆の声が上がる。

(なに!?)

(信じられない!)

(あれは一体、何魔法なの!?)

 彼にとって、それは魔法ではない。

 今まで研究してきた物理学の一部だった。

 この世界は、彼にとっては異世界だ。その異世界の理を、方程式によって支配する――そんな力が宿っている。

 そのことに一番驚いているのは、理一郎本人だった。


       *   *   *


 三星蝕が始まった。

 二つの月が太陽を両側から()む、千年に一度の特殊な皆既日食だ。

 太陽が左右から少しずつ欠けていく。空の色は鮮やかさを次第に失い、くすんだ灰青色へと移ろう。地平線近くは夕焼けのような茜色に彩られ、空の中央は深みを増し、冷たい影を帯びた青黒さが広がっていく。あたりは次第に暗くなり、空気が冷えていく。

挿絵(By みてみん)

 深い森の奥、苔むした古代神殿の中央。白いフードとローブをまとった教会魔導士たちが、巨大な魔法陣をぐるりと囲み、低い声で呪文を唱和している。少し離れた祭壇では軍礼服に身を固めた五十代の小太り男と、背が高く痩せぎすで、やはり五十代の男性聖職者が儀式を見守っていた。

挿絵(By みてみん)

 三星蝕が進み、二つの月の輪郭が∞マークのようになった時、突然、唱和が止んだ。時すら止まったかのような静寂。ただただ月が太陽を覆っていく。闇はますます深くなり、息が白くなるほど空気が冷えていく。

 ついに二つの月が重なり、太陽を完全に覆った。神殿が闇に呑まれる。

 同時に、魔法陣に刻まれた文字や線が、ぼうっと明るみはじめる。

 明るみは次第に増していき、やがて魔法陣全体が光に包まれた。

 すると、今度は光が中心へと収束しはじめ、どんどん小さく、明るくなっていく。一点へと集まる最後の瞬間、魔法陣の中心が爆発的に煌らめいた。烈しい光の放射に、その場の誰もが顔を覆う。

 輝きが収まっても、魔法陣は燠火(おきび)のように仄かに明るんでいた。

 その中心に、よれよれの白衣を着て段ボール箱を抱えた物部(もののべ)理一郎(りいちろう)が、呆然と佇んでいる。

 教会魔道士たちの低いどよめきが、静寂を破った。

挿絵(By みてみん)


       *   *   *


 理一郎は、長年勤めた大学の助教職を、ついさっき解雇された。

 頭上には盛夏の抜けるような青空が広がっていた。その激しい陽光にボサボサの白髪頭を灼かれながら、スマホやノートパソコン、最近の研究ノートなど、わずかな私物を詰めた段ボール箱を抱えて、重い足取りで大学のキャンパスをのろのろ歩いていた。奥歯がずきずき痛み、気(うつ)に追い打ちをかける。

 この世のすべてを記述可能な世界方程式。その完成まであと一歩のはずだった。

 長年温め続けていたその理論は先端的かつ独創的で、完成すれば物理学最大の課題を解決し、百万の言葉を並べるよりも雄弁にこの世の(ことわり)を明解に語るはずだった。

 方程式ほど雄弁で、しかも正しく美しい表現方法はない。それが理一郎の信念だ。方程式に比べると言葉はあまりにも不完全で、若い頃から何度も裏切られてきた苦い思い出しかない。

 だが、今回も甘言に騙され、研究は奪われてしまった、よりによって、一番の理解者だと信じていた理学部長に。

 四十二歳の研究しか能の無い男、それが物部理一郎だ。そんな理一郎を大学院時代からサポートし、研究だけに没頭できる環境を用意してくれたのが、理学部長だった。その学部長が、理一郎の痕跡を全て消した上で自らの名前でプレプリントを公開し、理一郎を大学から追放した。学会はもちろん界隈でも何の人脈もない理一郎にとっては、物理学者としての生命を絶たれたも同然だった。

 この先、どうすればいいのか――。研究を奪われた憤りよりも、研究を続けようという熱情よりも、生きる目的を奪われてしまった喪失感の方が大きかった。

 肩を落として大きくため息をつく。

 二十年近くをかけた研究だった。

 現代の物理学の基盤とされる量子力学は、その根本がまだ解きあかされていない。にも関わらず、原子力にしても、量子コンピュータにしても、ヒトは根本原理のわからないまま、工学的に応用している。それはきわめて危険な状況だ。現在安定している現象も、(ことわり)のパラメーターのほんのわずかな変化で、破局するかもしれない。

