21
登校時、美帆には必ず立ち寄る児童公園がある。
遊具はすべり台とブランコだけ。あとは小さな砂場。木が何本か植えられていて、ベンチがぽつんと置かれている。
立ち寄るとまず砂場に危険なものが落ちていないかをチェックし、ゴミを見つけたら拾う。そのための袋も用意している。一分もかからないことなので特に負担は感じない。
美帆がその習慣を身につけたのは、昨年の暮れのことだ。一人の幼女がここで成仏するのを見たことがきっかけだった。そして、その出来事には岩志木が関わっていた。
そもそもは十二月初旬の雨の日、下校途中に岩志木の姿を見かけたことに始まる。
その日は、二日間に分けて総合学力テストが行われる初日だった。
テストは午前中に終わり、それなりの手応えを感じながら下校していた美帆の目に不思議なことをしている真桜高校の男子生徒がいた。
「?」
その男子は児童公園のベンチの前にしゃがみこんで傘をかざしている。自分はずぶ濡れになりながら、ベンチの上に傘を差し掛けていた。
ベンチに誰かが座っていたら、その行為の意味も分かるが、そこには誰もいなかった。
よく見ると、その男子は同じ一年一組の岩志木だった。確か、文芸部の部長。クラスではほとんど目立たない。寡黙で、つるんでいる友だちもいないようだ。いつも本を読んでいる印象がある。
クラスには溶け込んでいないが、かといってハブられているわけでもない。本人はいたって淡々としている。一人でいることに引け目も負い目も感じていない様子の男子だった。
「ああいうタイプの人は、教室以外に信頼できる家族や友だちがいる」
というのが美帆の持論だ。
自分のことをまるごと受け入れてくれる誰かがいることの安心感が周囲に流されない落ち着きにつながっている……との考えだ。
岩志木が何をしているのかが気になって、美帆は児童公園に足を踏み入れた。そばに寄り、傘を岩志木の頭上にかざす。距離が近いので美帆自身が雨に打たれることもなかった。
「隅田か。ありがとう」
振り向いた岩志木は言った。どうやら名前は知ってくれていたようだ。
「何してるの?」
「お前には見えないけど、ここには女の子がいる。その子と話している」
「………」
どう反応していいのか分からず、美帆はそのまま黙り込む。
「頭がおかしいんだ、この人」
とは思わなかった。岩志木の落ち着いた口調に「ああ、そうなんだ。私には見えない子と話してるんだ」と不思議と納得していた。
美帆はそのまま傘をかざし続けた。
やがて岩志木が立ち上がった。
「ありがとう」
「もういいの?」
「帰ったみたいだ」
そのあと二人は自然に肩を並べて歩き出す。
「どういうことか、聞いてもいい?」
「もちろん」
うなずいて岩志木は話した。
学校が午前中に終わったので、岩志木は書店に立ち寄るつもりでいつもと違う道を帰っていた。その途中にいまの児童公園があり、ふと見るとベンチに一人で座っている幼女がいた。
保護者らしき人は見当たらず、傘も差していない。しかも、この寒空に裸足だ。
「虐待か」
そう思った岩志木はその子に近づいて行った。そして気づいた。
幼女は生身の肉体を備えた存在ではなく、生き霊だった。現実の肉体から魂だけが抜け出てきたのだ。
「なぜ生き霊だと分かったの? 死んだ子の霊だとは思わなかったの?」
美帆の問いに対して岩志木は肩をすくめて答えた。
「生きている人間と死んでいる人間を間違えることはない。それと同じだ」
幼女の生き霊を見て、岩志木は「ひどい虐待を受けた子どもは肉体と意識を切り離す」という話を思い出した。意識を遠ざけることで辛い現実から逃れようとする。その切り離された意識がいま自分の目の前にいるのだと悟った。
話しかけると会話も成立した。
名前を聞いて虐待から救いだそうと考えたが、幼女は「マドカ」という自分の名前は言えても苗字は言えなかった。まだ幼すぎるようだった。
何か手がかりはないかと話を続けている時に美帆が現れ、やがてマドカちゃんは姿を消した。おそらくは「折檻」が終わったのだろう。
「折檻?」
「本人はそんな言葉は使わなかったけどな」
「誰に折檻されてるの?」
「パパだそうだ」
「……最悪」
スマホで時刻を確かめてみると一時を過ぎたところだ。平日のこの時間帯に家にいる「パパ」は働いていない可能性が高い。そしてまたマドカちゃんも保育園や幼稚園には行っていない。
「どうすればいい……」
岩志木がつぶやいている。
どうやらマドカちゃんを助けようとしているらしい。しかし、手がかりは「マドカ」という名前のみ。それをもとに本人を探し出すのは非現実的なことに思えた。
生き霊自体が非現実的なことなのに……と美帆は、そこで岩志木の言っていることを受け入れている自分に気づく。彼の独特の雰囲気がそうさせるのか、岩志木の言っていることを信じている。そう気づいた次の瞬間には口を開いていた。
「岩志木君、私も一緒に考えていい?」
岩志木は意外そうな表情を浮かべたが、すぐに「ありがとう」と頭を下げた。
その後、二人はハンバーガーショップに入って策を考えることにした。
どうやってマドカちゃんを探し出すか。
真桜町の家々を一軒一軒訪ねるのは?
……物理的に不可能に近い。
役場に行って「マドカ」という女の子が住んでいる家を教えてもらう?
……個人情報の保護の面から拒否される可能性が高い。
逆に、無職だと思えるパパを見つけ出す。きっとそういう人は昼間からぶらぶらしているはず。
……そんな人に「あなたは子どもを虐待してますか?」と聞いたところで、まともな答が返ってくるはずがない。
思いつくままに話していると、ふと岩志木が顔をあげた。
「新聞というのはどうだろう?」
「新聞?」
「新聞には生まれた子どもの名前を載せる欄がある」
「ああ、そうだね。あるね」
美帆はうなずく。確か「めばえコーナー」という名称だった。誕生したばかりの赤ちゃんの名前と誕生日を載せる欄だ。写真が添えられることもある。そこには番地までは記載しないものの、町名は記される。美帆自身も載ったことがあり(出生届を出す際に申し出ると、役場から自動的に新聞社に情報が送られるそうだ)、その記事は家のどこかに保存されているはずだ。
「マドカちゃんは三つか四つくらいだ。図書館に行けば新聞のバックナンバーが置いている」
「三〜四年前の新聞に当たってみるってことね」
「そう」
「協力するよ」
しかし生憎なことに、その日は図書館の休館日だった。調査は明日まで待たなければならない。
「そうか……」
腕組みをする岩志木の表情を見て「この人は本気なんだな」と美帆は思った。と同時に、彼に惹かれそうになっている自分に気づいた。
「他に何かないか……」
その時、美帆が閃いた。
「ねえ、岩志木君。マドカちゃんはあの公園の近くに住んでるんじゃない?」
「え?」
「だって自分の苗字も分からないくらい小さいんなら、遠くの公園には行けないでしょ? 私はよく分からないけど、生き霊って自分の知らないところまで行けたりするの?」
「いや、それはおれも分からないけど……」
答えて岩志木は考え込む。しばらくして言った。
「それはあるかも知れない。おれはてっきり、怖いものからはできるだけ離れようとすると思っていたから……」
そして立ち上がった。
「どこに行くの?」
とは美帆は聞かない。
聞くまでもないことだからだ。
その後の展開は早かった。
公園に戻った二人は周囲のアパートを重点的に調べていった。
アパートを優先したのは完全な偏見だ。
父親が無職の家庭が一戸建てやマンションに住んでいるというイメージは描きにくかった。だが二人とも「それは偏見だから、アパートもマンションも戸建ても平等に調べるべきだ」とは言わなかったし、考えもしなかった。
いま優先すべきは「平等」ではない。
とあるアパートの部屋のなかから小さな女の子の泣き声が聞こえ、岩志木は咄嗟にドアに手を伸ばした。鍵はかかっていなかった。
次の瞬間にはドアを開き、そして部屋へと飛び込んで行った。その背中越しに美帆に叫んだ。
「隅田、警察を呼べ!」
駆けつけた警官によってマドカちゃんのパパは連行された。救急車が呼ばれ、マドカちゃんは病院へと運ばれて行った。病院には連絡を受けたママが勤務先から向かうという話だった。
岩志木と美帆も警察で事情を聞かれたが、遅くならないうちに解放された。児童虐待の現場を通報したお手柄高校生といった扱いだ。
もちろん、二人とも本当のことは話さなかった。
たまたまアパートの前を通りかかったら大きな泣き声が聞こえたので「ドアをノックして」訪ねてみたところ、幼女を膝で押さえつけて平手打ちをしている男性を目にし、急いで止めに入った……ということにした。
マドカちゃんのパパはまだ若く、二十歳そこそこに見えた。幼児に手をあげるくらいだから粗暴な男かと思っていたが、そうでもなく、撫で肩の気弱そうな男性だった。青年と言ってもいいだろう。
「な、なんだよ、あんたら」
マドカパパは岩志木と美帆に言った。
「その子から離れろ」
低い声で岩志木は言った。
肩をいからせ、身体全体がふくれあがったように見えた。あきらかに威嚇している。暴力性を帯びた足取りでパパに近づいて行く。