 だが、物理学の、そのあやふやな基盤を確かにするのが、この世の(ことわり)を解き示す方程式だ。すでに九十九パーセント完成していた。休み明けに欧州の加速器実験の結果が出る。それが最後のピースとなって世界方程式は完成するはずだった。

 だが、もうその場に立ち会うことはできない。研究は自分の手から離れていってしまったのだ。

 何をどうしていれば、こうならずにすんだのだろう。この世をうまく生きられる方程式はあるのだろうか。その方程式には解はあるのだろうか――。

 そんな空疎な考えが頭をよぎった時、突然、閃光に包まれた。

 あまりのまぶしさに、思わず目を閉じた。


       *   *   *


 目を開けると、風景が一変していた。

 なにしろ暗い。

 さっきまでの鬱陶(うっとう)しいほどの明るさに慣れた目では、何も見えない。

 光を感じて空を見上げると、太陽がおかしな具合に欠けている。初めて見る天体現象だった。

 次に気づいたのは、足元の明るさだった。石の床の文様が、蛍光塗料で描かれたようにぼんやり光っている。

 少し暗さに慣れてきたのか、その明かりで自分の着衣を確かめられた。変わっていない。ズボンのベルトがなんだか緩いようにも感じるが、どこも破れたり傷んだりしていない。段ボール箱も、ちゃんと抱えている。

 つまり、主観時間は連続しているが、時空的には連続していないということだ。

 夢か? だが、頬に空気の冷たさを感じる。これは夢ではない。

 目が慣れ、蝕も終わりつつあるのだろう、さらに辺りが見えてくる。

「!」

 ぎょっとして、思わず身が固くなった。

 カルト教の信者のような異様な風体の集団が、ぐるりと周りを取り囲んでいたのだ。

 その輪を割って、二人の男が近づいてきた。

 細身で高身長の男がにこやかに微笑み、手を差し出す。高位聖職者らしい豪華な法衣をまとっている。

「異世界の勇者殿、聖なる星神(ほしがみ)アストレリア様の統べる此の世界へ、その身を運ばれし事を、深き喜びと共に歓迎申し上げる。汝が此の地に降り立ちし事は、疑いもなく神聖なる摂理の成せる御業。どうか、この世界にて汝に与えられし使命を全うされよ。星神の御名において、我らは汝の前途を祝福し、その偉業の成就を心より祈念いたす」

 言語は理解できたが、意味はさっぱりわからない。

 聖職者の隣ではでっぷりと太った軍人風の男が、興奮した様子で鼻息を荒げていた。胸の辺りにごてごてと勲章が並んでいる。こちらも位は高そうだ。

「ここは、どこだ?」

 理一郎は差し出された手を無視して問い返した。

 聖職者は一瞬気分を害したように顔をしかめたが、すぐさま乾いた笑みをとり戻す。

「まことに星神の御計らいは深遠にして測り知れぬもの。汝は、物理最強の比類なき力を持つ勇者として、我らの救いとなるため聖なる召喚の儀に応えられた」

 さっきから羅列される定義の不明な用語が、理一郎を混乱させた。

 ――今、召喚の儀と言ったか? まさか、これが『異世界召喚』とやらなのか?

 どうしてもと頼まれて学生のレポートの評価を何度かしたことがある。その一つに多元世界(マルチワールド)への移動方法について考察したものがあった。中身はただの作文だったが、テーマは興味深かった。自分の研究ともあながち無縁ではなかったので、参考資料として挙げられていた数冊の書籍を念のため読んでみた。どれも『異世界系』と呼ばれるジャンルのフィクションで、その一つに描かれていた『召喚による異世界転移』という事象が、この状況に似ている。

 信じがたいが、実際に起きたのであれば、現実として認めなくてはならない。物理学は極めれば極めるほど謎ばかりが現れる。特に量子力学など研究していると、何が起きても不思議ではない気もしてくるものだ。

 ――それにしても、いったいどうやって? ブレーンワールド同士が特殊な条件で接触した? それとも量子トンネル効果のマクロ拡張だろうか? どんな方法で世界間を移動できるのだろう?

 いつもの癖で考え込んでしまいそうになったが、今はその時ではない。首を振って我に返る。

 興味深い事象や解かねばならない疑問は多いが、まずは状況把握が最優先だ。

「召喚と称する以上、俺がここに存在する因果の発端はあんたたちにあると仮定すべきだな。――ここはどこだ? なぜ俺はここにいる?」

 そう問いながら、聖職者に一歩詰め寄った。

 ほぼ同時に、軍人の後に控えていた護衛騎士が抜刀して飛び出し、理一郎を制する。

「控えよ! この方は高貴なるヴィクター・フォン・モンフォール候爵閣下! エルデニア王国が軍務卿であらせられるぞ!」

 聖職者の従者も口を揃える。

「無礼は改めなさい! こちらは統一教団内でも優勢を誇るアストレリア教会の教主、星神の僕、イグナティウス大司教様です!」

 周りを囲む教会魔導士たちが、一斉に杖を理一郎に向けた。

 だが、それはただのポーズだろうと理一郎は推論した。

 彼らは自分を必要としたから招いた。であれば、危害を加えてくるはずがない。交渉ごとの経験は皆無で、人の機微にも疎いが、論理的に考えればわかることだ。

「俺を拉致しておいて無礼とは非論理的だな。拉致はこの世界の法体系では合法なのか?」

 軍務卿と呼ばれた小太りで赤ら顔の男がしかめ面で手を振り、騎士を下げさせた。

「今、我が王国は未曾有の危機を迎えておる! 蛮族の擬人(シミュラ)どもが、こともあろうに魔法攻撃の無効化に成功したのだ――」

 演説めいた説明は長々と続いたが、要するに擬人(シミュラ)族』と呼ばれるヒトならざる知的生命体への対抗戦力として召喚したということだった。

 この世界では、人類(ヒト)擬人(シミュラ)族とが生存圏を巡って長年争っている。これまでは王国側は高度な魔法技術によって優勢を得ていたが、ここにきて擬人(シミュラ)族が魔法無効化技術を実用化し、一部運用に入った。魔導兵中心の王国軍は劣勢に立たされ、困難な状況に陥りつつある。そこで対抗手段として物理最強の勇者が必要になった、ということだった。

 理一郎にとっては、それがどうした、という話だ。だが――。

 ――魔法だと? この世界の(ことわり)では、そんな非科学的な現象が存在可能なのか?

 学者バカの理一郎ではあるが、魔法がどんなものかぐらいは知っている。

 魔法とは、まさに科学とは対極にあるファンタジーの産物。それが存在できるとは、この世界の物理法則は元の世界とは違うのだろうか。もしもそうだとすると、この世界の(ことわり)はどのようなものなのだろうか――。

「興味深い(ことわり)だ」

 思わずつぶやいた言葉の意味を、軍務卿は勘違いした。

「そうであろう! 貴公は物理最強の勇者として、擬人(シミュラ)族どもを思う存分蹂躙できるのだ!」

「ああ、その件だが――」

 物理最強の勇者というのも、理解しかねる言葉だ。

「この世界では戦争の勝敗が個人戦で決まるのか? 勇者とやらただ一人で決着が付くことが理解不能だ」

 ――超兵器でも考案しろといわれた方がまだ理解できる。

 首をかしげる理一郎に、モンフォール軍務卿が鼻髭をねじりながら言い放った。

「王国では『万人の兵士より一人の勇者』と言い伝えられておる! 異世界人の能力は、我らの世界では数十倍に増幅されるのだ。ましてや貴公は物理最強のステータスを持つ者だ。しかも、その身体能力を最大化するため、肉体を最良時の状態に――貴公の場合は十七歳の時であるな――復元して召喚した。この世界では貴公に物理的に敵う者などいるはずもないのである」

 ――十七歳に若返えらせた?