「ぼ、暴力はよくないぞ」
「あんたはそうかも知れないけどな、おれはそうは思わないんだ」
岩志木は静かに答え、そして付け加えた。
「あんたもそうみたいじゃないか。自分より弱い相手に対しては」
「………」
あのアパートの一室で交わされた岩志木とマドカパパとのやりとりを、もちろん美帆は警察に告げていなかった。きっと岩志木もそうだろう。
「あの時、岩志木君は本気であの男に暴力をふるおうとしていた」
と美帆は思う。
暴力に対する嫌悪感は当然のことながら美帆にもあるが、あの時はそれが許せると思った。
後で知ったことだが、マドカちゃんのパパは実の父親ではなく、マドカちゃんのママと正式に結婚をしているわけでもなかった。
ともあれ、問題は解決した。
その時点では。
その後に起きたことを思い出すと、美帆はいまでも憂鬱になる。
マドカちゃんのパパは「行き過ぎたしつけ」を深く反省し、その反省が認められ、数週間後にはマドカちゃんのもとに戻ってきた。
そして再び行き過ぎたしつけをしてしまい、マドカちゃんは短い人生を終えることになった。
……浴室で。
そのニュースがテレビで流れた朝、ひどく疲れた足取りで学校に向かっていると、例の児童公園に岩志木とマドカちゃんがベンチに並んで座っているのが見えた。
美帆は二人に近づいて行き「おはよう」と声をかけた。
「おはよう」
と岩志木が言い、マドカちゃんがもじもじとしながら美帆を見る。
美帆はニッコリと笑いかける。
「マドカちゃんだよね」
するとマドカちゃんは小さく「うん」と言って恥ずかしそうに岩志木の腕に顔を埋めた。
「お別れを言うために待ってくれていたそうだ」
岩志木がうつろな声で言った。
マドカちゃんは岩志木の腕から顔をあげ、もう一度その腕をギュッと握ったあと、美帆に小さく手を振り……そして。
淡い光になって消えた。
しばらく二人は無言のままでいた。
やがて岩志木がうなだれたまま言った。
「なあ、隅田」
「なに?」
「隣に座ってくれないか」
「うん」
美帆は岩志木の隣に腰をおろし、自然に肩を抱いていた。
岩志木は美帆に背中をさすられながら静かに泣き続けた。
美帆が文芸部に入ったのは、その次の日のことだ。
部室にいた二人の一年生女子の様子から、彼女たちも岩志木に好意を寄せていることが分かった。
「うまくやっていけるかな……」
と思ったが、それは後日解消されることになる。
文芸部に入部した数日後、美帆は教室で岩志木に聞いたことがある。
「ねえ、岩志木君。一つ、聞いていい?」
「なんなりと」
「岩志木君って特別に霊感が強いの?」
「ああ、そのことか」となぜか岩志木は苦笑をする。「霊を見たり感じたりする力が身についたのは最近のことだ」
「最近?」
「文芸部の先輩にちょっと変わった人がいるんだ」
何でもその先輩は「修行マニア」とでも言うべき人で、山にこもっては滝に打たれたり、洞窟で瞑想をしたり、夜を徹して山のなかを歩き続けるといったことを日常的に行っているらしい。その修行に岩志木は何度かつきあわせされており、その結果として霊的な感覚も研ぎ澄まされていったという。
「その先輩には私、まだ会ってないよね?」
「いまは学校に来ていない。休学中だ」
「怪我でもした?」
修行マニアと言われるくらいだから無茶なことをしたのではないか、と思ったのだった。
「いや、いまは四国に行っている」
「四国? もしかしてお遍路さんとか?」
「正解だ。一気にまわるらしい」
「……すごい人みたいね」
「関わらない方がいい」
そう言って岩志木は肩をすくめたのだった……。
スナック菓子の空き袋を拾った美帆は、それを持参したビニール袋に入れた。
空は晴天。梅雨明け間近の気持ちのいい日だ。
公園ではまだ幼稚園に入る前の小さな子どもたちが遊んでいた。そのすぐそばで母親たちがお喋りをしている。
美帆はスマホで時刻を確かめ、急ぐ風でもなく公園を出て行く。