 確かに歯も腰も痛くない。そう言えば、声にも張りがある。視界もなんだかシャープだ。試しにメガネを外してみた。見え方は変わらない。メガネをよく見ると、レンズがなくなっていた。矯正しなくてもよく見えるようになっている。

 あわてて段ボールに手を突っ込み、手探りでスマホをつかむ。電源の切れた黒い画面に、顔を映してみた。

 そこに映っていたのは、まぎれもなく高校生の頃の自分だった。髪はぼさぼさだが、黒くてふさふさしている。見間違いではない。若返っている。

 この頃のことは思い出したくない。高校生活は嫌なことばかりだった。だが、健康になったのはありがたい。なにより二十年以上の時間が人生に加算されたことになる。それは喜ぶべき事に違いない。

 ともあれ、訊かねばならないことは多い。

「説明を求める。俺を転移させた原理は何だ? 使用した技術体系は? 可逆性――つまり帰還は可能か?」

 イグナティウス大司教が、大げさに肩をすくめて首を振った。いかにも申し訳ないと思っている風のアピールをしてるのが見え見えだ。

「ああ、勇者よ、星神の深遠なる摂理により、我らはここに厳粛なる真実を告げ知らせよう。汝を元の世界へと送還することは、もはや我らの力の及ばぬところなり――」

「あんたの話は情報密度が低い。効率的に説明してくれ」

「汝よ、星神の御意志により選ばれし者よ。どうか我が言葉に耳を傾けられよ。異界より汝を召喚せし儀式は、神秘の力による至高の御業。このエクリプス神殿が千年の歳月をかけて蓄えし膨大なる魔力の全てを注ぎ込み、ようやく成し得た星神の偉業なり。汝を異界へ送還するには同等の力が必要であるが、すでにこの神殿からは失われた。加えて、神殿の魔力を解放し得るのは、千年に一度重なる三つ星の神聖なる刻のみ。これは星神の御心により定められし摂理なり。されば、汝の来訪はアストレリア神の思し召しなり。この世界こそが、汝にとって新たなる天命の地となろう。どうか、この神聖なる使命を受け入れ、我らが世界の救済者としての道を歩まれよ」

 ――魔力?

 エネルギーの一種であることは、推論できた。

 千年の間に溜め込まれた膨大なエネルギー、そして、それを最も効率よく解放できる千年に一度の三星蝕。蓄積と放出の仕組みは不明だが、二つが重なってこその異世界召喚であり、次に同じ条件が揃うのは千年先ということだ。

 たしかに異世界転移には途方もないエネルギーが必要だろう、別の多元世界(マルチワールド)へ渡るためには、時空の大規模構造に影響を与えなければならない。学生のレポートを評価するときに、仮定だらけだが概算したことがある。必要なエネルギーは、人類(ヒト)の科学技術レベルでは到底賄うことができないほど膨大だった。

 だが、自分は実際に異世界にいる。どんな理が、それを可能にしたのだろう――。

 別の世界(ユニバース)から人を呼ぶ、そんな技術が実用化されているこの世界に興味が湧いてきた。

 理一郎が考え込んだのを見て、ここぞとばかりに軍務卿の従卒がなだめにかかった。

「勇者様、どうぞ話をお聞きください。私たちに加勢いただければ――」

 従卒は、勇者の待遇について得々と述べはじめた。

 勇者の称号の授与、モンフォール候爵家を寄親とする一代男爵としての叙爵(じょじゃく)、軍功に応じた世襲貴族への陞爵(しょうじゃく)の可能性、王都の高位貴族地区への居住許可、勇者任務のためのヒト・モノ・カネの全面的なサポート、禁書庫も含む王室蔵書館へのフルアクセス……。

 さらに教会からの『聖人』認定。生前の列聖は極めて希であること、それはまさに宇宙を統べる星神アストレリアの祝福であることについての長々とした講釈付きで。もっともアストレリア神は、この世界に十二柱いるナトューラ神話体系の神の一柱であり、アストレリア教会も統一教団の宗派の一つであることを、後に知ることになる。

 それはさておき、理一郎は考えた。

 提案されたのは、この世界ではどれも破格の待遇なのだろう。従卒の口ぶりからも、それは察せられる。王室図書館以外には魅力は感じられないが、少なくとも暮らしには困ることはなさそうだ。

 ――どうせ、戻ったとしても、もう何もない。

 理一郎の心の天秤は、次第に彼らの提案を受け入れる方に傾きつつあった。


       *   *   *


 三星蝕が終わりに近づき、二つの月が離れていく。

 太陽が輝きを取り戻すと、巨大な神殿の全容が浮かび上がってきた。半開放式の建造物で、天井からは空が見える。石造りの巨大な円柱と壁は、長い年月にさらされ苔むしていた。広大な広間の中央には魔法陣を描くための円形の石版が何段か積まれている。理一郎と大司教、軍務卿はその上に立っていた。

 大学のキャンバスから見知らぬ古代神殿への瞬間移動、空の二つの月、若返って健康になった身体……。異世界も魔力も理一郎の識る科学(サイエンス)では説明できないが、現象が実在しているのであれば、その理を追求するのが科学者としての態度なのかもしれない。

「もう、ここが俺の世界というわけか……」

 理一郎のその言葉に、イグナティウス大司教は満面の笑みで両手を広げて一歩前に出る。

「汝の英知と寛容さは、まさに星神の恵みそのもの。勇者よ、心を安らかにされ、我らが世界の平安のために、物理最強(・・・・)の勇者としての比類なき力をお貸しくだされ」

 ――ん? それだ。問題は、その『物理最強』という形容詞だ。

 確かに、物理学の世界ではこの世の(ことわり)にもっとも近づいていると自負している。だが、たとえ世界のすべてを記述できる方程式が完成したとしても、それはあくまでも理論だ。すぐに戦争に適用できるものではないし、応用するための工学に力を尽くす気もさらさらない。

「その『物理最強の勇者』とは、どう定義される存在だ?」

 さも当然のように大司教は言った。

「物理最強の勇者とは、拳の一撃で敵の防壁を砕き、邪悪なる存在を殲滅する者。あらゆる物理的攻撃(・・・・・)の頂点に立ち、我らの希望の光となる者。まさに暗黒を払う剣たる汝に他なりますまい」

 理一郎は一瞬絶句した後、思わず声を荒げてしまった。

「検討にも値しない愚論だ! 要するに、擬人(シミュラ)軍と直接殴り合う存在ということか?」

「さすが勇者、その慧眼と我らの願いが一致したこと、我が主たる星神に感謝を捧げん」

 理一郎は深くため息をつき、出来の悪い学生に諭すように言った。

「前提が誤っている。俺は、物理学者(・・)だ。運動も暴力も不得手であり、この肉体年齢帯にあっても身体能力は統計的には平均以下だった。あんたたちの言葉で言えば、俺は最強の物理学者だが、暴力装置ではない」

 ちょうど三星蝕が完全に終わり、太陽が復活した。その明るい陽ざしの中に立つ理一郎を見て、周りを囲む者たちがざわめきはじめた。

(ずいぶん脆弱そうな体だ)

(強そうには見えないぞ)

(学者を名乗っているように聞こえたが)

(あれはほんとうに勇者なのだろうか?)

「汝、物理……学者であると?」

 イグナティウス大司教が眉をひそめた。そこに従者が駆け寄り、スマートフォン大の簡易鑑定板を差し出す。凝った装飾の木枠に透明なガラス板がはまっていて、向こう側が透けて見える。そのガラス板を通して鑑定対象者をみると、鑑定結果がガラス板に表示される仕組みだ。木枠の所々には装置を作動させるための魔晶がはまっている。

 鑑定結果を見た大司教の眉間に深いしわが寄った。

「おお、なんたることか――」

 その様子を見たモンフォール軍務卿が、簡易鑑定板をひったくる。ガラス板を目にすると、顔が見る間に真っ赤になっていく。

 表示されているのは、王国の平均的な成人男性よりも少し多い程度の数字。増幅されてさえそれでは、元はどれほど虚弱だったかが知れる。

「鑑定板の故障では?!」

 イグナティウス大司教の口調が変わる。従者が別の簡易鑑定板を理一郎にかざすが、結果は同じだった。

「大司教、どういうことであるか! よもや召喚に失敗したのではあるまいな! もしもそうであれば、我が輩の立場は……」

 モンフォール軍務卿の狼狽(ろうばい)とは対照的に、イグナティウス大司教は冷静だった。

「かの者には我らが世界の子らに等しく与えられし魔力がない。それは紛れもなく、かの者が異世界より来たりし者であることの証左にほかならないことを、聖なる星神の御名において誓おう。しかしながら……」

 頭に血が上っている軍務卿は気づいていないが、理一郎のステータス一覧には初めて見る能力値が一つあった。この世界には存在しないステータスのため、簡易測定器では能力値名が文字化けしている。だが、その数値は7桁に近かった。この世界ではどのステータスであろうと4桁を超えることはない。大司教にはそれが妙に気になった。

「なんであるか!」

「いや、なにも――」

 血筋と肩書きばかりの愚鈍にわざわざ教えてやる必要はない。大司教はひっかかりを飲み込むと、その場に理一郎を残し、祭壇の方に軍務卿を連れていった。


       *   *   *


 理一郎には聞こえていないが、祭壇ではとんでもない相談が始まっていた。

 大司教が従者に問う。

「召喚陣に瑕疵はないのだな?」

「何重にも確認しています。間違いなく物理最強の勇者を召喚する陣です」

 モンフォール軍務卿が怒鳴る。

「だが、あの男はどうみても物理最強の勇者には見えぬ!」

 従者が応える。

「可能性の一つですが、この世界の言葉を向こうの世界に翻訳したときに、微妙な意味のズレが生じたとも考えられます。『物理()に最も秀でた者』を表す式が、『物理|()に最も秀でた者』と解釈されてしまったのかもしれません」

「『しれません』ではないわ! 明らかに教会の落ち度ではないか! あの貧相な男が勇者ではないとすると、この状況にどう始末をつけるのだ。宮廷には無断で神殿の魔力を解放したのだぞ。公になればどれだけの咎を受けることになるか――」

 理一郎の召喚は、軍務卿と大司教の独断で行われたものだったのだ。

 モンフォール軍務卿はそこそこ名門の候爵家当主で、王国軍のトップだ。だが、戦技にも戦法にも凡庸で、特段の勲功もない。ただただ血統と政治工作で地位を得たにすぎない。実力主義が基本の軍には優秀な人材が押し寄せるため、つねに地位を追われる危機を感じている。そこで対擬人(シミュラ)戦の切り札を手に入れて、宮廷での地位を高めたかった。

 一方、イグナティウス大司教は、統一教団アストレリア派のトップだ。全神融和を掲げて設立された統一教団の理念に反し、アストレリア神の主神化を図る一派を率いている。その使命のために、奇跡を起こして教団内での主導権を手に入れたかった。

 他の勢力を出し抜きたい二人の思惑が一致して、宮廷や教団には秘密裏に、物理攻撃力最強の勇者召喚が行われたというわけだ。

「なかったことにすればよろしい」

 大司教はこともなげに言った。口調も少し変わっている。

「我々はここにはいなかった。この神殿の魔力は三星蝕がきっかけで勝手に解放されてしまった。あの者は我々とは無関係。そういうことにすればよろしい」

「それで通せるであろうか?」

「我らが主たるアストレリア神様に沈黙を誓えば、万事良きように成してくださる」

「神だのみではないか?!」

 大司教が軍務卿をギョロっとした目で睨む。

「我が主を愚弄するおつもりか?」

「いやいやいや、そうではない。だが、これは大失態であるぞ。万が一発覚すれば、我が輩らが断罪されるは必至! すべてをなかったことにするためには、あの役立たずも始末せねばなるまい」

 大司教は理一郎の謎のステータスを思い浮かべていた。あれはきっとアストレリア教の役に立つ。軍務卿を言い含めるため、大司教はまた口調を変えた。

「我らの都合で呼びつけた者を我らの都合で(あや)めたとあれば、さすがに慈悲深きアストレリア神もお許しになりますまい」

「オスタネスの監獄迷宮にでも幽閉してしまうのはどうであるか」

「それとて非道は同じ事。学者だというなら、いかがだろう、言い含めて学都ミレトスにでも放逐しては?」

「だが、あやつが口を割らぬとは限らぬではないか」

「問題はない。この召喚儀式に関わるすべての記憶を消してしまえばよろしい。それでこそ我が主たる星神アストレリアの御心にもかなうというもの」

 モンフォール軍務卿はアストレリア教徒ではない。だが、多神教のこの世界では、他の神であってもないがしろにはできない。ましてや教会トップが御心だと口にしたのであれば、従わざるを得ない。軍務卿は渋々ながらも承知した。


       *   *   *


 イグナティウス大司教は理一郎の所に戻ると、にこやかに切り出した。

「誠に残念なことだが――」

 理一郎に対しても口調が変わった。その変化に嫌な予感がする。

星神(ほしがみ)の御心の深遠さには、我らの理解はつねに及ばぬ」

「論理が飛躍している。説明してくれ」

「我が主たる神アストレリアは『物理的に最強の勇者』を求められた。しかるに、汝は『物理学に優れた学者』だという。主の思し召しとの齟齬には深き戸惑いを覚えるが、これもまた星神の計らいの一部なのであろう。されば、学問の聖地たる学都ミレトスこそが、汝の才を存分に活かせる地であろう。我らはここに、汝の前に新たなる道を示さん。この先は、汝の意志に従い、自由に歩むが良い」

 どうやら人違いだったから追い出すということらしい。

 この連中が信頼に値するともいい難いが、かといって物理法則すら違っていそうな異世界に、当てもなく放り出されても困る。

「待て。俺を呼んだのはあんたたちだ。因果律がこの世界にも通用するなら、俺を保護する責任もまた君たちにある」

 大司教は肩をすくめる。

「我らの行いのすべては、全知全能なる星神アストレリアの御心のまま。もはや我らは、深き敬意と祈りを込めて、汝の旅立ちを見送るのみである」

「あんたが君が聖職者の長であるのなら、召喚しておいて放逐する行為は、その職責と倫理規範に反するのではないか」

「すべては我が主たる星神アストレリアの神慮深き啓示によるもの。我ら(しもべ)はただ従うのみ。学都ミレトスの誇る王立アカデミアなりで、汝の才は開かれよう。星神の御加護のもと、汝の英知を存分に発揮されんことを。汝の前途に、アストレリア神の祝福があらんことを」

 理一郎にしては珍しく情に訴えるような言い方をしてみたが、まったく無駄な試みだった。「だが――」

「黙らんか!」

 なお食い下がろうとする理一郎を軍務卿が遮った。

「貴様のような役立たず、殺されないだけでもありがたく思うことだ」

 その言葉と同時に、軍務卿の護衛の一人が理一郎の腕をひねり上げてひざまずかせた。

 まったく身動きできない。この世界に来て始めて命の危険を感じた。

 ――そうか。ここは日本ではないのだ

 口封じ、という言葉が頭をよぎった。。命の重さはあり得ないほど軽いのかもしれない。貴族制度があるような社会構造ならば、たとえ法治国家であっても貴族に有利であったり、まともに運用されなかったりすることも考えられる。平民に人権など存在しない世界かもしれない。現に軍務卿の従者は剣に手をかけているし、教会魔導士も殺傷能力のある魔法を使う準備をしているかもしれない。抵抗するのは悪手だ。

 ――元の世界では用済みだと追い立てられ、この世界では役立たずと放り出される。まったくひどい日だ……。

 思わずため息が出た。

 軍務卿が続ける。

「生きていたいなら、ここでのことはすべて忘れるのだ。生涯にわたり漏らすことを許さぬ。口外したことが我が耳に入った時には、もっとも残虐な刑に処してやろう」

 さすがに40年以上生きていれば、うなずく以外に解がないことはわかる。

「我らは星神の御名の元に神聖なる沈黙の誓いを立てん。汝の新たな旅立ちへの祝福として、これより汝からこの神殿での記憶のすべてを消し去る儀式を執り行う」

 ――記憶を消去するだと? 頭をいじるということか? 止めてくれ!

 だが、抗議する間もなく、従者の一人に手をかざされた。ほぼ同時に意識を失った。

 こうして理一郎は睡眠魔法をかけられた後、記憶消去の『呪い』と、ミレトスに行けという暗示を与えられ、わずかな支度を持たされて馬車に押し込められた。


       *   *   *


 その馬車を見送りながらイグナティウス大司教が従者に囁く。

「あの者は魔力に似た力を膨大に備えている。うまく我らに取り込めれば、何かの役に立つかもしれない。監視を付けよ」

「保護もいたしますか?」

「せずともよい。生き延びられないのであれば、それもまた星神様の定めであろうよ」


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